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Ain't Nothing Like This REAL THING--ABCDavid RITZ 1982/98:
David RITZ(解説), Marvin Gaye 《Midnight Love & the Sexual Healing Sessions》[CS-8817~8]所収、 Sony Music Entertainment,1982/1998.
I am a man
with the power to face my fears.
--Marvin Gaye
(cited from David RITZ 1982/98,p.11)
* I'm a man with ... ***** AT.:OEVRES DE DESCARTES,publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition,J.VRIN,Paris,1996. たとえ「物体やら身体やら」が「どのようにして」いようとも(2.Z202:AT.VII,23.21/E.14.*3)、 §101 Line of 《ABC》 for Ain't Nothing Like This REAL THING (1) One extreme line of 《ABC》(大掛かりなことが気掛かりだ/儚き風体と飽くなき野望) [2.A101-A102-A106-A202-A206-A209-A304] [2.B101-B102-B106-B110-B302] [2.C101-C103-C213-C222-C323-C422-C434-C502-C601-C603-C703-(C801)-C803-C807-C808] 「昨日の省察から」「壮大な疑い」の数々の「なかへ」「ぶち込まれ」つつ推測のようなことまでさせられた(conjectus)のが、「私である」(2.A101:AT.VII,23.22-23/E.14.21)。しかも、そうした諸々の疑いを「忘れること」も「ずっと」「できずにいた」「私」「として」は(2.A102:AT.VII,23.23/E.14.22)、「最も奥まった」ところ「に」片「足を据えること」さえも「できないかも」(2.A106:AT.VII,24.02/E.15.03-04)しれない。 さて、今、挙げられた「それらのすべてとは異なった」ものなどは「何もない」の「である」が、そのことを「どこから」ともなく「知る」のが、「私」だ(2.C101:AT.VII,24.19/E.15.23-25)。「じつに」、それらについて「疑う」ような「機会」は、たとえ「きわめて僅か」とはいえ、「有る」のでは「ない」のか(2.C103:AT.VII,24.20-21/E.15.25-26)。いかにも、神とか何とかが「私に」「送り込んでいる」のは、「これらの思惟そのもの」だ(2.C213:AT.VII,24.22-23/E.15.27-28)。しかし、それにしても「あれらの」思惟を作者として「促す者」「自身もおのずと」「居る」ということであれば、それくらいなら「おそらく」「私にもできるはず」だし、その「際」には(2.C222:AT.VII,24.23-24/E.15.29-30)、「いかなる身体も物体も」(2.C323:AT.VII,24.26/E.16.02)「なしに居る」「ような」ことも、「私にはできるはず」では「ない」のか(2.C422:AT.VII,25.01-02/E.16.04-05)。また、「精神も何もない」(2.C434:AT.VII,25.03-04/E.16.07)「私に」対し、「何かを説得したり納得させたりした」のも、そのせいで信じ込んだのも、「もし」「私」自身だとしたら(2.C502:AT.VII,25.05/E.16.09)、そのように「引っ掛けて誑かす者が」きっと「居る」はずだ(2.C601:AT.VII,25.05-06/E.16.09-10)。それが「誰なのか」「私は知らない」(ibid.:AT.VII,25.06/E.16.10)が、せっかく「狡くて巧妙たる」点では「最高」なのだから(2.C603:AT.VII,25.06-07/E.16.10-11)、そいつが「欺いて」誤らせてしまえば、「いかに偉大な」ことでも、そいつなら「できる」はずだ(2.C703:AT.VII,25.08-09/E.16.13)。 「そうすると」(2.C801:AT.VII,25.10/E.16.15)、「最後に定められるべき」なのは、「この」ように「宣言なり予報なりされたこと」「であるはず」だ(2.C803:AT.VII,25.11-12/E.16.16-17)。すなわち、「精神でもって把握されて」(2.C807:AT.VII,25.13/E.16.18-19)しかも「真なる」ものは、「必然的に」「存在する」(2.C808:AT.VII,25.13/E.16.19)、ということになるはずだ。 (2) The moderate line of 《ABC》(沫[バブル]、ハジケマシタ、私、イジケマシタ/物色して、持ち出し) [2.A101-A103-A105-A201-A203-A205-A208-A301-A303-A305] [2.B101-B103-B105-B107-B109-B200] [2.C101-C211-C311-C322-C411-C421-C431-C433-C435-C501-C601-C604-C702-C704-C801-C802-C804-C806-C808] 「昨日の省察から」「壮大な疑い」の数々の「なかへ」「ぶち込まれ」つつ推測のようなことまでさせられた(conjectus)のは、「私である」(2.A101:AT.VII,23.22-23/E.14.21)。「にも拘わらず」、それらの疑いが「いかなる根拠でもって解かれるべきであるのか」、それ「を見る」のは、もしや「私」では「ないのかも」(2.A103:AT.VII,23.23-24/E.14.23-15.01)しれない。だからこそ、「こうして」「不穏になった」のが、「私である」(2.A105:AT.VII,24.01-02/E.15.03)。 さて、今、挙げられた「それらのすべてとは異なった」ものなどは「何もない」の「である」が、そのことを「どこから」ともなく「知る」のは、「私」だ(2.C101:AT.VII,24.19/E.15.23-25)。いかにも、そこには、「神」だか「何だか」はともかく、「何かしら存在する」(2.C211:AT.VII,24.21/E.15.26)。その一方で、「私 ego」自身だか「誰だか aliquid」はともかく、「少なくとも」「誰かしらが」「私として存在している」(2.C311:AT.VII,24.24-25/E.15.30-16.01)。「私のもっている」のが「いかなる感覚」であれ(2.C322:AT.VII,24.25-26/E.16.02)、「それでもやはり」「固執する」のが、「私」だ(2.C411:AT.VII,24.26/E.16.03)。「こうして」「身体やら物体やら」「諸々の感覚」やらに「縛られた」のが「私である」、...ということですよ「ね -ne」(2.C421:AT.VII,25.01/E.16.03-04)。 「そうすると」、次の「ように」なる(2.C801:AT.VII,25.10/E.16.15)。すなわち、「あなたがたの重んじているはず」の「すべてのこと」を「充分に超えて」(2.C802:AT.VII,25.10-11/E.16.15-16)いるのが「私」自身「である」(2.C804:AT.VII,25.12/E.16.17)。このことが「私によって」「いかに頻繁に」「運用される」にせよ、「真である」かぎり、このことは「必然的に」なるのだ(2.C808:AT.VII,25.13/E.16.19)。 (3) The other extreme line of 《ABC》(偽りのなかに居座りながら/だから何?) [2.A101-A104-A107-A204-A207-A302-A306] [2.B101-B104-B108-B301] [2.C101-C102-C212-C221-C321-C412-C432-C436-C601-C602-C701-C705-C801-C805-C808] 「昨日の省察から」「壮大な疑い」の数々の「なかへ」「ぶち込まれ」つつ推測のようなことまでさせられて(conjectus)「いる」「私」(2.A101:AT.VII,23.22-23/E.14.21)にしてみれば、これは「渦」のような「深みのなかへ」「予期せぬ」こと「から」「あたかも」「滑り落ちて」しまったかのようだ(2.A104:AT.VII,23.24-24.01/E.15.01-03)。何せ、「最も高いところへ」「泳いで逃げること」もでき「ない」(2.A107:AT.VII,24.02-03/E.15.04)。 さて、「それらのすべてとは異なった」ものなどは「何もない」の「である」が、そのことを「どこから」ともなく「知る」のが、「私」だ(2.C101:AT.VII,24.19/E.15.23-25)。ちなみに、たった「今」、それらを「再び挙げた」のも「私」だが、その「今」となっては(2.C102:AT.VII,24.20/E.15.25-26)、たとえ「どんな名称でもって」「あの」神とやらのことを「私が呼ぶ」にせよ(2.C212:AT.VII,24.21-22/E.15.27)、「どうして」も「こういうことを考え」つつ、てっきりそう思い込んでしまう(puto)、というのが、「私」なのかもしれない(2.C221:AT.VII,24.23/E.15.28-29)。 「そうすると」(2.C801:AT.VII,25.10/E.16.15)、「実在する」のは「私」であり(2.C805:AT.VII,25.12/E.16.17)、このことが「真である」のは、「必然的に」なる(2.C808:AT.VII,25.13/E.16.19)。 arranged by K.-m. as the SHYNAMITES,2009. *語句を一部、訂正致しました(2009/4/20-21)。 Let's take this All-Ranged Juice--ContentsArrangement and performance about Rene DESCARTES'〈Praefatio ad Lectorem〉
treated with his own analytical geometry.
(in March 08-April 29,2001 & AFTER THIS,2007)
Contents of ALL-RANGED JUICE (Not "Orange Juice.") 『省察』「読者への序言」解析幾何学的処理・目次 §700:The Harvest and Digests--結論と要点(序を兼ねる)
第1章:分析(§§701-709)
(1) One extreme line of 《AB》(当時の説明は、一般にはあまり用いられていなかった) (2) The other extreme line of 《AB》(当時の説明は、あまり詳しくなかった) (3) The moderate line of 《AB》(当時の説明は、まだ整備されていなかった) §702 Line of 《C》(質疑その一:思惟する事物について) (1) The moderate line of 《C》(思惟する事物に秩序があるのは、私の知得においてのみだ) (2) One extreme line of 《C》(私の本質に属するのは、思惟する事物だけだ) (3) The other extreme line of 《C》(事物の真理に関しては、私以外のものにも秩序がある) §703 Line of 《D》(質疑その二:私より完全な事物の観念について) (1) The moderate line of 《D》(観念という語の二つの意味) (2) One extreme line of 《D》(観念という語が質料的にとられた場合) (3) The other extreme line of 《D》(観念という語が質料性と反対の意味にとられた場合) §704 Line of 《E(Part 1)》(議論・反駁について) (1) One extreme line of 《E(Part 1)》(偽であり、理に縁なき議論) (2) The other extreme line of 《E(Part 1)》(洗脳されたままでの判断) (3) The moderate line of 《E(Part 1)》(真で堅固な反駁) §705 Line of 《E(Part 2)》(無神論について) §706 Line of 《F(Part 1)》(『省察』のねらい) (1) One extreme line of 《F(Part 1)》(精神を感覚から引き離せ) (2) The other extreme line of 《F(Part 1)》(精神をすべての予断から引き離せ) (3) The moderate line of 《F(Part 1)》(私とともに本気で省察せよ) §707 Line of 《F(Part 2)》(『省察』の読み方について) §708 Line of 《G(Part 1)》(他人を納得させることについて) (1) One extreme line of 《G(Part 1)》(真理の認識に至る術で他人を納得させうるか) (2) The other extreme line of 《G(Part 1)》(私が納得した根拠で他人は納得するか) (3) The moderate line of 《G(Part 1)》(他人を納得させうるかどうか、思索で実験する) §709 Line of 《G(Part 2)》(「反論と答弁」について) 第2章:表現(§§711-713)
§711 Views of 《ABF1G2》
(1) The 1st View of 《ABF1G2》(本気でない者、通るべからず) (2) The 2nd View of 《ABF1G2》(読者からの名案を乞う) (3) The 3rd View of 《ABF1G2》(読者からの非難について) §712 Views of 《ABCDE2G1G2》 (1) The 1st View of 《ABCDE2G1G2》(事物の本質から実験開始) (2) The 2nd View of 《ABCDE2G1G2》(有限なる私だが、それなりに...) (3) The 3rd View of 《ABCDE2G1G2》(どこまで知りつくせるか...) §713 Views of 《ABE1F2G2》 (1) The 1st View of 《ABE1F2G2》(鼻であしらわれるべき議論) (2) The 2nd View of 《ABE1F2G2》(私の根拠を踏まえよ) (3) The 3rd View of 《ABE1F2G2》(しきたり住まいの井戸端会議) 第3章:演出(§§721-723)
§721:The 1st Solid of 《ABCDE2G1-E1F2-F1G2》(然るべきことを踏まえ給え) §722:The 2nd Solid of 《ABCDE2G1-E1F2-F1G2》(人伝ながらも好奇心) §723:The 3rd Solid of 《ABCDE2G1-E1F2-F1G2》(限りあってこその拒絶) 凡例
引用するにあたって、出典は文中に括弧で示した。その左項は、『省察』の序数(「読者への序言」については便宜上7とした)と、
ADAM&TANNERY版(AT.)の各段落およびそのなかの句・節とに準じて、本論文の筆者(K.-m. as the
SHYNAMITES)が任意に区分したものである。 また右項は、同AT版第VII巻の頁数と行数、ならびに第二版(E.)の頁数と行数である。 AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996. E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994. cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991) produced and arranged by K.-m. as the SHYNAMITES. 初出:"What a cool believes"(blog),Apr.22,2007. The HARVEST and DIGESTS on All-Ranged Juice--part 3AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY,
nouvelle édition, J.VRIN, Paris,1996. ...(頁、行) E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994. ...(頁、行) cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991) ...(7=「読者への序言」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節) The HARVEST and DIGESTS(part 3)
on ALL-RANGED JUICE
要点と結論(序を兼ねて)--其の参
第三の要点は、次のとおりである。すなわち、「‘省察’において開陳」される「その思 索そのもの」(7.G103:AT.VII,10.09-10/E.P06.14-16)をとおして「この私が納得した」根拠によって(7.G106: AT.VII,10.13/E.P06.19-20)、はたして「他の人たちをもまた納得させることができる」のか(7.G107:AT.VII, 10.13-14/E.P06.20-21)、ということである。 というのも、「神と人間的精神と」(7.A101:AT.VII, 07.01/E.P01.04-06)いう「それら」の問題を「説明するために私が辿る道は、あまり整って」なく、「なじんで」ない(7.A301: AT.VII,07.08-09/E.P01.13-14)からである。 とはいえ「第一点」として(7.C101:AT.VII,07.20/E.P02.13)、「私が論じていた」のは (7.C201:AT.VII,08.07/E.P02.24)、「私が思惟する事物であるということ」だけである(7.C204:AT.VII, 08.10-11/E.P03.04-05)。「どんな仕方で」「私が示す」(7.C301:AT.VII,08.12/E.P03.06-07)のかは ともかく、「帰結」されるのは、すなわち、思惟することの「ほかには何も実際に」「私」の本質には「属さない」、ということである(7.C303: AT.VII,08.14-15/E.P03.09-11)。いかにして示されようとも、思惟するしかないのが「私」なのである。 しかし他方、 「そこでは」ほかのものすべてを「排除したいのではなかった」の「もまた」、じつは「私」(7.C201:AT.VII,08.06/E.P02.21- 22)である。何せ、それらも「事物の真理そのものに」関しては「秩序」づけられている(7.C201:AT.VII,08.06- 07/E.P02.22-23)のである。だからこそ、ただ思惟する事物であることにおいてのみ「存立している」のは、人間的精神の「本性、あるいは『本 質』」であり、こういう「帰結」が(7.C103:AT.VII,08.02-03/E.P02.16-17)生じる、と「答える」のは「私」 (7.C201:AT.VII,08.05/E.P02.21)である。 つぎに「もう一つの点」として(7.D101:AT.VII,08.16/E.P03.11)、「私より完全な事物の観 念を私のうちに私がもっているということ」(7.D102:AT.VII,08.16-17/E.P03.11-12)について云えば、この帰結は、「私 より完全な事物の観念が私のうちに在るということだけから」「いかにして」かはともかく、というよりむしろ、どうしても、生じて(7.D401: AT.VII,08.25-26/E.P04.01-02)しまうのであって、そのように「答える」のも「私」(7.D200:AT.VII,08.19 -20/E.P03.16-17)である。「私」のなかに在る観念のほうが、「私」よりも完全なのである。なるほど「観念という語」 (ibid.7.D200:AT.VII,08.20/E.P03.17)は、「質料的に」「受け取られることができる」が(7.D301: AT.VII,08.20-21/E.P03.17-18)、「その意味では、私より完全だ、と云うことはできない」し(7.D303:AT.VII, 08.21-22/E.P03.19-20)、「そうした事物」が「知性の外に実在することは想定されない」(7.D306:AT.VII,08.23- 24/E.P03.21-23)。 精神を「すべての予断から」も(7.F304:AT.VII,09.26/E.P05.20-21)「引き離すことがで きるようになる」人々には、「そしてまた」引き離そうという「意志をもつようになる」(7.F305:AT.VII,09.26- 27/E.P05.21)人々には、「ごく僅か」しか「遭遇」しないが、そのような人々のことを「充分に」「知っている」のが「私」(7.F306: AT.VII,09.27-28/E.P05.22-23)である。 だから、「私」は、誰かが「これを読む」のを「促 す」こともない(7.F301:AT.VII,09.24/E.P05.17-18)。ましてや、「或る人にとっては困難に思われそうなものすべてを私が 予見できる」かどうかについては、「私」は「さほど自負していない」ので、「確信」しえないだろう(7.G102:AT.VII,10.07- 09/E.P06.11-14)。 幸い、「気持ち ingenio と教養 doctrinâとに」おいては「卓越して」いる(7.G201:AT.VII,10.15-16/E.P06.22-23)彼らが、「充分に多くのこ と、そして様々なこと」を、反論してくれた(7.G301:AT.VII,10.17-18/E.P07.02-03)のは、「これら‘省察’」 (7.G202:AT.VII,10.16/E.P06.23-24)に対してである。ただ、「少なくとも何らかの重要なもの」(7.G303: AT.VII,10.19/E.P07.05)には、彼らは「まだ触れていない」(7.G305:AT.VII,10.20/E.P07.06-07)。 その、ひじょうに「重要なもの」だと「私には思われた」(7.A201:AT.VII,07.07/E.P01.10-11)問題が、すなわち「神と人間 的精神とについての問題」(7.A101:AT.VII,07.01/E.P01.04-06)である。 これらには「すでに前に」「私は触れたことがあって」、それは『理性を正しく導き、諸学問において真理を探究するための 方法についての叙説』においてである(7.A101:AT.VII,07.01-03/E.P01.04-09)。「1637年に」その書を「フランス語 で出版」した(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.06)ところ、まず、読者が「私に知らせて」くれた(7.B102: AT.VII,07.15-16/E.P02.07-08)ことがあったが、残念ながら、それが「緊要であるか、もしくは答弁に値する」ようなことは「容 易には」起こらないだろう(7.F502:AT.VII,10.04-05/E.P06.07-09?)。せいぜい、「ただ一字一句だけ」を (7.F403:AT.VII,09.30/E.P06.02)「論うことに」かまけているうちに(7.F405:AT.VII, 10.01/E.P06.03-04)「おそらく多くの点で機会を見つけだして」は「あざける」(7.F501:AT.VII,10.02- 04/E.P06.05-07)だけだろうし、また、そのようにして「何か」を「反論」した(7.F502:AT.VII,10.04- 05/E.P06.07-09?)にすぎないのだろう。 それでも「今」のところは、「人々の判断を一度はなんとか見聞きする」のも「私」だし(7.F101:AT.VII, 09.19-20/E.P05.09-11)、また、せめて神と人間的精神という「これら」二つの点に対しては、「ここで手短に」(7.B203: AT.VII,07.18/E.P02.10)「答えておこう」としたのも「私」だ(7.B205:AT.VII,07.19/E.P02.12- 13)。 ただ残念なことに、ほかに「私が見た」「或る二つの文章」は、「なるほど」「相当に長い」ものだったが(7.E101: AT.VII,08.29-30/E.P04.04-06)、そこにみられる「類いの議論は何の力をももつことができない」のだ(7.E201: AT.VII,09.01-03/E.P04.10-12)。何しろ、そうした議論は「偽であり、理に縁がない」(7.E205:AT.VII, 09.05-06/E.P04.15-16)ので、「ここではそれらに対して答えたくない」のが「私」なのだ(7.E210:AT.VII,09.07- 08/E.P04.18-19)。 さらに、人々に「関して」(7.F401:AT.VII,09.28/E.P05.23-24)は、「ただ一般的に」だけとはいえ、「私は云う」ことにする(7.E301:AT.VII,09.08-09/E.P04.20-21)。 す なわち、なんと‘無神論者たち’によれば、「神には人間的な感情が添付されている」そうだが(7.E304:AT.VII,09.11- 12/E.P04.23-24)、「有限なものとして考察されるべき」なのは「我々の精神だ」(7.E401:AT.VII,09.14- 16/E.P05.04-06)。そして、このことを「単に思い出すだけ」なのが「我々」で(7.E401:AT.VII,09.14- 16/E.P05.04-06)ある。よって、「我々にとって」‘無神論者たち’の言い分は決して困難の源にはならないだろう(7.E403: AT.VII,09.17-18/E.P05.08-09)。 ***** 結論は以下のとおりである。すなわち、諸々の意見に対して何かを反論するということが、もし容易に起こるならば、それはきわめて重要であり、また、根拠のある答えに匹敵するのである。 ところで、何かを為すことだけで、はたして神たりうるのか。また、何かを為すことだけで、はたして神たるべきなのか。 なるほど、一般から隔たっている道を辿ってしまっている「私」だからこそ、神についてとか、人間としての精神についてとか、再度論じるべきだ と自分で判断していた。しかし、あまり整ってない道を「私」がわざわざ辿るのは、あくまで説明するためにすぎないので、その説明をやたらに詳しくし過ぎる のは無駄である。 よって、ここでは、二点だけ述べておく。すなわち、第一点は、どうしても我々によって捉えられないのが神であり、そもそも無限なのが神である、ということだ。もう一点は、有限なのはあくまで、我々の精神だ、ということである。 以上を結論として、論じ終えることにする。 presented by K.-m. as the SHYNAMITES. 初出:"Whatr a cool believes"(blog),Apr.21,2007.
The HARVEST and DIGESTS on All-Ranged Juice--part 2
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY,
nouvelle édition, J.VRIN, Paris,1996. ...(頁、行) E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994. ...(頁、行) cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991) ...(7=「読者への序言」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節) The HARVEST and DIGESTS(part 2)
on ALL-RANGED JUICE
要点と結論(序を兼ねて)--其の弐
第二の要点は、次のとおりである。すなわち、「私」は「確実」に「そして明証的」に 「真理」を「認識」するに「至った」、と「私には思われる」(7.G104:AT.VII,10.10-12/E.P06.16-18)が、はたしてその ようにして「他の人たちをもまた納得させることができる」のか(7.G107:AT.VII,10.13-14/E.P06.20-21)、ということで ある。 というのも、「神と人間的精神と」いう(7.A101:AT.VII,07.01/E.P01.04-05)、「それら」の問題について は、もう一度「私は論じるべきだと判断していた」(7.A202:AT.VII,07.07-08/E.P01.15-16)ので、それをやたらに「詳し く説くこと」は「無用だ」と「私は考えた」(7.A303:AT.VII,07.10/E.P01.19)からである。 なにせ、まず「第一点」として(7.C101:AT.VII,07.20/E.P02.13)、「みずからのうちに思惟 する機能 facultatem をもつ事物」(7.C205:AT.VII,08.11-12/E.P03.05-06)だけが「実際に私の本質に属する」ものだ、ということは「帰結す る」(7.C303:AT.VII,08.14-15/E.P03.08-11)。その一方で、みずからを「思惟する事物であるということ」 (7.C104:AT.VII,08.03/E.P02.17-18)は、「私」によって「知得」されるかぎりで、「秩序」づけられているにすぎない (7.C202:AT.VII,08.08/E.P02.24-P03.01)。つまり、あくまでも思惟するのは「私」であるが、他方、せいぜい思惟する のが「私」であるにすぎない。 つぎに「もう一つの点」として(7.D101:AT.VII,08.16/E.P03.11)、「私」より完全な事物の 「観念そのものが、私より完全であること」について(7.D103:AT.VII,08.17-18/E.P03.12-14)、この「観念という語にお いて等しく呼ばれる」二つのことである(7.D200:AT.VII,08.20/E.P03.16-17)。すなわち、「知性の作用」として (7.D302:AT.VII,08.21/E.P03.18-19)の意味と、「そうした作用によって表象され再現された事物」として(7.D305: AT.VII,08.22-23/E.P03.20-21)の意味とである。 「精神を感覚から」(7.F303:AT.VII,09.25-26/E.P05.19-20)「引き離すことができる ようになり、そしてまた」引き離そうという「意志をもつようになる」(7.F305:AT.VII,09.26-27/E.P05.21)人々には、「ご く僅か」しか「遭遇」しないとはいえ、そのような人々のことを、「充分に知っている」のが「私」だ(7.F306:AT.VII,09.27- 28/E.P05.22-23)から、なにも「読者」が群がることを、「私は期待する」こともない(7.F202:AT.VII,09.23- 24/E.P05.15-17)。ましてや、「他の人々が私に対してすべてにおいて最初に外見で満足しうる」かどうかについては、「私は」そうした他の人 々に「全然約束していない」(7.G101:AT.VII,10.06-07/E.P06.09-11)。 さて一方で、「私が願っておいた」とおり、幸いにも、「気持ち ingenio」においても「教養 doctrinâ」においても「卓越して」いる(7.G201:AT.VII,10.14-16/E.P06.21-23)彼らのもとには、「これら‘省 察'が」(7.G202:AT.VII,10.16/E.P06.23-24)、予め「吟味されるべく送り付けられてある」(7.G204: AT.VII,10.17/E.P07.01-02)。そんな彼らから寄せられてきた反論はひじょうに「多く」て「様々」だった(7.G301: AT.VII,10.17-18/E.P07.02-03)ので、「少なくとも何らかの重要な」(7.G303:AT.VII, 10.19/E.P07.05)着想がありうる(7.G304:AT.VII,10.19-20/E.P07.05-06)はずだ。 しかし他方で、いわゆる『方法序説』(cf.7.A101:AT.VII,07.02-03/E.P01.06-09) を「1637年に」「フランス語で出版」した(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.09)のだが、神と人間的精神とについての 「それらの問題をそこで精確に取り扱う」つもりは全然なかった(7.A103:AT.VII,07.04-05/E.P01.10-11)。 とい うのも、「緊要であるか、もしくは答弁に値するようなものを何か反論する」こと(7.F502:AT.VII,10.04-05/E.P06.07- 09)については、「しきたりの中に」いる「多くの人たちにとって」(7.F404:AT.VII,09.30-10.01/E.P06.02-03)、 「容易ではない」こと(7.F502:AT.VII,10.04/E.P06.07)だからである。 しかも、‘無神論者たち’のせいで「公然とはびこっている」もののすべては、よりにもよって「神の存在を攻撃するため」 のものである(7.E302:AT.VII,09.09-10/E.P04.21-23)。それによると、「我々の精神にはひじょうに大きな力と知恵とが 授けられている」(7.E305:AT.VII,09.12-13/E.P05.01-02)という。しかし「我々が」いくら「決定し把握しようと試みた り努めたり」しても(7.E307:AT.VII,09.14/E.P05.03-04)「把握しきれない無限なもの」こそが、むしろ「神」なのである (7.E402:AT.VII,09.16-17/E.P05.07-08)。 「今」のところ「私」は、「人々の判断を一度はなんとか見聞きして」いるが、「その後で」(7.F101: AT.VII,09.19-20/E.P05.09-11)、「私が書いたもののなかで非難に値する」ものとして見つかった(7.B101: AT.VII,07.14-15/E.P02.05-07)のは「二つ」(7.B202:AT.VII,07.18/E.P02.10)だけだった。しか も、ほかに「私」が見た或る二つの文章で「攻撃されていた」のは、「私」よりも完全な「事物について」の「私」の「根拠」とも「結論」ともいえるものだ が、そのように攻撃したほうの「議論」は、「‘無神論者たち’」に「共通な」議論の「場から借りてきた」ものであった(7.E102:AT.VII, 08.30-09.01/E.P04.06-10)。したがって、「私」が「先に言及」すべきなのは、それらの意見に関してではなくて(7.E211: AT.VII,09.08/E.P04.19-20)、むしろそうした人々に「関して」(7.F401:AT.VII,09.28/E.P05.23- 24)なのである。 相変わらず、「本末転倒で薄弱な」「判断」をする人々は多いが(7.E203:AT.VII,09.03- 04/E.P04.12-14)、それもそのはず、そうした人々が「最初に受け取った諸々の意見によって」(7.E204:AT.VII,09.04- 05/E.P04.14-15)「説得されて」信じ込んだ(7.E206:AT.VII,09.06/E.P04.16-17)「後で聞いた」 (7.E208:AT.VII,09.07/E.P04.17-18)のは、「かの意見の反駁」(7.E209:AT.VII, 09.07/E.P04.18)だったのである。
presented by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),Apr.15,2007.
The HARVEST and DIGESTS on All-Ranged Juice--part 1
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY,
nouvelle édition, J.VRIN, Paris,1996. ...(頁、行) E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994. ...(頁、行) cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991) ...(7=「読者への序言」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節) The HARVEST and DIGESTS(part 1)
on ALL-RANGED JUICE
要点と結論(序を兼ねて)--其の壱
本論文は、デカルト(DESCARTES,Rene)による『省察』の「読者への序言 PRAEFATIO AD LECTOREM」を扱うにあたって、同じくデカルトの「幾何学」から得たことを応用したものであり、三つの段階から成る。第一段階(§§701- 709)においては、「読者への序言」の各段落(ADAM & TANNERY版に準拠)を分解したのち、三重構造として再編成した。第二段階(§§711-713)では、かの三重構造を保ちながら数段落を連結したと ころ、三つの組になった。すなわち、最初の段落から最後の段落まで3種類(計9通り)の仕方で至ることができた、ということである。さらに第三段階(§§ 721-723)では、「読者への序言」の全段落を連結したので、三本一組の筋になった。以上の作業を経たところ、三つの要点が得られたので、まずはそれらを挙げておく。 第一の要点は、次のとおりである。 すなわち、はたして「私」が納得したその「同じ根拠 によって」(7.G105:AT.VII,10.12-13/E.P06.18-19)、「他の人たちをもまた納得させることができる」のか (7.G107:AT.VII,10.13-14/E.P06.20-21)、ということである。 というのも、二つの問題、すなわち「神と人間的 精神とについての問題」(7.A101:AT.VII,07.01/E.P01.04-06)を説明するために「私」が辿る道は「一般に使用されていると ころからはあまりにも隔たっている」(7.A302:AT.VII,07.09-10/E.P01.14-15)からである。 とはいえ、まず「第一点」として(7.C101:AT.VII,07.20/E.P02.13)、「私が認識する」とこ ろによれば、思惟する事物であることの「ほかには何も私の本質に属さない」のである(7.C302:AT.VII,08.13-14/E.P03.07- 09)。つまり、思惟するのは、ほかならぬ「私」なのだ。その一方で、その「ほかのものすべて」は、「‘ただ~のみ'(tantum)という語」によって 「排除」される(7.C105:AT.VII,08.03-04/E.P02.18-19)。だからこそ、「人間的精神」がみずからのほうへと振り向いて 「知得する」のは、「みずから」が「思惟する事物であるということ」にほかならない(7.C102:AT.VII,07.20- 08.01/E.P02.13-15)。 つぎに「もう一つの点」として(7.D101:AT.VII,08.16/E.P03.11)、「私」より完全な事物の 「観念によって表象され再現されたものが存在すること」(7.D104:AT.VII,08.18-19/E.P03.14-15)について、「そうした 事物が実際に存在すること」は「帰結する」(7.D402:AT.VII,08.26-27/E.P04.02-03)のだが、そのように「答える」のは 「私」である(7.D200:AT.VII,08.19/E.P03.16)。すなわち、必ずしも「私」ではない、というよりもむしろ、決して「私」では ない事物こそが、私より完全なのである。何せ、「観念という語」(7.D200:AT.VII,08.20/E.P03.17)が質料性とは「反対に」受 け取られる場合には(7.D304:AT.VII,08.22/E.P03.20)、「私より完全であること」は、事物「みずからの本質」で「理由」づけ れば、「可能」となる(7.D307:AT.VII,08.24-25/E.P03.23-24)。 したがって、もし「私の根拠」を「知解」すれば(7.E202:AT.VII,09.03/E.P04.12)、「真で 堅固な」(7.E207:AT.VII,09.06/E.P04.17)「反駁」を、諸々の意見に対して(7.E209:AT.VII, 09.07/E.P04.18)おこなうことができるはずだ。しかも、それが「緊要であるか、もしくは答弁に値する」ようなこととして、「容易に」起こる (7.F502:AT.VII,10.04-05/E.P06.07-09)かもしれない。その場合には、「この著作を」読んで「大きな成果」を「収め る」ように(7.F406:AT.VII,10.01-02/E.P06.04-05)なったということだろう。 このよ うに「本気で私とともに省察すること」(7.F302:AT.VII,09.25/E.P05.18-19)が「できるように」なる人々には、「そしてま た」省察しようという「意志をもつようになる」(7.F305:AT.VII,09.26-27/E.P05.21)人々には、「ごく僅か」しか「遭遇」 しない(7.F306:AT.VII,09.27-28/E.P05.22-23)が、そのような人々のことを、「充分に」「知っている」のが「私」 (ibid.)である。 だから、「私」は、べつに「公の拍手喝采」を期待することもない(7.F201:AT.VII,09.22-23/E.P05.15)。 さて一方で、『理性を正しく導き、諸々の学問において真理を探究するための方法についての叙説』(7.A101: AT.VII,07.02-03/E.P01.06-09)を「1637年に」「フランス語で出版」するという(7.A102:AT.VII,07.03 -04/E.P01.09)打診でもって「私」は読者といわば「協議」したようなものであり(7.A104:AT.VII,07.05- 06/E.P01.11-13)、「その後でそれら」の問題を「どんな理由で取り扱うのか」、を「私」は「読者の判断から学び足す」ことができた (ibid.)。 のみならず、たとえ「印刷に委ねられる以前」のものであっても(7.G203:AT.VII, 10.16-17/E.P06.24-P07.01)、「気持ち ingenio」においても「教養 doctorinâ」においても「卓越して」いる(7.G201:AT.VII,10.15-16/E.P06.21-23)彼らのもとにあるのが、「こ れら‘省察’」(7.G202:AT.VII,10.16/E.P06.23-24)である。 他方、そうした‘省察’が彼ら以外の「いかなる人」にとっても「容易ではない」ことは、「私が敢えて望むところであった」(7.G302:AT.VII,10.18-19/E.P07.03-04)。 「今」のところ「人々の判断を一度はなんとか見聞きする」のが「私」だが(7.F101:AT.VII,09.19- 20/E.P05.09-11)、神と人間的精神という、あの二つの「問題について、私が触れていたものにおいて」なされた「反論」は、残念ながら、「留 意」には値しなかった(7.B201:AT.VII,07.16-17/E.P02.08-10)。 ここでは「私はただ一般的に云うだけにする」 (7.E301:AT.VII,09.08-09/E.P04.20-21)が、どうせ、「私の根拠の連鎖と脈絡とを把握することに気を配らない」 (7.F402:AT.VII,09.29-30/E.P05.24-P06.02)ほどに「気持ち ingenia」が「虚弱」なうちは、いくら「信じ」たところで、その道に「みずから進み行くこと」は「できない」(7.A304:AT.VII, 07.12-13/E.P02.02-04)」はずだし、所詮、‘無神論者たち’の言い分の「すべて」(7.E301:AT.VII, 09.09/E.P04.20-21)が「常に依存している」(7.E303:AT.VII,09.11/E.P04.23)のは、すなわち、「神が為す ことのできる」のは、そしてまた神が「為さねばならない」のは「いったい何」なの「か」(7.E306:AT.VII,09.13/E.P05.02- 03)、ということにであろう。
presented by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),Apr.15,2007.
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