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Let's take this All-Ranged Juice--ContentsArrangement and performance about Rene DESCARTES'〈Praefatio ad Lectorem〉
treated with his own analytical geometry.
(in March 08-April 29,2001 & AFTER THIS,2007)
Contents of ALL-RANGED JUICE (Not "Orange Juice.") 『省察』「読者への序言」解析幾何学的処理・目次 §700:The Harvest and Digests--結論と要点(序を兼ねる)
第1章:分析(§§701-709)
(1) One extreme line of 《AB》(当時の説明は、一般にはあまり用いられていなかった) (2) The other extreme line of 《AB》(当時の説明は、あまり詳しくなかった) (3) The moderate line of 《AB》(当時の説明は、まだ整備されていなかった) §702 Line of 《C》(質疑その一:思惟する事物について) (1) The moderate line of 《C》(思惟する事物に秩序があるのは、私の知得においてのみだ) (2) One extreme line of 《C》(私の本質に属するのは、思惟する事物だけだ) (3) The other extreme line of 《C》(事物の真理に関しては、私以外のものにも秩序がある) §703 Line of 《D》(質疑その二:私より完全な事物の観念について) (1) The moderate line of 《D》(観念という語の二つの意味) (2) One extreme line of 《D》(観念という語が質料的にとられた場合) (3) The other extreme line of 《D》(観念という語が質料性と反対の意味にとられた場合) §704 Line of 《E(Part 1)》(議論・反駁について) (1) One extreme line of 《E(Part 1)》(偽であり、理に縁なき議論) (2) The other extreme line of 《E(Part 1)》(洗脳されたままでの判断) (3) The moderate line of 《E(Part 1)》(真で堅固な反駁) §705 Line of 《E(Part 2)》(無神論について) §706 Line of 《F(Part 1)》(『省察』のねらい) (1) One extreme line of 《F(Part 1)》(精神を感覚から引き離せ) (2) The other extreme line of 《F(Part 1)》(精神をすべての予断から引き離せ) (3) The moderate line of 《F(Part 1)》(私とともに本気で省察せよ) §707 Line of 《F(Part 2)》(『省察』の読み方について) §708 Line of 《G(Part 1)》(他人を納得させることについて) (1) One extreme line of 《G(Part 1)》(真理の認識に至る術で他人を納得させうるか) (2) The other extreme line of 《G(Part 1)》(私が納得した根拠で他人は納得するか) (3) The moderate line of 《G(Part 1)》(他人を納得させうるかどうか、思索で実験する) §709 Line of 《G(Part 2)》(「反論と答弁」について) 第2章:表現(§§711-713)
§711 Views of 《ABF1G2》
(1) The 1st View of 《ABF1G2》(本気でない者、通るべからず) (2) The 2nd View of 《ABF1G2》(読者からの名案を乞う) (3) The 3rd View of 《ABF1G2》(読者からの非難について) §712 Views of 《ABCDE2G1G2》 (1) The 1st View of 《ABCDE2G1G2》(事物の本質から実験開始) (2) The 2nd View of 《ABCDE2G1G2》(有限なる私だが、それなりに...) (3) The 3rd View of 《ABCDE2G1G2》(どこまで知りつくせるか...) §713 Views of 《ABE1F2G2》 (1) The 1st View of 《ABE1F2G2》(鼻であしらわれるべき議論) (2) The 2nd View of 《ABE1F2G2》(私の根拠を踏まえよ) (3) The 3rd View of 《ABE1F2G2》(しきたり住まいの井戸端会議) 第3章:演出(§§721-723)
§721:The 1st Solid of 《ABCDE2G1-E1F2-F1G2》(然るべきことを踏まえ給え) §722:The 2nd Solid of 《ABCDE2G1-E1F2-F1G2》(人伝ながらも好奇心) §723:The 3rd Solid of 《ABCDE2G1-E1F2-F1G2》(限りあってこその拒絶) 凡例
引用するにあたって、出典は文中に括弧で示した。その左項は、『省察』の序数(「読者への序言」については便宜上7とした)と、
ADAM&TANNERY版(AT.)の各段落およびそのなかの句・節とに準じて、本論文の筆者(K.-m. as the
SHYNAMITES)が任意に区分したものである。 また右項は、同AT版第VII巻の頁数と行数、ならびに第二版(E.)の頁数と行数である。 AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996. E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994. cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991) produced and arranged by K.-m. as the SHYNAMITES. 初出:"What a cool believes"(blog),Apr.22,2007. The HARVEST and DIGESTS on All-Ranged Juice--part 3AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris,1996. ...(頁、行) E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994. ...(頁、行) cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991) ...(7=「読者への序言」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節) The HARVEST and DIGESTS(part 3) on ALL-RANGED JUICE
要点と結論(序を兼ねて)--其の参 第三の要点は、次のとおりである。すなわち、「‘省察’において私の開陳する」のが「その思索そのもの」(7.G103:AT.VII,10.09-10/E.P06.14-16)だろうが、その思索をとおして「この私が納得した」根拠によって(7.G106: AT.VII,10.13/E.P06.19-20)、はたして「他の人たちをもまた納得させることができる」のか(7.G107:AT.VII, 10.13-14/E.P06.20-21)、ということである。 というのも、「神と人間的精神と」(7.A101:AT.VII, 07.01/E.P01.04-06)いう「それら」の問題を「説明するために私が辿る道は、あまり整って」なく、「なじんで」ない(7.A301: AT.VII,07.08-09/E.P01.13-14)からである。 とはいえ「第一点」として(7.C101:AT.VII,07.20/E.P02.13)、「私が」議論を「おこなっていた」のは (7.C201:AT.VII,08.07/E.P02.24)、「私が思惟する事物であるということ」だけである(7.C204:AT.VII, 08.10-11/E.P03.04-05)。「どんな仕方で」「私が示す」(7.C301:AT.VII,08.12/E.P03.06-07)のかはともかく、「帰結」されるのは、すなわち、思惟することの「ほかには何も実際に」真なる事物として「私」の本質には「属さない」、ということである(7.C303: AT.VII,08.14-15/E.P03.09-11)。いかにして示されようとも、思惟するしかないのが「私」なのである。 しかし他方、「そこでは」ほかのものすべてを「排除したいのではなかった」の「もまた」、じつは「私」(7.C201:AT.VII,08.06/E.P02.21- 22)である。何せ、それらも「事物として真たることそのものに」関しては「秩序」づけられている(7.C201:AT.VII,08.06- 07/E.P02.22-23)のである。だからこそ、ただ思惟する事物であることにおいてのみ「存立している」のは、人間的精神の「本性、あるいは」いわゆる「本質」であり、こういう「帰結」が(7.C103:AT.VII,08.02-03/E.P02.16-17)生じる、と「答える」のは「私」 (7.C201:AT.VII,08.05/E.P02.21)である。 つぎに「もう一つの点」として(7.D101:AT.VII,08.16/E.P03.11)、「私より完全な事物の観念を私のうちに私がもっているということ」(7.D102:AT.VII,08.16-17/E.P03.11-12)について云えば、この帰結は、「私より完全な事物の観念が私のうちに在るということだけから」「いかにして」かはともかく、というよりむしろ、どうしても、生じて(7.D401: AT.VII,08.25-26/E.P04.01-02)しまうのであって、そのように「答える」のも「私」(7.D200:AT.VII,08.19 -20/E.P03.16-17)である。「私」のなかに在る観念のほうが、「私」よりも完全なのである。なるほど「観念という語」 (ibid.7.D200:AT.VII,08.20/E.P03.17)は、「質料的に」「受け取られることができる」が(7.D301: AT.VII,08.20-21/E.P03.17-18)、「その意味では、私より完全だ、と云うことなんてできない dici nequit」し(7.D303:AT.VII, 08.21-22/E.P03.19-20)、「そうした事物」が「知性の外に実在することは想定されない」(7.D306:AT.VII,08.23- 24/E.P03.21-23)。 精神を「すべての予断や先入見から」(7.F304:AT.VII,09.26/E.P05.20-21)「引き離すことができるようになる」人々には、「そしてまた」引き離そうという「意志をもつようになる」(7.F305:AT.VII,09.26- 27/E.P05.21)人々には、「ごく僅か」しか「遭遇」しないが、そのような人々のことを「充分に」「知っている」のが「私」(7.F306: AT.VII,09.27-28/E.P05.22-23)である。 だから、「私」は、誰かが「これを読む」のを「促す」こともない(7.F301:AT.VII,09.24/E.P05.17-18)。ましてや、「或る人にとっては困難に思われそうなものすべてを私が予見できる」かどうかについては、「私」は「さほど自負していない」ので、「確信」しえないだろう(7.G102:AT.VII,10.07- 09/E.P06.11-14)。 幸い、「気持ち ingenio と教養 doctrinâとに」おいては「卓越して」いる(7.G201:AT.VII,10.15-16/E.P06.22-23)彼らが、「充分に多くのこと、そして様々なこと」を、反論してくれた(7.G301:AT.VII,10.17-18/E.P07.02-03)のは、「これら‘省察’」 (7.G202:AT.VII,10.16/E.P06.23-24)に対してである。ただ、「少なくとも何らかの重要なもの」(7.G303: AT.VII,10.19/E.P07.05)には、彼らは「まだ触れていない」(7.G305:AT.VII,10.20/E.P07.06-07)。その、ひじょうに「重要なもの」だと「私には思われた」(7.A201:AT.VII,07.07/E.P01.10-11)問題が、すなわち「神と人間的精神とについての問題」(7.A101:AT.VII,07.01/E.P01.04-06)である。 これらには「すでに前に」「私は手短に触れたことがあって」、それは『理性を正しく導きつつ、諸学問において真理を探究するための方法についての叙説』においてである(7.A101:AT.VII,07.01-03/E.P01.04-09)。「1637年に」その書を「フランス語で出版」した(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.06)ので、まず、もし何か非難されそうなものがあれば、それについては、読者こそが「私に」対して「厭わずに忠告していたはず」(7.B102: AT.VII,07.15-16/E.P02.07-08)なのだが、残念ながら、それが「緊要であるか、もしくは答弁に値する」ようなことは、どうやら「容易には」起こら「ないだろう」(7.F502:AT.VII,10.04-05/E.P06.07-09)、ということらしく、せいぜい、「ただ一字一句だけ」を (7.F403:AT.VII,09.30/E.P06.02)「論うことに」かまけているうちに(7.F405:AT.VII, 10.01/E.P06.03-04)「おそらく多くの点で機会を見つけだして」は「あざける」(7.F501:AT.VII,10.02- 04/E.P06.05-07)だけだろうし、また、そのようにして「何か」を「反論」した(7.F502:AT.VII,10.04- 05/E.P06.08-09)つもりになっているのだろう。 それでも「今」のところは、「人様の判断を一度はなんとか見聞きすることでもって経験して」おくのも「私」だし(7.F101:AT.VII, 09.19-20/E.P05.09-11)、また、せめて神、および、人間としての精神という、「これら」二つの点に対しては、「ここで手短に」(7.B203: AT.VII,07.18/E.P02.10)「答えておこう」としたのも「私」だ(7.B205:AT.VII,07.19/E.P02.12- 13)。 ただ残念なことに、ほかに「私が見た」「或る二つの文章」は、「なるほど」「相当に長い」ものだったが(7.E101: AT.VII,08.29-30/E.P04.04-06)、そこにみられる「類いの議論は何の力をももつことができない」のだ(7.E201: AT.VII,09.01-03/E.P04.10-12)。何しろ、そうした議論は「偽」であり、「理とか根拠とかに縁がない」(7.E205:AT.VII, 09.05-06/E.P04.15-16)ので、「ここではそれらに対して答えたくない」のが「私」なのだ(7.E210:AT.VII,09.07- 08/E.P04.18-19)。 さらに、人々に「関して」(7.F401:AT.VII,09.28/E.P05.23-24)は、「ただ一般的に」だけとはいえ、「私は云う」ことにする(7.E301:AT.VII,09.08-09/E.P04.20-21)。 すなわち、なんと‘無神論者たち’によれば、「神には人間みたいな感情が添付されている」そうだが(7.E304:AT.VII,09.11- 12/E.P04.23-24)、「有限なものとして考察されるべき」なのはあくまで「我々の精神だ」(7.E401:AT.VII,09.14- 16/E.P05.04-06)。そして、このことを「単に思い出しているだけ」なのが「我々」のはずで(7.E401:AT.VII,09.14- 16/E.P05.04-06)ある。よって、「我々にとって」‘無神論者たち’の言い分は決して困難の源にはならないだろう(7.E403: AT.VII,09.17-18/E.P05.08-09)。 ***** 結論は以下のとおりである。すなわち、諸々の意見に対して何かを反論するということが、もし容易に起こるならば、それはきわめて重要であり、また、根拠のある答えに匹敵するのである。 ところで、何かを為すことだけで、はたして神たりうるのか。また、何かを為すことだけで、はたして神たるべきなのか。 なるほど、一般から隔たっている道を辿ってしまっている「私」だからこそ、神についてとか、人間としての精神についてとか、再度議論をするべきだと自分で判断していた。しかし、あまり整ってない道を「私」がわざわざ辿るのは、あくまで説明するためにすぎないので、その説明をやたらに詳しくし過ぎるのは無駄である。 よって、ここでは、二点だけ述べておく。すなわち、第一点は、どうしても我々によって捉えられないのが神であり、そもそも無限なのが神である、ということだ。もう一点は、有限なのはあくまで、我々の精神だ、ということである。 以上を結論として、論じ終えることにする。 presented by K.-m. as the SHYNAMITES. 初出:"Whatr a cool believes"(blog),Apr.21,2007. * 語句を一部、訂正致しました(2009/9/11-9/13)。 The HARVEST and DIGESTS on All-Ranged Juice--part 2AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris,1996. ...(頁、行) E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994. ...(頁、行) cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991) ...(7=「読者への序言」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節) The HARVEST and DIGESTS(part 2) on ALL-RANGED JUICE
要点と結論(序を兼ねて)--其の弐 第二の要点は、次のとおりである。すなわち、「私」は「確実」に「そして明証的」に 「真理」を「認識」するに「至った」、と「私には思われる」(7.G104:AT.VII,10.10-12/E.P06.16-18)が、はたしてそのようにして「他の人たちをもまた納得させることができる」のか(7.G107:AT.VII,10.13-14/E.P06.20-21)、ということで ある。 というのも、「神と人間的精神と」いう(7.A101:AT.VII,07.01/E.P01.04-05)、「それら」の問題について は、もう一度議論が「為されるべきだ、と私は判断していた」(7.A202:AT.VII,07.07-08/E.P01.15-16)ので、それをやたらに「詳しく説くこと」は「無用だ」と「私は思い込んでいた」(7.A303:AT.VII,07.10/E.P01.19)からである。 何せ、まず「第一点」として(7.C101:AT.VII,07.20/E.P02.13)、「みずからのうちに思惟する機能 facultatem をもつ事物」(7.C205:AT.VII,08.11-12/E.P03.05-06)だけが「実際に」真なる事物として「私の本質に属する」ものだ、ということは「帰結する」(7.C303:AT.VII,08.14-15/E.P03.08-11)。その一方で、みずからを「思惟する事物であるということ」 (7.C104:AT.VII,08.03/E.P02.17-18)は、「私」によって「知得だか知覚だか」をされるかぎりで、「秩序」づけられているにすぎない (7.C202:AT.VII,08.08/E.P02.24-P03.01)。つまり、あくまでも思惟するのは「私」であり、他方、せいぜい思惟するのが「私」であるにすぎない。 つぎに「もう一つの点」として(7.D101:AT.VII,08.16/E.P03.11)、「私」より完全な事物の 「観念そのものが、私より完全であること」について(7.D103:AT.VII,08.17-18/E.P03.12-14)、この「観念という語において等しく呼ばれる」二つのことがある(7.D200:AT.VII,08.20/E.P03.16-17)。すなわち、「知性の作用」として (7.D302:AT.VII,08.21/E.P03.18-19)の意味と、「そうした作用によって表象され再現された事物」として(7.D305: AT.VII,08.22-23/E.P03.20-21)の意味とである。 「精神を感覚から」(7.F303:AT.VII,09.25-26/E.P05.19-20)「引き離すことができるようになり、そしてまた」引き離そうという「意志をもつようになる」(7.F305:AT.VII,09.26-27/E.P05.21)人々には、「ごく僅か」しか「遭遇」しないとはいえ、そのような人々のことを、「充分に知っている」のが「私」だ(7.F306:AT.VII,09.27- 28/E.P05.22-23)から、なにも「読者」が群がることを、「私は期待する」こともない(7.F202:AT.VII,09.23- 24/E.P05.15-17)。ましてや、「他の人々が私に対してすべてにおいて最初に外見で満足しうる」かどうかについては、「私は」そうした他の人々に「全然約束していない」(7.G101:AT.VII,10.06-07/E.P06.09-11)。 さて一方で、「私が願っておいた」とおり、幸いにも、「気持ち ingenio」においても「教養 doctrinâ」においても「卓越して」いる(7.G201:AT.VII,10.14-16/E.P06.21-23)彼らのもとには、「これら‘省 察'が」(7.G202:AT.VII,10.16/E.P06.23-24)、予め「吟味されるべく送り付けられてある」(7.G204: AT.VII,10.17/E.P07.01-02)。そんな彼らから寄せられてきた反論はひじょうに「多く」て「様々」だった、ということで「充分で」あり(7.G301: AT.VII,10.17-18/E.P07.02-03)、「少なくとも何らかの重要な」(7.G303:AT.VII, 10.19/E.P07.05)着想もありうる(7.G304:AT.VII,10.19-20/E.P07.05-06)はずだ。 しかし他方で、いわゆる『方法序説』(cf.7.A101:AT.VII,07.02-03/E.P01.06-09) を「1637年に」「フランス語で出版」した(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.09)のだが、神と人間的精神とについての 「それらの問題をそこで精確に取り扱う」つもりは全然なかった(7.A103:AT.VII,07.04-05/E.P01.10-11)。 というのも、「緊要であるか、もしくは答弁に値するようなものを何か反論する」こと(7.F502:AT.VII,10.04-05/E.P06.07- 09)については、「しきたりのなかに居る」「多くの人たちにとって」(7.F404:AT.VII,09.30-10.01/E.P06.02-03)、 「容易ではない」こと(7.F502:AT.VII,10.04/E.P06.07)だからである。 しかも、‘無神論者たち’のせいで「公然とはびこっている」もののすべては、よりにもよって「神の実在を攻撃するため」 のものである(7.E302:AT.VII,09.09-10/E.P04.21-23)。それによると、「我々の精神にはひじょうに大きな力と知恵とが授けられている」(7.E305:AT.VII,09.12-13/E.P05.01-02)という。しかし「我々が」いくら「決定し把握しようと試みたり努めたり」しても(7.E307:AT.VII,09.14/E.P05.03-04)「把握しきれない無限なもの」こそが、むしろ「神」なのである (7.E402:AT.VII,09.16-17/E.P05.07-08)。 「今」のところ「私」は、「人様の判断を一度はなんとか見聞きすることでもって経験して」おくが、「その後で」(7.F101: AT.VII,09.19-20/E.P05.09-11)、「私の書いたもののなかで皆と出くわした」ものが「何か非難に値する」としても(7.B101: AT.VII,07.14-15/E.P02.05-07)、それは「二つ」(7.B202:AT.VII,07.18/E.P02.10)だけだ。しか も、ほかに「私」の見た或る二つの文章で「攻撃されていた」のは、「私」よりも完全な「事物について」の「私」の「根拠」であるが、これはべつに「結論」の如きものでは「ない」し、そのように攻撃したほうの「議論」は、「‘無神論者たち’」に「共通な」議論の「場から借りてきた」ものであった(7.E102:AT.VII, 08.30-09.01/E.P04.06-10)。したがって、「私」が「先に言及」すべきなのは、それらの意見に関してではなくて(7.E211: AT.VII,09.08/E.P04.19-20)、むしろそうした人々に「関して」(7.F401:AT.VII,09.28/E.P05.23- 24)なのである。 相変わらず、「本末顛倒で薄弱な」「判断」をする人々は多いが(7.E203:AT.VII,09.03- 04/E.P04.12-14)、それもそのはず、そうした人々が、「最初に受け取った諸々の意見によって」(7.E204:AT.VII,09.04- 05/E.P04.14-15)「説得されて」信じ込んだまま(7.E206:AT.VII,09.06/E.P04.16-17)、「後で聞いた」 (7.E208:AT.VII,09.07/E.P04.17-18)のは、「かの意見の反駁」(7.E209:AT.VII, 09.07/E.P04.18)だったのである。 presented by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),Apr.15,2007. * 語句を一部、訂正致しました(2009/9/11-13)。 The HARVEST and DIGESTS on All-Ranged Juice--part 1AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris,1996. ...(頁、行) E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994. ...(頁、行) cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991) ...(7=「読者への序言」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節) The HARVEST and DIGESTS(part 1) on ALL-RANGED JUICE
要点と結論(序を兼ねて)--其の壱 本論文は、デカルト(DESCARTES,Rene)による『省察』の「読者への序言 PRAEFATIO AD LECTOREM」を扱うにあたって、同じくデカルトの「幾何学」から得たことを応用したものであり、三つの段階から成る。第一段階(§§701- 709)においては、「読者への序言」の各段落(ADAM & TANNERY版に準拠)を分解したのち、三重構造として再編成した。第二段階(§§711-713)では、かの三重構造を保ちながら数段落を連結したと ころ、三つの組になった。すなわち、最初の段落から最後の段落まで3種類(計9通り)の仕方で至ることができた、ということである。さらに第三段階(§§ 721-723)では、「読者への序言」の全段落を連結したので、三本一組の筋になった。以上の作業を経たところ、三つの要点が得られたので、まずはそれらを挙げておく。 第一の要点は、次のとおりである。 すなわち、はたして「私」が納得したその「同じ根拠 によって」(7.G105:AT.VII,10.12-13/E.P06.18-19)、「他の人たちをもまた納得させることができる」のか (7.G107:AT.VII,10.13-14/E.P06.20-21)、ということである。 というのも、二つの問題、すなわち「神と人間的精神とについての問題」(7.A101:AT.VII,07.01/E.P01.04-06)を説明するために「私」が辿る道は「一般に使用されていると ころからはあまりにも隔たっている」(7.A302:AT.VII,07.09-10/E.P01.14-15)からである。 とはいえ、まず「第一点」として(7.C101:AT.VII,07.20/E.P02.13)、「私が認識する」とこ ろによれば、思惟する事物であることの「ほかには何も私の本質に属さない」のである(7.C302:AT.VII,08.13-14/E.P03.07- 09)。つまり、思惟するのは、ほかならぬ「私」なのだ。その一方で、その「ほかのものすべて」は、「‘ただ~のみ'(tantum)という語」によって 「排除」される(7.C105:AT.VII,08.03-04/E.P02.18-19)。だからこそ、「人間としての精神」がみずからのほうへと振り向いて 「知得だか知覚だかをする」のは、すなわち、「みずから」が「思惟する事物であるということ」にほかならない(7.C102:AT.VII,07.20- 08.01/E.P02.13-15)。 つぎに「もう一つの点」として(7.D101:AT.VII,08.16/E.P03.11)、「私」より完全な事物の 「観念によって表象され再現されたものが実在すること」(7.D104:AT.VII,08.18-19/E.P03.14-15)について、「そうした 事物が実際に」真なる事物として「実在すること」は「帰結する」(7.D402:AT.VII,08.26-27/E.P04.02-03)のだが、そのように「答える」のは 「私」である(7.D200:AT.VII,08.19/E.P03.16)。すなわち、必ずしも「私」ではない、というよりもむしろ、決して「私」ではない事物こそが、私より完全なのである。何せ、「観念という語」(7.D200:AT.VII,08.20/E.P03.17)が質料性とは「反対に」受け取られる場合には(7.D304:AT.VII,08.22/E.P03.20)、「私より完全であること」は、事物「みずからの本質」で「理由」づけられれば、「可能」となる(7.D307:AT.VII,08.24-25/E.P03.23-24)。 したがって、もし「私の根拠」を「知解」すれば(7.E202:AT.VII,09.03/E.P04.12)、「真で堅固な」(7.E207:AT.VII,09.06/E.P04.17)「反駁」を、諸々の意見に対して(7.E209:AT.VII, 09.07/E.P04.18)おこなうことができるはずだ。しかも、それが「緊要であるか、もしくは答弁に値する」ようなこととして、「容易に」起こる (7.F502:AT.VII,10.04-05/E.P06.07-09)かもしれない。その場合には、「この著作を」読んで「大きな成果」を「収める」ように(7.F406:AT.VII,10.01-02/E.P06.04-05)なったということだろう。 このよ うに「本気で私とともに省察すること」(7.F302:AT.VII,09.25/E.P05.18-19)の「できるように」なる人々には、「そしてまた」省察しようという「意志をもつようになる」(7.F305:AT.VII,09.26-27/E.P05.21)人々には、「ごく僅か」しか「遭遇」しない(7.F306:AT.VII,09.27-28/E.P05.22-23)が、そのような人々のことを、「充分に」「知っている」のが「私」 (ibid.)である。 だから、「私」は、べつに「公の拍手喝采」を期待することもない(7.F201:AT.VII,09.22-23/E.P05.15)。 さて一方で、『理性を正しく導きつつ、諸々の学問において真理を探究するための方法についての叙説』(7.A101: AT.VII,07.02-03/E.P01.06-09)を「1637年に」「フランス語で出版」するという(7.A102:AT.VII,07.03 -04/E.P01.09)打診でもって「私」は「ただ」、読者といわば「協議」のようなことをしたにすぎないが(7.A104:AT.VII,07.05- 06/E.P01.11-13)、「その後でそれら」の問題を「どんな理由で取り扱うのか」、ということを「私」は「読者の判断から学び足す」ことができた (ibid.)。 のみならず、たとえ「印刷に委ねられる以前」のものであっても(7.G203:AT.VII, 10.16-17/E.P06.24-P07.01)、「気持ち ingenio」においても「教養 doctorinâ」においても「卓越して」いる(7.G201:AT.VII,10.15-16/E.P06.21-23)彼らのもとにあるのが、「これら‘省察’」(7.G202:AT.VII,10.16/E.P06.23-24)である。 他方、そうした‘省察’が彼ら以外の「いかなる人」にとっても「容易ではない」ことは、「私が敢えて望むところであった」(7.G302:AT.VII,10.18-19/E.P07.03-04)。 「今」のところ「人様の判断を一度はなんとか見聞きすることでもって経験する」のが「私」だが(7.F101:AT.VII,09.19- 20/E.P05.09-11)、神と人間的精神という、あの二つの「問題について、私が触れていたものにおいて」なされた「反論」は、残念ながら、「留意」には値しなかった(7.B201:AT.VII,07.16-17/E.P02.08-10)。 ここでは「私はただ一般的に云うだけにする」 (7.E301:AT.VII,09.08-09/E.P04.20-21)が、どうせ、「私の根拠の連鎖と脈絡とを把握することに気を配らない」 (7.F402:AT.VII,09.29-30/E.P05.24-P06.02)ほどに「気持ち ingenia」が「虚弱」なうちは、いくら「信じ」たところで、その道に「みずから進み行くこと」は「できない」(7.A304:AT.VII, 07.12-13/E.P02.02-04)」はずだし、所詮、‘無神論者たち’の言い分の「すべて」(7.E301:AT.VII, 09.09/E.P04.20-21)が「常に依存している」(7.E303:AT.VII,09.11/E.P04.23)のは、あくまで、「神が為すことのできる」のは、そしてまた神が「為さねばならない」のは「いったい何」なの「か」(7.E306:AT.VII,09.13/E.P05.02- 03)、ということに対してであろう。 presented by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),Apr.15,2007. * 語句を一部、訂正致しました(2009/9/11-13)。 All-Ranged Juice--3solid-723AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY,
nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996. ...(頁、行) E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994. ...(頁、行) cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991) ...(7=「読者への序言」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節) The 3rd Solid of 《ABCDE2G1-E1F2-F1G2》 (§723:限りあってこその拒絶)
for ALL-RANGED JUICE
[7.A101-A102-A201-A301-B102-B203-B205] [7.C101-C103-C201-C204-C301-C303]
[7.D101-D102-D200-D301-D303-D306-D401-D403] [7.E301-E304-E401-E403][7.G102-G103-G106-G107] [7.E101-E201-E205-E210][7.F401-F403-F405-F501-F502] [7.F101-F103-F301-F304-F305-F306][7.G201-G202-G301-G303-G305-G403] 「神と人間的精神とについての問題」には「すでに前に」「私は手短に触れたことがあって」、それは『理性を正しく導きつつ、諸学問において真理を探究するための方法についての叙説』においてである(7.A101:AT.VII,07.01-03/E.P01.04-09)。「1637年に」その書を「フランス語で出版」した(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.09)のは、それらの問題がひじょうに「重要なもの」だと「私には思 われた」(7.A201:AT.VII,07.07/E.P01.13-14)からであるが、「それら」の問題を「説明するために私が辿る道は、あまり 整って」なく、「なじんで」ない(7.A301:AT.VII,07.08-09/E.P01.16-17)。
ただ、もし何か非難されそうなものがあれば、それについては、読者こそが「私に」対して「厭わずに忠告していたはず」だ(7.B102:AT.VII,07.15-16/E.P02.07-08)。そこでまず、 「これら」二つの点に対しては、「ここで手短に」(7.B203:AT.VII,07.18/E.P02.10)「私は答えておこう」(7.B205: AT.VII,07.19/E.P02.12-13)。 「第一点」として(7.C101:AT.VII, 07.20/E.P02.13)、人間としての精神にとっての「本性、あるいは」いわゆる「本質」なんぞが「存立している」のはただ思惟する事物であることにおいてのみである、という 「帰結」は生じない(7.C103:AT.VII,08.02-03/E.P02.16-17)、と「反論」されているので、「私は答える」 (7.C201:AT.VII,08.05-07/E.P02.21-24)。じつは「私もまた、そこでは」ほかのものすべてを「排除したいのではなかっ た」(ibid.)。というのは、「事物」として「真たることそのものに」関しては、それらも「秩序」づけられている(ibid.)からである。「勿論その場合、私が」議論を「おこなっていた」のは、そうした事物の真理についてではなくて(ibid.)、「私が思惟する事物であるということ」だけである(7.C204:AT.VII,08.10 -11/E.P03.04-05)。「以下に」続く本論において「私が示す」のは、「どんな仕方で」(7.C301:AT.VII, 08.12/E.P03.06-07)「帰結」されれば、思惟することの「ほかには何も実際に」真なる事物として(revera)「私」の本質には「属さない」と云えるのか、ということで ある(7.C303:AT.VII,08.14-15/E.P03.09-11)。 つぎに「もう一つの点」として(7.D101:AT.VII,08.16/E.P03.11)、「私より完全な事物の観念を私のうちに私がもっているということ」(7.D102:AT.VII,08.16-17/E.P03.11-12)について、「私は答える」 (7.D200:AT.VII,08.19-20/E.P03.16-17)。 「ここで等しく呼ばれる」二つのことが 「潜んでいる」のは、「観念という語において」であり(ibid.)、その語は「質料的に」「受け取られることもできる」となると(7.D301: AT.VII,08.20-21/E.P03.17-18)、「その意味では、私より完全だ、と云うことなんてできない dici nequit」し(7.D303:AT.VII, 08.21-22/E.P03.19-20)、「そうした事物」が「知性の外に実在することは想定されないはず」だ(7.D306:AT.VII,08.23- 24/E.P03.21-23)。そうなると、「私より完全な事物の観念が私のうちに在るということだけから」「いかにして」帰結が生じるのか (7.D401:AT.VII,08.25-26/E.P04.01-02)、ということが問題となるが、それは「以下」に続く本論にて「詳しく開陳される」ことにな る(7.D403:AT.VII,08.27-28/E.P04.03-04)から、「私はただ一般的に云うだけにする」(7.E301:AT.VII, 09.08-09/E.P04.20-21)。なんと‘無神論者たち’によれば、「神には人間みたいな感情が添付されている」そうだが(7.E304: AT.VII,09.11-12/E.P04.23-24)、「有限なものとして考察されるべき」なのはあくまで「我々の精神だ」ということを、「我々は単に思い出しているだけのはず」であり(7.E401:AT.VII,09.14-16/E.P05.04-06)、それだけでもう、「我々にとって」‘無神論者たち’の言い分は決して困難の源には ならないだろう(7.E403:AT.VII,09.17-18/E.P05.08-09)。しかし、「或る人にとっては困難に思われそうなものすべてを 私が予見できる」かどうかについては、「私」は「さほど自負していない」ので、「確信」しえないだろう(7.G102:AT.VII,10.07- 09/E.P06.11-14)。 さて、「‘省察’において私の開陳する」のが、「その思索そのもの」(7.G103:AT.VII,10.09- 10/E.P06.14-16)になる「だろう」が、ではその思索をとおして「この私が納得した」根拠によって(7.G106:AT.VII,10.13/E.P06.19-20)、はたして「他の人たちをもまた納得させることができる」のか(7.G107:AT.VII,10.13-14/E.P06.20-21)。 残念なことに、ほかに「私が見た」「或る二つの文章」は、「なるほど」「相当に長い」ものだったが(7.E101: AT.VII,08.29-30/E.P04.04-06)、そこにみられる「類いの議論は何の力をももつことができない」(7.E201: AT.VII,09.01-03/E.P04.10-12)。というのも、そうした議論は「偽」であり、「理とか根拠とかに縁がない」(7.E205:AT.VII, 09.05-06/E.P04.15-16)からである。それゆえ「私はここではそれらに対して答えたくないのだ」(7.E210:AT.VII, 09.07-08/E.P04.18-19)。 さらに、人々に「関して」(7.F401:AT.VII,09.28/E.P05.23-24)云わせてもらえば、「ただ一字一句だけ」を(7.F403:AT.VII,09.30/E.P06.02)「論うことに」かまけているうちに(7.F405:AT.VII, 10.01/E.P06.03-04)「おそらく多くの点で機会を見つけだして」は「あざける」だろう(7.F501:AT.VII,10.02- 04/E.P06.05-07)が、そのようにして「何か」を「反論」したつもりになったところで、それが「緊要であるか、もしくは答弁に値する」ようなことは「容易に は」起こら「ないだろう」(7.F502:AT.VII,10.04-05/E.P06.07-09)。 「今」のところ、「私は人様の判断を一度はなんとか見聞きすることで経験して」おくが、「その後では」(7.F101:AT.VII, 09.19-20/E.P05.09-11)、「第一‘哲学’全体」を「頭」から「取り扱う」ことにする(7.F103:AT.VII,09.21- 22/E.P05.13-14)。よって、「私」が「促す」のは、誰かが「これを読む」ことではなくて(7.F301:AT.VII, 09.24/E.P05.17-18)、精神を「すべての予断や先入見から」(7.F304:AT.VII,09.26/E.P05.20-21)「引き離すことができるようになり、そしてまた」引き離そうという「意志をもつようになる」ことである(7.F305:AT.VII,09.26- 27/E.P05.21)。が、そのような人々には「ごく僅か」しか「遭遇」しないことを、「充分に私は知っている」(7.F306:AT.VII, 09.27-28/E.P05.22-23)から、後で「私が答える」のは「幾人かの人たちの反論に」対してだけにする(7.G201:AT.VII, 10.14-16/E.P06.21-23)。 幸い、「気持ち」においても「教養」においても「卓越して」いる(ibid.)彼らは、「これら‘省察’」 (7.G202:AT.VII,10.16/E.P06.23-24)に対して「充分に多くのこと、そして様々なこと」を、反論してくれた (7.G301:AT.VII,10.17-18/E.P07.02-03)。しかし「少なくとも何らかの重要なもの」(7.G303:AT.VII, 10.19/E.P07.05)には、彼らは「まだ触れていない」(7.G305:AT.VII,10.20/E.P07.06-07)ので、まずは厭わ ずに「それらの反論と、そうした」反論に対する「解答のすべてとを読み通し」てほしい(7.G403:AT.VII,10.22-23/E.P07.09 -11)。 arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),Mar.30,2007. * 語句を一部、訂正致しました(2009/9/09-9/13)。 All-Ranged Juice--2solid-722AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996. ...(頁、行) E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994. ...(頁、行) cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991) ...(7=「読者への序言」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節) The 2nd Solid of 《ABCDE2G1-E1F2-F1G2》 (§722:人伝ながらも好奇心)
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[7.A101-A102-A103-A202-A303-B101-B202-B204-B205] [7.C101-C104-C202-C205-C303][7.D101-D103-D200-D302-D305-D403] [7.E301-E302-E305-E307-E402-E403][7.G101-G103-G104-G107] [7.E102-E203-E204-E206-E208-E209-E211][7.F401-F404-F502] 「神と人間的精神とについての問題」には「すでに前に」「私は手短に触れたことがあって」、それは『理性を正しく導きつつ、諸々の学問において真理を探究するための方法についての叙説』においてである(7.A101:AT.VII,07.01-03/E.P01.04-09)。「1637年に」その書を 「フランス語で出版」した(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.09)のだが、「それらの問題をそこで精確に取り扱う」つもりは 全然なかった(7.A103:AT.VII,07.04-05/E.P01.10-11)。というのも「それら」の問題については、もう一度議論が「為されるべきだ、と私は判断していた」(7.A202:AT.VII,07.07-08/E.P01.14-16)ので、それをやたらに「詳しく説くこと」は「無用だ」 と「私は思い込んでいた」(7.A303:AT.VII,07.10-12/E.P01.19-P02.02)からである。[7.F101-F102-F202-F303-F305-F306] [7.G201-G202-G204-G301-G303-G304-G402-G403] そこで、「フランス語でもってあまねくあらゆる人々に読まれるべく書かれたものにおいて」(ibid.)「私が願ってお いた」ところ、「私の書いたもののなかで皆と出くわした」ものが「何か非難に値する」としても(7.B101:AT.VII,07.14-15/E.P02.04-07) 、それは「二つ」(7.B202:AT.VII,07.18/E.P02.10)だけだったので、「それら」の問題を「いっそう精確」に「説明」する前に (7.B204:AT.VII,07.18-19/E.P02.11-12)、「私は答えておこう」(7.B205:AT.VII, 07.19/E.P02.12-13)。 まず「第一点」として(7.C101:AT.VII,07.20/E.P02.13)、みずからを「思惟する事物である ということ」(7.C104:AT.VII,08.03/E.P02.17-18)は、せいぜい「私」によって「知得」だか知覚だか(perceptionem)されるかぎりで、「秩序」づけられているに すぎない(7.C202:AT.VII,08.08/E.P02.24-P03.01)。とはいえ、「みずからのうちに思惟する機能をもつ事物」 (7.C205:AT.VII,08.11-12/E.P03.05-06)だけが「実際に」真なる事物として(revera)「私の本質に属する」ものだ、ということは「ほかならぬ」「帰結となる」 (7.C303:AT.VII,08.14-15/E.P03.09-11)。 つぎに「もう一つの点」として (7.D101:AT.VII,08.16/E.P03.11)、「私」より完全な事物の「観念そのものが、私より完全であることは帰結しない」 (7.D103:AT.VII,08.17-18/E.P03.12-14)、という反論に対して「私は答える」(7.D200:AT.VII, 08.19-20/E.P03.16-17)。 「ここに潜んでいる」のは、「観念という語において等しく呼ばれる」二つのことである(ibid.)。すなわち、「知性 の作用」として(7.D302:AT.VII,08.21/E.P03.18-19)の意味と、「そうした作用によって表象され再現された事物」として (7.D305:AT.VII,08.22-23/E.P03.20-21)の意味とである。それを「詳しく開陳」するのが、「以下」に続く本論である (7.D403:AT.VII,08.27-28/E.P04.03-04)から、ここでは「私はただ一般的に云うだけにする」(7.E301: AT.VII,09.08-09/E.P04.20-21)。結局、‘無神論者たち’のせいで「公然とはびこっている」もののすべては、「神の実在を攻撃するため」のものである(7.E302:AT.VII,09.09-10/E.P04.21-23)。それによると、「我々の精神にはひじょうに大きな力 と知恵とが授けられている」(7.E305:AT.VII,09.12-13/E.P04.24-P05.02)という。しかし「我々が」いくら「決定し把握しようと試みたり努めたり」しても(7.E307:AT.VII,09.14/E.P05.03-04)「把握しきれない無限なもの」こそが「神」な のである(7.E402:AT.VII,09.16-17/E.P05.07-08)から、‘無神論者たち’の主張から産み出されるものは「我々にとって は」困難とはならないはずだ(7.E403:AT.VII,09.17-18/E.P05.08-09)が、だからといって「他の人々が私に対してすべて において最初に外見で満足しうる」かどうかについては、「私は」そうした他の人々に「全然約束していない」(7.G101:AT.VII,10.06- 07/E.P06.09-11)。 「なるほど、‘省察’において私の開陳する」のが「その思索そのもの」になる「だろう」(7.G103:AT.VII,10.09- 10/E.P06.14-16)。そしてこの思索を「術 ope」として、「私」は「確実」に「そして明証的」に「真理」を「認識」するに「至った」、と「私には思われる」 (7.G104:AT.VII,10.10-12/E.P06.16-18)が、はたしてそのようにして「他の人たちをもまた納得させることができる」の か(7.G107:AT.VII,10.13-14/E.P06.20-21)。 残念なことに、ほかに「私」の見た或る二つの文章で「攻撃されていた」のが、すなわち「私」よりも完全な「事物について」の 「私」の「根拠」であるが、これはべつに「結論」の如きものでは「ない」し、そのように攻撃したほうの「議論」は、「‘無神論者たち’」に「共通な」議論の「場から借りてきた」も のであった(7.E102:AT.VII,08.30-09.01/E.P04.06-10)。このように「本末顛倒で薄弱な」「判断」をする人々は多い が(7.E203:AT.VII,09.03-04/E.P04.12-14)、それは、そうした人々が「最初に受け取った諸々の意見によって」 (7.E204:AT.VII,09.04-05/E.P04.14-15)「説得されて」信じ込んだまま(7.E206:AT.VII, 09.06/E.P04.16-17)、「後で」その人々の「聞いた」(7.E208:AT.VII,09.07/E.P04.17-18)のが、「かの意見の反駁」 (7.E209:AT.VII,09.07/E.P04.18)だったからである。したがって、「私」が「先に言及」すべきなのは、それらの意見に関して では「なく」て(7.E211:AT.VII,09.08/E.P04.19-20)、むしろそうした人々に「関して」(7.F401:AT.VII, 09.28/E.P05.23-24)なのである。 ところで「しきたりのなかに居る in more est」「多くの人たちにとって」(7.F404:AT.VII,09.30- 10.01/E.P06.02-03)「容易ではない」ことがある(7.F502:AT.VII,10.04-05/E.P06.07-09)。すなわち それは、「緊要であるか、もしくは答弁に値するようなものを何か反論する」ことであろう(ibid.)。 「今」のところ「私」は、「人様の判断を一度はなんとか見聞きすることで経験して」いるが、「その後で」(7.F101: AT.VII,09.19-20/E.P05.09-11)、「再び着手する」のは、「神と人間的精神とについての同じその問題」である(7.F102: AT.VII,09.20-21/E.P05.11-13)。よって「私が期待する」のは、決して「読者」が群がることではなくて(7.F202: AT.VII,09.23-24/E.P05.15-17)、「精神を感覚から」(7.F303:AT.VII,09.25-26/E.P05.19- 20)「引き離すことができるようになり、そしてまた」引き離そうという「意志をもつようになる」ことだ(7.F305:AT.VII,09.26- 27/E.P05.21)。が、そのような人々には「ごく僅か」しか「遭遇」しないことを、「私は充分に知っている」(7.F306:AT.VII, 09.27-28/E.P05.22-23)ので、後に「私が答える」のは「幾人かの人たちの反論に」対してだけにする(7.G201:AT.VII, 10.14-16/E.P06.21-23)。 幸い、「気持ち」においても「教養」においても「卓越して」いる(ibid.)彼らのもとには、「これら‘省察’が」 (7.G202:AT.VII,10.16/E.P06.23-24)、予め「吟味されるべく送り付けられてある」(7.G204:AT.VII, 10.17/E.P07.01-02)。そんな彼らから寄せられてきた反論はひじょうに「多く」て「様々」だった、ということで「充分で」あり(7.G301:AT.VII, 10.17-18/E.P07.02-03)、「少なくとも何らかの重要な」(7.G303:AT.VII,10.19/E.P07.05)着想もありうる(7.G304:AT.VII,10.19-20/E.P07.05-06)はずだ。それゆえ、まだ「‘省察’について判断を下さない」うちに、「先に」 (7.G402:AT.VII,10.21-22/E.P07.08-09)、「それらの反論と、そうした」反論に対する「解答のすべてとを」厭わずに 「読み通し」てほしい(7.G403:AT.VII,10.22-23/E.P07.09-11)。 arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),Mar.30,2007. * 語句を一部、訂正致しました(2009/9/09-9/13)。 All-Ranged Juice--1solid-721David RITZ 1998:
David RITZ(解説), Marvin Gaye 《Midnight Love & the Sexual Healing Sessions》[CS-8817~8]所収、 Sony Music Entertainment,1982/1998.
I'm worried that I'm getting so introspective,
no one will listen.
I can't afford to miss this time.
--Marvin Gaye (cited from David RITZ 1998,p.9)
* I'm worried ... *****
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY,
nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996. ...(頁、行) E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994. ...(頁、行) cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991) ...(7=「読者への序言」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節) The 1st Solid of 《ABCDE2G1-E1F2-F1G2》 (§721:然るべきことを踏まえ給え)
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[7.A101-A102-A104-A302-A304-B201-B203-B205] [7.C101-C102-C105-C203-C302-C303][7.D101-D104-D200-D304-D307-D402-D403] [7.E301-E303-E306-E403][7.G103-G105-G107][7.E202-E207-E209] 「神と人間的精神とについての問題」には「すでに前に」「私は手短に触れたことがあって」、それは『理性を正しく導きつつ、諸々の学問において真理を探究するための方法についての叙説』においてである(7.A101:AT.VII,07.01-03/E.P01.04-06)。「1637年に」その書を「フランス語で出版」するという(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.09)打診でもって「私」は「ただ」、読者といわば「協議」のようなことをしたにすぎないが(7.A104:AT.VII,07.05-06/E.P01.11-12)、とはいえ「その後でそれら」の問題を「どんな理由で取り扱うのか」、ということを「私」は「読者の判断から学び足す」ことができた(ibid.)。というのも、それらの問題を説明するために「私」が辿る道は「一般に使用されているところからはあまりにも隔たっている」(7.A302:AT.VII,07.09-10/E.P01.17-18)ので、「気持ち」が「虚弱」なうちはいくら「信じ」たところで、その道に「みずから進み行くこと」は「できない」(7.A304:AT.VII,07.12-13/E.P02.02-04)からである。[7.F401-F402-F406-F502] [7.F101-F201-F302-F305-F306] [7.G201-G202-G203-G302-G401-G403] 案の定、それら二つの「問題について、私が触れていたものにおいて」なされた「反論」は、「留意」には値しなかった (7.B201:AT.VII,07.16-17/E.P02.08-10)が、「これら」二つの点に対しては、「ここで手短に」(7.B203: AT.VII,07.18/E.P02.10)、「私は答えておこう」(7.B205:AT.VII,07.19/E.P02.12-13)。 まず「第一点」として(7.C101:AT.VII,07.20/E.P02.13)、「人間」としての「精神」がみずからのほうへと振り向いて「知得だか知覚だかをする」のは、「みずから」が「思惟する事物であるということ」にほかならない(7.C102:AT.VII,07.20- 08.01/E.P02.13-15)。そしてその「ほかのものすべて」は、「‘ただ~のみ’(tantum)という語」によって「排除」されて、それらは「おそらくまた、霊魂の本性に属する」とか、魂にとって自然だとか、「云われうる」のだろうが(7.C105:AT.VII,08.03-05/E.P02.18-20)、それらのものを、「私の本質に」「私の知る」かぎりで「属する」ものとして「私」が「認識すること」は「まったくない」、という「意味なのである」 (7.C203:AT.VII,08.08-10/E.P03.01-04)。要するに、「私が認識する」ところによれば、思惟する事物であることの「ほかには何も私の本質に属さない」のである(7.C302:AT.VII,08.13-14/E.P03.07-09)。 つぎに「もう一つの点」として(7.D101:AT.VII,08.16/E.P03.11)、「私」より完全な事物の「観念によって表象され再現されたものが実在すること」は帰結しない(7.D104:AT.VII,08.18-19/E.P03.14-15)、という反論に対して「私は答える」(7.D200:AT.VII,08.19-20/E.P03.16-17)。 「ここで等しく呼ばれる」二つのことが「潜んでいる」のは、「観念という語において」であり(ibid.)、その語が質料性とは「反対に」受け取られる場合には(7.D304:AT.VII,08.22/E.P03.20)、「私より完全であること」は、事物「みずからの本質」で「理由」づけられれば、「可能」となる(7.D307:AT.VII,08.24-25/E.P03.23-24)。したがって、「そうした事物が実際に」真なる事物として(revera)「実在すること」は「帰結する」(7.D402:AT.VII,08.26-27/E.P04.02-03)のだが、このことについては「以下」に続く本論にて、「詳しく開陳される」ことになる(7.D403:AT.VII,08.27-28/E.P04.03-04)から、ここでは「私はただ一般的に云うだけにする」(7.E301:AT.VII,09.08-09/E.P04.20-21)。‘無神論者たち’の言い分の「すべて」(ibid.)が「常に依存している」(7.E303:AT.VII,09.11/E.P04.23)のは、あくまで、「神が為すことのできる」のは、「そしてまた」神が「為さねばならない」のは、「いったい何」なの「か」(7.E306:AT.VII,09.13/E.P05.02-03)、ということに対してであるから、そうした言い分は「いかなる困難をも我々に産み出そうとはしないはずだ」(7.E403:AT.VII,09.17-18/E.P05.08-09)。 それでは「まず、‘省察’において私が開陳することになる」「その思索そのもの」(7.G103:AT.VII, 10.09-10/E.P06.14-16)をとおして「私」は「実験」に臨むことにしよう(7.G105:AT.VII,10.12- 13/E.P06.18-19)。はたして「私」が納得したその「同じ根拠によって」(ibid.)、「他の人たちをもまた納得させることができる」のか (7.G107:AT.VII,10.13-14/E.P06.20-21)。 勿論、「私の根拠」を「知解」すれば(7.E202:AT.VII,09.03/E.P04.12)、「真で堅固な」 (7.E207:AT.VII,09.06/E.P04.17)「反駁」を、諸々の意見に対して(7.E209:AT.VII, 09.07/E.P04.18)おこなうことができる。但し残念なことに、人々に「関して」(7.F401:AT.VII,09.28/E.P05.23 -24)云わせてもらえば、「私の根拠の連鎖と脈絡とを把握することに気を配らない」うちは(7.F402:AT.VII,09.29- 30/E.P05.24-P06.02)、「この著作を」読んでも「大きな成果」を「収める」ようにはなら「ない」だろうし(7.F406:AT.VII, 10.01-02/E.P06.04-05)、「何か」を「反論」したところで、それが「緊要であるか、もしくは答弁に値する」ようなことは「容易には」起こら「ないだろう」(7.F502:AT.VII,10.04-05/E.P06.07-09)。 「今」のところ、「私は人様の判断を一度はなんとか見聞きすることでもって経験して」おくが、「その後で」(7.F101:AT.VII, 09.19-20/E.P05.09-11)「私」が期待するのは、べつに「公の拍手喝采」ではなくて(7.F201:AT.VII,09.22- 23/E.P05.15)、ただ人々が「本気で私とともに省察」(7.F302:AT.VII,09.25/E.P05.18-19)「できるようになり、そしてまた」省察しようという「意志をもつようになる」、ということである(7.F305:AT.VII,09.26-27/E.P05.21)。とはいえ、そのような人々には「ごく僅か」しか「遭遇」しないことを、「充分に私は知っている」(7.F306:AT.VII,09.27- 28/E.P05.22-23)から、後で「私が答える」のは「幾人かの人たちの反論に」対してだけにする(7.G201:AT.VII,10.14- 16/E.P06.21-23)。 幸い、「気持ち」においても「教養」においても「卓越して」いる(ibid.)彼らのもとにあるのが「‘省察’」だが、「これら」は(7.G202:AT.VII,10.16/E.P06.23-24)「印刷に委ねられる以前」のものであって(7.G203: AT.VII,10.16-17/E.P06.24-P07.01)、そうした‘省察’が彼ら以外の「いかなる人」にとっても「容易ではない」ことは、「私が敢えて望むところであった」(7.G302:AT.VII,10.18-19/E.P07.03-04)。「それゆえ、私は重ね重ね‘読者’に願う」(7.G401:AT.VII,10.20-21/E.P07.07-08)。「それらの反論と、そうした」反論に対する「解答のすべてとを読み通すこと」については、どうか厭わないでほしい(7.G403:AT.VII,10.22-23/E.P07.09-11)。 arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),Mar.30,2007. * 語句を一部、訂正致しました(2009/9/09-9/13)。 All-Ranged Juice--ABE1F2G2(713)AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996. ...(頁、行) E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994. ...(頁、行) cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991) ...(7=「読者への序言」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節) §713 The VIEWs of 《ABE1F2G2》
for ALL-RANGED JUICE (1) The 1st VIEW of 《ABE1F2G2》(鼻であしらわれるべき議論)[7.A101-A102-A104-A302-A304-B201-B203-B205] 「神と人間的精神とについての問題」には「すでに前に」「私は手短に触れたことがあって」、それは『理性を正しく導きつつ、諸々の学問において真理を探究するための方法についての叙説』においてである(7.A101:AT.VII,07.01-03/E.P01.04-09)。「1637年に」その書を「フランス語で出版」するという(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.09)打診でもって「私」は「ただ」、読者といわば「協議」のようなことをしたにすぎないが(7.A104:AT.VII,07.05-06/E.P01.11-12)、とはいえ、「その後でそれら」の問題を「どんな理由で取り扱うのか」、ということを「私」は「読者の判断から学び足す」ことができた(ibid.)。というのも、それらの問題を説明するために「私」が辿る道は「一般に使用されているところからはあまりにも隔たっている」(7.A302:AT.VII,07.09-10/E.P01.17-18)ので、「気持ち」が「虚弱」なうちはいくら「信じ」たところで、その道に「みずから進み行くこと」は「できない」(7.A304:AT.VII,07.12-13/E.P02.02-04)からである。[7.E101-E201-E205-E210][7.F401-F403-F405-F501-F502] [7.G201-G202-G301-G303-G305-G403] そこで、それら二つの「問題について、私が触れていたものにおいて」なされた「反論」は、「留意」には値しなかった (7.B201:AT.VII,07.16-17/E.P02.08-10)が、「これら」二つの点に対しては、「ここで手短に」(7.B203: AT.VII,07.18/E.P02.10)、「私は答えておく」(7.B205:AT.VII,07.19/E.P02.12-13)。しかしそれにしても、ほかに「私が見た」「或る二つの文章」は、「なるほど」「相当に長い」ものだったが(7.E101:AT.VII,08.29- 30/E.P04.04-06)、そこにみられる「類いの議論は何の力をももつことができない」(7.E201:AT.VII,09.01- 03/E.P04.10-12)。というのも、そうした議論は「偽」であり、「理とか根拠とかに縁がない」(7.E205:AT.VII,09.05- 06/E.P04.15-16)からである。それゆえ「私はここではそれらに対して答えたくないのだ」(7.E210:AT.VII,09.07- 08/E.P04.18-19)。さらに、人々に「関して」(7.F401:AT.VII,09.28/E.P05.23-24)云わせてもらえば、「ただ一字一句だけ」を(7.F403:AT.VII,09.30/E.P06.02)「論うことに」かまけているうちに(7.F405:AT.VII, 10.01/E.P06.03-04)「おそらく多くの点で機会を見つけだして」は「あざける」だろう(7.F501:AT.VII,10.02- 04/E.P06.05-07)が、そのようにして「何か」を「反論」したつもりになったところで、それが「緊要であるか、もしくは答弁に値する」ようなことは「容易には」起こら「ないだろう」(7.F502:AT.VII,10.04-05/E.P06.07-09)。 そういうわけで、後に「私が答える」のは「幾人かの人たちの反論に」対してだけにするが、「気持ちと教養とに」おいては「卓越して」いる(7.G201:AT.VII,10.14-16/E.P06.21-23)彼らは、「これら‘省察’」(7.G202:AT.VII, 10.16/E.P06.23-24)に対して「充分に多くのこと、そして様々なこと」を、反論してくれた(7.G301:AT.VII,10.17- 18/E.P07.02-03)。しかし「少なくとも何らかの重要なもの」(7.G303:AT.VII,10.19/E.P07.05)には、彼らは「まだ触れていない」(7.G305:AT.VII,10.20/E.P07.06-07)ので、まずは厭わずに「それらの反論と、そうした」反論に対する「解答のすべてとを読み通し」てほしい(7.G403:AT.VII,10.22-23/E.P07.09-11)。 (2) The 2nd VIEW of 《ABE1F2G2》(私の根拠を踏まえよ) [7.A101-A102-A201-A301-B102-B203-B205] 「神と人間的精神とについての問題」には「すでに前に」「私は手短に触れたことがあって」、それは『理性を正しく導きつつ、諸学問において真理を探究するための方法についての叙説』においてである(7.A101:AT.VII,07.01-03/E.P01.04-09)。「1637年に」その書を「フランス語で出版」した(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.09)のは、それらの問題がひじょうに「重要なもの」だと「私には思われた」(7.A201:AT.VII,07.07/E.P01.13-14)からであるが、「それら」の問題を「説明するために私が辿る道は、あまり整って」なく、「なじんで」ない(7.A301:AT.VII,07.08-09/E.P01.16-17)。[7.E202-E207-E209][7.F401-F402-F406-F502] [7.G201-G202-G204-G301-G303-G304-G402-G403] ただ、もし何か非難されそうなものがあれば、それについては、読者こそが「私に」対して「厭わずに忠告していたはず」だ(7.B102:AT.VII,07.15-16/E.P02.07-08)。そこでまず、「これら」二つの点に対しては、「ここで手短に」(7.B203:AT.VII,07.18/E.P02.10)「私は答えておく」(7.B205: AT.VII,07.19/E.P02.12-13)が、「私の根拠」を「知解」すれば(7.E202:AT.VII,09.03/E.P04.12)、「真で堅固な」(7.E207:AT.VII,09.06/E.P04.17)「反駁」を、諸々の意見に対して(7.E209:AT.VII, 09.07/E.P04.18)おこなうことができる。しかし他方、人々に「関して」(7.F401:AT.VII,09.28/E.P05.23- 24)云わせてもらえば、「私の根拠の連鎖と脈絡とを把握することに気を配らない」うちは(7.F402:AT.VII,09.29- 30/E.P05.24-P06.02)、「この著作を」読んでも「大きな成果」を「収める」ようにはなら「ない」だろうし(7.F406:AT.VII, 10.01-02/E.P06.04-05)、「何か」を「反論」したところで、それが「緊要であるか、もしくは答弁に値する」ようなことは「容易には」起こら「ないだろう」(7.F502:AT.VII,10.04-05/E.P06.07-09)。 そういうわけで、後に「私が答える」のは「幾人かの人たちの反論に」対してだけにするが、「気持ちと教養とに」おいては「卓越して」いる(7.G201:AT.VII,10.14-16/E.P06.21-23)彼らのもとには、「これら‘省察’が」(7.G202: AT.VII,10.16/E.P06.23-24)、予め「吟味されるべく送り付けられてある」(7.G204:AT.VII, 10.17/E.P07.01-02)。そんな彼らから寄せられてきた反論はひじょうに「多く」て「様々」だった、ということで「充分で」あり(7.G301:AT.VII, 10.17-18/E.P07.02-03)、「少なくとも何らかの重要な」(7.G303:AT.VII,10.19/E.P07.05)着想もありうる(7.G304:AT.VII,10.19-20/E.P07.05-06)はずだ。それゆえ、まだ「‘省察’について判断を下さない」うちに、「先に」 (7.G402:AT.VII,10.21-22/E.P07.08-09)、「それらの反論と、そうした」反論に対する「解答のすべてとを」厭わずに「読み通し」てほしい(7.G403:AT.VII,10.22-23/E.P07.09-11)。 (3) The 3rd VIEW of 《ABE1F2G2》(しきたり住まいの井戸端会議) [7.A101-A102-A103-A202-A303-B101-B202-B204-B205] [7.E102-E203-E204-E206-E208-E209-E211][7.F401-F404-F502] 「神と人間的精神とについての問題」には「すでに前に」「私は手短に触れたことがあって」、それは『理性を正しく導きつつ、諸々の学問において真理を探究するための方法についての叙説』においてである(7.A101:AT.VII,07.01-03/E.P01.04-09)。「1637年に」その書を「フランス語で出版」した(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.09)のだが、「それらの問題をそこで精確に取り扱う」つもりは全然なかった(7.A103:AT.VII,07.04-05/E.P01.10-11)。というのも「それら」の問題については、もう一度議論が「為されるべきだと私は判断していた」(7.A202:AT.VII,07.07-08/E.P01.14-16)ので、それをやたらに「詳しく説くこと」は「無用だ」と「私は思い込んでいた」(7.A303:AT.VII,07.10-12/E.P01.19-P02.02)からである。[7.G201-G202-G203-G302-G401-G403] そこで、「フランス語でもってあまねくあらゆる人々に読まれるべく書かれたものにおいて」(ibid.)「私が願っておいた」ところ、「私の書いたもののなかで皆と出くわした」ものが「何か非難に値する」としても(7.B101:AT.VII,07.14-15/E.P02.04-07)、それは「二つ」(7.B202:AT.VII,07.18/E.P02.10)だけだったので、「それら」の問題を「いっそう精確」に「説明」する前に (7.B204:AT.VII,07.18-19/E.P02.11-12)、「私は答えておこう」(7.B205:AT.VII, 07.19/E.P02.12-13)。 それにしても、しかし、ほかに「私」の見た或る二つの文章で「攻撃されていた」のが、すなわち「私」よりも完全な「事物について」の「私」の「根拠」であるが、これはべつに「結論」の如きものでは「ない」し、そのように攻撃したほうの「議論」は、「‘無神論者たち’」に「共通な」議論の「場から借りてきた」ものであった(7.E102:AT.VII,08.30-09.01/E.P04.06-10)。このように「本末顛倒で薄弱な」「判断」をする人々は多いが(7.E203:AT.VII,09.03-04/E.P04.12-14)、それは、そうした人々が「最初に受け取った諸々の意見によって」 (7.E204:AT.VII,09.04-05/E.P04.14-15)「説得されて」信じ込んだまま(7.E206:AT.VII, 09.06/E.P04.16-17)、「後で」その人々の「聞いた」(7.E208:AT.VII,09.07/E.P04.17-18)のが、「かの意見の反駁」 (7.E209:AT.VII,09.07/E.P04.18)だったからである。したがって、「私」が「先に言及」すべきなのは、それらの意見に関してでは「なく」て(7.E211:AT.VII,09.08/E.P04.19-20)、むしろそうした人々に「関して」(7.F401:AT.VII, 09.28/E.P05.23-24)なのである。「しきたりのなかに居る in more est」「多くの人たちにとって」(7.F404:AT.VII,09.30- 10.01/E.P06.02-03)「容易ではない」ことがある(7.F502:AT.VII,10.04-05/E.P06.07-09)。すなわちそれは、「緊要であるか、もしくは答弁に値するようなものを何か反論する」ことであろう(ibid.)。 そういうわけで、後に「私が答える」のは「幾人かの人たちの反論に」対してだけにするが、「気持ちと教養とに」おいては「卓越して」いる(7.G201:AT.VII,10.14-16/E.P06.21-23)彼らのもとにある「これら‘省察’は」(7.G202: AT.VII,10.16/E.P06.23-24)「印刷に委ねられる以前」のものであって(7.G203:AT.VII,10.16- 17/E.P06.24-P07.01)、そうした‘省察’が彼ら以外の「いかなる人」にとっても「容易ではない」ことは、「私が敢えて望むところであった」(7.G302:AT.VII,10.18-19/E.P07.03-04)。「それゆえ、私は重ね重ね‘読者’に願う」(7.G401: AT.VII,10.20-21/E.P07.07-08)。「それらの反論と、そうした」反論に対する「解答のすべてとを読み通すこと」については、どうか厭わないでほしい(7.G403:AT.VII,10.22-23/E.P07.09-11)。 arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),Mar.29,2007. * 語句を一部、訂正致しました(2009/8/30-9/13)。 All-Ranged Juice--ABCDE2G1G2(712)AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY,
nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996. ...(頁、行) E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994. ...(頁、行) cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991) ...(7=「読者への序言」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節) §712 The VIEWs of 《ABCDE2G1G2》
for ALL-RANGED JUICE (1) The 1st VIEW of 《ABCDE2G1G2》(事物の本質から実験開始)[7.A101-A102-A104-A302-A304-B201-B203-B205] [7.C101-C102-C105-C203-C302-C303][7.D101-D104-D200-D304-D307-D402-D403] [7.E301-E303-E306-E403] [7.G103-G105-G107] [7.G201-G202-G203-G302-G401-G403] 「神と人間的精神とについての問題」には「すでに前に」「私は手短に触れたことがあって」、それは『理性を正しく導きつつ、諸々の学問において真理を探究するための方法についての叙説』においてである(7.A101:AT.VII,07.01-03/E.P01.04-09)。「1637年に」その書を 「フランス語で出版」するという(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.09)打診でもって「私」は「ただ」、読者といわば「協議」のようなことをしたにすぎないが(7.A104:AT.VII,07.05-06/E.P01.11-12)、とはいえ、「その後でそれら」の問題を「どんな理由で取り扱うのか」、ということを 「私」は「読者の判断から学び足す」ことができた(ibid.)。というのも、それらの問題を説明するために「私」が辿る道は「一般に使用されているとこ ろからはあまりにも隔たっている」(7.A302:AT.VII,07.09-10/E.P01.17-18)ので、「気持ち」が「虚弱」なうちはいくら 「信じ」たところで、その道に「みずから進み行くこと」は「できない」(7.A304:AT.VII,07.12-13/E.P02.02-04)からで ある。 そこで、それら二つの「問題について、私が触れていたものにおいて」なされた「反論」は、「留意」には値しなかった (7.B201:AT.VII,07.16-17/E.P02.08-10)が、「これら」二つの点に対しては、「ここで手短に」(7.B203: AT.VII,07.18/E.P02.10)、「私は答えておこう」(7.B205:AT.VII,07.19/E.P02.12-13)。 まず「第一点」として(7.C101:AT.VII,07.20/E.P02.13)、「人間」としての「精神」がみずからのほうへと振り向いて「知得だか知覚だかをする」のは、「みずから」が「思惟する事物であるということ」にほかならない(7.C102:AT.VII,07.20- 08.01/E.P02.13-15)。そしてその「ほかのものすべて」は、「‘ただ~のみ’(tantum)という語」によって「排除」されて、 それらは「おそらくまた、霊魂の本性に属する」とか、魂にとって自然だとか、「云われうる」のだろうが(7.C105:AT.VII,08.03-05/E.P02.18-20)、 それらのものを、「私の本質に」「私の知る」かぎりで「属する」ものとして「私」が「認識すること」は「まったくない」、という「意味なのである」 (7.C203:AT.VII,08.08-10/E.P03.01-04)。要するに、「私が認識する」ところによれば、思惟する事物であることの「ほ かには何も私の本質に属さない」のである(7.C302:AT.VII,08.13-14/E.P03.07-09)。 つぎに「もう一つの点」として(7.D101:AT.VII,08.16/E.P03.11)、「私」より完全な事物の 「観念によって表象され再現されたものが実在すること」は帰結しない(7.D104:AT.VII,08.18-19/E.P03.14-15)、という 反論に対して「私は答える」(7.D200:AT.VII,08.19-20/E.P03.16-17)。 「ここで等しく呼ばれる」二つのことが「潜んでいる」のは、「観念という語において」であり(ibid.)、その語が質 料性とは「反対に」受け取られる場合には(7.D304:AT.VII,08.22/E.P03.20)、「私より完全であること」は、事物「みずからの 本質」で「理由」づけられれば、「可能」となる(7.D307:AT.VII,08.24-25/E.P03.23-24)。したがって、「そうした事物が実際に」真なる事物として(revera)「実在すること」は「帰結する」(7.D402:AT.VII,08.26-27/E.P04.02-03)のだが、このことについては「以下」に続く本論にて、「詳しく開陳される」ことになる(7.D403:AT.VII,08.27-28/E.P04.03-04)から、ここでは「私はただ一般的に 云うだけにする」(7.E301:AT.VII,09.08-09/E.P04.20-21)。‘無神論者たち’の言い分の「すべて」(ibid.)が 「常に依存している」(7.E303:AT.VII,09.11/E.P04.23)のは、あくまで「いったい何を神は為すことができるのか、そしてまた為さねば ならないか」(7.E306:AT.VII,09.13/E.P05.02-03)、ということに対してであるから、そうした言い分は「いかなる困難をも我々に産み出そうとはしないはずだ」(7.E403:AT.VII,09.17-18/E.P05.08-09)。 それでは「まず、‘省察’において私が開陳することになる」「その思索そのもの」(7.G103:AT.VII, 10.09-10/E.P06.14-16)をとおして、「私」は「実験」に臨むことにしよう(7.G105:AT.VII,10.12- 13/E.P06.18-19)。はたして「私」が納得したその「同じ根拠によって」(ibid.)、「他の人たちをもまた納得させることができる」のか (7.G107:AT.VII,10.13-14/E.P06.20-21)。「私」は後で「幾人かの人たちの反論に答えることにする」が、「気持ちと教 養とに」おいては「卓越して」いる(7.G201:AT.VII,10.14-16/E.P06.21-23)彼らのもとにある「これら‘省察’は」 (7.G202:AT.VII,10.16/E.P06.23-24)「印刷に委ねられる以前」のものであって(7.G203:AT.VII,10.16 -17/E.P06.24-P07.01)、そうした‘省察’が彼ら以外の「いかなる人」にとっても「容易ではない」ことは、「私が敢えて望むところであった」(7.G302:AT.VII,10.18-19/E.P07.03-04)。「それゆえ、私は重ね重ね‘読者'に願う」(7.G401: AT.VII,10.20-21/E.P07.07-08)。「それらの反論と、そうした」反論に対する「解答のすべてとを読み通すこと」については、どうか厭わないでほしい(7.G403:AT.VII,10.22-23/E.P07.09-11)。 (2) The 2nd VIEW of 《ABCDE2G1G2》(有限なる私だが、それなりに...) [7.A101-A102-A201-A301-B102-B203-B205] [7.C101-C103-C201-C204-C301-C303][7.D101-D102-D200-D301-D303-D306-D401-D403] [7.E301-E304-E401-E403][7.G102-G103-G106-G107] [7.G201-G202-G204-G301-G303-G304-G402-G403] 「神と人間的精神とについての問題」には「すでに前に」「私は手短に触れたことがあって」、それは『理性を正しく導きつつ、諸学問において真理を探究するための方法についての叙説』においてである(7.A101:AT.VII,07.01-03/E.P01.04-09)。「1637年に」その書を「フランス語で出版」した(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.09)のは、それらの問題がひじょうに「重要なもの」だと「私には思われた」(7.A201:AT.VII,07.07/E.P01.13-14)からであるが、「それら」の問題を「説明するために私が辿る道は、あまり整って」なく、「なじんで」ない(7.A301:AT.VII,07.08-09/E.P01.16-17)。ただ、もし何か非難されそうなものがあれば、それについては、読者こそが「私に」対して「厭わずに忠告していたはず」だ(7.B102:AT.VII,07.15-16/E.P02.07-08)。そこでまず、「これら」二つの点に対しては、「ここで手短に」(7.B203:AT.VII,07.18/E.P02.10)「私は答えておこう」(7.B205: AT.VII,07.19/E.P02.12-13)。 「第一点」として(7.C101:AT.VII,07.20/E.P02.13)、人間としての精神にとっての「本性、あるいは」いわゆる「本質」なんぞが「存立している」のはただ思惟する事物であることにおいてのみである、という「帰結」は生じ「ない」(7.C103:AT.VII,08.02- 03/E.P02.16-17)、と「反論」されているので、「私は答える」(7.C201:AT.VII,08.05-07/E.P02.21- 24)。「私もまた、そこでは」ほかのものすべてを「排除したいのではなかった」(ibid.)。というのは、「事物」として「真たることそのものに」関しては、それらも「秩序」づけられている(ibid.)からである。「勿論その場合、私が」議論を「おこなっていた」のは、そうした事物の真理についてではなくて(ibid.)、「私が思惟する事物であるということ」だけである(7.C204:AT.VII,08.10-11/E.P03.04-05)。「以下に」続く本論において「私が示す」 のは、「どんな仕方で」(7.C301:AT.VII,08.12/E.P03.06-07)「帰結」されれば、思惟することの「ほかには何も実際に」真なる事物として(revera)「私」の本質には「属さない」と云えるのか、ということである(7.C303:AT.VII,08.14-15/E.P03.09-11)。 つぎに「もう一つの点」として(7.D101:AT.VII,08.16/E.P03.11)、「私より完全な事物の観 念を私のうちに私がもっているということ」(7.D102:AT.VII,08.16-17/E.P03.11-12)について、「私は答える」 (7.D200:AT.VII,08.19-20/E.P03.16-17)。 「ここで等しく呼ばれる」二つのことが「潜んでいる」のは、「観念という語において」であり(ibid.)、その語は 「質料的に」「受け取られることもできる」となると(7.D301:AT.VII,08.20-21/E.P03.17-18)、「その意味では、私より完全 だ、と云うことなんてできない dici nequit」し(7.D303:AT.VII,08.21-22/E.P03.19-20)、「そうした事物」が「知性の外に実在すること は想定されないはず」だ(7.D306:AT.VII,08.23-24/E.P03.21-23)。そうなると、「私より完全な事物の観念が私のうちに在ると いうことだけから」「いかにして」帰結が生じるのか(7.D401:AT.VII,08.25-26/E.P04.01-02)、ということが問題となるが、それは 「以下」に続く本論にて「詳しく開陳される」ことになる(7.D403:AT.VII,08.27-28/E.P04.03-04)から、「私はただ一般 的に云うだけにする」(7.E301:AT.VII,09.08-09/E.P04.20-21)。‘無神論者たち’によれば、「神には人間的な感情が添 付されている」そうだが(7.E304:AT.VII,09.11-12/E.P04.23-24)、「有限なものとして考察されるべき」なのはあくまで「我々の 精神だ」ということを「我々は単に思い出しているだけのはず」であり(7.E401:AT.VII,09.14-16/E.P05.04-06)、それだけでもう、「我々にとって」‘無神論者たち’の言い分は決して困難の源にはならないだろう(7.E403:AT.VII,09.17-18/E.P05.08-09)。しかし、「或る人に とっては困難に思われそうなものすべてを私が予見できる」かどうかについては、「私」は「さほど自負していない」ので、「確信」しえないだろう (7.G102:AT.VII,10.07-09/E.P06.11-14)。 さて、「‘省察’において私の開陳する」のが、「その思索そのもの」(7.G103:AT.VII,10.09- 10/E.P06.14-16)になる「だろう」が、では、その思索をとおして「この私が納得した」根拠によって(7.G106:AT.VII,10.13/E.P06.19-20)、はたして「他の人たちをもまた納得させることができる」のか(7.G107:AT.VII,10.13-14/E.P06.20-21)。「私は」後で「幾人かの人たちの反論に答えることにする」が、「気持ちと教養とに」おいては「卓越して」いる(7.G201:AT.VII,10.14- 16/E.P06.21-23)彼らのもとには、「これら‘省察’が」(7.G202:AT.VII,10.16/E.P06.23-24)、予め「吟味されるべく送り付けられてある」(7.G204:AT.VII,10.17/E.P07.01-02)。そんな彼らから寄せられてきた反論はひじょうに 「多く」て「様々」だった、ということで「充分で」あり(7.G301:AT.VII,10.17-18/E.P07.02-03)、「少なくとも何らかの重要な」 (7.G303:AT.VII,10.19/E.P07.05)着想もありうる(7.G304:AT.VII,10.19-20/E.P07.05- 06)はずだ。そこで、まだ「‘省察’について判断を下さない」うちに、「先に」(7.G402:AT.VII,10.21-22/E.P07.08-09)、「そ れらの反論と、そうした」反論に対する「解答のすべてとを」厭わずに「読み通し」てほしい(7.G403:AT.VII,10.22- 23/E.P07.09-11)。 (3) The 3rd VIEW of 《ABCDE2G1G2》(どこまで知りつくせるか...) [7.A101-A102-A103-A202-A303-B101-B202-B204-B205] [7.C101-C104-C202-C205-C303][7.D101-D103-D200-D302-D305-D403] [7.E301-E302-E305-E307-E402-E403][7.G101-G103-G104-G107] [7.G201-G202-G301-G303-G305-G403] 「神と人間的精神とについての問題」には「すでに前に」「私は手短に触れたことがあって」、それは『理性を正しく導きつつ、諸々の学問において真理を探 究するための方法についての叙説』においてである(7.A101:AT.VII,07.01-03/E.P01.04-09)。「1637年に」その書を 「フランス語で出版」した(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.09)のだが、「それらの問題をそこで精確に取り扱う」つもりは 全然なかった(7.A103:AT.VII,07.04-05/E.P01.10-11)。というのも「それら」の問題については、もう一度議論が「為されるべきだと私は判断していた」(7.A202:AT.VII,07.07-08/E.P01.14-16)ので、それをやたらに「詳しく説くこと」は「無用だ」と「私は思い込んでいた」(7.A303:AT.VII,07.10-12/E.P01.19-P02.02)からである。そこで、「フランス語でもってあまねくあらゆる人々に読まれるべく書かれたものにおいて」(ibid.)「私が願ってお いた」ところ、「私の書いたもののなかで皆と出くわした」ものが「何か非難に値する」としても(7.B101:AT.VII,07.14-15/E.P02.04-07)、それは「二つ」(7.B202:AT.VII,07.18/E.P02.10)だけだったので、「それら」の問題を「いっそう精確」に「説明」する前に (7.B204:AT.VII,07.18-19/E.P02.11-12)、「私は答えておこう」(7.B205:AT.VII, 07.19/E.P02.12-13)。 まず「第一点」として(7.C101:AT.VII,07.20/E.P02.13)、みずからを「思惟する事物であるということ」(7.C104:AT.VII,08.03/E.P02.17-18)は、せいぜい「私」によって「知得」だか知覚だか(perceptionem)されるかぎりで、「秩序」づけられているにすぎない(7.C202:AT.VII,08.08/E.P02.24-P03.01)。とはいえ、「みずからのうちに思惟する機能をもつ事物」 (7.C205:AT.VII,08.11-12/E.P03.05-06)だけが「実際に」真なる事物として(revera)私の本質「に属する」ものだ、ということは「ほかならぬ」「帰結となる」 (7.C303:AT.VII,08.14-15/E.P03.09-11)。 つぎに「もう一つの点」として(7.D101:AT.VII,08.16/E.P03.11)、「私」より完全な事物の 「観念そのものが、私より完全であることは帰結しない」(7.D103:AT.VII,08.17-18/E.P03.12-14)、という反論に対して 「私は答える」(7.D200:AT.VII,08.19-20/E.P03.16-17)。 「ここに潜んでいる」のは、「観念という語において等しく呼ばれる」二つのことである(ibid.)。すなわち、「知性 の作用」として(7.D302:AT.VII,08.21/E.P03.18-19)の意味と、「そうした作用によって表象され再現された事物」として (7.D305:AT.VII,08.22-23/E.P03.20-21)の意味とである。それを「詳しく開陳」するのが、「以下」に続く本論である (7.D403:AT.VII,08.27-28/E.P04.03-04)から、ここでは「私はただ一般的に云うだけにする」(7.E301: AT.VII,09.08-09/E.P04.20-21)。‘無神論者たち’のせいで「公然とはびこっている」もののすべては、「神の実在を攻撃するた め」のものである(7.E302:AT.VII,09.09-10/E.P04.21-23)。それによると、「我々の精神にはひじょうに大きな力と知恵 とが授けられている」(7.E305:AT.VII,09.12-13/E.P04.24-P05.02)という。しかし「我々が」いくら「決定し把握しようと試みたり努めたり」しても(7.E307:AT.VII,09.14/E.P05.03-04)「把握しきれない無限なもの」こそが「神」なのである(7.E402:AT.VII,09.16-17/E.P05.07-08)から、‘無神論者たち’の主張から産み出されるものは「我々にとっては」困難とはならないはずだ(7.E403:AT.VII,09.17-18/E.P05.08-09)が、だからといって「他の人々が私に対してすべてにおいて最初に外見で満足しうる」かどうかについては、「私は」そうした他の人々に「全然約束していない」(7.G101:AT.VII,10.06- 07/E.P06.09-11)。 「なるほど、‘省察’において私の開陳する」のが「その思索そのもの」になる「だろう」(7.G103:AT.VII,10.09- 10/E.P06.14-16)。そしてこの思索を「術 ope」として、「私」は「確実」に「そして明証的」に「真理」を「認識」するに「至った」、と「私には思われる」 (7.G104:AT.VII,10.10-12/E.P06.16-18)が、はたしてそのようにして「他の人たちをもまた納得させることができる」のか(7.G107:AT.VII,10.13-14/E.P06.20-21)。そこで、「私は」後で「幾人かの人たちの反論に答えることにする」が、 「気持ちと教養とに」おいては「卓越して」いる(7.G201:AT.VII,10.14-16/E.P06.21-23)彼らは、「これら‘省察’」 (7.G202:AT.VII,10.16/E.P06.23-24)に対して「充分に多くのこと、そして様々なこと」を、反論してくれた (7.G301:AT.VII,10.17-18/E.P07.02-03)。にも拘わらず「少なくとも何らかの重要なもの」(7.G303: AT.VII,10.19/E.P07.05)には、彼らは「まだ触れていない」(7.G305:AT.VII,10.20/E.P07.06-07)の で、まずは厭わずに「それらの反論と、そうした」反論に対する「解答のすべてとを読み通し」てほしい(7.G403:AT.VII,10.22- 23/E.P07.09-11)。 arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),Mar.29,2007.
* 語句を一部、訂正致しました(2009/8/30-9/13)。 All-Ranged Juice--ABF1G2(711)Marvin GAYE 1971/2001:
Marvin GAYE(His Original Album Notes), Marvin Gaye 《What's Going On:Deluxe Edition(+25)》[UICY-7028~9]所収、 Motown/Universal Music,1971/2001.
I mean the fact
that people just won't let us think ourselves
really bugs me!
--Marvin Gaye (cited from Marvin GAYE 1971/2001)
* I mean the fact ... *****
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY,
nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996. ...(頁、行) E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994. ...(頁、行) cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991) ...(7=「読者への序言」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節) §711 The VIEWs of 《ABF1G2》
for ALL-RANGED JUICE (1) The 1st VIEW of 《ABF1G2》(本気でない者、通るべからず)[7.A101-A102-A104-A302-A304-B201-B203-B205] 「神と人間的精神とについての問題」には「すでに前に」「私は手短に触れたことがあって」、それは『理性を正しく導きつつ、諸々の学問において真理を探 究するための方法についての叙説』においてである(7.A101:AT.VII,07.01-03/E.P01.04-09)。「1637年に」その書を 「フランス語で出版」するという(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.09)打診でもって「私」は「ただ」、読者といわば「協議」のようなことをしたにすぎないが(7.A104:AT.VII,07.05-06/E.P01.11-12)、とはいえ、「その後でそれら」の問題を「どんな理由で取り扱うのか」、ということを 「私」は「読者の判断から学び足す」ことができた(ibid.)。というのも、それらの問題を説明するために「私」が辿る道は「一般に使用されているとこ ろからはあまりにも隔たっている」(7.A302:AT.VII,07.09-10/E.P01.17-18)ので、「気持ち」が「虚弱」なうちはいくら 「信じ」たところで、その道に「みずから進み行くこと」は「できない」(7.A304:AT.VII,07.12-13/E.P02.02-04)からで ある。[7.F101-F201-F302-F305-F306] [7.G201-G202-G203-G302-G401-G403] そこで、それら二つの「問題について、私が触れていたものにおいて」なされた「反論」は、「留意」には値しなかった (7.B201:AT.VII,07.16-17/E.P02.08-10)が、「これら」二つの点に対しては、「ここで手短に」(7.B203: AT.VII,07.18/E.P02.10)、「私は答えておく」(7.B205:AT.VII,07.19/E.P02.12-13)。 「今」のところ、「私は人様の判断を一度はなんとか見聞きすることでもって経験して」おくが、「その後で」(7.F101:AT.VII, 09.19-20/E.P05.09-11)「私」が期待するのは、べつに「公の拍手喝采」ではなくて(7.F201:AT.VII,09.22- 23/E.P05.15)、ただ人々が「本気で私とともに省察」(7.F302:AT.VII,09.25/E.P05.18-19)「できるようになり、そしてまた」省察しようという「意志をもつようになる」、ということである(7.F305:AT.VII,09.26-27/E.P05.21)。と はいえ、そのような人々には「ごく僅か」しか「遭遇」しないことを、「充分に私は知っている」(7.F306:AT.VII,09.27- 28/E.P05.22-23)から、後で「私が答える」のは「幾人かの人たちの反論に」対してだけにする(7.G201:AT.VII,10.14- 16/E.P06.21-23)。 幸い、「気持ちと教養とに」おいては「卓越して」いる(ibid.)彼らのもとにある「これら'省察'は」 (7.G202:AT.VII,10.16/E.P06.23-24)「印刷に委ねられる以前」のものであって(7.G203:AT.VII,10.16 -17/E.P06.24-P07.01)、そうした‘省察'が彼ら以外の「いかなる人」にとっても「容易ではない」ことは、「私が敢えて望むところで あった」(7.G302:AT.VII,10.18-19/E.P07.03-04)。「それゆえ、私は重ね重ね‘読者'に願う」(7.G401: AT.VII,10.20-21/E.P07.07-08)。「それらの反論と、そうした」反論に対する「解答のすべてとを読み通すこと」については、どうか厭わないでほしい(7.G403:AT.VII,10.22-23/E.P07.09-11)。 (2) The 2nd VIEW of 《ABF1G2》(読者からの名案を乞う) [7.A101-A102-A201-A301-B102-B203-B205] 「神と人間的精神とについての問題」には「すでに前に」「私は手短に触れたことがあって」、それは『理性を正しく導きつつ、諸学問において真理を探究するための方法についての叙説』においてである(7.A101:AT.VII,07.01-03/E.P01.04-09)。「1637年に」その書を「フ ランス語で出版」した(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.09)のは、それらの問題がひじょうに「重要なもの」だと「私には思われた」(7.A201:AT.VII,07.07/E.P01.13-14)からであるが、「それら」の問題を「説明するために私が辿る道は、あまり 整って」なく、「なじんで」ない(7.A301:AT.VII,07.08-09/E.P01.16-17)。[7.F101-F102-F202-F303-F305-F306] [7.G201-G202-G204-G301-G303-G304-G402-G403] ただ、もし何か非難されそうなものがあれば、それについては、読者こそが「私に」対して「厭わずに忠告していたはず」だ(7.B102:AT.VII,07.15-16/E.P02.07-08)。そこでまず、「これら」二つの点に対しては、「ここで手短に」(7.B203:AT.VII,07.18/E.P02.10)「私は答えておく」(7.B205:AT.VII, 07.19/E.P02.12-13)。 「今」のところ「私」は、「人様の判断を一度はなんとか見聞きすることで経験して」いるが、「その後で」(7.F101: AT.VII,09.19-20/E.P05.09-11)、「再び着手する」のは、「神と人間的精神とについての同じその問題」である(7.F102: AT.VII,09.20-21/E.P05.11-13)。よって、「私が期待する」のは、決して「読者」が群がることではなくて(7.F202: AT.VII,09.23-24/E.P05.15-17)、「精神を感覚から」(7.F303:AT.VII,09.25-26/E.P05.19- 20)「引き離すことができるようになり、そしてまた」引き離そうという「意志をもつようになる」ことだ(7.F305:AT.VII,09.26- 27/E.P05.21)。が、そのような人々には「ごく僅か」しか「遭遇」しないことを、「私は充分に知っている」(7.F306:AT.VII, 09.27-28/E.P05.22-23)ので、後に「私が答える」のは「幾人かの人たちの反論に」対してだけにする(7.G201:AT.VII, 10.14-16/E.P06.21-23)。 幸い、「気持ちと教養とに」おいて「卓越して」いる(ibid.)彼らのもとには、「これら‘省察’が」 (7.G202:AT.VII,10.16/E.P06.23-24)、予め「吟味されるべく送り付けられてある」(7.G204:AT.VII, 10.17/E.P07.01-02)。そんな彼らから寄せられてきた反論はひじょうに「多く」て「様々」だった、ということで「充分で」あり(7.G301:AT.VII, 10.17-18/E.P07.02-03)、「少なくとも何らかの重要な」(7.G303:AT.VII,10.19/E.P07.05)着想もありうる(7.G304:AT.VII,10.19-20/E.P07.05-06)はずだ。それゆえ、まだ「‘省察'について判断を下さない」うちに、「先に」 (7.G402:AT.VII,10.21-22/E.P07.08-09)、「それらの反論と、そうした」反論に対する「解答のすべてとを」厭わずに 「読み通し」てほしい(7.G403:AT.VII,10.22-23/E.P07.09-11)。 (3) The 3rd VIEW of 《ABF1G2》(読者からの非難について) [7.A101-A102-A103-A202-A303-B101-B202-B204-B205] 「神と人間的精神とについての問題」には「すでに前に」「私は手短に触れたことがあって」、それは『理性を正しく導きつつ、諸々の学問において真理を探究するための方法についての叙説』においてである(7.A101:AT.VII,07.01-03/E.P01.04-09)。「1637年に」その書を 「フランス語で出版」した(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.09)のだが、「それらの問題をそこで精確に取り扱う」つもりは 全然なかった(7.A103:AT.VII,07.04-05/E.P01.10-11)。というのも「それら」の問題については、もう一度議論が「為されるべきだ、と私は判断していた」(7.A202:AT.VII,07.07-08/E.P01.14-16)ので、それをやたらに「詳しく説くこと」は「無用だ」 と「私は思い込んでいた」(7.A303:AT.VII,07.10-12/E.P01.19-P02.02)からである。[7.F101-F103-F301-F304-F305-F306] [7.G201-G202-G301-G303-G305-G403] そこで、「フランス語でもってあまねくあらゆる人々に読まれるべく書かれたものにおいて」(ibid.)「私が願ってお いた」ところ、「私の書いたもののなかで皆と出くわした」ものが「何か非難に値する」としても(7.B101:AT.VII,07.14-15/E.P02.04-07)、それは「二つ」(7.B202:AT.VII,07.18/E.P02.10)だけだったので、「それら」の問題を「いっそう精確」に「説明」する前に (7.B204:AT.VII,07.18-19/E.P02.11-12)、「私は答えておく」(7.B205:AT.VII, 07.19/E.P02.12-13)。 「今」のところ、「私は人様の判断を一度はなんとか見聞きすることで経験して」おくが、「その後では」(7.F101:AT.VII, 09.19-20/E.P05.09-11)、「第一‘哲学'全体」を「頭」から「取り扱う」ことにする(7.F103:AT.VII,09.21- 22/E.P05.13-14)。よって、「私」が「促す」のは、誰かが「これを読む」ことではなくて(7.F301:AT.VII, 09.24/E.P05.17-18)、精神を「すべての予断や先入見から」(7.F304:AT.VII,09.26/E.P05.20-21)「引き離すことができるようになり、そしてまた」引き離そうという「意志をもつようになる」ことである(7.F305:AT.VII,09.26- 27/E.P05.21)。が、そのような人々には「ごく僅か」しか「遭遇」しないことを、「充分に私は知っている」(7.F306:AT.VII, 09.27-28/E.P05.22-23)から、後で「私が答える」のは「幾人かの人たちの反論に」対してだけにする(7.G201:AT.VII, 10.14-16/E.P06.21-23)。 幸い、「気持ちと教養とに」おいては「卓越して」いる(ibid.)彼らは、「これら‘省察'」(7.G202: AT.VII,10.16/E.P06.23-24)に対して「充分に多くのこと、そして様々なこと」を、反論してくれた(7.G301:AT.VII, 10.17-18/E.P07.02-03)。しかし「少なくとも何らかの重要なもの」(7.G303:AT.VII,10.19/E.P07.05)に は、彼らは「まだ触れていない」(7.G305:AT.VII,10.20/E.P07.06-07)ので、まずは厭わずに「それらの反論と、そうした」 反論に対する「解答のすべてとを読み通し」てほしい(7.G403:AT.VII,10.22-23/E.P07.09-11)。 arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),Mar.29,2007. * 語句を一部、訂正致しました(2009/8/30-9/13)。
All-Ranged Juice--GAT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996. ...(頁、行) E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994. ...(頁、行) cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991) ...(7=「読者への序言」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節) Line of 《G(Part 1)》(§708:他人を納得させることについて)
for ALL-RANGED JUICE (1) One extreme line of 《G(Part 1)》(真理の認識に至る術で他人を納得させうるか)[7.G101-G103-G104-G107] 「しかしまた、他の人々が私に対してすべてにおいて最初に外見で満足しうる」かどうかについては、「私は」そうした他の人々に「全然約束していない」(7.G101:AT.VII,10.06-07/E.P06.09-11)。「なるほど、まず‘省察’において私の開陳する」のが「その思索そのもの」になる「だろう」(7.G103:AT.VII,10.09-10/E.P06.14-16)。そしてこの思索を「術 ope」として、「私」は「確実」に「そして明証的」に「真理」を「認識」するに「至った」、と「私には思われる」(7.G104:AT.VII,10.10-12/E.P06.16-18)が、はたしてそのようにして「他の人たちをもまた納得させることができる」のか(7.G107:AT.VII,10.13-14/E.P06.20-21)。(2) The other extreme line of 《G(Part 1)》(私が納得した根拠で他人は納得するか) [7.G102-G103-G106-G107] 「或る人にとっては困難に思われそうなものすべてを私が予見できる」かどうかについては、「私」は「さほど自負していない」ので、「確信」しえないだろう(7.G102:AT.VII,10.07-09/E.P06.11-14)。「なるほど、まず‘省察’において私の開陳する」のが「その思索そのもの」になる「だろう」が(7.G103:AT.VII,10.09-10/E.P06.14-16)、この思索をとおして「この私が納得した」根拠によって(7.G106: AT.VII,10.13/E.P06.19-20)、はたして「他の人たちをもまた納得させることができる」のか(7.G107:AT.VII, 10.13-14/E.P06.20-21)。(3) The moderate line of 《G(Part 1)》(他人を納得させうるかどうか、思索で実験する) [7.G103-G105-G107] 「なるほど、まず‘省察’において私が開陳することになる」「その思索そのもの」(7.G103:AT.VII,10.09- 10/E.P06.14-16)をとおして、「私」は「実験」に臨むことにしよう(7.G105:AT.VII,10.12-13/E.P06.18- 19)。はたして「私」が納得したその「同じ根拠によって」(ibid.)、「他の人たちをもまた納得させることができる」のか(7.G107: AT.VII,10.13-14/E.P06.20-21)。Line of 《G(Part 2)》(§709:「反論と答弁」について)
for ALL-RANGED JUICE (4) One extreme line of 《G(Part 2)》(「省察」そのものだけでは難しかろう)[7.G201-G202-G203-G302-G401-G403] 「しかし、その後で私は幾人かの人たちの反論に答えることにする」が、「気持ちと教養とに」おいては「卓越して」いる(7.G201: AT.VII,10.14-16/E.P06.21-23)彼らのもとにある「これら‘省察’は」(7.G202:AT.VII, 10.16/E.P06.23-24)「印刷に委ねられる以前」のものであって(7.G203:AT.VII,10.16-17/E.P06.24- P07.01)、そうした‘省察’が彼ら以外の「いかなる人」にとっても「容易ではない」ことは、「私が敢えて望むところであった」(7.G302: AT.VII,10.18-19/E.P07.03-04)。「それゆえ、私は重ね重ね‘読者’に願う」(7.G401:AT.VII,10.20- 21/E.P07.07-08)。「それらの反論と、そうした」反論に対する「解答のすべてとを読み通すこと」については、どうか厭わないでほしい(7.G403: AT.VII,10.22-23/E.P07.09-11)。(5) The other extreme line of 《G(Part 2)》(反論の中には重要な着想があるかもしれない) [7.G201-G202-G204-G301-G303-G304-G402-G403] 「その後で私は幾人かの人たちの反論に答えることにする」が、「気持ちと教養とに」おいては「卓越して」いる(7.G201:AT.VII, 10.14-16/E.P06.21-23)彼らのもとには、「これら‘省察’が」(7.G202:AT.VII,10.16/E.P06.23- 24)、予め「吟味されるべく送り付けられてある」(7.G204:AT.VII,10.17/E.P07.01-02)。そんな彼らから寄せられてきた 反論はひじょうに「多く」て「様々」だった、ということで「充分で」あり(7.G301:AT.VII,10.17-18/E.P07.02-03)、「少なくとも何らかの重要 な」(7.G303:AT.VII,10.19/E.P07.05)着想もありうる(7.G304:AT.VII,10.19-20/E.P07.05- 06)はずだ。そこで、まだ「‘省察’について判断を下さない」うちに、「先に」(7.G402:AT.VII,10.21-22/E.P07.08-09)、「それらの反論と、そうした」反論に対する「解答のすべてとを」厭わずに「読み通し」てほしい(7.G403:AT.VII,10.22- 23/E.P07.09-11)。(6) The moderate line of 《G(Part 2)》(重要なものには、まだ誰も触れていない) [7.G201-G202-G301-G303-G305-G403] 「その後で私は幾人かの人たちの反論に答えることにする」が、「気持ちと教養とに」おいては「卓越して」いる(7.G201:AT.VII, 10.14-16/E.P06.21-23)彼らは、「これら‘省察’」(7.G202:AT.VII,10.16/E.P06.23-24)に対して 「充分に多くのこと、そして様々なこと」を、反論してくれた(7.G301:AT.VII,10.17-18/E.P07.02-03)。しかし「少なく とも何らかの重要なもの」(7.G303:AT.VII,10.19/E.P07.05)には、彼らは「まだ触れていない」(7.G305: AT.VII,10.20/E.P07.06-07)ので、まずは厭わずに「それらの反論と、そうした」反論に対する「解答のすべてとを読み通し」てほし い(7.G403:AT.VII,10.22-23/E.P07.09-11)。arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),Mar.27,2007. * 語句を一部、訂正致しました(2009/8/28)。 All-Ranged Juice--FAT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY,
nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996. ...(頁、行) E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994. ...(頁、行) cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991) ...(7=「読者への序言」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節) Line of 《F(Part 1)》(§706:「省察」のねらい)
for ALL-RANGED JUICE
(1) One extreme line of 《F(Part 1)》(精神を感覚から引き離せ)
[7.F101-F102-F202-F303-F305-F306]
「しかし今は、私が人様の判断を一度はなんとか見聞きすることで経験して」いるが、「その後で」(7.F101:AT.VII,09.19-20/E.P05.09- 11)、「再びここで着手する」のは、「神と人間的精神とについての同じその問題」である(7.F102:AT.VII,09.20- 21/E.P05.11-13)。よって、「私が期待する」のは決して「読者」が群がることではなくて(7.F202:AT.VII,09.23- 24/E.P05.15-17)、「精神を感覚から」(7.F303:AT.VII,09.25-26/E.P05.19-20)「引き離すことができる ようになり、そしてまた」引き離そうという「意志をもつようになる」ことである(7.F305:AT.VII,09.26-27/E.P05.21)。 が、そのような人々には「ごく僅か」しか「遭遇」しないことを、「私は充分に知っている」(7.F306:AT.VII,09.27- 28/E.P05.22-23)。
(2) The other extreme line of 《F(Part 1)》(精神をすべての予断から引き離せ) [7.F101-F103-F301-F304-F305-F306]
「今のところは、私は人様の判断を一度はなんとか見聞きすることでもって経験して」おくが、「その後では」(7.F101:AT.VII,09.19-20/E.P05.09 -11)、「第一‘哲学’全体」を「頭」から「取り扱う」ことにする(7.F103:AT.VII,09.21-22/E.P05.13-14)。よって、「私」が「促す」のは(author sum)、誰かが「これを読む」ことではなくて(7.F301:AT.VII,09.24/E.P05.17-18)、精神を「すべての予断や先入見から」(7.F304:AT.VII,09.26/E.P05.20-21)「引き離すことができるようになり、そしてまた」引き離そうという「意 志をもつようになる」ことである(7.F305:AT.VII,09.26-27/E.P05.21)。が、そのような人々には「ごく僅か」しか「遭遇」 しないことを、「充分に私は知っている」(7.F306:AT.VII,09.27-28/E.P05.22-23)。
(3) The moderate line of 《F(Part 1)》(私とともに本気で省察せよ) [7.F101-F201-F302-F305-F306]
「今のところは、私は人様の判断を一度はなんとか見聞きすることでもって経験して」おくが、「その後で」(7.F101:AT.VII,09.19-20/E.P05.09- 11)「私」が期待するのは、「公の拍手喝采」ではなくて(7.F201:AT.VII,09.22-23/E.P05.15)、ただ人々が「本気で私とともに省察」(7.F302:AT.VII,09.25/E.P05.18-19)「できるようになり、そしてまた」省察しようという「意志をも つようになる」、ということである(7.F305:AT.VII,09.26-27/E.P05.21)。が、そのような人々には「ごく僅か」しか「遭遇」しない ことを、「充分に私は知っている」(7.F306:AT.VII,09.27-28/E.P05.22-23)。
Line of 《F(Part 2)》(§707:「省察」の読み方について)
for ALL-RANGED JUICE
(4) One extreme line of 《F(Part 2)》(連鎖と脈絡とを把握せよ)
[7.F401-F402-F406-F502]
「しかし」人々に「関して」云えば(7.F401:AT.VII,09.28/E.P05.23-24)、「私の根拠の連鎖と脈絡とを把握することに気を配らない」うちは(7.F402:AT.VII,09.29-30/E.P05.24-P06.02)、「この著作を」読んでも「大きな成果」を「収める」ようにはなら「ない」だろうし(7.F406:AT.VII,10.01-02/E.P06.04-05)、「何か」を「反論」したところで、それが「緊要であるか、もしくは答弁に値する」ようなことは「容易には」起こら「ないだろう」(7.F502:AT.VII,10.04- 05/E.P06.07-09)。
(5) The other extreme line of 《F(Part 2)》(論ってあざけったところで...) [7.F401-F403-F405-F501-F502]
人々に「関して」云えば(7.F401:AT.VII,09.28/E.P05.23-24)、「ただ一字一句だけ」を(7.F403: AT.VII,09.30/E.P06.02)「論うことに」かまけているうちに(7.F405:AT.VII,10.01/E.P06.03-04) 「おそらく多くの点で機会を見つけだして」は「あざける」だろう(7.F501:AT.VII,10.02-04/E.P06.05-07)が、そのようにして「何か」を「反論」したつもりになったところで、それが「緊要であるか、もしくは答弁に値する」ようなことは「容易には」起こら「ないだろう」(7.F502: AT.VII,10.04-05/E.P06.07-09)。
(6) The moderate line of 《F(Part 2)》(しきたりの中にいるうちは難しかろう) [7.F401-F404-F502]
人々に「関して」云えば(7.F401:AT.VII,09.28/E.P05.23-24)、「しきたりのなかに居る in more est」「多くの人たちにとっ て」(7.F404:AT.VII,09.30-10.01/E.P06.02-03)「容易ではない」ことがある(7.F502:AT.VII, 10.04-05/E.P06.07-09)。すなわちそれは、「緊要であるか、もしくは答弁に値するようなものを何か反論する」ことであろう (ibid.)。
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初出:"What a cool believes"(blog),Mar.27,2007. * 語句を一部、訂正致しました(2009/8/28-9/13)。 All-Ranged Juice--EAT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996. ...(頁、行) E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994. ...(頁、行) cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991) ...(7=「読者への序言」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節) Line of 《E(Part 1)》(§704:議論・反駁について)
for ALL-RANGED JUICE (1) One extreme line of 《E(Part 1)》(偽であり、理に縁なき議論) [7.E101-E201-E205-E210] 「それに加えて」「私が見た」「或る二つの文章」は、「なるほど」「相当に長い」ものだったが(7.E101:AT.VII,08.29- 30/E.P04.04-06)、そこにみられる「類いの議論は何の力をももつことができない」(7.E201:AT.VII,09.01- 03/E.P04.10-12)。というのも、そうした議論は「偽」であり、「理とか根拠とかに縁がない」(7.E205:AT.VII,09.05- 06/E.P04.15-16)からである。それゆえ「私はここではそれらに対して答えたくないのだ」(7.E210:AT.VII,09.07- 08/E.P04.18-19)。(2) The other extreme line of 《E(Part 1)》(洗脳されたままでの判断) [7.E102-E203-E204-E206-E208-E209-E211] 「私」の見た或る二つの文章で「攻撃されていた」のが、すなわち「私」よりも完全な「事物について」の「私」の「根拠」であるが、これはべつに「結論」の如きものでは「ない」し、そのように攻撃したほうの「議論」は、「‘無神論者たち’」に「共通な」議論の「場から借りてきた」ものであった(7.E102:AT.VII, 08.30-09.01/E.P04.06-10)。このように「本末顛倒で薄弱な」「判断」をする人々は多いが(7.E203:AT.VII, 09.03-04/E.P04.12-14)、それは、そうした人々が「最初に受け取った諸々の意見によって」(7.E204:AT.VII,09.04 -05/E.P04.14-15)「説得されて」信じ込んだまま(7.E206:AT.VII,09.06/E.P04.16-17)、「後で」その人々の「聞いた」 (7.E208:AT.VII,09.07/E.P04.17-18)のが、「かの意見の反駁」(7.E209:AT.VII, 09.07/E.P04.18)だったからである。したがって、「私によって先に言及されるべき」なのは、それらの意見では「ない」(7.E211: AT.VII,09.08/E.P04.19-20)。(3) The moderate line of 《E(Part 1)》(真で堅固な反駁) [7.E202-E207-E209] 「私の根拠」を「知解」すれば(7.E202:AT.VII,09.03/E.P04.12)、「真で堅固な」(7.E207: AT.VII,09.06/E.P04.17)「反駁」を、諸々の意見に対して(7.E209:AT.VII,09.07/E.P04.18)おこなうこ とができる。Line of 《E(Part 2)》(§705:無神論について)
for ALL-RANGED JUICE (4) The moderate line of 《E(Part 2)》(無神論者たちの拠り所) [7.E301-E303-E306-E403] 「そこでただ一般的に私は云うだけにする」(7.E301:AT.VII,09.08-09/E.P04.20-21)。‘無神論者たち’の言い分の「すべて」(ibid.)が「常に依存している」(7.E303:AT.VII,09.11/E.P04.23)のは、あくまで「いったい何を神は為すこ とができるのか、そしてまた為さねばならないか」(7.E306:AT.VII,09.13/E.P05.02-03)、ということに対してであるから、そうした言い分は「いかなる困難をも我々に産み出そうとはしないはずだ」(7.E403:AT.VII,09.17-18/E.P05.08-09)。(5) One extreme line of 《E(Part 2)》(把握しきれない無限なものこそ神である) [7.E301-E302-E305-E307-E402-E403] 「ただ一般的に私は云うだけにする」(7.E301:AT.VII,09.08-09/E.P04.20-21)。‘無神論者たち'のせいで 「公然とはびこっている」もののすべては、「神の実在を攻撃するため」のものである(7.E302:AT.VII,09.09-10/E.P04.21- 23)。それによると、「我々の精神にはひじょうに大きな力と知恵とが授けられている」(7.E305:AT.VII,09.12- 13/E.P04.24-P05.02)という。しかし「我々が」いくら「決定し把握しようと試みたり努めたり」しても(7.E307:AT.VII, 09.14/E.P05.03-04)「把握しきれない無限なもの」こそが「神」なのである(7.E402:AT.VII,09.16- 17/E.P05.07-08)から、‘無神論者たち’の主張から産み出されるものは「我々にとっては」困難とはならないだろう(7.E403: AT.VII,09.17-18/E.P05.08-09)。(6) The other extreme line of 《E(Part 2)》(我々の精神を有限なものとして扱え) [7.E301-E304-E401-E403] 「ただ一般的に私は云うだけにする」(7.E301:AT.VII,09.08-09/E.P04.20-21)。‘無神論者たち’によれ ば、「神には人間的な感情が添付されている」そうだが(7.E304:AT.VII,09.11-12/E.P04.23-24)、「有限なものとして考察されるべき」なのはあくまで「我々の精神だ」、ということを「我々は単に思い出しているだけのはず」であり(7.E401:AT.VII,09.14-16/E.P05.04- 06)、それだけでもう、「我々にとって」‘無神論者たち'の言い分は決して困難の源にはならないだろう(7.E403:AT.VII,09.17- 18/E.P05.08-09)。arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),Mar.27,2007. * 語句を一部、訂正致しました(2009/8/28-9/13)。 All-Ranged Juice--DAT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996. ...(頁、行) E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994. ...(頁、行) cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991) ...(7=「読者への序言」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節) Line of 《D》(§703:質疑その二: 私より完全な事物の観念について)
for ALL-RANGED JUICE (1) The moderate line of 《D》(観念という語の二つの意味) [7.D101-D103-D200-D302-D305-D403] 「もう一つの点」として(7.D101:AT.VII,08.16/E.P03.11)、「私」より完全な事物の「観念そのものが、私より完 全であることは帰結しない」(7.D103:AT.VII,08.17-18/E.P03.12-14)、という反論に対して「私は答える」 (7.D200:AT.VII,08.19-20/E.P03.16-17)。「ここに潜んでいる」のは、「観念という語において等しく呼ばれる aequivocationem」二つの ことである(ibid.)。すなわち、「知性の作用」として(7.D302:AT.VII,08.21/E.P03.18-19)の意味と、「そうした作 用によって表象され再現された事物」として(7.D305:AT.VII,08.22-23/E.P03.20-21)の意味とである。それを「詳しく開 陳」するのが、「以下」に続く本論である(7.D403:AT.VII,08.27-28/E.P04.03-04)。(2) One extreme line of 《D》(観念という語が質料的にとられた場合) [7.D101-D102-D200-D301-D303-D306-D401-D403] 「もう一つの点」として(7.D101:AT.VII,08.16/E.P03.11)、「私より完全な事物の観念を私のうちに私がもってい るということ」(7.D102:AT.VII,08.16-17/E.P03.11-12)について、「私は答える」(7.D200:AT.VII, 08.19-20/E.P03.16-17)。「ここで等しく呼ばれる aequivocationem」二つのことが「潜んでいる」のは、「観念という語において」であり (ibid.)、その語は「質料的に」「受け取られることもできる」(7.D301:AT.VII,08.20-21/E.P03.17-18)となると、「その意味では、私より完全だ、と云うことはできない dici nequit」し(7.D303:AT.VII,08.21-22/E.P03.19-20)、「そうした事物」が 「知性の外に実在することは想定されないはず」だ(7.D306:AT.VII,08.23-24/E.P03.21-23)。そうなると、「私より完全な事物の観念が私のうちに在るということだけから」「いかにして」帰結が生じるのか(7.D401:AT.VII,08.25-26/E.P04.01-02) 、ということが問題となるが、それは「以下」に続く本論にて「詳しく開陳されるだろう」(7.D403:AT.VII,08.27-28/E.P04.03-04)。(3) The other extreme line of 《D》(観念という語が質料性と反対の意味にとられた場合) [7.D101-D104-D200-D304-D307-D402-D403] 「もう一つの点」として(7.D101:AT.VII,08.16/E.P03.11)、「私」より完全な事物の「観念によって表象され再現されたものが実在すること」は帰結しない(7.D104:AT.VII,08.18-19/E.P03.14-15)、という反論に対して「私は答える」 (7.D200:AT.VII,08.19-20/E.P03.16-17)。「ここで等しく呼ばれる aequivocationem」二つのことが「潜んでいる」のは、「観念という語 において」であり(ibid.)、その語が質料性とは「反対に」受け取られる場合には(7.D304:AT.VII,08.22/E.P03.20)、 「私より完全であること」は、事物「みずからの本質」で「理由」づけられれば、「可能」となる(7.D307:AT.VII,08.24- 25/E.P03.23-24)。したがって、「そうした事物が実際に」真なる事物として(revera)「実在すること」は「帰結する」(7.D402:AT.VII,08.26- 27/E.P04.02-03)のだが、このことについては「以下」に続く本論にて、「詳しく開陳されるだろう」(7.D403:AT.VII, 08.27-28/E.P04.03-04)。arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),Mar.26,2007. * 語句を一部、訂正致しました(2009/8/28-9/13)。 All-Ranged Juice--CAT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996. ...(頁、行) E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994. ...(頁、行) cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991) ...(7=「読者への序言」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節) Line of 《C》(§702:質疑その一: 思惟する事物について)
for ALL-RANGED JUICE (1) The moderate line of 《C》(思惟する事物に秩序があるのは、私の知得においてのみだ) [7.C101-C104-C202-C205-C303] 「第一点」として(7.C101:AT.VII,07.20/E.P02.13)、みずからを「思惟する事物であるということ」 (7.C104:AT.VII,08.03/E.P02.17-18)は、せいぜい「私」によって「知得」だか知覚だか(perceptionem)されるかぎりで、「秩序」づけられているにすぎない(7.C202:AT.VII,08.08/E.P02.24-P03.01)。とはいえ、「みずからのうちに思惟する機能をもつ事物」 (7.C205:AT.VII,08.11-12/E.P03.05-06)だけが「実際に」真なる事物として(revera)私の本質「に属する」ものだ、ということは「ほかならぬ」「帰結となる」 (7.C303:AT.VII,08.14-15/E.P03.09-11)。(2) One extreme line of 《C》(私の本質に属するのは、思惟する事物だけだ) [7.C101-C102-C105-C203-C302-C303] 「第一点」として(7.C101:AT.VII,07.20/E.P02.13)、「人間」としての「精神」がみずからのほうへと振り向いて「知得だか知覚だかをする」のは、「みずから」が「思惟する事物であるということ」にほかならない(7.C102:AT.VII,07.20-08.01/E.P02.13- 15)。そしてその「ほかのものすべて」は、「‘ただ~のみ’(tantum)という語」によって「排除」されて、それらは「おそらくまた、霊魂の本性に属する」とか、魂にとって自然であるとか、「云われうる」のだろうが(7.C105:AT.VII,08.03-05/E.P02.18-20)、それらのものを、「私の本質に」 「私の知る」かぎりで「属する」ものとして「私」が「認識すること」は「まったくない」、という「意味である」(7.C203:AT.VII,08.08- 10/E.P03.01-04)。要するに、「私が認識する」ところによれば、思惟する事物であることの「ほかには何も私の本質に属さない」のである (7.C302:AT.VII,08.13-14/E.P03.07-09)。(3) The other extreme line of 《C》(事物の真理に関しては、私以外のものにも秩序がある) [7.C101-C103-C201-C204-C301-C303] 「第一点」として(7.C101:AT.VII,07.20/E.P02.13)、人間としての精神にとっての「本性、あるいは」いわゆる「本質」なんぞが「存立している consistere」のはただ思惟する事物であることにおいてのみである、という「帰結」は生じ「ない」(7.C103:AT.VII,08.02-03/E.P02.16- 17)、と「反論」されているので、「私は答える」(7.C201:AT.VII,08.05-07/E.P02.21-24)。「私もまた、そこでは」 ほかのものすべてを「排除したいのではなかった」(ibid.)。というのは、「事物として真たることそのものに」関しては、それらも「秩序」づけられている (ibid.)からである。「勿論その場合、私が」議論を「おこなっていた agebam」のは、そうした事物の真理についてではなくて(ibid.)、「私が思惟する事物であるということ」 だけである(7.C204:AT.VII,08.10-11/E.P03.04-05)。「以下に」続く本論において「私が示す」のは、「どんな仕方で」 (7.C301:AT.VII,08.12/E.P03.06-07)「帰結」されれば、思惟することの「ほかには何も実際に」真なる事物として(revera)「私」の本質には「属さない」と云えるのか、ということである(7.C303:AT.VII,08.14-15/E.P03.09-11)。arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),Mar.26,2007. * 語句を一部、訂正致しました(2009/8/28-9/13)。 All-Ranged Juice--ABSteve TURNER 1998:
Steve TURNER, TROUBLE MAN the life and death of Marvin Gaye, Penguin Books, London,1998.
I knew what I wanted
but I didn't know how to get it.
I'm just going to try and give the public
what they want now.
--Marvin Gaye (cited from Steve TURNER 1998, p.110) Notes. * I knew what I wanted ...: 自分の求めるものを知りつつも、いかにそれを得るのかを知らなかったというマーヴィンが、皆の求めるものを提供する立場にいるという。 * Marvin GAYE(1939-1984): 1939年4月2日、ワシントンDC出身(本名 Marvin Pentz Gay Jr.)。牧師である実父からの布教活動と暴力とに影響される。デトロイトに移り、モータウン・レコード社と契約し、リズム&ブルーズおよびソウル・ミュージックの歌手となる。音楽で成功を収める一方で、家庭や税金や麻薬にまつわる問題に悩まされ続け、放浪生活を送る。のちにCBS社と契約して、1982年10月に発表した〈Sexual Healing〉という曲で「ベストR&Bヴォーカル・パフォーマンス男性部門」においてグラミー賞を獲得する(1983年3月)。1984年4月1日、ロサンゼルスにて、実父により射殺される。 *****
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY,
nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996. ...(頁、行) E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994. ...(頁、行) cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991) ...(7=「読者への序言」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節) Line of 《AB》(§701:『方法叙説』について) (1) One extreme line of《AB》(当時の説明は、一般にはあまり用いられていなかった)for ALL-RANGED JUICE [7.A101-A102-A104-A302-A304-B201-B203-B205] 「神と人間的精神とについての問題」には「すでに前に」「手短に私は触れたことがあって」、それは『理性を正しく導きつつ、諸々の学問において真理を探 究するための方法についての叙説』においてである(7.A101:AT.VII,07.01-03/E.P01.04-09)。「1637年に」その書を 「フランス語で出版」するという(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.09)打診でもって「私」は「ただ」、読者といわば「協議」のようなことをしたにすぎないが(7.A104:AT.VII,07.05-06/E.P01.11-12)、とはいえ「その後でそれら」の問題を「どんな理由で取り扱うのか」、ということを 「私」は「読者の判断から学び足す」ことができた(ibid.)。というのも、それらの問題を説明するために「私」が辿る道は「一般に使用されているとこ ろからはあまりにも隔たっている」(7.A302:AT.VII,07.09-10/E.P01.17-18)ので、「気持ち」が「虚弱」なうちはいくら 「信じ」たところで、その道に「みずから進み行くこと」は「できない」(7.A304:AT.VII,07.12-13/E.P02.02-04)からで ある。さて、それら二つの「問題について、私が触れていたものにおいて」なされた「反論」は、「留意」には値しなかった (7.B201:AT.VII,07.16-17/E.P02.08-10)が、「これら」二つの点に対しては、「ここで手短に」(7.B203: AT.VII,07.18/E.P02.10)、「私は答えておこう」(7.B205:AT.VII,07.19/E.P02.12-13)。 (2) The other extreme line of 《AB》(当時の説明は、あまり詳しくなかった) [7.A101-A102-A103-A202-A303-B101-B202-B204-B205] 「神と人間的精神とについての問題」には「すでに前に」「私は手短に触れたことがあって」、それは『理性を正しく導きつつ、諸々の学問において真理を探 究するための方法についての叙説』においてである(7.A101:AT.VII,07.01-03/E.P01.04-09)。「1637年に」その書を 「フランス語で出版」した(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.09)のだが、「それらの問題をそこで精確に取り扱う」つもりは 全然なかった(7.A103:AT.VII,07.04-05/E.P01.10-11)。というのも「それら」の問題については、もう一度議論が「為されるべきだ、と私は判断していた」(7.A202:AT.VII,07.07-08/E.P01.14-16)ので、それをやたらに「詳しく説くこと」は「無用だ」と「私は思い込んでいた」(7.A303:AT.VII,07.10-12/E.P01.19-P02.02)からである。さ て、「フランス語でもってあまねくあらゆる人々に読まれるべく書かれたものにおいて」(ibid.)「私が願っておいた」ところ、「私の書いたもののなかで皆と出くわした」ものが「何か非難に値する」としても(7.B101:AT.VII,07.14-15/E.P02.04-07)、それは「二つ」(7.B202: AT.VII,07.18/E.P02.10)だけだったので、「それら」の問題の「いっそう精確な説明に着手する以前に」(7.B204: AT.VII.07.18-19/E.P02.11-12)、「私は答えておこう」(7.B205:AT.VII,07.19/E.P02.12- 13)。 (3) The moderate line of 《AB》(当時の説明は、まだ整備されていなかった) [7.A101-A102-A201-A301-B102-B203-B205] 「神と人間的精神とについての問題」には「すでに前に」「私は手短に触れたことがあって」、それは『理性を正しく導きつつ、諸学問において真理を探究す るための方法についての叙説』においてである(7.A101:AT.VII,07.01-03/E.P01.04-09)。「1637年に」その書を「フ ランス語で出版」した(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.09)のは、それらの問題がひじょうに「重要なもの momenti」だと「私には思われた」(7.A201:AT.VII,07.07/E.P01.13-14)からであるが、「それら」の問題を「説明するために私が辿る道は、あまり 整って」なく、「なじんで」ない(7.A301:AT.VII,07.08-09/E.P01.16-17)。ただ、もし何か非難されそうなものがあれば、それについては、読者こそが「私に」対して「厭わずに忠告していたはず」だ(7.B102:AT.VII,07.15-16/E.P02.07-08)。そこでまず、「これら」二つの点に対しては、「ここで手短に」(7.B203: AT.VII,07.18/E.P02.10)「私は答えておこう」(7.B205:AT.VII,07.19/E.P02.12-13)。arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),Mar.26,2007. * 語句を一部、訂正致しました(2009/8/28)。 That's Fusion, Not Confusion,isn't it?--Contents
Arrangement and performance about Rene DESCARTES'〈The Sixth Meditation〉
treated with his own analytical geometry & decorated with Marvin GAYE's words.
(planned in August 20,2000-February 04,2001,
produced in March 28-October 30,2001&after this,2007) Contents of “That's Fusion, Not Confusion.”
「第六省察」解析幾何学的処理・目次
§000:The Harvest and Digests--要点と結論(序を兼ねて)
第1章:分析(§§101-135)
§101 Line of 《A》(1) The moderate line of 《A》(すべてのものは神によってもたらされうる) (2) One extreme line of《A》(純粋‘数学'の対象であれば、実在しうる) (3) The other extreme line of 《A》(私が判明に知得できるものはすべて、神が創りだしたものだ)
§102 Line of 《B》
(1) The moderate line of 《B》(想像とは、あたかも現前しているかのように凝らすこと) (2) One extreme line of 《B》(想像するためには、心の緊張を要する) (3) The other extreme line of 《B》(知解するためには、心の緊張を用いない) §103 Line of 《C》 (1) One extreme line of 《C》(想像が純粋な知解から異なっているのを、私は知解する) (2) The moderate line of 《C》(精神が知解した観念) (3) The other extreme line of 《C》(精神によって想像されたものが符合する観念)
§104 Line of 《D》
(1) One extreme line of 《D》(感覚についても想像についても同様に論ぜよ) (2) The other extreme line of 《D》
(物体的な自然本性は、純粋‘数学'の対象なのに、あまり判明ではない) (3) The moderate line of 《D》(感覚から、記憶をとおして、想像に至る)§105 Line of 《E1F1》 (1) One extreme line of 《E1F1》(苦、快、延長、運動を、私は感覚していた) (2) The other extreme line of 《E1F1》(苦、快、感情、光、音等を、私は感覚していた) (3) The moderate line of 《E1F1》(苦、快、欲求、触覚的な性質を、私は感覚していた)
§106 Line of 《f2》
§107 Line of 《f3》
(1) The moderate line of 《f3》
(私の身体において、そして私自身のために私は欲求と感情とのすべてを感覚していた)
(2) One extreme line of 《f3》(身体以外のものからは、私はいつでも切り離されうる)(3) The other extreme line of 《f3》
(身体の部分における苦と快とのせいで、身体から私は切り離されえない)
§108 Line of 《f4》(1) The moderate line of 《f4》(欲求、感情、苦、快を私が感覚しているのはなぜか) (2) One extreme line of 《f4》(苦しいと悲しくなり、快いと喜ぶのはなぜか) (3) The other extreme line of 《f4》(飢えると食べたくなり、喉が渇くと飲みたくなるのはなぜか) §109 Line of 《E2G1》 (1) One extreme line of 《E2G1》(外部感覚) (2) The moderate line of 《E2G1》(感覚への不信) (3) The other extreme line of 《E2G1》(内部感覚)
§110 Line of 《G2》
(目覚めている間に感覚しないのにまさか眠っている間に感覚するなんて考えられないはずだった) (2) The moderate line of 《G2》
(私の目覚めている間に感覚しないものが睡眠中に感覚されると思われる場合) (3) The other extreme line of 《G2》
(目覚めている間に私の感覚しないものがまさか外の事物からやってくるなんて信じられない)
§111 Line of 《G3》
(1) One extreme line of 《G3》(私は自分の起源の創作者を知らずにいる、と仮想していた) (2) The other extreme line of 《G3》(自然および本性による私のつまづきを妨げるもの) (3) The moderate line of 《G3》(自分の起源の創作者を知らない私にも...)
§112 Line of 《G4》 §113 Line of 《E3H1》 (1) One extreme line of 《E3H1》(感覚から得られると思われるものだけではない) (2) The moderate line of 《E3H1》(認容されるべきもの二つ) (3) The other extreme line of 《E3H1》(蒸し返されて疑われるべきものだけではない)
§114 Line of 《H2》
§115 Line of 《i1》
(1) One extreme line of 《i1》(想像する機能と感覚する機能) (2) The moderate line of 《i1》(特殊機能の形相的概念) (3) The other extreme line of 《i1》(様態と事物の間の区別)
§116 Line of 《i2》
§117 Line of 《i3》 §118 Line of 《i4》 (1) One extreme line of 《i4》
(感覚された事物の観念を、能動的な機能は、私にとっては嫌でも、産出する)
(2) The moderate line of 《i4》
(感覚された事物の観念を、能動的な機能は、知解されようがされまいが、産出する)
(3) The other extreme line of 《i4》
(感覚された事物の観念を、能動的な機能は、私が協力しなくても、産出する)
§119 Line of 《i5》(1) One extreme line of 《i5》
(物体および身体としての事物が実在するとおりに私は明晰・判明に知解する)
(2) The moderate line of 《i5》
(物体なり身体なりとしての事物には、私が感覚でとらえるとおりのものがある)
(3) The other extreme line of 《i5》
(物体および身体としての事物を感覚でとらえると、不明瞭で不分明だ)
§120 Line of 《J》
(1) One extreme line of 《J》(たとえ個別的なものからでも真理に達しうる) (2) The other extreme line of 《J》(あまり明晰に知解されなくても私の意見は虚偽ではない) (3) The moderate line of 《J》(どんなに疑わしく不確実でも私は自分の意見を矯正できない) §121 Line of 《K》 (1) One extreme line of 《K》(身体をもっているのは私だ) (2) The moderate line of 《K》(痛いときや飢えているときや渇いているときは身体が悪い) (3) The other extreme line of 《K》(私が飲食物を要することについて)
§122 Line of 《L》
(1) One extreme line of 《L》(精神が身体と合一しているせいで、感覚は不分明だ) (2) The moderate line of 《L》(痛くなければ私は傷を判然と知解するのに...) (3) The other extreme line of 《L》(飲食物を要するのは身体だが、飢えや渇きを感ずるのは私だ) §123 Line of 《M》 (1) One extreme line of 《M》(追求されるべきもののうちで、好ましいもの) (2) The moderate line of 《M》(忌避されるべきもの/吾が身体の確かなるとき) (3) The other extreme line of 《M》(好ましくないものなら私は触発されうる)
§124 Line of 《N1》
(1) One extreme line of 《N1》(自然に教わったつもりでも、実際にはそうではない) (2) The other extreme line of 《N1》
(自然に教わったのではなく、無思慮に判断する習慣で受け取った) (3) The moderate line of 《N1》(自然に教わったつもりでも偽に至りやすい)
(神から賦与されているものとして自然だ、ということについて、謎を解いても、心身合一体には属さない) (3) The moderate line of 《N2》
(苦痛を感じさせてくれるものを自然に忌避することについては、謎を解くと、精神だけに属する)
§126 Line of 《N3》 (1) One extreme line of 《N3》 (感覚で知得されたものが、精神に対して自然に指示するのは、複合体にとっての都合だ) (2) The other extreme line of 《N3》(感覚での知得を確実な規則の如くに使用することについて) (3) The moderate line of 《N3》
(精神が複合体の部分であるかぎり、感覚での知得は充分に明晰・判明だ)
§127 Line of 《o》
(1) One extreme line of 《o》(神の善性には誰も逆らえない) (2) The moderate line of 《o》(やはり私は全知ではない) (3) The other extreme line of 《o》(追求したら毒だった/忌避したが毒ではなかった) §128 Line of 《P》 (1) One extreme line of 《P》(用途を予定されて命名された自然) (2) The moderate line of 《P》(二つの異なる自然) (3) The other extreme line of 《P》(人間が神によって造られているからには...)
§129 Line of 《Q》
(1) One extreme line of 《Q》(忠実に取られても欺くのは自然だ) (2) The moderate line of 《Q》(何を云われようが、喉が乾いているのは確かだ) (3) The other extreme line of 《Q》(命名が純粋ではないせいで、欺くのは自然だ) §130 Line of 《R》 (1) One extreme line of 《R》(物体や身体が分割されても私は思惟するしかない) (2) The other extreme line of 《R》(精神は機能をもつが部分にならない) (3) The moderate line of 《R》(心身合一体における精神は分割されない)
§131 Line of 《S》
(1) One extreme line of 《S》(脳の部分の配置が同じでも、身体の部分は様々たりうる) (2) The other extreme line of 《S》(無数の経験をとおしても、精神に表示されるものは同じでありうる) (3) The moderate line of 《S》(感覚することで共通しているところから精神に表示されるものが同じとき) §132 Line of 《T》 (1) One extreme line of 《T》(或る神経のうちで運動がどこも通過しないならば、感覚は別のものだ) (2) The other extreme line of 《T》(神経の途中の点からの運動でも、同じ感覚が得られる) (3) The moderate line of 《T》(綱そっくりの神経が運動して感覚する)
§133 Line of 《U》
(1) One extreme line of 《U》(健康を維持するべく、神経も運動する) (2) The moderate line of 《U》(苦痛に対しては全力で挑む) (3) The other extreme line of 《U》(運動が感覚のすべてをもたらすことでもって、体調を維持する) §134 Line of 《V》 (1) One extreme line of 《V》(善なる神のもとでは、感覚が欺かれるのも自然だ) (2) The other extreme line of 《V》(運動しだす原因が何であれ、身体は良好にできている) (3) The moderate line of 《V》(同じ運動からは同じ感覚しか得られないが、原因は様々だ)
§135 Line of 《W》
(1) One extreme line of 《W》(夢のなかのものを記憶しても、実生活にはつながらない) (2) The other extreme line of 《W》(疑っていたのは、夢現つの区別をしなかったからである) (3) The moderate line of 《W》(感覚に記憶と知性を重ねれば、もう怖くない)
第2章:表現(§§201-206)
§201 Surface of 《ABC》(1) The 1st surface of 《ABC》(想像について) (2) The 2nd surface of《ABC》(想像と知解との間の相違) (3) The 3rd surface of 《ABC》(知解について)
§202 Surface of 《ADEi5》
(1) The 1st surface of 《ADEi5》(物体および身体としての事物についての明晰性・判明性) (2) The 2nd surface of《ADEi5》(純粋‘数学'の対象について) (3) The 3rd surface of 《ADEi5》(物体および身体としての事物が感覚で知得されること) §203 Surface of 《E1FfE2GE3Hi》 (1) The 1st surface of 《E1FfE2GE3Hi》(私が神知らずでも、苦・快と感情とは知解されうる) (2) The 2nd surface of 《E1FfE2GE3Hi》
(私が過誤を正すかぎりは、たとえ身体を切断させないくらいに感覚しても、その感覚は実体と区別されて存在する)
(3) The 3rd surface of 《E1FfE2GE3Hi》
(神の仕業で、私の知らないうちにも、欲求は身体なり物体なりに内在している)
§204 Surface of 《JN1oW》
(1) The 1st surface of 《JN1oW》(自然のとおりに、神のとおりに) (2) The 2nd surface of 《JN1oW》(虚偽ならず、吟味せよ) (3) The 3rd surface of 《JN1oW》(疑っても直せないから全知ではない) §205 Surface of 《KLMN2N3PQ》 (1) The 1st surface of 《KLMN2N3PQ》(苦痛について) (2) The 2nd surface of 《KLMN2N3PQ》(お召し上がりの際には...) (3) The 3rd surface of 《KLMN2N3PQ》(心身合一体ならではの身の上相談)
§206 Surface of 《QRSTUV》
(1) The 1st surface of 《QRSTUV》(全力を尽くすこと) (2) The 2nd surface of 《QRSTUV》(誤りを正すこと) (3) The 3rd surface of 《QRSTUV》
(心身が合一しているにも拘わらず、身体の部分や感覚やその原因は多様だ)
第3章:演出(§§301-303)
§301: The 1st Solid of 《ABCDE1FfE2GE3HiKLMN2N3PQRSTUVJN1oW》(苦痛には妥協する勿れ)§302:The 2nd Solid of 《ABCDE1FfE2GE3HiKLMN2N3PQRSTUVJN1oW》(心身ともに...) §303:The 3rd Solid of 《ABCDE1FfE2GE3HiKLMN2N3PQRSTUVJN1oW》(欲しければ吟味すべし) Contents of
“That's Fusion, Not Confusion. (appendix or annex in 2007)” 補遺(「第六省察」解析幾何学的処理)・目次
第2章-表現への補遺(§§401-406)
§401 Surface of 《KP》(1) The 1st surface of 《KP》(所詮、異常呼ばわりされただけ) (2) The 2nd surface of 《KP》(所謂自然は、私にとってどうなのか) (3) The 3rd surface of 《KP》(患ってなくても、正しくなくても、有益でなくても...)
§402 Surface of 《KLN2P》
§403 Surface of 《KMN3P》(1) The 1st surface of 《KLN2P》
(傷を眺める余裕もないままに、苦しいことや痛いことから逃げようとする私)
(2) The 2nd surface of 《KLN2P》(私は身体ではないが、快いものや楽しいものが欲しい)(3) The 3rd surface of 《KLN2P》(傷ついた感じがしたのは知っているが...) (1) The 1st surface of 《KMN3P》(現物とは似ても似つかぬことを感じた私) (2) The 2nd surface of 《KMN3P》(感じたことに選り好みをする私) (3) The 3rd surface of 《KMN3P》(心身一体になって逃げるときの、私の身体は確かだ)
§404 Surface of 《QV》
§405 Surface of 《QRTV》(1) The 1st surface of 《QV》(みずから/水から被るのも自然なり) (2) The 2nd surface of 《QV》(飲みたくないのも自然なり) (3) The 3rd surface of 《QV》(喉が渇いたままなのも自然なり) (1) The 1st surface of 《QRTV》(分割されたり動かされたりする物体および身体) (2) The 2nd surface of 《QRTV》(分割されないうえに動じない精神) (3) The 3rd surface of 《QRTV》(精神と物体および身体について私が気づくこと)
§406 Surface of 《QSUV》
(1) The 1st surface of 《QSUV》(ずっと健康でいるために経験すること) (2) The 2nd surface of 《QSUV》(ずっと健康でいるために感じること) (3) The 3rd surface of 《QSUV》(精神を触発するのは、せいぜい脳の一部にすぎない)
凡例
引用するにあたって、出典は文中に括弧で示した。その左項は、『省察』の序数(「第六省察」については6とした)と、ADAM& TANNERY版(AT.)の各段落およびそのなかの句・節とに準じて、本論文の筆者(K.-m. as the SHYNAMITES)が任意に区分したものである。また右項は、同AT版第VII巻の頁数と行数、ならびに第二版(E.)の頁数と行数である。
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
* 翻訳(上記以外)
(デカルト研究会 編『現代デカルト論集I フランス篇』所収、勁草書房、1996)
-H-
(湯川 佳一郎・小林 道夫 編『デカルト読本』所収、法政大学出版局、1998) -K-
(デカルト研究会 編『現代デカルト論集III 日本篇』所収、勁草書房、1996) 倉田 隆「方法論--『規則論』と『方法序説』第二部」
(湯川 佳一郎・小林 道夫 編『デカルト読本』所収、法政大学出版局、1998) 小泉 義之『デカルト=哲学のすすめ』(講談社現代新書、1996)
(湯川 佳一郎・小林 道夫 編『デカルト読本』所収、法政大学出版局、1998) 古賀 祥二郎「自然学の基礎づけ--物質的事物の本質と存在」
(湯川 佳一郎・小林 道夫 編『デカルト読本』所収、法政大学出版局、1998)
-M-
(湯川 佳一郎・小林 道夫 編『デカルト読本』所収、法政大学出版局、1998) -R- (デカルト研究会 編『現代デカルト論集Ⅰ フランス篇』所収、勁草書房、1996) ジュヌヴィエーヴ・ロディス=レヴィス著/飯塚 勝久 訳『デカルト伝』(未来社、1998)
(デカルト研究会 編『現代デカルト論集III 日本篇』所収、勁草書房、1996) 佐々木 周「驚くべきこと--デカルト「概要/第六省察」Synop.15,20-16,6」
(デカルト研究会 編『現代デカルト論集III 日本篇』所収、勁草書房、1996) 佐藤 公一「方法的懐疑とコギト」
(湯川 佳一郎・小林 道夫 編『デカルト読本』所収、法政大学出版局、1998)
-T-
(デカルト研究会 編『現代デカルト論集III 日本篇』所収、勁草書房、1996)
* 参考資料
(Marvin Gaye 《What's Going On》[UICY-7028~9]所収、Motown/Universal Music, 1971/2001)
-G-
(Marvin Gaye 《What's Going On》[UICY-7028~9]所収、Motown/Universal Music, 1971/2001)
-I-
(Marvin Gaye&Tammi Terrell 《GREATEST HITS》[POCT-1953]所収、Motown/POLYDOR, 1970/1998) 泉山 真奈美 解説
(Marvin Gaye 《What's Going On》[UICY-7028~9]所収、Motown/Universal Music, 1971/2001) -K-
(ヤマハ・ミュージック・メディア、1997) 紺野 慧 解説
(Marvin Gaye 《TROUBLE MAN》[POCT-1899]所収、Motown/POLYDOR, 1972/1994)
-O-
(Marvin Gaye《Midnight Love&the Sexual Healing Sessions》[CS-8817~8]所収、Sony Music Entertainment,1982/1998) -R-
(Marvin Gaye《VULNERABLE》[POCT-1926]所収、Motown/POLYDOR,1997) David RITZ 解説/藤林 初枝 訳
(Marvin Gaye《Midnight Love&the Sexual Healing Sessions》[CS-8817~8]所収、Sony Music Entertainment,1982/1998) Smokey ROBINSON 著(序文)/泉山 真奈美 訳
(Marvin Gaye 《What's Going On》[UICY-7028~9]所収、Motown/Universal Music, 1971/2001) -T- -Y- produced and arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出: "What a cool believes"(blog),June 23 and 25,2007. The HARVEST and DIGESTS on That's Fusion, Not Confusion.--part 3
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996. ...(頁、行) E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994. ...(頁、行) cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991) ...(6=「第六省察」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)
The HARVEST and DIGESTS(part 3)
on That's Fusion, Not Confusion.
要点と結論(序を兼ねて)--其の参
第三の要点は、次のとおりである。
(2001年記)
presented by K.-m. as the SHYNAMITES. 初出:"What a cool believes"(blog),June 20,2007.
The HARVEST and DIGESTS on That's Fusion, Not Confusion.--part 2
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996. ...(頁、行) E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994. ...(頁、行) cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991) ...(6=「第六省察」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)
The HARVEST and DIGESTS(part 2)
on That's Fusion, Not Confusion.
要点と結論(序を兼ねて)--其の弐
第二の要点は、次のとおりである。
presented by K.-m. as the SHYNAMITES. 初出:"What a cool believes"(blog),June 19,2007.
The HARVEST and DIGESTS on That's Fusion, Not Confusion.--part 1
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996. ...(頁、行) E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994. ...(頁、行) cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991) ...(6=「第六省察」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)
The HARVEST and DIGESTS(part 1)
on That's Fusion, Not Confusion.
要点と結論(序を兼ねて)--其の壱
本論文は、デカルトの「第六省察」を扱うにあたって、同じくデカルトの「幾何学」を利用したものであり、三つの部から成 る。第一部においては、「第六省察」の各段落(ADAM & TANNERY版に準拠)を分解したのち、三重構造として再編成した。第二部では、かの三重構造を保ちながら、数段落ずつを連結したところ、三つの組に なった。さらに第三部では「第六省察」の前半・後半の区分を取り除いて、全段落を連結したところ、三本一組の筋になった。
presented by K.-m. as the SHYNAMITES. 初出:"What a cool believes"(blog),June 18,2007.
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