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    Let's take this All-Ranged Juice--Contents

    Arrangement and performance about Rene DESCARTES'〈Praefatio ad Lectorem〉
    treated with his own analytical geometry.
    (in March 08-April 29,2001 & AFTER THIS,2007)

      Contents of ALL-RANGED JUICE 
    (Not "Orange Juice.")
    『省察』「読者への序言」解析幾何学的処理・目次
      
    §700:The Harvest and Digests--結論と要点(序を兼ねる)

    第1章:分析(§§701-709)
    (1) One extreme line of 《AB》(当時の説明は、一般にはあまり用いられていなかった)
    (2) The other extreme line of 《AB》(当時の説明は、あまり詳しくなかった)
    (3) The moderate line of 《AB》(当時の説明は、まだ整備されていなかった)

    §702 Line of 《C》(質疑その一:思惟する事物について)
    (1) The moderate line of 《C》(思惟する事物に秩序があるのは、私の知得においてのみだ)
    (2) One extreme line of 《C》(私の本質に属するのは、思惟する事物だけだ)
    (3) The other extreme line of 《C》(事物の真理に関しては、私以外のものにも秩序がある)

    §703 Line of 《D》(質疑その二:私より完全な事物の観念について)
    (1) The moderate line of 《D》(観念という語の二つの意味)
    (2) One extreme line of 《D》(観念という語が質料的にとられた場合)
    (3) The other extreme line of 《D》(観念という語が質料性と反対の意味にとられた場合)

    §704 Line of 《E(Part 1)》(議論・反駁について)
    (1) One extreme line of 《E(Part 1)》(偽であり、理に縁なき議論)
    (2) The other extreme line of 《E(Part 1)》(洗脳されたままでの判断)
    (3) The moderate line of 《E(Part 1)》(真で堅固な反駁)

    §705 Line of 《E(Part 2)》(無神論について)
    (4) The moderate line of 《E(Part 2)》(無神論者たちの拠り所)
    (5) One extreme line of 《E(Part 2)》(把握しきれない無限なものこそ神である)
    (6) The other extreme line of 《E(Part 2)》(我々の精神を有限なものとして扱え)


    §706 Line of 《F(Part 1)》(『省察』のねらい)
    (1) One extreme line of 《F(Part 1)》(精神を感覚から引き離せ)
    (2) The other extreme line of 《F(Part 1)》(精神をすべての予断から引き離せ)
    (3) The moderate line of 《F(Part 1)》(私とともに本気で省察せよ)

    §707 Line of 《F(Part 2)》(『省察』の読み方について)
    (4) One extreme line of 《F(Part 2)》(連鎖と脈絡とを把握せよ)
    (5) The other extreme line of 《F(Part 2)》(論ってあざけったところで...)
    (6) The moderate line of 《F(Part 2)》(しきたりの中にいるうちは難しかろう)

    §708 Line of 《G(Part 1)》(他人を納得させることについて)
    (1) One extreme line of 《G(Part 1)》(真理の認識に至る術で他人を納得させうるか)
    (2) The other extreme line of 《G(Part 1)》(私が納得した根拠で他人は納得するか)
    (3) The moderate line of 《G(Part 1)》(他人を納得させうるかどうか、思索で実験する)

    §709 Line of 《G(Part 2)》(「反論と答弁」について)
    (4) One extreme line of 《G(Part 2)》(『省察』そのものだけでは難しかろう)
    (5) The other extreme line of 《G(Part 2)》(反論の中には重要な着想があるかもしれない)
    (6) The moderate line of 《G(Part 2)》(重要なものには、まだ誰も触れていない)


    第2章:表現(§§711-713)
    §711 Views of 《ABF1G2》
    (1) The 1st View of 《ABF1G2》(本気でない者、通るべからず)
    (2) The 2nd View of 《ABF1G2》(読者からの名案を乞う)
    (3) The 3rd View of 《ABF1G2》(読者からの非難について)

    §712 Views of 《ABCDE2G1G2》
    (1) The 1st View of 《ABCDE2G1G2》(事物の本質から実験開始)
    (2) The 2nd View of 《ABCDE2G1G2》(有限なる私だが、それなりに...)
    (3) The 3rd View of 《ABCDE2G1G2》(どこまで知りつくせるか...)

    §713 Views of 《ABE1F2G2》
    (1) The 1st View of 《ABE1F2G2》(鼻であしらわれるべき議論)
    (2) The 2nd View of 《ABE1F2G2》(私の根拠を踏まえよ)
    (3) The 3rd View of 《ABE1F2G2》(しきたり住まいの井戸端会議)

    第3章:演出(§§721-723)

    凡例
       引用するにあたって、出典は文中に括弧で示した。その左項は、『省察』の序数(「読者への序言」については便宜上7とした)と、 ADAM&TANNERY版(AT.)の各段落およびそのなかの句・節とに準じて、本論文の筆者(K.-m. as the SHYNAMITES)が任意に区分したものである。
      また右項は、同AT版第VII巻の頁数と行数、ならびに第二版(E.)の頁数と行数である。

    AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
    E.:
    TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
      cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)

    produced and arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
    初出:"What a cool believes"(blog),Apr.22,2007.


    The HARVEST and DIGESTS on All-Ranged Juice--part 3

    AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY,
    nouvelle édition, J.VRIN, Paris,1996.
     
    ...(頁、行)
    E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
      
    ...(頁、行)
      cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
      
    ...(7=「読者への序言」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)

    The HARVEST and DIGESTS(part 3) on ALL-RANGED JUICE
    要点と結論(序を兼ねて)--其の参
     

      第三の要点は、次のとおりである。
      すなわち、「‘省察’において私の開陳する」のが「その思索そのもの」(7.G103:AT.VII,10.09-10/E.P06.14-16)だろうが、その思索をとおして「この私が納得した」根拠によって(7.G106: AT.VII,10.13/E.P06.19-20)、はたして「他の人たちをもまた納得させることができる」のか(7.G107:AT.VII, 10.13-14/E.P06.20-21)、ということである。
    というのも、「神と人間的精神と」(7.A101:AT.VII, 07.01/E.P01.04-06)いう「それら」の問題を「説明するために私が辿る道は、あまり整って」なく、「なじんで」ない(7.A301: AT.VII,07.08-09/E.P01.13-14)からである。

      とはいえ「第一点」として(7.C101:AT.VII,07.20/E.P02.13)、「私が」議論を「おこなっていた」のは (7.C201:AT.VII,08.07/E.P02.24)、「私が思惟する事物であるということ」だけである(7.C204:AT.VII, 08.10-11/E.P03.04-05)。「どんな仕方で」「私が示す」(7.C301:AT.VII,08.12/E.P03.06-07)のかはともかく、「帰結」されるのは、すなわち、思惟することの「ほかには何も実際に」真なる事物として「私」の本質には「属さない」、ということである(7.C303: AT.VII,08.14-15/E.P03.09-11)。いかにして示されようとも、思惟するしかないのが「私」なのである。
    しかし他方、「そこでは」ほかのものすべてを「排除したいのではなかった」の「もまた」、じつは「私」(7.C201:AT.VII,08.06/E.P02.21- 22)である。何せ、それらも「事物として真たることそのものに」関しては「秩序」づけられている(7.C201:AT.VII,08.06- 07/E.P02.22-23)のである。だからこそ、ただ思惟する事物であることにおいてのみ「存立している」のは、人間的精神の「本性、あるいは」いわゆる「本質」であり、こういう「帰結」が(7.C103:AT.VII,08.02-03/E.P02.16-17)生じる、と「答える」のは「私」 (7.C201:AT.VII,08.05/E.P02.21)である。

      つぎに「もう一つの点」として(7.D101:AT.VII,08.16/E.P03.11)、「私より完全な事物の観念を私のうちに私がもっているということ」(7.D102:AT.VII,08.16-17/E.P03.11-12)について云えば、この帰結は、「私より完全な事物の観念が私のうちに在るということだけから」「いかにして」かはともかく、というよりむしろ、どうしても、生じて(7.D401: AT.VII,08.25-26/E.P04.01-02)しまうのであって、そのように「答える」のも「私」(7.D200:AT.VII,08.19 -20/E.P03.16-17)である。「私」のなかに在る観念のほうが、「私」よりも完全なのである。なるほど「観念という語」 (ibid.7.D200:AT.VII,08.20/E.P03.17)は、「質料的に」「受け取られることができる」が(7.D301: AT.VII,08.20-21/E.P03.17-18)、「その意味では、私より完全だ、と云うことなんてできない dici nequit」し(7.D303:AT.VII, 08.21-22/E.P03.19-20)、「そうした事物」が「知性の外に実在することは想定されない」(7.D306:AT.VII,08.23- 24/E.P03.21-23)。

      精神を「すべての予断や先入見から」(7.F304:AT.VII,09.26/E.P05.20-21)「引き離すことができるようになる」人々には、「そしてまた」引き離そうという「意志をもつようになる」(7.F305:AT.VII,09.26- 27/E.P05.21)人々には、「ごく僅か」しか「遭遇」しないが、そのような人々のことを「充分に」「知っている」のが「私」(7.F306: AT.VII,09.27-28/E.P05.22-23)である。
      だから、「私」は、誰かが「これを読む」のを「促す」こともない(7.F301:AT.VII,09.24/E.P05.17-18)。ましてや、「或る人にとっては困難に思われそうなものすべてを私が予見できる」かどうかについては、「私」は「さほど自負していない」ので、「確信」しえないだろう(7.G102:AT.VII,10.07- 09/E.P06.11-14)。

      幸い、「気持ち ingenio と教養 doctrinâとに」おいては「卓越して」いる(7.G201:AT.VII,10.15-16/E.P06.22-23)彼らが、「充分に多くのこと、そして様々なこと」を、反論してくれた(7.G301:AT.VII,10.17-18/E.P07.02-03)のは、「これら‘省察’」 (7.G202:AT.VII,10.16/E.P06.23-24)に対してである。ただ、「少なくとも何らかの重要なもの」(7.G303: AT.VII,10.19/E.P07.05)には、彼らは「まだ触れていない」(7.G305:AT.VII,10.20/E.P07.06-07)。その、ひじょうに「重要なもの」だと「私には思われた」(7.A201:AT.VII,07.07/E.P01.10-11)問題が、すなわち「神と人間的精神とについての問題」(7.A101:AT.VII,07.01/E.P01.04-06)である。

      これらには「すでに前に」「私は手短に触れたことがあって」、それは『理性を正しく導きつつ、諸学問において真理を探究するための方法についての叙説』においてである(7.A101:AT.VII,07.01-03/E.P01.04-09)。「1637年に」その書を「フランス語で出版」した(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.06)ので、まず、もし何か非難されそうなものがあれば、それについては、読者こそが「私に」対して「厭わずに忠告していたはず」(7.B102: AT.VII,07.15-16/E.P02.07-08)なのだが、残念ながら、それが「緊要であるか、もしくは答弁に値する」ようなことは、どうやら「容易には」起こら「ないだろう」(7.F502:AT.VII,10.04-05/E.P06.07-09)、ということらしく、せいぜい、「ただ一字一句だけ」を (7.F403:AT.VII,09.30/E.P06.02)「論うことに」かまけているうちに(7.F405:AT.VII, 10.01/E.P06.03-04)「おそらく多くの点で機会を見つけだして」は「あざける」(7.F501:AT.VII,10.02- 04/E.P06.05-07)だけだろうし、また、そのようにして「何か」を「反論」した(7.F502:AT.VII,10.04- 05/E.P06.08-09)つもりになっているのだろう。

      それでも「今」のところは、「人様の判断を一度はなんとか見聞きすることでもって経験して」おくのも「私」だし(7.F101:AT.VII, 09.19-20/E.P05.09-11)、また、せめて神、および、人間としての精神という、「これら」二つの点に対しては、「ここで手短に」(7.B203: AT.VII,07.18/E.P02.10)「答えておこう」としたのも「私」だ(7.B205:AT.VII,07.19/E.P02.12- 13)。

      ただ残念なことに、ほかに「私が見た」「或る二つの文章」は、「なるほど」「相当に長い」ものだったが(7.E101: AT.VII,08.29-30/E.P04.04-06)、そこにみられる「類いの議論は何の力をももつことができない」のだ(7.E201: AT.VII,09.01-03/E.P04.10-12)。何しろ、そうした議論は「偽」であり、「理とか根拠とかに縁がない」(7.E205:AT.VII, 09.05-06/E.P04.15-16)ので、「ここではそれらに対して答えたくない」のが「私」なのだ(7.E210:AT.VII,09.07- 08/E.P04.18-19)。

      さらに、人々に「関して」(7.F401:AT.VII,09.28/E.P05.23-24)は、「ただ一般的に」だけとはいえ、「私は云う」ことにする(7.E301:AT.VII,09.08-09/E.P04.20-21)。
    すなわち、なんと‘無神論者たち’によれば、「神には人間みたいな感情が添付されている」そうだが(7.E304:AT.VII,09.11- 12/E.P04.23-24)、「有限なものとして考察されるべき」なのはあくまで「我々の精神だ」(7.E401:AT.VII,09.14- 16/E.P05.04-06)。そして、このことを「単に思い出しているだけ」なのが「我々」のはずで(7.E401:AT.VII,09.14- 16/E.P05.04-06)ある。よって、「我々にとって」‘無神論者たち’の言い分は決して困難の源にはならないだろう(7.E403: AT.VII,09.17-18/E.P05.08-09)。

    *****

      以上、要点が三つ揃った。
      結論は以下のとおりである。すなわち、諸々の意見に対して何かを反論するということが、もし容易に起こるならば、それはきわめて重要であり、また、根拠のある答えに匹敵するのである。

      ところで、何かを為すことだけで、はたして神たりうるのか。また、何かを為すことだけで、はたして神たるべきなのか。
       なるほど、一般から隔たっている道を辿ってしまっている「私」だからこそ、神についてとか、人間としての精神についてとか、再度議論をするべきだと自分で判断していた。しかし、あまり整ってない道を「私」がわざわざ辿るのは、あくまで説明するためにすぎないので、その説明をやたらに詳しくし過ぎるのは無駄である。
      よって、ここでは、二点だけ述べておく。すなわち、第一点は、どうしても我々によって捉えられないのが神であり、そもそも無限なのが神である、ということだ。もう一点は、有限なのはあくまで、我々の精神だ、ということである。
      以上を結論として、論じ終えることにする。

    presented by K.-m. as the SHYNAMITES.

    初出:"Whatr a cool believes"(blog),Apr.21,2007.

    * 語句を一部、訂正致しました(2009/9/11-9/13)。

    The HARVEST and DIGESTS on All-Ranged Juice--part 2

    AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY,
    nouvelle édition, J.VRIN, Paris,1996.
     
    ...(頁、行)
    E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
      
    ...(頁、行)
      cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
      
    ...(7=「読者への序言」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)

    The HARVEST and DIGESTS(part 2) on ALL-RANGED JUICE
    要点と結論(序を兼ねて)--其の弐
      第二の要点は、次のとおりである。
      すなわち、「私」は「確実」に「そして明証的」に 「真理」を「認識」するに「至った」、と「私には思われる」(7.G104:AT.VII,10.10-12/E.P06.16-18)が、はたしてそのようにして「他の人たちをもまた納得させることができる」のか(7.G107:AT.VII,10.13-14/E.P06.20-21)、ということで ある。
    というのも、「神と人間的精神と」いう(7.A101:AT.VII,07.01/E.P01.04-05)、「それら」の問題について は、もう一度議論が「為されるべきだ、と私は判断していた」(7.A202:AT.VII,07.07-08/E.P01.15-16)ので、それをやたらに「詳しく説くこと」は「無用だ」と「私は思い込んでいた」(7.A303:AT.VII,07.10/E.P01.19)からである。

      何せ、まず「第一点」として(7.C101:AT.VII,07.20/E.P02.13)、「みずからのうちに思惟する機能 facultatem をもつ事物」(7.C205:AT.VII,08.11-12/E.P03.05-06)だけが「実際に」真なる事物として「私の本質に属する」ものだ、ということは「帰結する」(7.C303:AT.VII,08.14-15/E.P03.08-11)。その一方で、みずからを「思惟する事物であるということ」 (7.C104:AT.VII,08.03/E.P02.17-18)は、「私」によって「知得だか知覚だか」をされるかぎりで、「秩序」づけられているにすぎない (7.C202:AT.VII,08.08/E.P02.24-P03.01)。つまり、あくまでも思惟するのは「私」であり、他方、せいぜい思惟するのが「私」であるにすぎない。

      つぎに「もう一つの点」として(7.D101:AT.VII,08.16/E.P03.11)、「私」より完全な事物の 「観念そのものが、私より完全であること」について(7.D103:AT.VII,08.17-18/E.P03.12-14)、この「観念という語において等しく呼ばれる」二つのことがある(7.D200:AT.VII,08.20/E.P03.16-17)。すなわち、「知性の作用」として (7.D302:AT.VII,08.21/E.P03.18-19)の意味と、「そうした作用によって表象され再現された事物」として(7.D305: AT.VII,08.22-23/E.P03.20-21)の意味とである。

      「精神を感覚から」(7.F303:AT.VII,09.25-26/E.P05.19-20)「引き離すことができるようになり、そしてまた」引き離そうという「意志をもつようになる」(7.F305:AT.VII,09.26-27/E.P05.21)人々には、「ごく僅か」しか「遭遇」しないとはいえ、そのような人々のことを、「充分に知っている」のが「私」だ(7.F306:AT.VII,09.27- 28/E.P05.22-23)から、なにも「読者」が群がることを、「私は期待する」こともない(7.F202:AT.VII,09.23- 24/E.P05.15-17)。ましてや、「他の人々が私に対してすべてにおいて最初に外見で満足しうる」かどうかについては、「私は」そうした他の人々に「全然約束していない」(7.G101:AT.VII,10.06-07/E.P06.09-11)。

      さて一方で、「私が願っておいた」とおり、幸いにも、「気持ち ingenio」においても「教養 doctrinâ」においても「卓越して」いる(7.G201:AT.VII,10.14-16/E.P06.21-23)彼らのもとには、「これら‘省 察'が」(7.G202:AT.VII,10.16/E.P06.23-24)、予め「吟味されるべく送り付けられてある」(7.G204: AT.VII,10.17/E.P07.01-02)。そんな彼らから寄せられてきた反論はひじょうに「多く」て「様々」だった、ということで「充分で」あり(7.G301: AT.VII,10.17-18/E.P07.02-03)、「少なくとも何らかの重要な」(7.G303:AT.VII, 10.19/E.P07.05)着想もありうる(7.G304:AT.VII,10.19-20/E.P07.05-06)はずだ。

      しかし他方で、いわゆる『方法序説』(cf.7.A101:AT.VII,07.02-03/E.P01.06-09) を「1637年に」「フランス語で出版」した(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.09)のだが、神と人間的精神とについての 「それらの問題をそこで精確に取り扱う」つもりは全然なかった(7.A103:AT.VII,07.04-05/E.P01.10-11)。
    というのも、「緊要であるか、もしくは答弁に値するようなものを何か反論する」こと(7.F502:AT.VII,10.04-05/E.P06.07- 09)については、「しきたりのなかに居る」「多くの人たちにとって」(7.F404:AT.VII,09.30-10.01/E.P06.02-03)、 「容易ではない」こと(7.F502:AT.VII,10.04/E.P06.07)だからである。

      しかも、‘無神論者たち’のせいで「公然とはびこっている」もののすべては、よりにもよって「神の実在を攻撃するため」 のものである(7.E302:AT.VII,09.09-10/E.P04.21-23)。それによると、「我々の精神にはひじょうに大きな力と知恵とが授けられている」(7.E305:AT.VII,09.12-13/E.P05.01-02)という。しかし「我々が」いくら「決定し把握しようと試みたり努めたり」しても(7.E307:AT.VII,09.14/E.P05.03-04)「把握しきれない無限なもの」こそが、むしろ「神」なのである (7.E402:AT.VII,09.16-17/E.P05.07-08)。

      「今」のところ「私」は、「人様の判断を一度はなんとか見聞きすることでもって経験して」おくが、「その後で」(7.F101: AT.VII,09.19-20/E.P05.09-11)、「私の書いたもののなかで皆と出くわした」ものが「何か非難に値する」としても(7.B101: AT.VII,07.14-15/E.P02.05-07)、それは「二つ」(7.B202:AT.VII,07.18/E.P02.10)だけだ。しか も、ほかに「私」の見た或る二つの文章で「攻撃されていた」のは、「私」よりも完全な「事物について」の「私」の「根拠」であるが、これはべつに「結論」の如きものでは「ない」し、そのように攻撃したほうの「議論」は、「‘無神論者たち’」に「共通な」議論の「場から借りてきた」ものであった(7.E102:AT.VII, 08.30-09.01/E.P04.06-10)。したがって、「私」が「先に言及」すべきなのは、それらの意見に関してではなくて(7.E211: AT.VII,09.08/E.P04.19-20)、むしろそうした人々に「関して」(7.F401:AT.VII,09.28/E.P05.23- 24)なのである。

      相変わらず、「本末顛倒で薄弱な」「判断」をする人々は多いが(7.E203:AT.VII,09.03- 04/E.P04.12-14)、それもそのはず、そうした人々が、「最初に受け取った諸々の意見によって」(7.E204:AT.VII,09.04- 05/E.P04.14-15)「説得されて」信じ込んだまま(7.E206:AT.VII,09.06/E.P04.16-17)、「後で聞いた」 (7.E208:AT.VII,09.07/E.P04.17-18)のは、「かの意見の反駁」(7.E209:AT.VII, 09.07/E.P04.18)だったのである。

    presented by K.-m. as the SHYNAMITES.
    初出:"What a cool believes"(blog),Apr.15,2007.

    * 語句を一部、訂正致しました(2009/9/11-13)。

    The HARVEST and DIGESTS on All-Ranged Juice--part 1

    AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY,
    nouvelle édition, J.VRIN, Paris,1996.
     
    ...(頁、行)
    E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
      
    ...(頁、行)
      cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
      
    ...(7=「読者への序言」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)

    The HARVEST and DIGESTS(part 1) on ALL-RANGED JUICE
    要点と結論(序を兼ねて)--其の壱
      本論文は、デカルト(DESCARTES,Rene)による『省察』の「読者への序言 PRAEFATIO AD LECTOREM」を扱うにあたって、同じくデカルトの「幾何学」から得たことを応用したものであり、三つの段階から成る。第一段階(§§701- 709)においては、「読者への序言」の各段落(ADAM & TANNERY版に準拠)を分解したのち、三重構造として再編成した。第二段階(§§711-713)では、かの三重構造を保ちながら数段落を連結したと ころ、三つの組になった。すなわち、最初の段落から最後の段落まで3種類(計9通り)の仕方で至ることができた、ということである。さらに第三段階(§§ 721-723)では、「読者への序言」の全段落を連結したので、三本一組の筋になった。

      以上の作業を経たところ、三つの要点が得られたので、まずはそれらを挙げておく。

      第一の要点は、次のとおりである。
      すなわち、はたして「私」が納得したその「同じ根拠 によって」(7.G105:AT.VII,10.12-13/E.P06.18-19)、「他の人たちをもまた納得させることができる」のか (7.G107:AT.VII,10.13-14/E.P06.20-21)、ということである。
    というのも、二つの問題、すなわち「神と人間的精神とについての問題」(7.A101:AT.VII,07.01/E.P01.04-06)を説明するために「私」が辿る道は「一般に使用されていると ころからはあまりにも隔たっている」(7.A302:AT.VII,07.09-10/E.P01.14-15)からである。

      とはいえ、まず「第一点」として(7.C101:AT.VII,07.20/E.P02.13)、「私が認識する」とこ ろによれば、思惟する事物であることの「ほかには何も私の本質に属さない」のである(7.C302:AT.VII,08.13-14/E.P03.07- 09)。つまり、思惟するのは、ほかならぬ「私」なのだ。その一方で、その「ほかのものすべて」は、「‘ただ~のみ'(tantum)という語」によって 「排除」される(7.C105:AT.VII,08.03-04/E.P02.18-19)。だからこそ、「人間としての精神」がみずからのほうへと振り向いて 「知得だか知覚だかをする」のは、すなわち、「みずから」が「思惟する事物であるということ」にほかならない(7.C102:AT.VII,07.20- 08.01/E.P02.13-15)。

      つぎに「もう一つの点」として(7.D101:AT.VII,08.16/E.P03.11)、「私」より完全な事物の 「観念によって表象され再現されたものが実在すること」(7.D104:AT.VII,08.18-19/E.P03.14-15)について、「そうした 事物が実際に」真なる事物として「実在すること」は「帰結する」(7.D402:AT.VII,08.26-27/E.P04.02-03)のだが、そのように「答える」のは 「私」である(7.D200:AT.VII,08.19/E.P03.16)。すなわち、必ずしも「私」ではない、というよりもむしろ、決して「私」ではない事物こそが、私より完全なのである。何せ、「観念という語」(7.D200:AT.VII,08.20/E.P03.17)が質料性とは「反対に」受け取られる場合には(7.D304:AT.VII,08.22/E.P03.20)、「私より完全であること」は、事物「みずからの本質」で「理由」づけられれば、「可能」となる(7.D307:AT.VII,08.24-25/E.P03.23-24)。

      したがって、もし「私の根拠」を「知解」すれば(7.E202:AT.VII,09.03/E.P04.12)、「真で堅固な」(7.E207:AT.VII,09.06/E.P04.17)「反駁」を、諸々の意見に対して(7.E209:AT.VII, 09.07/E.P04.18)おこなうことができるはずだ。しかも、それが「緊要であるか、もしくは答弁に値する」ようなこととして、「容易に」起こる (7.F502:AT.VII,10.04-05/E.P06.07-09)かもしれない。その場合には、「この著作を」読んで「大きな成果」を「収める」ように(7.F406:AT.VII,10.01-02/E.P06.04-05)なったということだろう。
      このよ うに「本気で私とともに省察すること」(7.F302:AT.VII,09.25/E.P05.18-19)の「できるように」なる人々には、「そしてまた」省察しようという「意志をもつようになる」(7.F305:AT.VII,09.26-27/E.P05.21)人々には、「ごく僅か」しか「遭遇」しない(7.F306:AT.VII,09.27-28/E.P05.22-23)が、そのような人々のことを、「充分に」「知っている」のが「私」 (ibid.)である。

      だから、「私」は、べつに「公の拍手喝采」を期待することもない(7.F201:AT.VII,09.22-23/E.P05.15)。

      さて一方で、『理性を正しく導きつつ、諸々の学問において真理を探究するための方法についての叙説』(7.A101: AT.VII,07.02-03/E.P01.06-09)を「1637年に」「フランス語で出版」するという(7.A102:AT.VII,07.03 -04/E.P01.09)打診でもって「私」は「ただ」、読者といわば「協議」のようなことをしたにすぎないが(7.A104:AT.VII,07.05- 06/E.P01.11-13)、「その後でそれら」の問題を「どんな理由で取り扱うのか」、ということを「私」は「読者の判断から学び足す」ことができた (ibid.)。
      のみならず、たとえ「印刷に委ねられる以前」のものであっても(7.G203:AT.VII, 10.16-17/E.P06.24-P07.01)、「気持ち ingenio」においても「教養 doctorinâ」においても「卓越して」いる(7.G201:AT.VII,10.15-16/E.P06.21-23)彼らのもとにあるのが、「これら‘省察’」(7.G202:AT.VII,10.16/E.P06.23-24)である。

      他方、そうした‘省察’が彼ら以外の「いかなる人」にとっても「容易ではない」ことは、「私が敢えて望むところであった」(7.G302:AT.VII,10.18-19/E.P07.03-04)。

      「今」のところ「人様の判断を一度はなんとか見聞きすることでもって経験する」のが「私」だが(7.F101:AT.VII,09.19- 20/E.P05.09-11)、神と人間的精神という、あの二つの「問題について、私が触れていたものにおいて」なされた「反論」は、残念ながら、「留意」には値しなかった(7.B201:AT.VII,07.16-17/E.P02.08-10)。
    ここでは「私はただ一般的に云うだけにする」 (7.E301:AT.VII,09.08-09/E.P04.20-21)が、どうせ、「私の根拠の連鎖と脈絡とを把握することに気を配らない」 (7.F402:AT.VII,09.29-30/E.P05.24-P06.02)ほどに「気持ち ingenia」が「虚弱」なうちは、いくら「信じ」たところで、その道に「みずから進み行くこと」は「できない」(7.A304:AT.VII, 07.12-13/E.P02.02-04)」はずだし、所詮、‘無神論者たち’の言い分の「すべて」(7.E301:AT.VII, 09.09/E.P04.20-21)が「常に依存している」(7.E303:AT.VII,09.11/E.P04.23)のは、あくまで、「神が為すことのできる」のは、そしてまた神が「為さねばならない」のは「いったい何」なの「か」(7.E306:AT.VII,09.13/E.P05.02- 03)、ということに対してであろう。

    presented by K.-m. as the SHYNAMITES.
    初出:"What a cool believes"(blog),Apr.15,2007.

    * 語句を一部、訂正致しました(2009/9/11-13)。

    All-Ranged Juice--3solid-723

    AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY,
    nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
     
    ...(頁、行)
    E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
      
    ...(頁、行)
      cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
      
    ...(7=「読者への序言」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)

    The 3rd Solid of 《ABCDE2G1-E1F2-F1G2》 (§723:限りあってこその拒絶)
    for ALL-RANGED JUICE
    [7.A101-A102-A201-A301-B102-B203-B205] [7.C101-C103-C201-C204-C301-C303]
    [7.D101-D102-D200-D301-D303-D306-D401-D403]
    [7.E301-E304-E401-E403][7.G102-G103-G106-G107] [7.E101-E201-E205-E210][7.F401-F403-F405-F501-F502] [7.F101-F103-F301-F304-F305-F306][7.G201-G202-G301-G303-G305-G403]

        「神と人間的精神とについての問題」には「すでに前に」「私は手短に触れたことがあって」、それは『理性を正しく導きつつ、諸学問において真理を探究するための方法についての叙説』においてである(7.A101:AT.VII,07.01-03/E.P01.04-09)。「1637年に」その書を「フランス語で出版」した(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.09)のは、それらの問題がひじょうに「重要なもの」だと「私には思 われた」(7.A201:AT.VII,07.07/E.P01.13-14)からであるが、「それら」の問題を「説明するために私が辿る道は、あまり 整って」なく、「なじんで」ない(7.A301:AT.VII,07.08-09/E.P01.16-17)。

      ただ、もし何か非難されそうなものがあれば、それについては、読者こそが「私に」対して「厭わずに忠告していたはず」だ(7.B102:AT.VII,07.15-16/E.P02.07-08)。そこでまず、 「これら」二つの点に対しては、
    「ここで手短に」(7.B203:AT.VII,07.18/E.P02.10)「私は答えておこう」(7.B205: AT.VII,07.19/E.P02.12-13)。
      「第一点」として(7.C101:AT.VII, 07.20/E.P02.13)、人間としての精神にとっての「本性、あるいは」いわゆる「本質」なんぞが「存立している」のはただ思惟する事物であることにおいてのみである、という 「帰結」は生じない(7.C103:AT.VII,08.02-03/E.P02.16-17)、と「反論」されているので、「私は答える」 (7.C201:AT.VII,08.05-07/E.P02.21-24)。じつは「私もまた、そこでは」ほかのものすべてを「排除したいのではなかっ た」(ibid.)。というのは、「事物」として「真たることそのものに」関しては、それらも「秩序」づけられている(ibid.)からである。「勿論その場合、私が」議論を「おこなっていた」のは、そうした事物の真理についてではなくて(ibid.)、「私が思惟する事物であるということ」だけである(7.C204:AT.VII,08.10 -11/E.P03.04-05)。「以下に」続く本論において「私が示す」のは、「どんな仕方で」(7.C301:AT.VII, 08.12/E.P03.06-07)「帰結」されれば、思惟することの「ほかには何も実際に」真なる事物として(revera)「私」の本質には「属さない」と云えるのか、ということで ある(7.C303:AT.VII,08.14-15/E.P03.09-11)。

      つぎに「もう一つの点」として(7.D101:AT.VII,08.16/E.P03.11)、「私より完全な事物の観念を私のうちに私がもっているということ」(7.D102:AT.VII,08.16-17/E.P03.11-12)について、「私は答える」 (7.D200:AT.VII,08.19-20/E.P03.16-17)。
      「ここで等しく呼ばれる」二つのことが 「潜んでいる」のは、「観念という語において」であり(ibid.)、その語は「質料的に」「受け取られることもできる」となると(7.D301: AT.VII,08.20-21/E.P03.17-18)、「その意味では、私より完全だ、と云うことなんてできない dici nequit」し(7.D303:AT.VII, 08.21-22/E.P03.19-20)、「そうした事物」が「知性の外に実在することは想定されないはず」だ(7.D306:AT.VII,08.23- 24/E.P03.21-23)。そうなると、「私より完全な事物の観念が私のうちに在るということだけから」「いかにして」帰結が生じるのか (7.D401:AT.VII,08.25-26/E.P04.01-02)、ということが問題となるが、それは「以下」に続く本論にて「詳しく開陳される」ことにな る(7.D403:AT.VII,08.27-28/E.P04.03-04)から、「私はただ一般的に云うだけにする」(7.E301:AT.VII, 09.08-09/E.P04.20-21)。なんと‘無神論者たち’によれば、「神には人間みたいな感情が添付されている」そうだが(7.E304: AT.VII,09.11-12/E.P04.23-24)、「有限なものとして考察されるべき」なのはあくまで「我々の精神だ」ということを、「我々は単に思い出しているだけのはず」であり(7.E401:AT.VII,09.14-16/E.P05.04-06)、それだけでもう、「我々にとって」‘無神論者たち’の言い分は決して困難の源には ならないだろう(7.E403:AT.VII,09.17-18/E.P05.08-09)。しかし、「或る人にとっては困難に思われそうなものすべてを 私が予見できる」かどうかについては、「私」は「さほど自負していない」ので、「確信」しえないだろう(7.G102:AT.VII,10.07- 09/E.P06.11-14)。

      さて、「‘省察’において私の開陳する」のが、「その思索そのもの」(7.G103:AT.VII,10.09- 10/E.P06.14-16)になる「だろう」が、ではその思索をとおして「この私が納得した」根拠によって(7.G106:AT.VII,10.13/E.P06.19-20)、はたして「他の人たちをもまた納得させることができる」のか(7.G107:AT.VII,10.13-14/E.P06.20-21)。

      残念なことに、ほかに「私が見た」「或る二つの文章」は、「なるほど」「相当に長い」ものだったが(7.E101: AT.VII,08.29-30/E.P04.04-06)、そこにみられる「類いの議論は何の力をももつことができない」(7.E201: AT.VII,09.01-03/E.P04.10-12)。というのも、そうした議論は「偽」であり、「理とか根拠とかに縁がない」(7.E205:AT.VII, 09.05-06/E.P04.15-16)からである。それゆえ「私はここではそれらに対して答えたくないのだ」(7.E210:AT.VII, 09.07-08/E.P04.18-19)。

      さらに、人々に「関して」(7.F401:AT.VII,09.28/E.P05.23-24)云わせてもらえば、「ただ一字一句だけ」を(7.F403:AT.VII,09.30/E.P06.02)「論うことに」かまけているうちに(7.F405:AT.VII, 10.01/E.P06.03-04)「おそらく多くの点で機会を見つけだして」は「あざける」だろう(7.F501:AT.VII,10.02- 04/E.P06.05-07)が、そのようにして「何か」を「反論」したつもりになったところで、それが「緊要であるか、もしくは答弁に値する」ようなことは「容易に は」起こら「ないだろう」(7.F502:AT.VII,10.04-05/E.P06.07-09)。

      「今」のところ、「私は人様の判断を一度はなんとか見聞きすることで経験して」おくが、「その後では」(7.F101:AT.VII, 09.19-20/E.P05.09-11)、「第一‘哲学’全体」を「頭」から「取り扱う」ことにする(7.F103:AT.VII,09.21- 22/E.P05.13-14)。よって、「私」が「促す」のは、誰かが「これを読む」ことではなくて(7.F301:AT.VII, 09.24/E.P05.17-18)、精神を「すべての予断や先入見から」(7.F304:AT.VII,09.26/E.P05.20-21)「引き離すことができるようになり、そしてまた」引き離そうという「意志をもつようになる」ことである(7.F305:AT.VII,09.26- 27/E.P05.21)。が、そのような人々には「ごく僅か」しか「遭遇」しないことを、「充分に私は知っている」(7.F306:AT.VII, 09.27-28/E.P05.22-23)から、後で「私が答える」のは「幾人かの人たちの反論に」対してだけにする(7.G201:AT.VII, 10.14-16/E.P06.21-23)。

      幸い、「気持ち」においても「教養」においても「卓越して」いる(ibid.)彼らは、「これら‘省察’」 (7.G202:AT.VII,10.16/E.P06.23-24)に対して「充分に多くのこと、そして様々なこと」を、反論してくれた (7.G301:AT.VII,10.17-18/E.P07.02-03)。しかし「少なくとも何らかの重要なもの」(7.G303:AT.VII, 10.19/E.P07.05)には、彼らは「まだ触れていない」(7.G305:AT.VII,10.20/E.P07.06-07)ので、まずは厭わ ずに「それらの反論と、そうした」反論に対する「解答のすべてとを読み通し」てほしい(7.G403:AT.VII,10.22-23/E.P07.09 -11)。

    arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
    初出:"What a cool believes"(blog),Mar.30,2007.

    * 語句を一部、訂正致しました(2009/9/09-9/13)。

    All-Ranged Juice--2solid-722

    AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY,
    nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
     
    ...(頁、行)
    E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
      
    ...(頁、行)
      cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
      
    ...(7=「読者への序言」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)

    The 2nd Solid of 《ABCDE2G1-E1F2-F1G2》 (§722:人伝ながらも好奇心)
    for ALL-RANGED JUICE
    [7.A101-A102-A103-A202-A303-B101-B202-B204-B205] [7.C101-C104-C202-C205-C303][7.D101-D103-D200-D302-D305-D403] [7.E301-E302-E305-E307-E402-E403][7.G101-G103-G104-G107] [7.E102-E203-E204-E206-E208-E209-E211][7.F401-F404-F502]
    [7.F101-F102-F202-F303-F305-F306]
    [7.G201-G202-G204-G301-G303-G304-G402-G403]

       「神と人間的精神とについての問題」には「すでに前に」「私は手短に触れたことがあって」、それは『理性を正しく導きつつ、諸々の学問において真理を探究するための方法についての叙説』においてである(7.A101:AT.VII,07.01-03/E.P01.04-09)。「1637年に」その書を 「フランス語で出版」した(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.09)のだが、「それらの問題をそこで精確に取り扱う」つもりは 全然なかった(7.A103:AT.VII,07.04-05/E.P01.10-11)。というのも「それら」の問題については、もう一度議論が「為されるべきだ、と私は判断していた」(7.A202:AT.VII,07.07-08/E.P01.14-16)ので、それをやたらに「詳しく説くこと」は「無用だ」 と「私は思い込んでいた」(7.A303:AT.VII,07.10-12/E.P01.19-P02.02)からである。

      そこで、「フランス語でもってあまねくあらゆる人々に読まれるべく書かれたものにおいて」(ibid.)「私が願ってお いた」ところ、「私の書いたもののなかで皆と出くわした」ものが「何か非難に値する」としても(7.B101:AT.VII,07.14-15/E.P02.04-07) 、それは「二つ」(7.B202:AT.VII,07.18/E.P02.10)だけだったので、「それら」の問題を「いっそう精確」に「説明」する前に (7.B204:AT.VII,07.18-19/E.P02.11-12)、「私は答えておこう」(7.B205:AT.VII, 07.19/E.P02.12-13)。

      まず「第一点」として(7.C101:AT.VII,07.20/E.P02.13)、みずからを「思惟する事物である ということ」(7.C104:AT.VII,08.03/E.P02.17-18)は、せいぜい「私」によって「知得」だか知覚だか(perceptionem)されるかぎりで、「秩序」づけられているに すぎない(7.C202:AT.VII,08.08/E.P02.24-P03.01)。とはいえ、「みずからのうちに思惟する機能をもつ事物」 (7.C205:AT.VII,08.11-12/E.P03.05-06)だけが「実際に」真なる事物として(revera)「私の本質に属する」ものだ、ということは「ほかならぬ」「帰結となる」 (7.C303:AT.VII,08.14-15/E.P03.09-11)。
      つぎに「もう一つの点」として (7.D101:AT.VII,08.16/E.P03.11)、「私」より完全な事物の「観念そのものが、私より完全であることは帰結しない」 (7.D103:AT.VII,08.17-18/E.P03.12-14)、という反論に対して「私は答える」(7.D200:AT.VII, 08.19-20/E.P03.16-17)。

      「ここに潜んでいる」のは、「観念という語において等しく呼ばれる」二つのことである(ibid.)。すなわち、「知性 の作用」として(7.D302:AT.VII,08.21/E.P03.18-19)の意味と、「そうした作用によって表象され再現された事物」として (7.D305:AT.VII,08.22-23/E.P03.20-21)の意味とである。それを「詳しく開陳」するのが、「以下」に続く本論である (7.D403:AT.VII,08.27-28/E.P04.03-04)から、ここでは「私はただ一般的に云うだけにする」(7.E301: AT.VII,09.08-09/E.P04.20-21)。結局、‘無神論者たち’のせいで「公然とはびこっている」もののすべては、「神の実在を攻撃するため」のものである(7.E302:AT.VII,09.09-10/E.P04.21-23)。それによると、「我々の精神にはひじょうに大きな力 と知恵とが授けられている」(7.E305:AT.VII,09.12-13/E.P04.24-P05.02)という。しかし「我々が」いくら「決定し把握しようと試みたり努めたり」しても(7.E307:AT.VII,09.14/E.P05.03-04)「把握しきれない無限なもの」こそが「神」な のである(7.E402:AT.VII,09.16-17/E.P05.07-08)から、‘無神論者たち’の主張から産み出されるものは「我々にとって は」困難とはならないはずだ(7.E403:AT.VII,09.17-18/E.P05.08-09)が、だからといって「他の人々が私に対してすべて において最初に外見で満足しうる」かどうかについては、「私は」そうした他の人々に「全然約束していない」(7.G101:AT.VII,10.06- 07/E.P06.09-11)。

      「なるほど、‘省察’において私の開陳する」のが「その思索そのもの」になる「だろう」(7.G103:AT.VII,10.09- 10/E.P06.14-16)。そしてこの思索を「術 ope」として、「私」は「確実」に「そして明証的」に「真理」を「認識」するに「至った」、と「私には思われる」 (7.G104:AT.VII,10.10-12/E.P06.16-18)が、はたしてそのようにして「他の人たちをもまた納得させることができる」の か(7.G107:AT.VII,10.13-14/E.P06.20-21)。

      残念なことに、ほかに「私」の見た或る二つの文章で「攻撃されていた」のが、すなわち「私」よりも完全な「事物について」の 「私」の「根拠」であるが、これはべつに「結論」の如きものでは「ない」し、そのように攻撃したほうの「議論」は、「‘無神論者たち’」に「共通な」議論の「場から借りてきた」も のであった(7.E102:AT.VII,08.30-09.01/E.P04.06-10)。このように「本末顛倒で薄弱な」「判断」をする人々は多い が(7.E203:AT.VII,09.03-04/E.P04.12-14)、それは、そうした人々が「最初に受け取った諸々の意見によって」 (7.E204:AT.VII,09.04-05/E.P04.14-15)「説得されて」信じ込んだまま(7.E206:AT.VII, 09.06/E.P04.16-17)、「後で」その人々の「聞いた」(7.E208:AT.VII,09.07/E.P04.17-18)のが、「かの意見の反駁」 (7.E209:AT.VII,09.07/E.P04.18)だったからである。したがって、「私」が「先に言及」すべきなのは、それらの意見に関して では「なく」て(7.E211:AT.VII,09.08/E.P04.19-20)、むしろそうした人々に「関して」(7.F401:AT.VII, 09.28/E.P05.23-24)なのである。

      ところで「しきたりのなかに居る in more est」「多くの人たちにとって」(7.F404:AT.VII,09.30- 10.01/E.P06.02-03)「容易ではない」ことがある(7.F502:AT.VII,10.04-05/E.P06.07-09)。すなわち それは、「緊要であるか、もしくは答弁に値するようなものを何か反論する」ことであろう(ibid.)。

      「今」のところ「私」は、「人様の判断を一度はなんとか見聞きすることで経験して」いるが、「その後で」(7.F101: AT.VII,09.19-20/E.P05.09-11)、「再び着手する」のは、「神と人間的精神とについての同じその問題」である(7.F102: AT.VII,09.20-21/E.P05.11-13)。よって「私が期待する」のは、決して「読者」が群がることではなくて(7.F202: AT.VII,09.23-24/E.P05.15-17)、「精神を感覚から」(7.F303:AT.VII,09.25-26/E.P05.19- 20)「引き離すことができるようになり、そしてまた」引き離そうという「意志をもつようになる」ことだ(7.F305:AT.VII,09.26- 27/E.P05.21)。が、そのような人々には「ごく僅か」しか「遭遇」しないことを、「私は充分に知っている」(7.F306:AT.VII, 09.27-28/E.P05.22-23)ので、後に「私が答える」のは「幾人かの人たちの反論に」対してだけにする(7.G201:AT.VII, 10.14-16/E.P06.21-23)。

      幸い、「気持ち」においても「教養」においても「卓越して」いる(ibid.)彼らのもとには、「これら‘省察’が」 (7.G202:AT.VII,10.16/E.P06.23-24)、予め「吟味されるべく送り付けられてある」(7.G204:AT.VII, 10.17/E.P07.01-02)。そんな彼らから寄せられてきた反論はひじょうに「多く」て「様々」だった、ということで「充分で」あり(7.G301:AT.VII, 10.17-18/E.P07.02-03)、「少なくとも何らかの重要な」(7.G303:AT.VII,10.19/E.P07.05)着想もありうる(7.G304:AT.VII,10.19-20/E.P07.05-06)はずだ。それゆえ、まだ「‘省察’について判断を下さない」うちに、「先に」 (7.G402:AT.VII,10.21-22/E.P07.08-09)、「それらの反論と、そうした」反論に対する「解答のすべてとを」厭わずに 「読み通し」てほしい(7.G403:AT.VII,10.22-23/E.P07.09-11)。

    arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
    初出:"What a cool believes"(blog),Mar.30,2007.

    * 語句を一部、訂正致しました(2009/9/09-9/13)。

    All-Ranged Juice--1solid-721

    David RITZ 1998:
    David RITZ(解説), Marvin Gaye 《Midnight Love & the Sexual Healing Sessions》[CS-8817~8]所収、
    Sony Music Entertainment,1982/1998.

      I'm worried that I'm getting so introspective,
    no one will listen.
    I can't afford to miss this time.
    --Marvin Gaye (cited from David RITZ 1998,p.9) 

     
    Notes.

    * I'm worried ...
      《Midnight Love》(1982年発表)の制作中に、マーヴィン曰く、「内省的になりすぎてるんじゃないかって、心配になってしまうんだ。誰も興味を持ってくれなかったらどうしようってね」、ただ、「このチャンスを台無しにするわけにはいかない」(藤林 初枝 訳、p.30: Marvin Gaye 《Midnight Love & the Sexual Healing Sessions》[CS-8817~8]所収、Sony Music Entertainment,1982/1998)。

    *****

    AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY,
    nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
     
    ...(頁、行)
    E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
      
    ...(頁、行)
      cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
      
    ...(7=「読者への序言」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)

    The 1st Solid of 《ABCDE2G1-E1F2-F1G2》 (§721:然るべきことを踏まえ給え)
    for ALL-RANGED JUICE
     [7.A101-A102-A104-A302-A304-B201-B203-B205] [7.C101-C102-C105-C203-C302-C303][7.D101-D104-D200-D304-D307-D402-D403] [7.E301-E303-E306-E403][7.G103-G105-G107][7.E202-E207-E209]
    [7.F401-F402-F406-F502] [7.F101-F201-F302-F305-F306]
    [7.G201-G202-G203-G302-G401-G403]

       「神と人間的精神とについての問題」には「すでに前に」「私は手短に触れたことがあって」、それは『理性を正しく導きつつ、諸々の学問において真理を探究するための方法についての叙説』においてである(7.A101:AT.VII,07.01-03/E.P01.04-06)。「1637年に」その書を「フランス語で出版」するという(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.09)打診でもって「私」は「ただ」、読者といわば「協議」のようなことをしたにすぎないが(7.A104:AT.VII,07.05-06/E.P01.11-12)、とはいえ「その後でそれら」の問題を「どんな理由で取り扱うのか」、ということを「私」は「読者の判断から学び足す」ことができた(ibid.)。というのも、それらの問題を説明するために「私」が辿る道は「一般に使用されているところからはあまりにも隔たっている」(7.A302:AT.VII,07.09-10/E.P01.17-18)ので、「気持ち」が「虚弱」なうちはいくら「信じ」たところで、その道に「みずから進み行くこと」は「できない」(7.A304:AT.VII,07.12-13/E.P02.02-04)からである。

      案の定、それら二つの「問題について、私が触れていたものにおいて」なされた「反論」は、「留意」には値しなかった (7.B201:AT.VII,07.16-17/E.P02.08-10)が、「これら」二つの点に対しては、「ここで手短に」(7.B203: AT.VII,07.18/E.P02.10)、「私は答えておこう」(7.B205:AT.VII,07.19/E.P02.12-13)。

      まず「第一点」として(7.C101:AT.VII,07.20/E.P02.13)、「人間」としての「精神」がみずからのほうへと振り向いて「知得だか知覚だかをする」のは、「みずから」が「思惟する事物であるということ」にほかならない(7.C102:AT.VII,07.20- 08.01/E.P02.13-15)。そしてその「ほかのものすべて」は、「‘ただ~のみ’(tantum)という語」によって「排除」されて、それらは「おそらくまた、霊魂の本性に属する」とか、魂にとって自然だとか、「云われうる」のだろうが(7.C105:AT.VII,08.03-05/E.P02.18-20)、それらのものを、「私の本質に」「私の知る」かぎりで「属する」ものとして「私」が「認識すること」は「まったくない」、という「意味なのである」 (7.C203:AT.VII,08.08-10/E.P03.01-04)。要するに、「私が認識する」ところによれば、思惟する事物であることの「ほかには何も私の本質に属さない」のである(7.C302:AT.VII,08.13-14/E.P03.07-09)。

      つぎに「もう一つの点」として(7.D101:AT.VII,08.16/E.P03.11)、「私」より完全な事物の「観念によって表象され再現されたものが実在すること」は帰結しない(7.D104:AT.VII,08.18-19/E.P03.14-15)、という反論に対して「私は答える」(7.D200:AT.VII,08.19-20/E.P03.16-17)。

      「ここで等しく呼ばれる」二つのことが「潜んでいる」のは、「観念という語において」であり(ibid.)、その語が質料性とは「反対に」受け取られる場合には(7.D304:AT.VII,08.22/E.P03.20)、「私より完全であること」は、事物「みずからの本質」で「理由」づけられれば、「可能」となる(7.D307:AT.VII,08.24-25/E.P03.23-24)。したがって、「そうした事物が実際に」真なる事物として(revera)「実在すること」は「帰結する」(7.D402:AT.VII,08.26-27/E.P04.02-03)のだが、このことについては「以下」に続く本論にて、「詳しく開陳される」ことになる(7.D403:AT.VII,08.27-28/E.P04.03-04)から、ここでは「私はただ一般的に云うだけにする」(7.E301:AT.VII,09.08-09/E.P04.20-21)。‘無神論者たち’の言い分の「すべて」(ibid.)が「常に依存している」(7.E303:AT.VII,09.11/E.P04.23)のは、あくまで、「神が為すことのできる」のは、「そしてまた」神が「為さねばならない」のは、「いったい何」なの「か」(7.E306:AT.VII,09.13/E.P05.02-03)、ということに対してであるから、そうした言い分は「いかなる困難をも我々に産み出そうとはしないはずだ」(7.E403:AT.VII,09.17-18/E.P05.08-09)。

      それでは「まず、‘省察’において私が開陳することになる」「その思索そのもの」(7.G103:AT.VII, 10.09-10/E.P06.14-16)をとおして「私」は「実験」に臨むことにしよう(7.G105:AT.VII,10.12- 13/E.P06.18-19)。はたして「私」が納得したその「同じ根拠によって」(ibid.)、「他の人たちをもまた納得させることができる」のか (7.G107:AT.VII,10.13-14/E.P06.20-21)。

      勿論、「私の根拠」を「知解」すれば(7.E202:AT.VII,09.03/E.P04.12)、「真で堅固な」 (7.E207:AT.VII,09.06/E.P04.17)「反駁」を、諸々の意見に対して(7.E209:AT.VII, 09.07/E.P04.18)おこなうことができる。但し残念なことに、人々に「関して」(7.F401:AT.VII,09.28/E.P05.23 -24)云わせてもらえば、「私の根拠の連鎖と脈絡とを把握することに気を配らない」うちは(7.F402:AT.VII,09.29- 30/E.P05.24-P06.02)、「この著作を」読んでも「大きな成果」を「収める」ようにはなら「ない」だろうし(7.F406:AT.VII, 10.01-02/E.P06.04-05)、「何か」を「反論」したところで、それが「緊要であるか、もしくは答弁に値する」ようなことは「容易には」起こら「ないだろう」(7.F502:AT.VII,10.04-05/E.P06.07-09)。

      「今」のところ、「私は人様の判断を一度はなんとか見聞きすることでもって経験して」おくが、「その後で」(7.F101:AT.VII, 09.19-20/E.P05.09-11)「私」が期待するのは、べつに「公の拍手喝采」ではなくて(7.F201:AT.VII,09.22- 23/E.P05.15)、ただ人々が「本気で私とともに省察」(7.F302:AT.VII,09.25/E.P05.18-19)「できるようになり、そしてまた」省察しようという「意志をもつようになる」、ということである(7.F305:AT.VII,09.26-27/E.P05.21)。とはいえ、そのような人々には「ごく僅か」しか「遭遇」しないことを、「充分に私は知っている」(7.F306:AT.VII,09.27- 28/E.P05.22-23)から、後で「私が答える」のは「幾人かの人たちの反論に」対してだけにする(7.G201:AT.VII,10.14- 16/E.P06.21-23)。

      幸い、「気持ち」においても「教養」においても「卓越して」いる(ibid.)彼らのもとにあるのが「‘省察’」だが、「これら」は(7.G202:AT.VII,10.16/E.P06.23-24)「印刷に委ねられる以前」のものであって(7.G203: AT.VII,10.16-17/E.P06.24-P07.01)、そうした‘省察’が彼ら以外の「いかなる人」にとっても「容易ではない」ことは、「私が敢えて望むところであった」(7.G302:AT.VII,10.18-19/E.P07.03-04)。「それゆえ、私は重ね重ね‘読者’に願う」(7.G401:AT.VII,10.20-21/E.P07.07-08)。「それらの反論と、そうした」反論に対する「解答のすべてとを読み通すこと」については、どうか厭わないでほしい(7.G403:AT.VII,10.22-23/E.P07.09-11)。

    arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
    初出:"What a cool believes"(blog),Mar.30,2007.


    * 飾り付けました(2009/5/04)。
    * 語句を一部、訂正致しました(2009/9/09-9/13)。

    All-Ranged Juice--ABE1F2G2(713)

    AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY,
    nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
     
    ...(頁、行)
    E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
      
    ...(頁、行)
      cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
      
    ...(7=「読者への序言」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)

    §713 The VIEWs of 《ABE1F2G2》
    for ALL-RANGED JUICE
    (1) The 1st VIEW of 《ABE1F2G2》(鼻であしらわれるべき議論)
    [7.A101-A102-A104-A302-A304-B201-B203-B205]
    [7.E101-E201-E205-E210][7.F401-F403-F405-F501-F502] [7.G201-G202-G301-G303-G305-G403]

       「神と人間的精神とについての問題」には「すでに前に」「私は手短に触れたことがあって」、それは『理性を正しく導きつつ、諸々の学問において真理を探究するための方法についての叙説』においてである(7.A101:AT.VII,07.01-03/E.P01.04-09)。「1637年に」その書を「フランス語で出版」するという(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.09)打診でもって「私」は「ただ」、読者といわば「協議」のようなことをしたにすぎないが(7.A104:AT.VII,07.05-06/E.P01.11-12)、とはいえ、「その後でそれら」の問題を「どんな理由で取り扱うのか」、ということを「私」は「読者の判断から学び足す」ことができた(ibid.)。というのも、それらの問題を説明するために「私」が辿る道は「一般に使用されているところからはあまりにも隔たっている」(7.A302:AT.VII,07.09-10/E.P01.17-18)ので、「気持ち」が「虚弱」なうちはいくら「信じ」たところで、その道に「みずから進み行くこと」は「できない」(7.A304:AT.VII,07.12-13/E.P02.02-04)からである。

      そこで、それら二つの「問題について、私が触れていたものにおいて」なされた「反論」は、「留意」には値しなかった (7.B201:AT.VII,07.16-17/E.P02.08-10)が、「これら」二つの点に対しては、「ここで手短に」(7.B203: AT.VII,07.18/E.P02.10)、「私は答えておく」(7.B205:AT.VII,07.19/E.P02.12-13)。しかしそれにしても、ほかに「私が見た」「或る二つの文章」は、「なるほど」「相当に長い」ものだったが(7.E101:AT.VII,08.29- 30/E.P04.04-06)、そこにみられる「類いの議論は何の力をももつことができない」(7.E201:AT.VII,09.01- 03/E.P04.10-12)。というのも、そうした議論は「偽」であり、「理とか根拠とかに縁がない」(7.E205:AT.VII,09.05- 06/E.P04.15-16)からである。それゆえ「私はここではそれらに対して答えたくないのだ」(7.E210:AT.VII,09.07- 08/E.P04.18-19)。さらに、人々に「関して」(7.F401:AT.VII,09.28/E.P05.23-24)云わせてもらえば、「ただ一字一句だけ」を(7.F403:AT.VII,09.30/E.P06.02)「論うことに」かまけているうちに(7.F405:AT.VII, 10.01/E.P06.03-04)「おそらく多くの点で機会を見つけだして」は「あざける」だろう(7.F501:AT.VII,10.02- 04/E.P06.05-07)が、そのようにして「何か」を「反論」したつもりになったところで、それが「緊要であるか、もしくは答弁に値する」ようなことは「容易には」起こら「ないだろう」(7.F502:AT.VII,10.04-05/E.P06.07-09)。

      そういうわけで、後に「私が答える」のは「幾人かの人たちの反論に」対してだけにするが、「気持ちと教養とに」おいては「卓越して」いる(7.G201:AT.VII,10.14-16/E.P06.21-23)彼らは、「これら‘省察’」(7.G202:AT.VII, 10.16/E.P06.23-24)に対して「充分に多くのこと、そして様々なこと」を、反論してくれた(7.G301:AT.VII,10.17- 18/E.P07.02-03)。しかし「少なくとも何らかの重要なもの」(7.G303:AT.VII,10.19/E.P07.05)には、彼らは「まだ触れていない」(7.G305:AT.VII,10.20/E.P07.06-07)ので、まずは厭わずに「それらの反論と、そうした」反論に対する「解答のすべてとを読み通し」てほしい(7.G403:AT.VII,10.22-23/E.P07.09-11)。

    (2) The 2nd VIEW of 《ABE1F2G2》(私の根拠を踏まえよ)
    [7.A101-A102-A201-A301-B102-B203-B205]
    [7.E202-E207-E209][7.F401-F402-F406-F502]

    [7.G201-G202-G204-G301-G303-G304-G402-G403]

        「神と人間的精神とについての問題」には「すでに前に」「私は手短に触れたことがあって」、それは『理性を正しく導きつつ、諸学問において真理を探究するための方法についての叙説』においてである(7.A101:AT.VII,07.01-03/E.P01.04-09)。「1637年に」その書を「フランス語で出版」した(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.09)のは、それらの問題がひじょうに「重要なもの」だと「私には思われた」(7.A201:AT.VII,07.07/E.P01.13-14)からであるが、「それら」の問題を「説明するために私が辿る道は、あまり整って」なく、「なじんで」ない(7.A301:AT.VII,07.08-09/E.P01.16-17)。

      ただ、もし何か非難されそうなものがあれば、それについては、読者こそが「私に」対して「厭わずに忠告していたはず」だ(7.B102:AT.VII,07.15-16/E.P02.07-08)。そこでまず、「これら」二つの点に対しては、「ここで手短に」(7.B203:AT.VII,07.18/E.P02.10)「私は答えておく」(7.B205: AT.VII,07.19/E.P02.12-13)が、「私の根拠」を「知解」すれば(7.E202:AT.VII,09.03/E.P04.12)、「真で堅固な」(7.E207:AT.VII,09.06/E.P04.17)「反駁」を、諸々の意見に対して(7.E209:AT.VII, 09.07/E.P04.18)おこなうことができる。しかし他方、人々に「関して」(7.F401:AT.VII,09.28/E.P05.23- 24)云わせてもらえば、「私の根拠の連鎖と脈絡とを把握することに気を配らない」うちは(7.F402:AT.VII,09.29- 30/E.P05.24-P06.02)、「この著作を」読んでも「大きな成果」を「収める」ようにはなら「ない」だろうし(7.F406:AT.VII, 10.01-02/E.P06.04-05)、「何か」を「反論」したところで、それが「緊要であるか、もしくは答弁に値する」ようなことは「容易には」起こら「ないだろう」(7.F502:AT.VII,10.04-05/E.P06.07-09)。

      そういうわけで、後に「私が答える」のは「幾人かの人たちの反論に」対してだけにするが、「気持ちと教養とに」おいては「卓越して」いる(7.G201:AT.VII,10.14-16/E.P06.21-23)彼らのもとには、「これら‘省察’が」(7.G202: AT.VII,10.16/E.P06.23-24)、予め「吟味されるべく送り付けられてある」(7.G204:AT.VII, 10.17/E.P07.01-02)。そんな彼らから寄せられてきた反論はひじょうに「多く」て「様々」だった、ということで「充分で」あり(7.G301:AT.VII, 10.17-18/E.P07.02-03)、「少なくとも何らかの重要な」(7.G303:AT.VII,10.19/E.P07.05)着想もありうる(7.G304:AT.VII,10.19-20/E.P07.05-06)はずだ。それゆえ、まだ「‘省察’について判断を下さない」うちに、「先に」 (7.G402:AT.VII,10.21-22/E.P07.08-09)、「それらの反論と、そうした」反論に対する「解答のすべてとを」厭わずに「読み通し」てほしい(7.G403:AT.VII,10.22-23/E.P07.09-11)。

    (3) The 3rd VIEW of 《ABE1F2G2》(しきたり住まいの井戸端会議)
    [7.A101-A102-A103-A202-A303-B101-B202-B204-B205] [7.E102-E203-E204-E206-E208-E209-E211][7.F401-F404-F502]
    [7.G201-G202-G203-G302-G401-G403]

        「神と人間的精神とについての問題」には「すでに前に」「私は手短に触れたことがあって」、それは『理性を正しく導きつつ、諸々の学問において真理を探究するための方法についての叙説』においてである(7.A101:AT.VII,07.01-03/E.P01.04-09)。「1637年に」その書を「フランス語で出版」した(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.09)のだが、「それらの問題をそこで精確に取り扱う」つもりは全然なかった(7.A103:AT.VII,07.04-05/E.P01.10-11)。というのも「それら」の問題については、もう一度議論が「為されるべきだと私は判断していた」(7.A202:AT.VII,07.07-08/E.P01.14-16)ので、それをやたらに「詳しく説くこと」は「無用だ」と「私は思い込んでいた」(7.A303:AT.VII,07.10-12/E.P01.19-P02.02)からである。

      そこで、「フランス語でもってあまねくあらゆる人々に読まれるべく書かれたものにおいて」(ibid.)「私が願っておいた」ところ、「私の書いたもののなかで皆と出くわした」ものが「何か非難に値する」としても(7.B101:AT.VII,07.14-15/E.P02.04-07)、それは「二つ」(7.B202:AT.VII,07.18/E.P02.10)だけだったので、「それら」の問題を「いっそう精確」に「説明」する前に (7.B204:AT.VII,07.18-19/E.P02.11-12)、「私は答えておこう」(7.B205:AT.VII, 07.19/E.P02.12-13)。

      それにしても、しかし、ほかに「私」の見た或る二つの文章で「攻撃されていた」のが、すなわち「私」よりも完全な「事物について」の「私」の「根拠」であるが、これはべつに「結論」の如きものでは「ない」し、そのように攻撃したほうの「議論」は、「‘無神論者たち’」に「共通な」議論の「場から借りてきた」ものであった(7.E102:AT.VII,08.30-09.01/E.P04.06-10)。このように「本末顛倒で薄弱な」「判断」をする人々は多いが(7.E203:AT.VII,09.03-04/E.P04.12-14)、それは、そうした人々が「最初に受け取った諸々の意見によって」 (7.E204:AT.VII,09.04-05/E.P04.14-15)「説得されて」信じ込んだまま(7.E206:AT.VII, 09.06/E.P04.16-17)、「後で」その人々の「聞いた」(7.E208:AT.VII,09.07/E.P04.17-18)のが、「かの意見の反駁」 (7.E209:AT.VII,09.07/E.P04.18)だったからである。したがって、「私」が「先に言及」すべきなのは、それらの意見に関してでは「なく」て(7.E211:AT.VII,09.08/E.P04.19-20)、むしろそうした人々に「関して」(7.F401:AT.VII, 09.28/E.P05.23-24)なのである。「しきたりのなかに居る in more est」「多くの人たちにとって」(7.F404:AT.VII,09.30- 10.01/E.P06.02-03)「容易ではない」ことがある(7.F502:AT.VII,10.04-05/E.P06.07-09)。すなわちそれは、「緊要であるか、もしくは答弁に値するようなものを何か反論する」ことであろう(ibid.)。

      そういうわけで、後に「私が答える」のは「幾人かの人たちの反論に」対してだけにするが、「気持ちと教養とに」おいては「卓越して」いる(7.G201:AT.VII,10.14-16/E.P06.21-23)彼らのもとにある「これら‘省察’は」(7.G202: AT.VII,10.16/E.P06.23-24)「印刷に委ねられる以前」のものであって(7.G203:AT.VII,10.16- 17/E.P06.24-P07.01)、そうした‘省察’が彼ら以外の「いかなる人」にとっても「容易ではない」ことは、「私が敢えて望むところであった」(7.G302:AT.VII,10.18-19/E.P07.03-04)。「それゆえ、私は重ね重ね‘読者’に願う」(7.G401: AT.VII,10.20-21/E.P07.07-08)。「それらの反論と、そうした」反論に対する「解答のすべてとを読み通すこと」については、どうか厭わないでほしい(7.G403:AT.VII,10.22-23/E.P07.09-11)。

    arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
    初出:"What a cool believes"(blog),Mar.29,2007.

    * 語句を一部、訂正致しました(2009/8/30-9/13)。

    All-Ranged Juice--ABCDE2G1G2(712)

    AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY,
    nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
     
    ...(頁、行)
    E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
      
    ...(頁、行)
      cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
      
    ...(7=「読者への序言」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)

    §712 The VIEWs of 《ABCDE2G1G2》
     for ALL-RANGED JUICE
    (1) The 1st VIEW of 《ABCDE2G1G2》(事物の本質から実験開始)
    [7.A101-A102-A104-A302-A304-B201-B203-B205] [7.C101-C102-C105-C203-C302-C303][7.D101-D104-D200-D304-D307-D402-D403] [7.E301-E303-E306-E403]
    [7.G103-G105-G107] [7.G201-G202-G203-G302-G401-G403]
        「神と人間的精神とについての問題」には「すでに前に」「私は手短に触れたことがあって」、それは『理性を正しく導きつつ、諸々の学問において真理を探究するための方法についての叙説』においてである(7.A101:AT.VII,07.01-03/E.P01.04-09)。「1637年に」その書を 「フランス語で出版」するという(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.09)打診でもって「私」は「ただ」、読者といわば「協議」のようなことをしたにすぎないが(7.A104:AT.VII,07.05-06/E.P01.11-12)、とはいえ、「その後でそれら」の問題を「どんな理由で取り扱うのか」、ということを 「私」は「読者の判断から学び足す」ことができた(ibid.)。というのも、それらの問題を説明するために「私」が辿る道は「一般に使用されているとこ ろからはあまりにも隔たっている」(7.A302:AT.VII,07.09-10/E.P01.17-18)ので、「気持ち」が「虚弱」なうちはいくら 「信じ」たところで、その道に「みずから進み行くこと」は「できない」(7.A304:AT.VII,07.12-13/E.P02.02-04)からで ある。

      そこで、それら二つの「問題について、私が触れていたものにおいて」なされた「反論」は、「留意」には値しなかった (7.B201:AT.VII,07.16-17/E.P02.08-10)が、「これら」二つの点に対しては、「ここで手短に」(7.B203: AT.VII,07.18/E.P02.10)、「私は答えておこう」(7.B205:AT.VII,07.19/E.P02.12-13)。

      まず「第一点」として(7.C101:AT.VII,07.20/E.P02.13)、「人間」としての「精神」がみずからのほうへと振り向いて「知得だか知覚だかをする」のは、「みずから」が「思惟する事物であるということ」にほかならない(7.C102:AT.VII,07.20- 08.01/E.P02.13-15)。そしてその「ほかのものすべて」は、「‘ただ~のみ’(tantum)という語」によって「排除」されて、 それらは「おそらくまた、霊魂の本性に属する」とか、魂にとって自然だとか、「云われうる」のだろうが(7.C105:AT.VII,08.03-05/E.P02.18-20)、 それらのものを、「私の本質に」「私の知る」かぎりで「属する」ものとして「私」が「認識すること」は「まったくない」、という「意味なのである」 (7.C203:AT.VII,08.08-10/E.P03.01-04)。要するに、「私が認識する」ところによれば、思惟する事物であることの「ほ かには何も私の本質に属さない」のである(7.C302:AT.VII,08.13-14/E.P03.07-09)。

      つぎに「もう一つの点」として(7.D101:AT.VII,08.16/E.P03.11)、「私」より完全な事物の 「観念によって表象され再現されたものが実在すること」は帰結しない(7.D104:AT.VII,08.18-19/E.P03.14-15)、という 反論に対して「私は答える」(7.D200:AT.VII,08.19-20/E.P03.16-17)。

      「ここで等しく呼ばれる」二つのことが「潜んでいる」のは、「観念という語において」であり(ibid.)、その語が質 料性とは「反対に」受け取られる場合には(7.D304:AT.VII,08.22/E.P03.20)、「私より完全であること」は、事物「みずからの 本質」で「理由」づけられれば、「可能」となる(7.D307:AT.VII,08.24-25/E.P03.23-24)。したがって、「そうした事物が実際に」真なる事物として(revera)「実在すること」は「帰結する」(7.D402:AT.VII,08.26-27/E.P04.02-03)のだが、このことについては「以下」に続く本論にて、「詳しく開陳される」ことになる(7.D403:AT.VII,08.27-28/E.P04.03-04)から、ここでは「私はただ一般的に 云うだけにする」(7.E301:AT.VII,09.08-09/E.P04.20-21)。‘無神論者たち’の言い分の「すべて」(ibid.)が 「常に依存している」(7.E303:AT.VII,09.11/E.P04.23)のは、あくまで「いったい何を神は為すことができるのか、そしてまた為さねば ならないか」(7.E306:AT.VII,09.13/E.P05.02-03)、ということに対してであるから、そうした言い分は「いかなる困難をも我々に産み出そうとはしないはずだ」(7.E403:AT.VII,09.17-18/E.P05.08-09)。

      それでは「まず、‘省察’において私が開陳することになる」「その思索そのもの」(7.G103:AT.VII, 10.09-10/E.P06.14-16)をとおして、「私」は「実験」に臨むことにしよう(7.G105:AT.VII,10.12- 13/E.P06.18-19)。はたして「私」が納得したその「同じ根拠によって」(ibid.)、「他の人たちをもまた納得させることができる」のか (7.G107:AT.VII,10.13-14/E.P06.20-21)。「私」は後で「幾人かの人たちの反論に答えることにする」が、「気持ちと教 養とに」おいては「卓越して」いる(7.G201:AT.VII,10.14-16/E.P06.21-23)彼らのもとにある「これら‘省察’は」 (7.G202:AT.VII,10.16/E.P06.23-24)「印刷に委ねられる以前」のものであって(7.G203:AT.VII,10.16 -17/E.P06.24-P07.01)、そうした‘省察’が彼ら以外の「いかなる人」にとっても「容易ではない」ことは、「私が敢えて望むところであった」(7.G302:AT.VII,10.18-19/E.P07.03-04)。「それゆえ、私は重ね重ね‘読者'に願う」(7.G401: AT.VII,10.20-21/E.P07.07-08)。「それらの反論と、そうした」反論に対する「解答のすべてとを読み通すこと」については、どうか厭わないでほしい(7.G403:AT.VII,10.22-23/E.P07.09-11)。

    (2) The 2nd VIEW of 《ABCDE2G1G2》(有限なる私だが、それなりに...)
    [7.A101-A102-A201-A301-B102-B203-B205] [7.C101-C103-C201-C204-C301-C303][7.D101-D102-D200-D301-D303-D306-D401-D403] [7.E301-E304-E401-E403][7.G102-G103-G106-G107] [7.G201-G202-G204-G301-G303-G304-G402-G403]
       「神と人間的精神とについての問題」には「すでに前に」「私は手短に触れたことがあって」、それは『理性を正しく導きつつ、諸学問において真理を探究するための方法についての叙説』においてである(7.A101:AT.VII,07.01-03/E.P01.04-09)。「1637年に」その書を「フランス語で出版」した(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.09)のは、それらの問題がひじょうに「重要なもの」だと「私には思われた」(7.A201:AT.VII,07.07/E.P01.13-14)からであるが、「それら」の問題を「説明するために私が辿る道は、あまり整って」なく、「なじんで」ない(7.A301:AT.VII,07.08-09/E.P01.16-17)。

      ただ、もし何か非難されそうなものがあれば、それについては、読者こそが「私に」対して「厭わずに忠告していたはず」だ(7.B102:AT.VII,07.15-16/E.P02.07-08)。そこでまず、「これら」二つの点に対しては、「ここで手短に」(7.B203:AT.VII,07.18/E.P02.10)「私は答えておこう」(7.B205: AT.VII,07.19/E.P02.12-13)。

      「第一点」として(7.C101:AT.VII,07.20/E.P02.13)、人間としての精神にとっての「本性、あるいは」いわゆる「本質」なんぞが「存立している」のはただ思惟する事物であることにおいてのみである、という「帰結」は生じ「ない」(7.C103:AT.VII,08.02- 03/E.P02.16-17)、と「反論」されているので、「私は答える」(7.C201:AT.VII,08.05-07/E.P02.21- 24)。「私もまた、そこでは」ほかのものすべてを「排除したいのではなかった」(ibid.)。というのは、「事物」として「真たることそのものに」関しては、それらも「秩序」づけられている(ibid.)からである。「勿論その場合、私が」議論を「おこなっていた」のは、そうした事物の真理についてではなくて(ibid.)、「私が思惟する事物であるということ」だけである(7.C204:AT.VII,08.10-11/E.P03.04-05)。「以下に」続く本論において「私が示す」 のは、「どんな仕方で」(7.C301:AT.VII,08.12/E.P03.06-07)「帰結」されれば、思惟することの「ほかには何も実際に」真なる事物として(revera)「私」の本質には「属さない」と云えるのか、ということである(7.C303:AT.VII,08.14-15/E.P03.09-11)。

      つぎに「もう一つの点」として(7.D101:AT.VII,08.16/E.P03.11)、「私より完全な事物の観 念を私のうちに私がもっているということ」(7.D102:AT.VII,08.16-17/E.P03.11-12)について、「私は答える」 (7.D200:AT.VII,08.19-20/E.P03.16-17)。

      「ここで等しく呼ばれる」二つのことが「潜んでいる」のは、「観念という語において」であり(ibid.)、その語は 「質料的に」「受け取られることもできる」となると(7.D301:AT.VII,08.20-21/E.P03.17-18)、「その意味では、私より完全 だ、と云うことなんてできない dici nequit」し(7.D303:AT.VII,08.21-22/E.P03.19-20)、「そうした事物」が「知性の外に実在すること は想定されないはず」だ(7.D306:AT.VII,08.23-24/E.P03.21-23)。そうなると、「私より完全な事物の観念が私のうちに在ると いうことだけから」「いかにして」帰結が生じるのか(7.D401:AT.VII,08.25-26/E.P04.01-02)、ということが問題となるが、それは 「以下」に続く本論にて「詳しく開陳される」ことになる(7.D403:AT.VII,08.27-28/E.P04.03-04)から、「私はただ一般 的に云うだけにする」(7.E301:AT.VII,09.08-09/E.P04.20-21)。‘無神論者たち’によれば、「神には人間的な感情が添 付されている」そうだが(7.E304:AT.VII,09.11-12/E.P04.23-24)、「有限なものとして考察されるべき」なのはあくまで「我々の 精神だ」ということを「我々は単に思い出しているだけのはず」であり(7.E401:AT.VII,09.14-16/E.P05.04-06)、それだけでもう、「我々にとって」‘無神論者たち’の言い分は決して困難の源にはならないだろう(7.E403:AT.VII,09.17-18/E.P05.08-09)。しかし、「或る人に とっては困難に思われそうなものすべてを私が予見できる」かどうかについては、「私」は「さほど自負していない」ので、「確信」しえないだろう (7.G102:AT.VII,10.07-09/E.P06.11-14)。

      さて、「‘省察’において私の開陳する」のが、「その思索そのもの」(7.G103:AT.VII,10.09- 10/E.P06.14-16)になる「だろう」が、では、その思索をとおして「この私が納得した」根拠によって(7.G106:AT.VII,10.13/E.P06.19-20)、はたして「他の人たちをもまた納得させることができる」のか(7.G107:AT.VII,10.13-14/E.P06.20-21)。「私は」後で「幾人かの人たちの反論に答えることにする」が、「気持ちと教養とに」おいては「卓越して」いる(7.G201:AT.VII,10.14- 16/E.P06.21-23)彼らのもとには、「これら‘省察’が」(7.G202:AT.VII,10.16/E.P06.23-24)、予め「吟味されるべく送り付けられてある」(7.G204:AT.VII,10.17/E.P07.01-02)。そんな彼らから寄せられてきた反論はひじょうに 「多く」て「様々」だった、ということで「充分で」あり(7.G301:AT.VII,10.17-18/E.P07.02-03)、「少なくとも何らかの重要な」 (7.G303:AT.VII,10.19/E.P07.05)着想もありうる(7.G304:AT.VII,10.19-20/E.P07.05- 06)はずだ。そこで、まだ「‘省察’について判断を下さない」うちに、「先に」(7.G402:AT.VII,10.21-22/E.P07.08-09)、「そ れらの反論と、そうした」反論に対する「解答のすべてとを」厭わずに「読み通し」てほしい(7.G403:AT.VII,10.22- 23/E.P07.09-11)。

    (3) The 3rd VIEW of 《ABCDE2G1G2》(どこまで知りつくせるか...)
    [7.A101-A102-A103-A202-A303-B101-B202-B204-B205] [7.C101-C104-C202-C205-C303][7.D101-D103-D200-D302-D305-D403] [7.E301-E302-E305-E307-E402-E403][7.G101-G103-G104-G107] [7.G201-G202-G301-G303-G305-G403]
       「神と人間的精神とについての問題」には「すでに前に」「私は手短に触れたことがあって」、それは『理性を正しく導きつつ、諸々の学問において真理を探 究するための方法についての叙説』においてである(7.A101:AT.VII,07.01-03/E.P01.04-09)。「1637年に」その書を 「フランス語で出版」した(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.09)のだが、「それらの問題をそこで精確に取り扱う」つもりは 全然なかった(7.A103:AT.VII,07.04-05/E.P01.10-11)。というのも「それら」の問題については、もう一度議論が「為されるべきだと私は判断していた」(7.A202:AT.VII,07.07-08/E.P01.14-16)ので、それをやたらに「詳しく説くこと」は「無用だ」と「私は思い込んでいた」(7.A303:AT.VII,07.10-12/E.P01.19-P02.02)からである。

      そこで、「フランス語でもってあまねくあらゆる人々に読まれるべく書かれたものにおいて」(ibid.)「私が願ってお いた」ところ、「私の書いたもののなかで皆と出くわした」ものが「何か非難に値する」としても(7.B101:AT.VII,07.14-15/E.P02.04-07)、それは「二つ」(7.B202:AT.VII,07.18/E.P02.10)だけだったので、「それら」の問題を「いっそう精確」に「説明」する前に (7.B204:AT.VII,07.18-19/E.P02.11-12)、「私は答えておこう」(7.B205:AT.VII, 07.19/E.P02.12-13)。

      まず「第一点」として(7.C101:AT.VII,07.20/E.P02.13)、みずからを「思惟する事物であるということ」(7.C104:AT.VII,08.03/E.P02.17-18)は、せいぜい「私」によって「知得」だか知覚だか(perceptionem)されるかぎりで、「秩序」づけられているにすぎない(7.C202:AT.VII,08.08/E.P02.24-P03.01)。とはいえ、「みずからのうちに思惟する機能をもつ事物」 (7.C205:AT.VII,08.11-12/E.P03.05-06)だけが「実際に」真なる事物として(revera)私の本質「に属する」ものだ、ということは「ほかならぬ」「帰結となる」 (7.C303:AT.VII,08.14-15/E.P03.09-11)。

      つぎに「もう一つの点」として(7.D101:AT.VII,08.16/E.P03.11)、「私」より完全な事物の 「観念そのものが、私より完全であることは帰結しない」(7.D103:AT.VII,08.17-18/E.P03.12-14)、という反論に対して 「私は答える」(7.D200:AT.VII,08.19-20/E.P03.16-17)。

      「ここに潜んでいる」のは、「観念という語において等しく呼ばれる」二つのことである(ibid.)。すなわち、「知性 の作用」として(7.D302:AT.VII,08.21/E.P03.18-19)の意味と、「そうした作用によって表象され再現された事物」として (7.D305:AT.VII,08.22-23/E.P03.20-21)の意味とである。それを「詳しく開陳」するのが、「以下」に続く本論である (7.D403:AT.VII,08.27-28/E.P04.03-04)から、ここでは「私はただ一般的に云うだけにする」(7.E301: AT.VII,09.08-09/E.P04.20-21)。‘無神論者たち’のせいで「公然とはびこっている」もののすべては、「神の実在を攻撃するた め」のものである(7.E302:AT.VII,09.09-10/E.P04.21-23)。それによると、「我々の精神にはひじょうに大きな力と知恵 とが授けられている」(7.E305:AT.VII,09.12-13/E.P04.24-P05.02)という。しかし「我々が」いくら「決定し把握しようと試みたり努めたり」しても(7.E307:AT.VII,09.14/E.P05.03-04)「把握しきれない無限なもの」こそが「神」なのである(7.E402:AT.VII,09.16-17/E.P05.07-08)から、‘無神論者たち’の主張から産み出されるものは「我々にとっては」困難とはならないはずだ(7.E403:AT.VII,09.17-18/E.P05.08-09)が、だからといって「他の人々が私に対してすべてにおいて最初に外見で満足しうる」かどうかについては、「私は」そうした他の人々に「全然約束していない」(7.G101:AT.VII,10.06- 07/E.P06.09-11)。

      「なるほど、‘省察’において私の開陳する」のが「その思索そのもの」になる「だろう」(7.G103:AT.VII,10.09- 10/E.P06.14-16)。そしてこの思索を「術 ope」として、「私」は「確実」に「そして明証的」に「真理」を「認識」するに「至った」、と「私には思われる」 (7.G104:AT.VII,10.10-12/E.P06.16-18)が、はたしてそのようにして「他の人たちをもまた納得させることができる」のか(7.G107:AT.VII,10.13-14/E.P06.20-21)。そこで、「私は」後で「幾人かの人たちの反論に答えることにする」が、 「気持ちと教養とに」おいては「卓越して」いる(7.G201:AT.VII,10.14-16/E.P06.21-23)彼らは、「これら‘省察’」 (7.G202:AT.VII,10.16/E.P06.23-24)に対して「充分に多くのこと、そして様々なこと」を、反論してくれた (7.G301:AT.VII,10.17-18/E.P07.02-03)。にも拘わらず「少なくとも何らかの重要なもの」(7.G303: AT.VII,10.19/E.P07.05)には、彼らは「まだ触れていない」(7.G305:AT.VII,10.20/E.P07.06-07)の で、まずは厭わずに「それらの反論と、そうした」反論に対する「解答のすべてとを読み通し」てほしい(7.G403:AT.VII,10.22- 23/E.P07.09-11)。

    arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
    初出:"What a cool believes"(blog),Mar.29,2007.

     

    * 語句を一部、訂正致しました(2009/8/30-9/13)。

    All-Ranged Juice--ABF1G2(711)

    Marvin GAYE 1971/2001:
    Marvin GAYE(His Original Album Notes),
    Marvin Gaye 《What's Going On:Deluxe Edition(+25)》[UICY-7028~9]所収、
    Motown/Universal Music,1971/2001.

      I mean the fact
    that people just won't let us think ourselves
     really bugs me!
    --Marvin Gaye (cited from Marvin GAYE 1971/2001) 

     
    Notes.

    * I mean the fact ...
      「ぼくは、世間の人々が我々アーティストに自分自身の頭で物事を考える余裕を与えないことに、心底、苛立っている!」(泉山 真奈美 訳、p.7: Marvin Gaye 《What's Going On:Deluxe Edition(+25)》[UICY-7028~9]所収、Motown/Universal Music,1971/2001)。

    *****

    AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY,
    nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
     
    ...(頁、行)
    E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
      
    ...(頁、行)
      cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
        
    ...(7=「読者への序言」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)

    §711 The VIEWs of 《ABF1G2》
     for ALL-RANGED JUICE
    (1) The 1st VIEW of 《ABF1G2》(本気でない者、通るべからず)
    [7.A101-A102-A104-A302-A304-B201-B203-B205]
    [7.F101-F201-F302-F305-F306]
    [7.G201-G202-G203-G302-G401-G403]

       「神と人間的精神とについての問題」には「すでに前に」「私は手短に触れたことがあって」、それは『理性を正しく導きつつ、諸々の学問において真理を探 究するための方法についての叙説』においてである(7.A101:AT.VII,07.01-03/E.P01.04-09)。「1637年に」その書を 「フランス語で出版」するという(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.09)打診でもって「私」は「ただ」、読者といわば「協議」のようなことをしたにすぎないが(7.A104:AT.VII,07.05-06/E.P01.11-12)、とはいえ、「その後でそれら」の問題を「どんな理由で取り扱うのか」、ということを 「私」は「読者の判断から学び足す」ことができた(ibid.)。というのも、それらの問題を説明するために「私」が辿る道は「一般に使用されているとこ ろからはあまりにも隔たっている」(7.A302:AT.VII,07.09-10/E.P01.17-18)ので、「気持ち」が「虚弱」なうちはいくら 「信じ」たところで、その道に「みずから進み行くこと」は「できない」(7.A304:AT.VII,07.12-13/E.P02.02-04)からで ある。

      そこで、それら二つの「問題について、私が触れていたものにおいて」なされた「反論」は、「留意」には値しなかった (7.B201:AT.VII,07.16-17/E.P02.08-10)が、「これら」二つの点に対しては、「ここで手短に」(7.B203: AT.VII,07.18/E.P02.10)、「私は答えておく」(7.B205:AT.VII,07.19/E.P02.12-13)。

      「今」のところ、「私は人様の判断を一度はなんとか見聞きすることでもって経験して」おくが、「その後で」(7.F101:AT.VII, 09.19-20/E.P05.09-11)「私」が期待するのは、べつに「公の拍手喝采」ではなくて(7.F201:AT.VII,09.22- 23/E.P05.15)、ただ人々が「本気で私とともに省察」(7.F302:AT.VII,09.25/E.P05.18-19)「できるようになり、そしてまた」省察しようという「意志をもつようになる」、ということである(7.F305:AT.VII,09.26-27/E.P05.21)。と はいえ、そのような人々には「ごく僅か」しか「遭遇」しないことを、「充分に私は知っている」(7.F306:AT.VII,09.27- 28/E.P05.22-23)から、後で「私が答える」のは「幾人かの人たちの反論に」対してだけにする(7.G201:AT.VII,10.14- 16/E.P06.21-23)。

      幸い、「気持ちと教養とに」おいては「卓越して」いる(ibid.)彼らのもとにある「これら'省察'は」 (7.G202:AT.VII,10.16/E.P06.23-24)「印刷に委ねられる以前」のものであって(7.G203:AT.VII,10.16 -17/E.P06.24-P07.01)、そうした‘省察'が彼ら以外の「いかなる人」にとっても「容易ではない」ことは、「私が敢えて望むところで あった」(7.G302:AT.VII,10.18-19/E.P07.03-04)。「それゆえ、私は重ね重ね‘読者'に願う」(7.G401: AT.VII,10.20-21/E.P07.07-08)。「それらの反論と、そうした」反論に対する「解答のすべてとを読み通すこと」については、どうか厭わないでほしい(7.G403:AT.VII,10.22-23/E.P07.09-11)。

    (2) The 2nd VIEW of 《ABF1G2》(読者からの名案を乞う)
    [7.A101-A102-A201-A301-B102-B203-B205]
    [7.F101-F102-F202-F303-F305-F306]
    [7.G201-G202-G204-G301-G303-G304-G402-G403]

       「神と人間的精神とについての問題」には「すでに前に」「私は手短に触れたことがあって」、それは『理性を正しく導きつつ、諸学問において真理を探究するための方法についての叙説』においてである(7.A101:AT.VII,07.01-03/E.P01.04-09)。「1637年に」その書を「フ ランス語で出版」した(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.09)のは、それらの問題がひじょうに「重要なもの」だと「私には思われた」(7.A201:AT.VII,07.07/E.P01.13-14)からであるが、「それら」の問題を「説明するために私が辿る道は、あまり 整って」なく、「なじんで」ない(7.A301:AT.VII,07.08-09/E.P01.16-17)。
    ただ、もし何か非難されそうなものがあれば、それについては、読者こそが「私に」対して「厭わずに忠告していたはず」だ(7.B102:AT.VII,07.15-16/E.P02.07-08)。そこでまず、「これら」二つの点に対しては、「ここで手短に」(7.B203:AT.VII,07.18/E.P02.10)「私は答えておく」(7.B205:AT.VII, 07.19/E.P02.12-13)。

      「今」のところ「私」は、「人様の判断を一度はなんとか見聞きすることで経験して」いるが、「その後で」(7.F101: AT.VII,09.19-20/E.P05.09-11)、「再び着手する」のは、「神と人間的精神とについての同じその問題」である(7.F102: AT.VII,09.20-21/E.P05.11-13)。よって、「私が期待する」のは、決して「読者」が群がることではなくて(7.F202: AT.VII,09.23-24/E.P05.15-17)、「精神を感覚から」(7.F303:AT.VII,09.25-26/E.P05.19- 20)「引き離すことができるようになり、そしてまた」引き離そうという「意志をもつようになる」ことだ(7.F305:AT.VII,09.26- 27/E.P05.21)。が、そのような人々には「ごく僅か」しか「遭遇」しないことを、「私は充分に知っている」(7.F306:AT.VII, 09.27-28/E.P05.22-23)ので、後に「私が答える」のは「幾人かの人たちの反論に」対してだけにする(7.G201:AT.VII, 10.14-16/E.P06.21-23)。

      幸い、「気持ちと教養とに」おいて「卓越して」いる(ibid.)彼らのもとには、「これら‘省察’が」 (7.G202:AT.VII,10.16/E.P06.23-24)、予め「吟味されるべく送り付けられてある」(7.G204:AT.VII, 10.17/E.P07.01-02)。そんな彼らから寄せられてきた反論はひじょうに「多く」て「様々」だった、ということで「充分で」あり(7.G301:AT.VII, 10.17-18/E.P07.02-03)、「少なくとも何らかの重要な」(7.G303:AT.VII,10.19/E.P07.05)着想もありうる(7.G304:AT.VII,10.19-20/E.P07.05-06)はずだ。それゆえ、まだ「‘省察'について判断を下さない」うちに、「先に」 (7.G402:AT.VII,10.21-22/E.P07.08-09)、「それらの反論と、そうした」反論に対する「解答のすべてとを」厭わずに 「読み通し」てほしい(7.G403:AT.VII,10.22-23/E.P07.09-11)。

    (3) The 3rd VIEW of 《ABF1G2》(読者からの非難について)
    [7.A101-A102-A103-A202-A303-B101-B202-B204-B205]
     [7.F101-F103-F301-F304-F305-F306]
    [7.G201-G202-G301-G303-G305-G403]

       「神と人間的精神とについての問題」には「すでに前に」「私は手短に触れたことがあって」、それは『理性を正しく導きつつ、諸々の学問において真理を探究するための方法についての叙説』においてである(7.A101:AT.VII,07.01-03/E.P01.04-09)。「1637年に」その書を 「フランス語で出版」した(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.09)のだが、「それらの問題をそこで精確に取り扱う」つもりは 全然なかった(7.A103:AT.VII,07.04-05/E.P01.10-11)。というのも「それら」の問題については、もう一度議論が「為されるべきだ、と私は判断していた」(7.A202:AT.VII,07.07-08/E.P01.14-16)ので、それをやたらに「詳しく説くこと」は「無用だ」 と「私は思い込んでいた」(7.A303:AT.VII,07.10-12/E.P01.19-P02.02)からである。

      そこで、「フランス語でもってあまねくあらゆる人々に読まれるべく書かれたものにおいて」(ibid.)「私が願ってお いた」ところ、「私の書いたもののなかで皆と出くわした」ものが「何か非難に値する」としても(7.B101:AT.VII,07.14-15/E.P02.04-07)、それは「二つ」(7.B202:AT.VII,07.18/E.P02.10)だけだったので、「それら」の問題を「いっそう精確」に「説明」する前に (7.B204:AT.VII,07.18-19/E.P02.11-12)、「私は答えておく」(7.B205:AT.VII, 07.19/E.P02.12-13)。

      「今」のところ、「私は人様の判断を一度はなんとか見聞きすることで経験して」おくが、「その後では」(7.F101:AT.VII, 09.19-20/E.P05.09-11)、「第一‘哲学'全体」を「頭」から「取り扱う」ことにする(7.F103:AT.VII,09.21- 22/E.P05.13-14)。よって、「私」が「促す」のは、誰かが「これを読む」ことではなくて(7.F301:AT.VII, 09.24/E.P05.17-18)、精神を「すべての予断や先入見から」(7.F304:AT.VII,09.26/E.P05.20-21)「引き離すことができるようになり、そしてまた」引き離そうという「意志をもつようになる」ことである(7.F305:AT.VII,09.26- 27/E.P05.21)。が、そのような人々には「ごく僅か」しか「遭遇」しないことを、「充分に私は知っている」(7.F306:AT.VII, 09.27-28/E.P05.22-23)から、後で「私が答える」のは「幾人かの人たちの反論に」対してだけにする(7.G201:AT.VII, 10.14-16/E.P06.21-23)。

      幸い、「気持ちと教養とに」おいては「卓越して」いる(ibid.)彼らは、「これら‘省察'」(7.G202: AT.VII,10.16/E.P06.23-24)に対して「充分に多くのこと、そして様々なこと」を、反論してくれた(7.G301:AT.VII, 10.17-18/E.P07.02-03)。しかし「少なくとも何らかの重要なもの」(7.G303:AT.VII,10.19/E.P07.05)に は、彼らは「まだ触れていない」(7.G305:AT.VII,10.20/E.P07.06-07)ので、まずは厭わずに「それらの反論と、そうした」 反論に対する「解答のすべてとを読み通し」てほしい(7.G403:AT.VII,10.22-23/E.P07.09-11)。

    arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
    初出:"What a cool believes"(blog),Mar.29,2007.


    * 飾り付けました(2009/5/04)。
    * 語句を一部、訂正致しました(2009/8/30-9/13)。


     

    All-Ranged Juice--G

    AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY,
    nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
     
    ...(頁、行)
    E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
      
    ...(頁、行)
      cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
      
    ...(7=「読者への序言」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)

    Line of 《G(Part 1)》(§708:他人を納得させることについて)
    for ALL-RANGED JUICE
     (1) One extreme line of 《G(Part 1)》(真理の認識に至る術で他人を納得させうるか)
    [7.G101-G103-G104-G107]
        「しかしまた、他の人々が私に対してすべてにおいて最初に外見で満足しうる」かどうかについては、「私は」そうした他の人々に「全然約束していない」(7.G101:AT.VII,10.06-07/E.P06.09-11)。「なるほど、まず‘省察’において私の開陳する」のが「その思索そのもの」になる「だろう」(7.G103:AT.VII,10.09-10/E.P06.14-16)。そしてこの思索を「術 ope」として、「私」は「確実」に「そして明証的」に「真理」を「認識」するに「至った」、と「私には思われる」(7.G104:AT.VII,10.10-12/E.P06.16-18)が、はたしてそのようにして「他の人たちをもまた納得させることができる」のか(7.G107:AT.VII,10.13-14/E.P06.20-21)。

    (2) The other extreme line of 《G(Part 1)》(私が納得した根拠で他人は納得するか)
    [7.G102-G103-G106-G107]
       「或る人にとっては困難に思われそうなものすべてを私が予見できる」かどうかについては、「私」は「さほど自負していない」ので、「確信」しえないだろう(7.G102:AT.VII,10.07-09/E.P06.11-14)。「なるほど、まず‘省察’において私の開陳する」のが「その思索そのもの」になる「だろう」が(7.G103:AT.VII,10.09-10/E.P06.14-16)、この思索をとおして「この私が納得した」根拠によって(7.G106: AT.VII,10.13/E.P06.19-20)、はたして「他の人たちをもまた納得させることができる」のか(7.G107:AT.VII, 10.13-14/E.P06.20-21)。

    (3) The moderate line of 《G(Part 1)》(他人を納得させうるかどうか、思索で実験する)
    [7.G103-G105-G107]
       「なるほど、まず‘省察’において私が開陳することになる」「その思索そのもの」(7.G103:AT.VII,10.09- 10/E.P06.14-16)をとおして、「私」は「実験」に臨むことにしよう(7.G105:AT.VII,10.12-13/E.P06.18- 19)。はたして「私」が納得したその「同じ根拠によって」(ibid.)、「他の人たちをもまた納得させることができる」のか(7.G107: AT.VII,10.13-14/E.P06.20-21)。

    Line of 《G(Part 2)》(§709:「反論と答弁」について)
     for ALL-RANGED JUICE
     (4) One extreme line of 《G(Part 2)》(「省察」そのものだけでは難しかろう)
    [7.G201-G202-G203-G302-G401-G403]
        「しかし、その後で私は幾人かの人たちの反論に答えることにする」が、「気持ちと教養とに」おいては「卓越して」いる(7.G201: AT.VII,10.14-16/E.P06.21-23)彼らのもとにある「これら‘省察’は」(7.G202:AT.VII, 10.16/E.P06.23-24)「印刷に委ねられる以前」のものであって(7.G203:AT.VII,10.16-17/E.P06.24- P07.01)、そうした‘省察’が彼ら以外の「いかなる人」にとっても「容易ではない」ことは、「私が敢えて望むところであった」(7.G302: AT.VII,10.18-19/E.P07.03-04)。「それゆえ、私は重ね重ね‘読者’に願う」(7.G401:AT.VII,10.20- 21/E.P07.07-08)。「それらの反論と、そうした」反論に対する「解答のすべてとを読み通すこと」については、どうか厭わないでほしい(7.G403: AT.VII,10.22-23/E.P07.09-11)。

    (5) The other extreme line of 《G(Part 2)》(反論の中には重要な着想があるかもしれない)
    [7.G201-G202-G204-G301-G303-G304-G402-G403]
       「その後で私は幾人かの人たちの反論に答えることにする」が、「気持ちと教養とに」おいては「卓越して」いる(7.G201:AT.VII, 10.14-16/E.P06.21-23)彼らのもとには、「これら‘省察’が」(7.G202:AT.VII,10.16/E.P06.23- 24)、予め「吟味されるべく送り付けられてある」(7.G204:AT.VII,10.17/E.P07.01-02)。そんな彼らから寄せられてきた 反論はひじょうに「多く」て「様々」だった、ということで「充分で」あり(7.G301:AT.VII,10.17-18/E.P07.02-03)、「少なくとも何らかの重要 な」(7.G303:AT.VII,10.19/E.P07.05)着想もありうる(7.G304:AT.VII,10.19-20/E.P07.05- 06)はずだ。そこで、まだ「‘省察’について判断を下さない」うちに、「先に」(7.G402:AT.VII,10.21-22/E.P07.08-09)、「それらの反論と、そうした」反論に対する「解答のすべてとを」厭わずに「読み通し」てほしい(7.G403:AT.VII,10.22- 23/E.P07.09-11)。

    (6) The moderate line of 《G(Part 2)》(重要なものには、まだ誰も触れていない)
    [7.G201-G202-G301-G303-G305-G403]
       「その後で私は幾人かの人たちの反論に答えることにする」が、「気持ちと教養とに」おいては「卓越して」いる(7.G201:AT.VII, 10.14-16/E.P06.21-23)彼らは、「これら‘省察’」(7.G202:AT.VII,10.16/E.P06.23-24)に対して 「充分に多くのこと、そして様々なこと」を、反論してくれた(7.G301:AT.VII,10.17-18/E.P07.02-03)。しかし「少なく とも何らかの重要なもの」(7.G303:AT.VII,10.19/E.P07.05)には、彼らは「まだ触れていない」(7.G305: AT.VII,10.20/E.P07.06-07)ので、まずは厭わずに「それらの反論と、そうした」反論に対する「解答のすべてとを読み通し」てほし い(7.G403:AT.VII,10.22-23/E.P07.09-11)。

    arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
    初出:"What a cool believes"(blog),Mar.27,2007.

    * 語句を一部、訂正致しました(2009/8/28)。

    All-Ranged Juice--F

    AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY,
    nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
     
    ...(頁、行)
    E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
      
    ...(頁、行)
      cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
      
    ...(7=「読者への序言」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)

    Line of 《F(Part 1)》(§706:「省察」のねらい)
    for ALL-RANGED JUICE
    (1) One extreme line of 《F(Part 1)》(精神を感覚から引き離せ)
    [7.F101-F102-F202-F303-F305-F306]
        「しかし今は、私が人様の判断を一度はなんとか見聞きすることで経験して」いるが、「その後で」(7.F101:AT.VII,09.19-20/E.P05.09- 11)、「再びここで着手する」のは、「神と人間的精神とについての同じその問題」である(7.F102:AT.VII,09.20- 21/E.P05.11-13)。よって、「私が期待する」のは決して「読者」が群がることではなくて(7.F202:AT.VII,09.23- 24/E.P05.15-17)、「精神を感覚から」(7.F303:AT.VII,09.25-26/E.P05.19-20)「引き離すことができる ようになり、そしてまた」引き離そうという「意志をもつようになる」ことである(7.F305:AT.VII,09.26-27/E.P05.21)。 が、そのような人々には「ごく僅か」しか「遭遇」しないことを、「私は充分に知っている」(7.F306:AT.VII,09.27- 28/E.P05.22-23)。

    (2) The other extreme line of 《F(Part 1)》(精神をすべての予断から引き離せ)
    [7.F101-F103-F301-F304-F305-F306]
        「今のところは、私は人様の判断を一度はなんとか見聞きすることでもって経験して」おくが、「その後では」(7.F101:AT.VII,09.19-20/E.P05.09 -11)、「第一‘哲学’全体」を「頭」から「取り扱う」ことにする(7.F103:AT.VII,09.21-22/E.P05.13-14)。よって、「私」が「促す」のは(author sum)、誰かが「これを読む」ことではなくて(7.F301:AT.VII,09.24/E.P05.17-18)、精神を「すべての予断や先入見から」(7.F304:AT.VII,09.26/E.P05.20-21)「引き離すことができるようになり、そしてまた」引き離そうという「意 志をもつようになる」ことである(7.F305:AT.VII,09.26-27/E.P05.21)。が、そのような人々には「ごく僅か」しか「遭遇」 しないことを、「充分に私は知っている」(7.F306:AT.VII,09.27-28/E.P05.22-23)。

    (3) The moderate line of 《F(Part 1)》(私とともに本気で省察せよ)
    [7.F101-F201-F302-F305-F306]
        「今のところは、私は人様の判断を一度はなんとか見聞きすることでもって経験して」おくが、「その後で」(7.F101:AT.VII,09.19-20/E.P05.09- 11)「私」が期待するのは、「公の拍手喝采」ではなくて(7.F201:AT.VII,09.22-23/E.P05.15)、ただ人々が「本気で私とともに省察」(7.F302:AT.VII,09.25/E.P05.18-19)「できるようになり、そしてまた」省察しようという「意志をも つようになる」、ということである(7.F305:AT.VII,09.26-27/E.P05.21)。が、そのような人々には「ごく僅か」しか「遭遇」しない ことを、「充分に私は知っている」(7.F306:AT.VII,09.27-28/E.P05.22-23)。

    Line of 《F(Part 2)》(§707:「省察」の読み方について)
     for ALL-RANGED JUICE
    (4) One extreme line of 《F(Part 2)》(連鎖と脈絡とを把握せよ)
    [7.F401-F402-F406-F502]
        「しかし」人々に「関して」云えば(7.F401:AT.VII,09.28/E.P05.23-24)、「私の根拠の連鎖と脈絡とを把握することに気を配らない」うちは(7.F402:AT.VII,09.29-30/E.P05.24-P06.02)、「この著作を」読んでも「大きな成果」を「収める」ようにはなら「ない」だろうし(7.F406:AT.VII,10.01-02/E.P06.04-05)、「何か」を「反論」したところで、それが「緊要であるか、もしくは答弁に値する」ようなことは「容易には」起こら「ないだろう」(7.F502:AT.VII,10.04- 05/E.P06.07-09)。

    (5) The other extreme line of 《F(Part 2)》(論ってあざけったところで...)
    [7.F401-F403-F405-F501-F502]
        人々に「関して」云えば(7.F401:AT.VII,09.28/E.P05.23-24)、「ただ一字一句だけ」を(7.F403: AT.VII,09.30/E.P06.02)「論うことに」かまけているうちに(7.F405:AT.VII,10.01/E.P06.03-04) 「おそらく多くの点で機会を見つけだして」は「あざける」だろう(7.F501:AT.VII,10.02-04/E.P06.05-07)が、そのようにして「何か」を「反論」したつもりになったところで、それが「緊要であるか、もしくは答弁に値する」ようなことは「容易には」起こら「ないだろう」(7.F502: AT.VII,10.04-05/E.P06.07-09)。

    (6) The moderate line of 《F(Part 2)》(しきたりの中にいるうちは難しかろう)
    [7.F401-F404-F502]
       人々に「関して」云えば(7.F401:AT.VII,09.28/E.P05.23-24)、「しきたりのなかに居る in more est」「多くの人たちにとっ て」(7.F404:AT.VII,09.30-10.01/E.P06.02-03)「容易ではない」ことがある(7.F502:AT.VII, 10.04-05/E.P06.07-09)。すなわちそれは、「緊要であるか、もしくは答弁に値するようなものを何か反論する」ことであろう (ibid.)。

    arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
     初出:"What a cool believes"(blog),Mar.27,2007.

    * 語句を一部、訂正致しました(2009/8/28-9/13)。

    All-Ranged Juice--E

    AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY,
    nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
     
    ...(頁、行)
    E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
      ...(頁、行)
     cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
      ...(7=「読者への序言」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)

    Line of 《E(Part 1)》(§704:議論・反駁について)
    for ALL-RANGED JUICE

    (1) One extreme line of 《E(Part 1)》(偽であり、理に縁なき議論)
    [7.E101-E201-E205-E210]
       「それに加えて」「私が見た」「或る二つの文章」は、「なるほど」「相当に長い」ものだったが(7.E101:AT.VII,08.29- 30/E.P04.04-06)、そこにみられる「類いの議論は何の力をももつことができない」(7.E201:AT.VII,09.01- 03/E.P04.10-12)。というのも、そうした議論は「偽」であり、「理とか根拠とかに縁がない」(7.E205:AT.VII,09.05- 06/E.P04.15-16)からである。それゆえ「私はここではそれらに対して答えたくないのだ」(7.E210:AT.VII,09.07- 08/E.P04.18-19)。

    (2) The other extreme line of 《E(Part 1)》(洗脳されたままでの判断)
    [7.E102-E203-E204-E206-E208-E209-E211]
        「私」の見た或る二つの文章で「攻撃されていた」のが、すなわち「私」よりも完全な「事物について」の「私」の「根拠」であるが、これはべつに「結論」の如きものでは「ない」し、そのように攻撃したほうの「議論」は、「‘無神論者たち’」に「共通な」議論の「場から借りてきた」ものであった(7.E102:AT.VII, 08.30-09.01/E.P04.06-10)。このように「本末顛倒で薄弱な」「判断」をする人々は多いが(7.E203:AT.VII, 09.03-04/E.P04.12-14)、それは、そうした人々が「最初に受け取った諸々の意見によって」(7.E204:AT.VII,09.04 -05/E.P04.14-15)「説得されて」信じ込んだまま(7.E206:AT.VII,09.06/E.P04.16-17)、「後で」その人々の「聞いた」 (7.E208:AT.VII,09.07/E.P04.17-18)のが、「かの意見の反駁」(7.E209:AT.VII, 09.07/E.P04.18)だったからである。したがって、「私によって先に言及されるべき」なのは、それらの意見では「ない」(7.E211: AT.VII,09.08/E.P04.19-20)。

    (3) The moderate line of 《E(Part 1)》(真で堅固な反駁)
    [7.E202-E207-E209]
       「私の根拠」を「知解」すれば(7.E202:AT.VII,09.03/E.P04.12)、「真で堅固な」(7.E207: AT.VII,09.06/E.P04.17)「反駁」を、諸々の意見に対して(7.E209:AT.VII,09.07/E.P04.18)おこなうこ とができる。

    Line of 《E(Part 2)》(§705:無神論について)
    for ALL-RANGED JUICE

    (4) The moderate line of 《E(Part 2)》(無神論者たちの拠り所)
    [7.E301-E303-E306-E403]
       「そこでただ一般的に私は云うだけにする」(7.E301:AT.VII,09.08-09/E.P04.20-21)。‘無神論者たち’の言い分の「すべて」(ibid.)が「常に依存している」(7.E303:AT.VII,09.11/E.P04.23)のは、あくまで「いったい何を神は為すこ とができるのか、そしてまた為さねばならないか」(7.E306:AT.VII,09.13/E.P05.02-03)、ということに対してであるから、そうした言い分は「いかなる困難をも我々に産み出そうとはしないはずだ」(7.E403:AT.VII,09.17-18/E.P05.08-09)。

    (5) One extreme line of 《E(Part 2)》(把握しきれない無限なものこそ神である)
    [7.E301-E302-E305-E307-E402-E403]
        「ただ一般的に私は云うだけにする」(7.E301:AT.VII,09.08-09/E.P04.20-21)。‘無神論者たち'のせいで 「公然とはびこっている」もののすべては、「神の実在を攻撃するため」のものである(7.E302:AT.VII,09.09-10/E.P04.21- 23)。それによると、「我々の精神にはひじょうに大きな力と知恵とが授けられている」(7.E305:AT.VII,09.12- 13/E.P04.24-P05.02)という。しかし「我々が」いくら「決定し把握しようと試みたり努めたり」しても(7.E307:AT.VII, 09.14/E.P05.03-04)「把握しきれない無限なもの」こそが「神」なのである(7.E402:AT.VII,09.16- 17/E.P05.07-08)から、‘無神論者たち’の主張から産み出されるものは「我々にとっては」困難とはならないだろう(7.E403: AT.VII,09.17-18/E.P05.08-09)。

    (6) The other extreme line of 《E(Part 2)》(我々の精神を有限なものとして扱え)
    [7.E301-E304-E401-E403]
       「ただ一般的に私は云うだけにする」(7.E301:AT.VII,09.08-09/E.P04.20-21)。‘無神論者たち’によれ ば、「神には人間的な感情が添付されている」そうだが(7.E304:AT.VII,09.11-12/E.P04.23-24)、「有限なものとして考察されるべき」なのはあくまで「我々の精神だ」、ということを「我々は単に思い出しているだけのはず」であり(7.E401:AT.VII,09.14-16/E.P05.04- 06)、それだけでもう、「我々にとって」‘無神論者たち'の言い分は決して困難の源にはならないだろう(7.E403:AT.VII,09.17- 18/E.P05.08-09)。

    arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
    初出:"What a cool believes"(blog),Mar.27,2007.


    * 語句を一部、訂正致しました(2009/8/28-9/13)。

    All-Ranged Juice--D

    AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY,
    nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
       
    ...(頁、行)
    E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
        
    ...(頁、行)
      cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
        
    ...(7=「読者への序言」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)

    Line of 《D》(§703:質疑その二: 私より完全な事物の観念について)
    for ALL-RANGED JUICE

    (1) The moderate line of 《D》(観念という語の二つの意味)
    [7.D101-D103-D200-D302-D305-D403]
        「もう一つの点」として(7.D101:AT.VII,08.16/E.P03.11)、「私」より完全な事物の「観念そのものが、私より完 全であることは帰結しない」(7.D103:AT.VII,08.17-18/E.P03.12-14)、という反論に対して「私は答える」 (7.D200:AT.VII,08.19-20/E.P03.16-17)。「ここに潜んでいる」のは、「観念という語において等しく呼ばれる aequivocationem」二つの ことである(ibid.)。すなわち、「知性の作用」として(7.D302:AT.VII,08.21/E.P03.18-19)の意味と、「そうした作 用によって表象され再現された事物」として(7.D305:AT.VII,08.22-23/E.P03.20-21)の意味とである。それを「詳しく開 陳」するのが、「以下」に続く本論である(7.D403:AT.VII,08.27-28/E.P04.03-04)。

    (2) One extreme line of 《D》(観念という語が質料的にとられた場合)
    [7.D101-D102-D200-D301-D303-D306-D401-D403]
       「もう一つの点」として(7.D101:AT.VII,08.16/E.P03.11)、「私より完全な事物の観念を私のうちに私がもってい るということ」(7.D102:AT.VII,08.16-17/E.P03.11-12)について、「私は答える」(7.D200:AT.VII, 08.19-20/E.P03.16-17)。「ここで等しく呼ばれる aequivocationem」二つのことが「潜んでいる」のは、「観念という語において」であり (ibid.)、その語は「質料的に」「受け取られることもできる」(7.D301:AT.VII,08.20-21/E.P03.17-18)となると、「その意味では、私より完全だ、と云うことはできない dici nequit」し(7.D303:AT.VII,08.21-22/E.P03.19-20)、「そうした事物」が 「知性の外に実在することは想定されないはず」だ(7.D306:AT.VII,08.23-24/E.P03.21-23)。そうなると、「私より完全な事物の観念が私のうちに在るということだけから」「いかにして」帰結が生じるのか(7.D401:AT.VII,08.25-26/E.P04.01-02) 、ということが問題となるが、それは「以下」に続く本論にて「詳しく開陳されるだろう」(7.D403:AT.VII,08.27-28/E.P04.03-04)。

    (3) The other extreme line of 《D》(観念という語が質料性と反対の意味にとられた場合)
    [7.D101-D104-D200-D304-D307-D402-D403]
       「もう一つの点」として(7.D101:AT.VII,08.16/E.P03.11)、「私」より完全な事物の「観念によって表象され再現されたものが実在すること」は帰結しない(7.D104:AT.VII,08.18-19/E.P03.14-15)、という反論に対して「私は答える」 (7.D200:AT.VII,08.19-20/E.P03.16-17)。「ここで等しく呼ばれる aequivocationem」二つのことが「潜んでいる」のは、「観念という語 において」であり(ibid.)、その語が質料性とは「反対に」受け取られる場合には(7.D304:AT.VII,08.22/E.P03.20)、 「私より完全であること」は、事物「みずからの本質」で「理由」づけられれば、「可能」となる(7.D307:AT.VII,08.24- 25/E.P03.23-24)。したがって、「そうした事物が実際に」真なる事物として(revera)「実在すること」は「帰結する」(7.D402:AT.VII,08.26- 27/E.P04.02-03)のだが、このことについては「以下」に続く本論にて、「詳しく開陳されるだろう」(7.D403:AT.VII, 08.27-28/E.P04.03-04)。

    arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
    初出:"What a cool believes"(blog),Mar.26,2007.

    * 語句を一部、訂正致しました(2009/8/28-9/13)。

    All-Ranged Juice--C

    AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY,
    nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
       
    ...(頁、行)
    E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
        
    ...(頁、行)
      cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
        
    ...(7=「読者への序言」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)

    Line of 《C》(§702:質疑その一: 思惟する事物について)
    for ALL-RANGED JUICE

    (1) The moderate line of 《C》(思惟する事物に秩序があるのは、私の知得においてのみだ)
    [7.C101-C104-C202-C205-C303]
       「第一点」として(7.C101:AT.VII,07.20/E.P02.13)、みずからを「思惟する事物であるということ」 (7.C104:AT.VII,08.03/E.P02.17-18)は、せいぜい「私」によって「知得」だか知覚だか(perceptionem)されるかぎりで、「秩序」づけられているにすぎない(7.C202:AT.VII,08.08/E.P02.24-P03.01)。とはいえ、「みずからのうちに思惟する機能をもつ事物」 (7.C205:AT.VII,08.11-12/E.P03.05-06)だけが「実際に」真なる事物として(revera)私の本質「に属する」ものだ、ということは「ほかならぬ」「帰結となる」 (7.C303:AT.VII,08.14-15/E.P03.09-11)。

    (2) One extreme line of 《C》(私の本質に属するのは、思惟する事物だけだ)
    [7.C101-C102-C105-C203-C302-C303]
       「第一点」として(7.C101:AT.VII,07.20/E.P02.13)、「人間」としての「精神」がみずからのほうへと振り向いて「知得だか知覚だかをする」のは、「みずから」が「思惟する事物であるということ」にほかならない(7.C102:AT.VII,07.20-08.01/E.P02.13- 15)。そしてその「ほかのものすべて」は、「‘ただ~のみ’(tantum)という語」によって「排除」されて、それらは「おそらくまた、霊魂の本性に属する」とか、魂にとって自然であるとか、「云われうる」のだろうが(7.C105:AT.VII,08.03-05/E.P02.18-20)、それらのものを、「私の本質に」 「私の知る」かぎりで「属する」ものとして「私」が「認識すること」は「まったくない」、という「意味である」(7.C203:AT.VII,08.08- 10/E.P03.01-04)。要するに、「私が認識する」ところによれば、思惟する事物であることの「ほかには何も私の本質に属さない」のである (7.C302:AT.VII,08.13-14/E.P03.07-09)。

    (3) The other extreme line of 《C》(事物の真理に関しては、私以外のものにも秩序がある)
    [7.C101-C103-C201-C204-C301-C303]
        「第一点」として(7.C101:AT.VII,07.20/E.P02.13)、人間としての精神にとっての「本性、あるいは」いわゆる「本質」なんぞが「存立している consistere」のはただ思惟する事物であることにおいてのみである、という「帰結」は生じ「ない」(7.C103:AT.VII,08.02-03/E.P02.16- 17)、と「反論」されているので、「私は答える」(7.C201:AT.VII,08.05-07/E.P02.21-24)。「私もまた、そこでは」 ほかのものすべてを「排除したいのではなかった」(ibid.)。というのは、「事物として真たることそのものに」関しては、それらも「秩序」づけられている (ibid.)からである。「勿論その場合、私が」議論を「おこなっていた agebam」のは、そうした事物の真理についてではなくて(ibid.)、「私が思惟する事物であるということ」 だけである(7.C204:AT.VII,08.10-11/E.P03.04-05)。「以下に」続く本論において「私が示す」のは、「どんな仕方で」 (7.C301:AT.VII,08.12/E.P03.06-07)「帰結」されれば、思惟することの「ほかには何も実際に」真なる事物として(revera)「私」の本質には「属さない」と云えるのか、ということである(7.C303:AT.VII,08.14-15/E.P03.09-11)。

    arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
    初出:"What a cool believes"(blog),Mar.26,2007.


    * 語句を一部、訂正致しました(2009/8/28-9/13)。

    All-Ranged Juice--AB

    Steve TURNER 1998:
    Steve TURNER, TROUBLE MAN the life and death of Marvin Gaye,
    Penguin Books, London,1998.

      I knew what I wanted
    but I didn't know how to get it.
    I'm just going to try and give the public
    what they want now.
    --Marvin Gaye (cited from Steve TURNER 1998, p.110) 
     
    Notes.
    * I knew what I wanted ...:
      自分の求めるものを知りつつも、いかにそれを得るのかを知らなかったというマーヴィンが、皆の求めるものを提供する立場にいるという。
    * Marvin GAYE(1939-1984):
      1939年4月2日、ワシントンDC出身(本名 Marvin Pentz Gay Jr.)。牧師である実父からの布教活動と暴力とに影響される。デトロイトに移り、モータウン・レコード社と契約し、リズム&ブルーズおよびソウル・ミュージックの歌手となる。音楽で成功を収める一方で、家庭や税金や麻薬にまつわる問題に悩まされ続け、放浪生活を送る。のちにCBS社と契約して、1982年10月に発表した〈Sexual Healing〉という曲で「ベストR&Bヴォーカル・パフォーマンス男性部門」においてグラミー賞を獲得する(1983年3月)。1984年4月1日、ロサンゼルスにて、実父により射殺される。

    *****

    AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY,
    nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
       
    ...(頁、行)
    E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
        
    ...(頁、行)
      cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
        
    ...(7=「読者への序言」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)

    Line of 《AB》(§701:『方法叙説』について)
    for ALL-RANGED JUICE

    (1) One extreme line of《AB》(当時の説明は、一般にはあまり用いられていなかった)
    [7.A101-A102-A104-A302-A304-B201-B203-B205]
        「神と人間的精神とについての問題」には「すでに前に」「手短に私は触れたことがあって」、それは『理性を正しく導きつつ、諸々の学問において真理を探 究するための方法についての叙説』においてである(7.A101:AT.VII,07.01-03/E.P01.04-09)。「1637年に」その書を 「フランス語で出版」するという(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.09)打診でもって「私」は「ただ」、読者といわば「協議」のようなことをしたにすぎないが(7.A104:AT.VII,07.05-06/E.P01.11-12)、とはいえ「その後でそれら」の問題を「どんな理由で取り扱うのか」、ということを 「私」は「読者の判断から学び足す」ことができた(ibid.)。というのも、それらの問題を説明するために「私」が辿る道は「一般に使用されているとこ ろからはあまりにも隔たっている」(7.A302:AT.VII,07.09-10/E.P01.17-18)ので、「気持ち」が「虚弱」なうちはいくら 「信じ」たところで、その道に「みずから進み行くこと」は「できない」(7.A304:AT.VII,07.12-13/E.P02.02-04)からで ある。
      さて、それら二つの「問題について、私が触れていたものにおいて」なされた「反論」は、「留意」には値しなかった (7.B201:AT.VII,07.16-17/E.P02.08-10)が、「これら」二つの点に対しては、「ここで手短に」(7.B203: AT.VII,07.18/E.P02.10)、「私は答えておこう」(7.B205:AT.VII,07.19/E.P02.12-13)。

    (2) The other extreme line of 《AB》(当時の説明は、あまり詳しくなかった)
    [7.A101-A102-A103-A202-A303-B101-B202-B204-B205]
       「神と人間的精神とについての問題」には「すでに前に」「私は手短に触れたことがあって」、それは『理性を正しく導きつつ、諸々の学問において真理を探 究するための方法についての叙説』においてである(7.A101:AT.VII,07.01-03/E.P01.04-09)。「1637年に」その書を 「フランス語で出版」した(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.09)のだが、「それらの問題をそこで精確に取り扱う」つもりは 全然なかった(7.A103:AT.VII,07.04-05/E.P01.10-11)。というのも「それら」の問題については、もう一度議論が「為されるべきだ、と私は判断していた」(7.A202:AT.VII,07.07-08/E.P01.14-16)ので、それをやたらに「詳しく説くこと」は「無用だ」と「私は思い込んでいた」(7.A303:AT.VII,07.10-12/E.P01.19-P02.02)からである。
      さ て、「フランス語でもってあまねくあらゆる人々に読まれるべく書かれたものにおいて」(ibid.)「私が願っておいた」ところ、「私の書いたもののなかで皆と出くわした」ものが「何か非難に値する」としても(7.B101:AT.VII,07.14-15/E.P02.04-07)、それは「二つ」(7.B202: AT.VII,07.18/E.P02.10)だけだったので、「それら」の問題の「いっそう精確な説明に着手する以前に」(7.B204: AT.VII.07.18-19/E.P02.11-12)、「私は答えておこう」(7.B205:AT.VII,07.19/E.P02.12- 13)。

    (3) The moderate line of 《AB》(当時の説明は、まだ整備されていなかった)
    [7.A101-A102-A201-A301-B102-B203-B205]
        「神と人間的精神とについての問題」には「すでに前に」「私は手短に触れたことがあって」、それは『理性を正しく導きつつ、諸学問において真理を探究す るための方法についての叙説』においてである(7.A101:AT.VII,07.01-03/E.P01.04-09)。「1637年に」その書を「フ ランス語で出版」した(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.09)のは、それらの問題がひじょうに「重要なもの momenti」だと「私には思われた」(7.A201:AT.VII,07.07/E.P01.13-14)からであるが、「それら」の問題を「説明するために私が辿る道は、あまり 整って」なく、「なじんで」ない(7.A301:AT.VII,07.08-09/E.P01.16-17)。ただ、もし何か非難されそうなものがあれば、それについては、読者こそが「私に」対して「厭わずに忠告していたはず」だ(7.B102:AT.VII,07.15-16/E.P02.07-08)。そこでまず、「これら」二つの点に対しては、「ここで手短に」(7.B203: AT.VII,07.18/E.P02.10)「私は答えておこう」(7.B205:AT.VII,07.19/E.P02.12-13)。

    arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
    初出:"What a cool believes"(blog),Mar.26,2007.


    * 飾り付けました(2009/5/04)。

    * 語句を一部、訂正致しました(2009/8/28)。

    That's Fusion, Not Confusion,isn't it?--Contents

    Arrangement and performance about Rene DESCARTES'〈The Sixth Meditation〉
    treated with his own analytical geometry
    & decorated with Marvin GAYE's words.

    (planned in August 20,2000-February 04,2001,
    produced in March 28-October 30,2001&after this,2007)

      Contents of “That's Fusion, Not Confusion.”  
    「第六省察」解析幾何学的処理・目次
    §000:The Harvest and Digests--要点と結論(序を兼ねて)

    第1章:分析(§§101-135)
    §101 Line of 《A》
    (1) The moderate line of 《A》(すべてのものは神によってもたらされうる)
    (2) One extreme line of《A》(純粋‘数学'の対象であれば、実在しうる)
    (3) The other extreme line of 《A》(私が判明に知得できるものはすべて、神が創りだしたものだ)

    §102 Line of 《B》
    (1) The moderate line of 《B》(想像とは、あたかも現前しているかのように凝らすこと)
    (2) One extreme line of 《B》(想像するためには、心の緊張を要する)
    (3) The other extreme line of 《B》(知解するためには、心の緊張を用いない)

    §103 Line of 《C》
    (1) One extreme line of 《C》(想像が純粋な知解から異なっているのを、私は知解する)
    (2) The moderate line of 《C》(精神が知解した観念)
    (3) The other extreme line of 《C》(精神によって想像されたものが符合する観念)

    §104 Line of 《D》
    (1) One extreme line of 《D》(感覚についても想像についても同様に論ぜよ)
    (2) The other extreme line of 《D》
    (物体的な自然本性は、純粋‘数学'の対象なのに、あまり判明ではない)
    (3) The moderate line of 《D》(感覚から、記憶をとおして、想像に至る)

    §105 Line of 《E1F1》
    (1) One extreme line of 《E1F1》(苦、快、延長、運動を、私は感覚していた)
    (2) The other extreme line of 《E1F1》(苦、快、感情、光、音等を、私は感覚していた)
    (3) The moderate line of 《E1F1》(苦、快、欲求、触覚的な性質を、私は感覚していた)

    §106 Line of 《f2》
    (1) One extreme line of 《f2》(私自身が作成していた観念は、さほど判然とはしていない)
    (2) The other extreme line of 《f2》(感覚によって知得されていた観念のほうが判然としていた)
    (3) The moderate line of 《f2》(私は、理性を用いる以前に感覚を用いていた)

    §107 Line of 《f3》
    (1) The moderate line of 《f3》
    (私の身体において、そして私自身のために私は欲求と感情とのすべてを感覚していた)
    (2) One extreme line of 《f3》(身体以外のものからは、私はいつでも切り離されうる)
    (3) The other extreme line of 《f3》
    (身体の部分における苦と快とのせいで、身体から私は切り離されえない)
    §108 Line of 《f4》
    (1) The moderate line of 《f4》(欲求、感情、苦、快を私が感覚しているのはなぜか)
    (2) One extreme line of 《f4》(苦しいと悲しくなり、快いと喜ぶのはなぜか)
    (3) The other extreme line of 《f4》(飢えると食べたくなり、喉が渇くと飲みたくなるのはなぜか)

    §109 Line of 《E2G1》
    (1) One extreme line of 《E2G1》(外部感覚)
    (2) The moderate line of 《E2G1》(感覚への不信)
    (3) The other extreme line of 《E2G1》(内部感覚)

    §110 Line of 《G2》
    (1) One extreme line of 《G2》

    (目覚めている間に感覚しないのにまさか眠っている間に感覚するなんて考えられないはずだった)

    (2) The moderate line of 《G2》
    (私の目覚めている間に感覚しないものが睡眠中に感覚されると思われる場合)
    (3) The other extreme line of 《G2》
    (目覚めている間に私の感覚しないものがまさか外の事物からやってくるなんて信じられない)
    §111 Line of 《G3》
    (1) One extreme line of 《G3》(私は自分の起源の創作者を知らずにいる、と仮想していた)
    (2) The other extreme line of 《G3》(自然および本性による私のつまづきを妨げるもの)
    (3) The moderate line of 《G3》(自分の起源の創作者を知らない私にも...)

    §112 Line of 《G4》
    (1) One extreme line of 《G4》(私の意志には依存していないもの)
    (2) The moderate line of 《G4》(自然に教わったもの)
    (3) The other extreme line of 《G4》(理性が阻止していたもの)


    §113 Line of 《E3H1》
    (1) One extreme line of 《E3H1》(感覚から得られると思われるものだけではない)
    (2) The moderate line of 《E3H1》(認容されるべきもの二つ)
    (3) The other extreme line of 《E3H1》(蒸し返されて疑われるべきものだけではない)

    §114 Line of 《H2》
    (1) One extreme line of 《H2》(私が思惟する事物だということ)
    (2) The moderate line of 《H2》(私の本性なり本質なりについて)
    (3) The other extreme line of 《H2》(私にとって確かなこと)

    §115 Line of 《i1》
    (1) One extreme line of 《i1》(想像する機能と感覚する機能)
    (2) The moderate line of 《i1》(特殊機能の形相的概念)
    (3) The other extreme line of 《i1》(様態と事物の間の区別)

    §116 Line of 《i2》
    (1) One extreme line of 《i2》(その他の機能も、二つの機能と同様、何らかの実体を介して存在する)
    (2) The moderate line of 《i2》(その他の機能も、何らかの実体に内在している)
    (3) The other extreme line of 《i2》(その他の機能も、知解されうるし、存在しうる)

    §117 Line of 《i3》
    (1) One extreme line of 《i3》(それらの機能は知解する実体のなかにはない)
    (2) The other extreme line of 《i3》(これらの機能は物体なり延長なりのなかにある)
    (3) The moderate line of 《i3》(これらの機能の明晰・判明な概念に含まれているもの)


    §118 Line of 《i4》
    (1) One extreme line of 《i4》
    (感覚された事物の観念を、能動的な機能は、私にとっては嫌でも、産出する)
    (2) The moderate line of 《i4》
    (感覚された事物の観念を、能動的な機能は、知解されようがされまいが、産出する)
    (3) The other extreme line of 《i4》
    (感覚された事物の観念を、能動的な機能は、私が協力しなくても、産出する)
    §119 Line of 《i5》
    (1) One extreme line of 《i5》
    (物体および身体としての事物が実在するとおりに私は明晰・判明に知解する)
    (2) The moderate line of 《i5》
    (物体なり身体なりとしての事物には、私が感覚でとらえるとおりのものがある)
    (3) The other extreme line of 《i5》
    (物体および身体としての事物を感覚でとらえると、不明瞭で不分明だ)
    §120 Line of 《J》
    (1) One extreme line of 《J》(たとえ個別的なものからでも真理に達しうる)
    (2) The other extreme line of 《J》(あまり明晰に知解されなくても私の意見は虚偽ではない)
    (3) The moderate line of 《J》(どんなに疑わしく不確実でも私は自分の意見を矯正できない)

    §121 Line of 《K》
    (1) One extreme line of 《K》(身体をもっているのは私だ)
    (2) The moderate line of 《K》(痛いときや飢えているときや渇いているときは身体が悪い)
    (3) The other extreme line of 《K》(私が飲食物を要することについて)

    §122 Line of 《L》
    (1) One extreme line of 《L》(精神が身体と合一しているせいで、感覚は不分明だ)
    (2) The moderate line of 《L》(痛くなければ私は傷を判然と知解するのに...)
    (3) The other extreme line of 《L》(飲食物を要するのは身体だが、飢えや渇きを感ずるのは私だ)

    §123 Line of 《M》
    (1) One extreme line of 《M》(追求されるべきもののうちで、好ましいもの)
    (2) The moderate line of 《M》(忌避されるべきもの/吾が身体の確かなるとき)
    (3) The other extreme line of 《M》(好ましくないものなら私は触発されうる)

    §124 Line of 《N1》
    (1) One extreme line of 《N1》(自然に教わったつもりでも、実際にはそうではない)
    (2) The other extreme line of 《N1》
    (自然に教わったのではなく、無思慮に判断する習慣で受け取った)
     (3) The moderate line of 《N1》(自然に教わったつもりでも偽に至りやすい)


    §125 Line of 《N2》
    (1) One extreme line of 《N2》(快楽を感じさせてくれるものを自然に追求する)
    (2) The other extreme line of 《N2》

    (神から賦与されているものとして自然だ、ということについて、謎を解いても、心身合一体には属さない)

    (3) The moderate line of 《N2》

    (苦痛を感じさせてくれるものを自然に忌避することについては、謎を解くと、精神だけに属する)


    §126 Line of 《N3》
    (1) One extreme line of 《N3》
    (感覚で知得されたものが、精神に対して自然に指示するのは、複合体にとっての都合だ)
    (2) The other extreme line of 《N3》(感覚での知得を確実な規則の如くに使用することについて)
    (3) The moderate line of 《N3》
    (精神が複合体の部分であるかぎり、感覚での知得は充分に明晰・判明だ)
    §127 Line of 《o》
    (1) One extreme line of 《o》(神の善性には誰も逆らえない)
    (2) The moderate line of 《o》(やはり私は全知ではない)
    (3) The other extreme line of 《o》(追求したら毒だった/忌避したが毒ではなかった)

    §128 Line of 《P》
    (1) One extreme line of 《P》(用途を予定されて命名された自然)
    (2) The moderate line of 《P》(二つの異なる自然)
    (3) The other extreme line of 《P》(人間が神によって造られているからには...)

    §129 Line of 《Q》
    (1) One extreme line of 《Q》(忠実に取られても欺くのは自然だ)
    (2) The moderate line of 《Q》(何を云われようが、喉が乾いているのは確かだ)
    (3) The other extreme line of 《Q》(命名が純粋ではないせいで、欺くのは自然だ)

    §130 Line of 《R》
    (1) One extreme line of 《R》(物体や身体が分割されても私は思惟するしかない)
    (2) The other extreme line of 《R》(精神は機能をもつが部分にならない)
    (3) The moderate line of 《R》(心身合一体における精神は分割されない)

    §131 Line of 《S》
    (1) One extreme line of 《S》(脳の部分の配置が同じでも、身体の部分は様々たりうる)
    (2) The other extreme line of 《S》(無数の経験をとおしても、精神に表示されるものは同じでありうる)
    (3) The moderate line of 《S》(感覚することで共通しているところから精神に表示されるものが同じとき)

    §132 Line of 《T》
    (1) One extreme line of 《T》(或る神経のうちで運動がどこも通過しないならば、感覚は別のものだ)
    (2) The other extreme line of 《T》(神経の途中の点からの運動でも、同じ感覚が得られる)
    (3) The moderate line of 《T》(綱そっくりの神経が運動して感覚する)

    §133 Line of 《U》
    (1) One extreme line of 《U》(健康を維持するべく、神経も運動する)
    (2) The moderate line of 《U》(苦痛に対しては全力で挑む)
    (3) The other extreme line of 《U》(運動が感覚のすべてをもたらすことでもって、体調を維持する)

    §134 Line of 《V》
    (1) One extreme line of 《V》(善なる神のもとでは、感覚が欺かれるのも自然だ)
    (2) The other extreme line of 《V》(運動しだす原因が何であれ、身体は良好にできている)
    (3) The moderate line of 《V》(同じ運動からは同じ感覚しか得られないが、原因は様々だ)

    §135 Line of 《W》
    (1) One extreme line of 《W》(夢のなかのものを記憶しても、実生活にはつながらない)
    (2) The other extreme line of 《W》(疑っていたのは、夢現つの区別をしなかったからである)
    (3) The moderate line of 《W》(感覚に記憶と知性を重ねれば、もう怖くない)

    第2章:表現(§§201-206)
    §201 Surface of 《ABC》
    (1) The 1st surface of 《ABC》(想像について)
    (2) The 2nd surface of《ABC》(想像と知解との間の相違)
    (3) The 3rd surface of 《ABC》(知解について)

    §202 Surface of 《ADEi5》
    (1) The 1st surface of 《ADEi5》(物体および身体としての事物についての明晰性・判明性)
    (2) The 2nd surface of《ADEi5》(純粋‘数学'の対象について)
    (3) The 3rd surface of 《ADEi5》(物体および身体としての事物が感覚で知得されること)

    §203 Surface of 《E1FfE2GE3Hi》
    (1) The 1st surface of 《E1FfE2GE3Hi》(私が神知らずでも、苦・快と感情とは知解されうる)
    (2) The 2nd surface of 《E1FfE2GE3Hi》
    (私が過誤を正すかぎりは、たとえ身体を切断させないくらいに感覚しても、その感覚は実体と区別されて存在する)
    (3) The 3rd surface of 《E1FfE2GE3Hi》
    (神の仕業で、私の知らないうちにも、欲求は身体なり物体なりに内在している)
    §204 Surface of 《JN1oW》
    (1) The 1st surface of 《JN1oW》(自然のとおりに、神のとおりに)
    (2) The 2nd surface of 《JN1oW》(虚偽ならず、吟味せよ)
    (3) The 3rd surface of 《JN1oW》(疑っても直せないから全知ではない)

    §205 Surface of 《KLMN2N3PQ》
    (1) The 1st surface of 《KLMN2N3PQ》(苦痛について)
    (2) The 2nd surface of 《KLMN2N3PQ》(お召し上がりの際には...)
    (3) The 3rd surface of 《KLMN2N3PQ》(心身合一体ならではの身の上相談)

    §206 Surface of 《QRSTUV》
    (1) The 1st surface of 《QRSTUV》(全力を尽くすこと)
    (2) The 2nd surface of 《QRSTUV》(誤りを正すこと)
    (3) The 3rd surface of 《QRSTUV》
    (心身が合一しているにも拘わらず、身体の部分や感覚やその原因は多様だ)

    第3章:演出(§§301-303)
    §301: The 1st Solid of 《ABCDE1FfE2GE3HiKLMN2N3PQRSTUVJN1oW》(苦痛には妥協する勿れ)
    §302:The 2nd Solid of 《ABCDE1FfE2GE3HiKLMN2N3PQRSTUVJN1oW》(心身ともに...)
    §303:The 3rd Solid of 《ABCDE1FfE2GE3HiKLMN2N3PQRSTUVJN1oW》(欲しければ吟味すべし)


     Contents of 
    “That's Fusion, Not Confusion.
    (appendix or annex in 2007)” 
    補遺(「第六省察」解析幾何学的処理)・目次
    第2章-表現への補遺(§§401-406)
    §401 Surface of 《KP》
    (1) The 1st surface of 《KP》(所詮、異常呼ばわりされただけ)
    (2) The 2nd surface of 《KP》(所謂自然は、私にとってどうなのか)
    (3) The 3rd surface of 《KP》(患ってなくても、正しくなくても、有益でなくても...)
    §402 Surface of 《KLN2P》
    (1) The 1st surface of 《KLN2P》
    (傷を眺める余裕もないままに、苦しいことや痛いことから逃げようとする私)
    (2) The 2nd surface of 《KLN2P》(私は身体ではないが、快いものや楽しいものが欲しい)
    (3) The 3rd surface of 《KLN2P》(傷ついた感じがしたのは知っているが...)
    §403 Surface of 《KMN3P》
    (1) The 1st surface of 《KMN3P》(現物とは似ても似つかぬことを感じた私)
    (2) The 2nd surface of 《KMN3P》(感じたことに選り好みをする私)
    (3) The 3rd surface of 《KMN3P》(心身一体になって逃げるときの、私の身体は確かだ)
    §404 Surface of 《QV》
    (1) The 1st surface of 《QV》(みずから/水から被るのも自然なり)
    (2) The 2nd surface of 《QV》(飲みたくないのも自然なり)
    (3) The 3rd surface of 《QV》(喉が渇いたままなのも自然なり)
    §405 Surface of 《QRTV》
    (1) The 1st surface of 《QRTV》(分割されたり動かされたりする物体および身体)
    (2) The 2nd surface of 《QRTV》(分割されないうえに動じない精神)
    (3) The 3rd surface of 《QRTV》(精神と物体および身体について私が気づくこと)
    §406 Surface of 《QSUV》
    (1) The 1st surface of 《QSUV》(ずっと健康でいるために経験すること)
    (2) The 2nd surface of 《QSUV》(ずっと健康でいるために感じること)
    (3) The 3rd surface of 《QSUV》(精神を触発するのは、せいぜい脳の一部にすぎない)
    凡例
       引用するにあたって、出典は文中に括弧で示した。その左項は、『省察』の序数(「第六省察」については6とした)と、ADAM& TANNERY版(AT.)の各段落およびそのなかの句・節とに準じて、本論文の筆者(K.-m. as the SHYNAMITES)が任意に区分したものである。
      また右項は、同AT版第VII巻の頁数と行数、ならびに第二版(E.)の頁数と行数である。


    引用文献・参考文献

    AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
    E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
      cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991),
      cf.Meditetiones de Prima Philosophia Lateinisch/Deutsch, übersetzt und herausgegeben von Gerhart SCHMIDT, Philipp Reclam Jun.,Stuttgart,1986.

    * 翻訳(上記以外)
    三宅 徳嘉・小池 健男 訳「方法叙説」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
    谷川 多佳子 訳『方法序説』(岩波文庫、1997)
    原 亨吉 訳「幾何学」(『デカルト著作集 1』所収、白水社、1973)

    * 論文および著作
    -G-
    マーシャル・ゲルー(小泉 義之 訳)「デカルト形而上学と理由の順序」

    (デカルト研究会 編『現代デカルト論集I フランス篇』所収、勁草書房、1996)

    -H-
    平松 希伊子「デカルトの自然学」--渦動と光」

    (湯川 佳一郎・小林 道夫 編『デカルト読本』所収、法政大学出版局、1998)

    -K-
    香川 知晶「精神の洞見と「実体」--デカルトの蜜蝋の分析について」

    (デカルト研究会 編『現代デカルト論集III 日本篇』所収、勁草書房、1996)

    倉田 隆「方法論--『規則論』と『方法序説』第二部」

    (湯川 佳一郎・小林 道夫 編『デカルト読本』所収、法政大学出版局、1998)

    小泉 義之『デカルト=哲学のすすめ』(講談社現代新書、1996)
    河野 勝彦「デカルトと数学」

    (湯川 佳一郎・小林 道夫 編『デカルト読本』所収、法政大学出版局、1998)

    古賀 祥二郎「自然学の基礎づけ--物質的事物の本質と存在」

    (湯川 佳一郎・小林 道夫 編『デカルト読本』所収、法政大学出版局、1998)

    -M-
    村上 勝三『デカルト形而上学の成立』(勁草書房、1990)
    -N-
    西村 哲一「デカルトの永遠真理創造説について--「普遍的創造説」の学問的射程」

    (湯川 佳一郎・小林 道夫 編『デカルト読本』所収、法政大学出版局、1998)

    -R-
    ジュヌヴィエーヴ・ロディス=レヴィス(西村 哲一 訳)「デカルト主義における人間の言語と自然的記号」

    (デカルト研究会 編『現代デカルト論集Ⅰ フランス篇』所収、勁草書房、1996)

    ジュヌヴィエーヴ・ロディス=レヴィス著/飯塚 勝久 訳『デカルト伝』(未来社、1998)
    -S-
    坂井 昭宏「デカルトの二元論--心身結合の同時的存立について」

    (デカルト研究会 編『現代デカルト論集III 日本篇』所収、勁草書房、1996)

    佐々木 周「驚くべきこと--デカルト「概要/第六省察」Synop.15,20-16,6」

    (デカルト研究会 編『現代デカルト論集III 日本篇』所収、勁草書房、1996)

    佐藤 公一「方法的懐疑とコギト」

    (湯川 佳一郎・小林 道夫 編『デカルト読本』所収、法政大学出版局、1998)

    -T-
    所 雄章『デカルトI』(勁草書房、1967/新装版1996)
    所 雄章『デカルトII』(勁草書房、1971/新装版1996)
    -Y-
    山田 弘明「人間学としてのデカルト哲学--「第六省察」の一解釈」

    (デカルト研究会 編『現代デカルト論集III 日本篇』所収、勁草書房、1996)

    * 参考資料
    -E-
    Ben EDMONDS 解説/泉山 真奈美 訳

    (Marvin Gaye 《What's Going On》[UICY-7028~9]所収、Motown/Universal Music, 1971/2001)

    -G-
    Marvin GAYE 著(Original album notes)/泉山 真奈美 訳

    (Marvin Gaye 《What's Going On》[UICY-7028~9]所収、Motown/Universal Music, 1971/2001)

    -I-
    泉山 真奈美 解説

    (Marvin Gaye&Tammi Terrell 《GREATEST HITS》[POCT-1953]所収、Motown/POLYDOR, 1970/1998)

    泉山 真奈美 解説

    (Marvin Gaye 《What's Going On》[UICY-7028~9]所収、Motown/Universal Music, 1971/2001)

    -K-
    紺野 慧『イナー・シティ・ブルース マーヴィン・ゲイが聴こえる』

    (ヤマハ・ミュージック・メディア、1997)

    紺野 慧 解説

    (Marvin Gaye 《TROUBLE MAN》[POCT-1899]所収、Motown/POLYDOR, 1972/1994)

    -O-
    大伴 良則 解説

    (Marvin Gaye《Midnight Love&the Sexual Healing Sessions》[CS-8817~8]所収、Sony Music Entertainment,1982/1998)

    -R-
    David RITZ 解説/泉山 真奈美 訳

    (Marvin Gaye《VULNERABLE》[POCT-1926]所収、Motown/POLYDOR,1997)

    David RITZ 解説/藤林 初枝 訳

    (Marvin Gaye《Midnight Love&the Sexual Healing Sessions》[CS-8817~8]所収、Sony Music Entertainment,1982/1998)

    Smokey ROBINSON 著(序文)/泉山 真奈美 訳

    (Marvin Gaye 《What's Going On》[UICY-7028~9]所収、Motown/Universal Music, 1971/2001)

    -T-
    Steve TURNER, TROUBLE MAN the life and death of Marvin Gaye, Penguin Books, London,1998.

    -Y-
    吉岡 正晴『ソウル・サーチン R&Bの心を求めて』(音楽之友社、2000)
    -W-
    Harry WEINGER 解説/泉山 真奈美 訳
    (Marvin Gaye 《What's Going On》[UICY-7028~9]所収、Motown/Universal Music, 1971/2001)


    produced and arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.

    初出: "What a cool believes"(blog),June 23 and 25,2007.

    The HARVEST and DIGESTS on That's Fusion, Not Confusion.--part 3

    AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
        
    ...(頁、行)
    E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
        
    ...(頁、行)
      cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
        
    ...(6=「第六省察」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)


    The HARVEST and DIGESTS(part 3)
    on That's Fusion, Not Confusion.

    要点と結論(序を兼ねて)--其の参

      第三の要点は、次のとおりである。
      すなわち、「あたかも混合しているかの如く」みずか らの「身体にひじょうに緊密に結合している」「私」にとっては、「このようにして」身体と「複合」して「一なるもの」となっている(6.L104: AT.VII,81.03-05/E.84.11-13)のは「自然」なことだ(6.L101:AT.VII,81.01/E.84.08)。これは「私 の起源の創作者を」、つまり神を「今なお知らずにいた」(6.G301:AT.VII,77.14-15/E.79.24-26)というより、「少なくと も知らずにいる、と仮想していた」「私」(6.G302:AT.VII,77.14-15/E.79.26-27)にも「ひじょうに真なるものとして現れ 出てくる」(6.G304:AT.VII,77.17-18/E.79.29-30)ことであった。ましてや「今」の「私」は、「私自身と」神とについて 「よりよく知りはじめている」「後」であり(6.H101:AT.VII,77.28-29/E.80.12-13)、それらを「認容」するにあたっては 「せっかちで」いるべきだ、と自分では「考えている」(6.H103:AT.VII,77.30-78.01/E.80.15)ところなのである。たとえ ば、「脊髄をとおして脳の奥へと伝達」(6.U203:AT.VII,88.02-03/E.92.21-22)される神経の運動ならば、「足に害がはび こっているように」(6.U207:AT.VII,88.06/E.92.26)「脳のなかで精神に表示」されるが、「任意なら他の何」が表示されようと も、神経の「運動」はこれと「同じ」ようである(6.U302:AT.VII,88.08-09/E.92.28-29)。また、「咽において」「何か」 「乾燥しはじめる」(6.U402:AT.VII,88.13-14/E.93.05-06)のは、「我々が」「飲料」でもって「体調」を「維持」しよう と「求めている」(6.U406:AT.VII,88.17-18/E.93.05-06)せいなのである。このように、「人間」を「健康」に「維持」す るのに「最大にして最も頻繁に有利である」もの「以外に」(6.U108:AT.VII,87.23-25/E.92.13-15)、感覚のなかには 「まったく何も見いだされない」(6.U111:AT.VII,87.26-27/E.92.16-17)のだが、このことを「私はすでに前に充分に洞察 してきた」(6.o101:AT.VII,83.24/E.87.19-20)。すると、「どうして」も(ibid.)「新しい困難に」「ここでは」「出 くわす」ことになる(6.o201:AT.VII,83.26/E.87.21-22)。すなわち諸々のものは、それ自体は「あたかも追求されるべきもの として、あるいは忌避されるべきものとして、私に」対して「自然に表示される」(ibid.:AT.VII,83.26-28/E.87.22-24) が、それを「摂取し」たところ、「内部に潜んでいる」のが「毒」であったり(6.o303:AT.VII,83.30/E.87.27)毒でなかったりし ても(6.o402:AT.VII,84.02-03/E.87.30)、「不思議ではない」(6.o601:AT.VII,84.05/E.88.02 -03)ということになるのだ。

      但し、「欺く」のもまた「自然」(6.Q400:AT.VII,85.26-27/E.90.05)なのであって、 「神」が「善」であれ、「どんな仕方で」あれ、欺かないようにと「妨げることはない」のが自然だ(ibid.:AT.VII,85.25- 26/E.90.04-05)。「外部」で感覚されたことについての判断(6.G104:AT.VII,76.28/E.79.06)によれば、いくら 「脚もしくは腕を切断されてしまった」(6.G108:AT.VII,77.02-03/E.79.09)からといって、はたしてそうした肢体の「その部 分が私に苦痛を与える」かどうか(6.G110:AT.VII,77.04-06/E.79.12-13)。「私には」このことが「まったく確実だとは思 えずにいた」のである(ibid.:AT.VII,77.05/E.79.12-13)。ところで「精神と身体とから複合されている」かぎり、「人間」が みずからの「本性」によって欺かれざるをえないときもある(6.V103:AT.VII,88.20-22/E.93.13-15)、ということは「およ そ明瞭」だ(6.V101:AT.VII,88.19/E.93.12)。なるほど「足においてではない」(6.V202:AT.VII, 88.22/E.93.16)何らかの原因で「引き起こ」された「運動」と、「足」が「刺激され」て「悪く」なったときに「たいてい引き起こされがち」な 運動とが、どちらも「まったく同じ」である(6.V205:AT.VII,88.24-25/E.93.19-20)ならば、このように運動しはじめる 「原因」でもって「足を傷つけている」ほうが、頻度は「はるかに」高いのが「常である」(6.V302:AT.VII,88.28-30/E.93.24 -25)けれども、このように運動しはじめる「原因」がそれと「反対の何か」であっても(6.V403:AT.VII,89.04/E.93.30- 94.01)、「身体」は「良好」に「構成されている」のだ(6.V407:AT.VII,89.06-07/E.94.04)。このように、一般的に観 て自然で本性的たることから「私」が教えられることにおいて、「充分に判明に知得しない事物はない」(6.N201:AT.VII,82.12- 13/E.85.26-27)のだが、それというのも、「ここで」「私の取る」「自然」の意味が「思うに、比較的厳密」(6.N301:AT.VII, 82.14-15/E.85.30)だからなのであって、「私が論じていない」(6.N309:AT.VII,82.23/E.86.09-10)ものも 残らず「すべて」、あたかも「光によって」いるが如く「自然に」「知られたもの」(6.N305:AT.VII,82.20-21/E.86.05- 07)である。ちなみに「色、音、味、苦痛、およびこれに類するようなもの」(6.D103:AT.VII,74.03/E.75.21-22)の多く を、「私」はたいてい「想像する」(6.D101:AT.VII,74.01/E.75.19)のだが、「これら」を「私」は「感覚によって」「知得し て」(6.D105:AT.VII,74.04/E.75.03)、そうした「感覚から」「想像にまで」至る途中で「記憶の助けを介し」たと「思われる」 (6.D106:AT.VII,74.05-06/E.75.24-25)。そうであれば、ここで「私」の扱う自然には、「快楽の感覚を」もたらすものを 「追求すること、およびその類いのこと」(6.N402:AT.VII,82.26-27/E.86.14-15)が「属していると思われる」 (6.N406:AT.VII,83.01-02/E.86.20-21)。

      そこでまず「私が知っている」ところによれば、「私が明晰・判明に知解するもののすべて」を(6.H201: AT.VII,78.02-03/E.80.17-19)、「私が知解するそのような類いのものとして」造ることができるのは、「神」である (6.H202:AT.VII,78.03/E.80.18-19)。ここで「重要」なのは、「それを造る」神が「どのくらい有能」なのか、ということで はなくて(6.H206:AT.VII,78.06-07/E.80.23-24)、「私が思惟する事物であるという、もっぱらこのことだけ」である (6.H210:AT.VII,78.10-11/E.80.28)。「おそらく」(「あるいはむしろ、すぐ後で私が云うように、確かに」)「私がもって いる」(6.H301:AT.VII,78.13-14/E.80.30-81.02)のは、みずからの「身体」(ibid.:AT.VII, 78.14/E.81.02)と、そうした「身体」についての「判明な観念」(6.H306:AT.VII,78.17-18/E.81.06-07)と であるが、「思惟する」事物では「ない」(6.H308:AT.VII,78.18-19/E.81.08)ところのそうした身体を「介さずに存在するこ とができる」(6.H310:AT.VII,78.20/E.81.10)のは「私」である。要するに、神が造ったところによると、みずから身体をもって いる事物は「私」であり、みずからの身体について判明な観念をもっている事物も「私」である。

      その「私が私のなかに」「或る種の特殊な機能」として「見いだす」のは、快楽を感じさせるものを追求する際に想像したり 感覚したりする機能である(6.i101:AT.VII,78.21-22/E.81.11-12)。これらの機能は「私」とは別であるから、「云い換え れば、知解する実体」とは別であるから(6.i104:AT.VII,78.24-25/E.81.15-17)、「思惟する様態」(6.i101: AT.VII,78.22/E.81.12)である。実に、これらの機能は、「私」という実体に「内在している」(6.i104:AT.VII, 78.25/E.81.16-17)にも拘わらず、思惟する「事物から」は「様態」として(6.i107:AT.VII,78.27/E.81.19)、 「区別される」(6.i108:AT.VII,78.28/E.81.19)。要するに、何かを欲求するにあたって想像したり感覚したりするのは、ほかな らぬ「私」である。

      そして「或る種の機能」としてほかに「私が認知する」のは、快楽を感じさせるものを追求するべく「場所を変え」たり「様 々な形を」装ったりする機能の類いである(6.i201:AT.VII,78.28-29/E.81.20-22)。「これら」の機能は(6.i301: AT.VII,79.02-03/E.81.25)、「物体なり身体なりといった実体」、「あるいは云うなら延長という」実体に「内在して留まっている」 (6.i303:AT.VII,79.03-04/E.81.26-27)のであって、「そうした実体を介さずに存在することはない」(6.i205: AT.VII,79.01-02/E.81.24-25)。「思うに」、何かを欲求するべく場所を変えたり様々な形を装ったりする機能は「明晰・判明な概 念に含まれて」も(6.i307:AT.VII,79.05-06/E.81.29-30)、何かしら「延長」(6.i305:AT.VII,79.04 -05/E.81.28)したままであろう。「私」によって知解されようが知解されまいが、欲求そのものは身体なり物体なりに内在しているのだが、そのよ うに造ったのは神なのである。

      もう一つ「私が知る」ところによると、「すべての感覚」のうち、身体にとって好都合なことに関わるものを「めぐって」 (6.W201:AT.VII,89.11-12/E.94.10-11)「真なるもの」を「報じる」頻度が「はるかに」高い(6.W203: AT.VII,89.12-13/E.94.12-13)ものを、「私」は「目覚めているときに感覚する」、と「私には思われる」のだが(6.G206: AT.VII,77.14/E.79.23-24)、それらの感覚が「偽なるもの」を報じた場合でも(6.W203:AT.VII, 89.13/E.94.12-13)、さらに「記憶」(6.W205:AT.VII,89.15/E.94.14-15)と「知性」(6.W207: AT.VII,89.16/E.94.16)とでもってすれば、「私はもはや恐れなくて」済むのである(6.W209:AT.VII,89.17- 18/E.94.17-18)。実際に何かを欲求するにあたっては、過誤を正す必要がある。欲を感じた際には、その欲を満たすと身体の具合がいったいどう なるのかを、記憶と知性とでもって吟味すべし。

      さて「私が感覚した」ところによれば、「頭、手、足、その他の肢体」を、そして「それらから成るところの物体なり身体な り」を「もっている」のは「私」である(6.F101:AT.VII,74.17-18/E.76.08-10)が、「私」はそういう身体を「あたかも私 の部分であるかのように、あるいはおそらくまた、あたかも私全体であるかのように、観ていた」(ibid.:AT.VII,74.18- 20/E.76.10-12)。他の多くの物体のうち、「好都合なものを或る種の快の感覚によって、そして不都合なものを苦の感覚によって、測り分けてい た」「私」が(6.F104:AT.VII,74.22-23/E.76.15-16)「感覚していた」のは、「私における飢え、渇き、および他のそう いった類いの欲求」であり(6.F202:AT.VII,74.24-25/E.76.17-19)、また、外部の諸物体における「堅さ、熱さ、および他 の触覚的な性質」である(6.F302:AT.VII,75.01-02/E.76.23-25)。そういえば「私にとって追求されるべきもの」は「幾つ かあって」(6.M102:AT.VII,81.16-17/E.84.28)、「諸々の物体に」おける「何らかの」(6.M203:AT.VII, 81.20/E.85.02)そうした「多様性は、それら」を感覚で知得したものに「対応する」(6.M205:AT.VII,81.21- 22/E.85.04)。となると、「私」の意志で(6.f407:AT.VII,75.12/E.77.08)「できない」のは、対象が「私」の感覚器 官に「現前しているとき」に「感覚せず」にいることだ(6.f409:AT.VII,75.13-14/E.77.09-10)。「私」が「感覚によって 知得」した「諸々の観念」はいずれも、ひじょうに「生き生きとして」いるどころか生々しく「判然としていて、それなりにまた」「判明でもあった」のだが (6.f410:AT.VII,75.14-16/E.77.10-13)、その一方で、「私自身が作成していた観念」は「さほど判然としていない」ので あって、このことは「私に判っていた」(6.f502:AT.VII,75.24-25/E.77.23-25)。感覚によって知得されていた観念を「諸 々の部分」として「複合」することでもって、「私」自身で作成していたものが、それらの観念の「大多数」を占めているのだ(6.f504:AT.VII, 75.26-27/E.77.26-27)。ところで感覚による「それらの知得のうち」には「好ましい」ものもあるが、それは「私にとって」 (6.M301:AT.VII,81.22-23/E.85.05-07)、「あるいはむしろ全体としての私」(6.M304:AT.VII,81.24 -25/E.85.08)にとって、好ましいだけである。要するに、「私」の感覚器官に現前している諸々の物体を「私」が感覚することそのものにおいて は、「私」の拒む余地はないのだが、そのような感覚での知得を好んでいるのは、もっぱら「私」だけである。以上より、快楽を感じさせるものを追求する際 に、つまり何かを欲求する際に、感覚での知得を「あたかも確実な規則であるかのように使用する」ことでもって「私」が「媒介なしで適正に」知ろう (6.N806:AT.VII,83.19-21/E.87.14-16)としても、「我々の外部に位置する物体なり身体なりの本質」(ibid.: AT.VII,83.21/E.87.15-16)については感覚での知得は「きわめて不明瞭で不分明にしか指示しない」のである(6.N807: AT.VII,83.22-23/E.87.06-08)。実に「少なくとも私が知解するところ」では、たとえば胃の「引き攣れ」と、「食物」をとろうと いう「意志との間に」は「類縁した」ところが「全然ない」のだ(6.f707:AT.VII,76.13-15/E.78.16-19)。

      一般的に観て「自然」なことのうちで、「私」にとって「これ以上ないくらいに判然と」しているのは(6.K101: AT.VII,80.27-28/E.84.01-02)、「食物あるいは飲料を要する」(6.K104:AT.VII,80.29/E.84.04)の が「私」であるということなのだが、このことにおいても「何らかの真理がある」(6.K202:AT.VII,80.31/E.84.06-07)はず だ。「光、音、苦痛」の類いだけでなく、このように「あまり明晰には知解されないもの」(6.J102:AT.VII,80.13-14/E.83.13 -15)に関するかぎり、「いかなる虚偽も私の意見のなかには見いだされるようにはなりえない」(6.J203:AT.VII,80.16- 17/E.83.17-19)。明晰に知解されなくても、欲求そのものは決して虚偽ではない。何しろ、「一般的に観られた」場合に「自然」で本性的たるこ と(6.J401:AT.VII,80.21-22/E.83.24-25)としての「神から私に賦与されたもののすべて」は「綜体」を成している (6.J502:AT.VII,80.25-26/E.83.29-30)のである。「私が感覚でもって包括的に把握するとおりのもの」(6.i902: AT.VII,80.05-06/E.83.02-03)の「すべては、少なくとも」物体なり身体なりとしての事物の「なかにある」(6.i904: AT.VII,80.07-08/E.83.07)のであって、このことからして「物体および身体としての事物は実在する」(6.i800: AT.VII,80.04/E.83.02-03)と云える。したがって、「すべて」(6.i906:AT.VII,80.09/E.83.08-09) 「それらは純粋‘数学'の対象において包括的に把握されている」(6.i908:AT.VII,80.09-10/E.83.09-10)ことになる。こ のように把握されるかぎりでは、「食物あるいは飲料を要する」のは「身体」なのであって(6.L206:AT.VII,81.09/E.84.18- 19)、「飢えと渇きと」を「不分明」に「感覚」するところの「私」では「ない」(6.L208:AT.VII,81.10-11/E.84.20)。な るほど、何かが充足していたり不足していたりするのは身体だが、欲しいと感じたり感じなかったりするのは「私」であり、快いと感じたり感じなかったりする のも「私」だ。とはいえ「個別的な事物をめぐってしばしば過誤に晒されている」のが「人間の生活だ」、ということは、「認容されるべき」なのである (6.W902:AT.VII,90.14-15/E.95.17-19)。
      よって、「あたかも混合しているかの如く」 みずからの「身体にひじょうに緊密に結合している」「私」にとって、「このようにして」身体と「複合」して「一なるもの」となっている(6.L104: AT.VII,81.03-05/E.84.11-13)のは、やはり「自然」なのだ(6.L101:AT.VII,81.01/E.84.08)。これ が要点の第三のものである。


      以上で要点が三つ揃ったわけだが、これらはいずれも、「私」が神を知ろうが知るまいが、「私」が心身ともに、つまり人間 として、健全でいることに関わっている。そしてそれはすなわち「私」が神に従うことに関わっているのだ。そこで問題となるのは、神として自然で本性的たる ことと「私」にとって自然で本性的たることとの相違、すなわち一般的に観られた自然と個別的な自然との相違であるが、「私」の取る自然の意味が比較的厳密 であれば、心身で複合されている「私」が、一般的に観られた自然に、つまり神から教えられることにおいては、充分に判明に知得しない事物はないはずだ。

      さて、神が「私」に教えることのうちで最も判然としていたのは、次の二つのことであった。すなわち第一に、「私」が苦痛 や飢えや渇きなどを感じる場合に、悪いのはあくまで「私」のもっている身体だ、ということである。第二に、身体をもっているのが「私」であるかぎり、 「私」は食物や飲料を要するのだ、ということである。ところが、神から教えてもらっただけで、ただちに「私」にとって自然だ、というわけにはいかない。な ぜなら、我々にとってはそれが自然だから、というだけで、我々の外部に位置している事物について、予め知性でもって吟味することのないまま、苦痛や飢えや 渇きなどの感覚の知得から何かを結論してしまうからである。各々の「私」においては、みずからの身体の部分も感覚およびその感覚の原因も多様なので、どう して外部の事物を吟味するにあたっては知性を用いないわけにはいかない。さもないと、「私」のもっている身体をさらに悪化させてしまうものを追求すること さえ起こりうるのだ。

      よって、身体をもっているのが「私」であるかぎり、苦痛や飢えや渇きなどの原因を忌避することこそ、「私」にとって自然 なことである。そうした原因が苦痛等の感覚の対象として事実であるからには、そうした原因について、すなわち苦痛等の感覚をもたらす事物の観念について、 充分に吟味されないままだと、「私」のもっている身体が悪化するのを防げないがゆえに「私」は人間としての健康を維持できなくなってしまうのだ。最後に、 精神と身体とから複合されている「私」が快楽を感じるにあたって、一般的に観ても自然であり、且つ「私」にとってもまた自然であり、しかも心身ともに健康 的なのは、いったいどういう場合なのか。それは、苦痛の原因を忌避することを追求して快楽を感じ、飢えをしのごうと欲して快く感じ、渇きを癒そうと欲して 快く感じる場合にほかならない。これを以て、結論とする。

    (2001年記) 


    presented by K.-m. as the SHYNAMITES.
    初出:"What a cool believes"(blog),June 20,2007.





    The HARVEST and DIGESTS on That's Fusion, Not Confusion.--part 2

    AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
        
    ...(頁、行)
    E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
        
    ...(頁、行)
      cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
        
    ...(6=「第六省察」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)


    The HARVEST and DIGESTS(part 2)
    on That's Fusion, Not Confusion.

    要点と結論(序を兼ねて)--其の弐

      第二の要点は、次のとおりである。
      すなわち、「私」が(6.L202:AT.VII, 81.05/E.84.14)「苦痛や飢えや渇きなど」を「感覚」する(6.L102:AT.VII,81.01-02/E.)のは「自然」なことだ (6.L101:AT.VII,81.01/E.84.08)。これは、「私の起源の創作者を」、つまり神を「今なお知らずにいた」「私」 (6.G301:AT.VII,77.14-15/E.79.24-26)には「全然判っていなかった」(6.G303:AT.VII, 77.16/E.79.27)ことである。「私が」「欺かれて誤るように成り立っている」のもまた「自然」で本性的なのだが、このことに「抗する」 (ibid.:AT.VII,77.16-17/E.79.27-28)うちに「ひじょうに真なるものとして現れ出てくる」(6.G304: AT.VII,77.17-18/E.79.29-30)のは、すなわち、「私」が苦痛等を感覚するのは自然なのだという、まさにこのことである。まして や「私自身と」神とを「よりよく知りはじめている後」である「今」の「私」(6.H101:AT.VII,77.28-29/E.80.12-13)に とって、「なるほど」決して「感覚から」得られるとは「思われ」ない(6.H102:AT.VII,77.29-30/E.80.14-15)のは、やは りこのこと、すなわち、「私」が苦痛等を感覚するのは自然なのだということである。ところで、「身体」を「維持」するのに「有利な」こととして、ほかなら ぬ(6.U304:AT.VII,88.11-13/E.93.03-04)例がある(6.U201:AT.VII,87.28/E.92.19)。すな わち、「足に在る神経」が「いつもと違って激しく動かされ」ている(ibid.:AT.VII,88.01-02/E.92.19-21)というだけで、 精神は「苦痛」を「あたかも足のなかに存在するが如き」ものとして(6.U205:AT.VII,88.04-05/E.92.24-25)「除去して」 (6.U209:AT.VII,88.04-05/E.92.26-27)しまうのである。このようにして精神には、苦痛のみならず、「すべて」の感覚が もたらされうる(6.U107:AT.VII,87.23/E.92.12-13)のだが、このことは「経験」によって「立証」されている (6.U109:AT.VII,87.25/E.92.15)。そうであれば、「どうして」も(6.o101:AT.VII,83.24/E.87.19 -20)「私の判断は偽であることに至る」(6.o103:AT.VII,83.25/E.87.20-21)し、「内部」で「感覚」したこと「において でさえ、過誤を思い知らされたことがある、と私には思われる」(6.o202:AT.VII,83.28-29/E.87.24-25)。よって、「私」 が「全知でない」のは「自然」なことである(6.o502:AT.VII,84.04-05/E.88.01-02)。この点において「有限な事物」が 「人間」である(6.o602:AT.VII,84.05-06/E.88.03)。

      但し、「欺く」のもまた「自然」(6.Q400:AT.VII,85.26-27/E.90.05)なのであって、 「神」が「善」であれ、「どんな仕方で」あれ、欺かないようにと「妨げることのない」のが自然だ(ibid.:AT.VII,85.25- 26/E.90.04-05)。「苦痛よりもいっそう内的でありうる」のは、いったい「何」「か」(6.G106:AT.VII, 77.01/E.79.07-08)。そういえば「自分では今でもなお、時折は、みずから苦痛を感ずるように思われる」ことがあって、それは自分が以前に 「失った」はずの「その身体の部分において」である(6.G109:AT.VII,77.03-04/E.79.10-11)。ところで、「何らかの原 因」で(6.V201:AT.VII,88.22/E.93.16)「脳そのもののなかに」引き起こされる運動も(6.V204:AT.VII, 88.24/E.93.18-19)、そしてまた「あたかも足におけるかのように」「苦痛が」「感覚されることになる」(6.V206:AT.VII, 88.26/E.93.20-21)場合に「脳のなかに」引き起こされる「運動」も、どちらも「同じ」なのだが(6.V301:AT.VII, 88.27/E.93.22-23)、このことは「およそ明瞭」である(6.V101:AT.VII,88.19/E.93.12)。そうであれば、「こ の」運動が「精神にもたらすことのできる」「感覚」は「常に同じ」で「しかない」(6.V301:AT.VII,88.27-28/E.93.22- 24)とはいえ、「別のところに」は足を傷つける原因「以外の」ものが「存在している」(6.V303:AT.VII,88.30/E.93.25- 26)はずだ。そこで「私は気づく」(6.S101:AT.VII,86.16/E.90.28)。すなわち、「精神の触発される」のが「身体の部分のす べてから」で「なく」ても、「媒介なしで」なくても(ibid.:AT.VII,86.16-17/E.90.28-29)、脳の微小な一部分が「いつで も同じ仕方で配置される」(6.S301:AT.VII,86.20/E.91.02-03)ならば、「その際に身体の残りの部分は別個の仕方でみずから を保つことができる」(6.S400:AT.VII,86.21-22/E.91.04-06)のだ。要するに、「私」は精神と身体とで複合されているか ぎり、みずからの身体の部分も感覚およびその感覚の原因も多様なのである。なるほど、「ただ私には」(6.N310:AT.VII,82.23- 24/E.86.10-11)「神から賦与されている」(6.N312:AT.VII,82.24-25/E.86.11-12)だけで、「私」にとって 自然だ、というのでは、まだ「現れていない」ので明らかになっていない(6.N403:AT.VII,82.27-30/E.86.15)ことがある。す なわち、「我々に」とってはそれが自然だから、というだけで、「我々は、我々の外部に位置している事物について、予め知性でもって吟味することのないま ま、そうした」苦痛の「感覚」での「知得から何かを結論して」しまう(ibid.:AT.VII,82.27-30/E.86.15-19)、ということ である。ところで苦痛を「想像」するだけの「私」(6.D101:AT.VII,74.01/E.75.19)にとって、「物体なり身体なりとして自然で 本性的たること」は、「純粋‘数学'の対象である」(6.D102:AT.VII,74.01-02/E.75.19-21)にも拘わらず、「あまり判明 ではない」(6.D104:AT.VII,74.03-04/E.75.22-23)から、そうした苦痛について真実を知ろうとしても、精神と身体との 「複合体ではない」(6.N405:AT.VII,83.01/E.86.20)ものに「属して」しまう、と「思われる」(6.N406:AT.VII, 83.01-02/E.86.20-21)。その際には、「他の」事物を介さずに「一つの事物を明晰・判明に知解すること」が「私」にできればそれで「充 分」なのである(6.H203:AT.VII,78.04-05/E.80.19-21)。というのも、「それら」の事物を「別々に措定」できるのは「少 なくとも神」だからである(6.H205:AT.VII,78.06/E.80.22-23)。こうして、「それらが別個なものとして見積もられ」る (6.H207:AT.VII,78.07-08/E.80.24)ようになっても、それらはいずれも「私の本性あるいは本質には属していない」、という ことに「私」は「気づく」のである(6.H209:AT.VII,78.09-10/E.80.25-27)。「ただ延長する事物でしかない」 (6.H307:AT.VII,78.18/E.81.07-08)ところの身体を「介さずに、存在することができる」(6.H310:AT.VII, 78.20/E.81.10)という、「この一つのことにおいて」「私の本質が存立するのだ」、と「私が結論する」ならば、それは正しい(6.H211: AT.VII,78.11-12/E.80.29-30)。つまり、みずからの身体と「きわめて緊密に結合している」「私」(6.H302: AT.VII,78.14-15/E.81.02-03)は、「ただ思惟する事物でしかない」(6.H304:AT.VII,78.16-17/E.)。 要するに、身体が「私」ではないことを、および「私」が身体ではないことを、知解するのは「私」であり、措定したのは神である。他方、苦痛を「想像」した り「感覚」したりする「機能」(6.i102:AT.VII,78.22-23/E.81.12-13)は、「私が知得する」際には「私から」 (6.i106:AT.VII,78.27/E.81.18-19)「区別されている」(6.i108:AT.VII,78.28/E.81.19)の で、「思惟する様態」(6.i101:AT.VII,78.22/E.81.12)である。また、苦痛のせいで「場所を変え」たり「様々な形を」装ったり する機能の類いならば、「或る種の他の機能」として「私は認知する」(6.i201:AT.VII,78.28-29/E.81.20-22)。「なるほ ど」それらは、苦痛を想像したり感覚したりする機能(6.i202:AT.VII,78.30/E.81.22-23)と同じく、何らかの「実体を介さず に存在することはない」(6.i205:AT.VII,79.01-02/E.81.24-25)。しかし、苦痛のせいで場所を変えたり様々な形を装った りする機能が「明晰・判明な概念に」なると、こうした機能には何かが「含まれている」(6.i307:AT.VII,79.05-06/E.81.29- 30)、ということが「明らか」になる(6.i301:AT.VII,79.02-03/E.81.25)。飢えや渇きについても同様のことが云えよう。

      そうであれば、本性上、「私」が晒されている諸々の過誤を「矯正したり回避したりすること」は、「私」にも「容易にでき る」(6.W103:AT.VII,89.10-11/E.94.08-10)、ということになる。また、「私」が「目覚めているときに感覚する」、と 「私に思われる」ものは(6.G206:AT.VII,77.14/E.79.23-24)、すべての感覚のうちの「大半」を占めているのだが、それらを 「ほとんど常に使用すること」でもって「同じ」一つの「事物を吟味する」ことも「私」には「できる」(6.W204:AT.VII,89.13- 15/E.94.13-14)はずだ。そうすると、過誤に陥る「原因のすべて」について「すでに」知性でもって「洞察した」(6.W208: AT.VII,89.16-17/E.94.16-17)うえで、「私」にとって「忌避されるべきもの」がある(6.M103:AT.VII, 81.17/E.84.29)、と「私が結論する」のであれば、それは「正しい」(6.M202:AT.VII,81.19/E.85.02)ことにな る。

      そこでまず「私が感覚した」ところによれば、「私がもっているのは、頭、手、足、その他の肢体であり、それらから成ると ころの物体なり身体なり」である(6.F101:AT.VII,74.17-18/E.76.08-10)。そういう身体を「私」は、「あたかも私の部分 であるかのように、あるいはおそらくまた、あたかも私全体であるかのように、観ていた」(ibid.:AT.VII,74.18-20/E.76.10- 12)。というのも「私が感覚した」ところによると、「この身体なり物体なり」は「他の多くの物体の間に介在していて」(6.F102:AT.VII, 74.20-21/E.76.12-13)、それらのうちで「好都合なものを或る種の快の感覚によって、そして不都合なものを苦の感覚によって測り分けて いた」「私」が(6.F104:AT.VII,74.22-23/E.76.15-16)、そうした「苦や快のほかに」(6.F201:AT.VII, 74.23-24/E.76.17)「外部で」感覚していたのは、「諸物体の延長や様々な運動」だからである(6.F301:AT.VII,74.27- 75.01/E.76.22-23)。ところで「私」が「いかなる対象をも感覚できない」(6.f406:AT.VII,75.11- 12/E.77.07-08)のは、その対象が「私」の「感覚器官に現前していない」場合に限られる(6.f408:AT.VII,75.12- 13/E.77.08-09)はずだ。また、「私」が「感覚せずにはいられない」のは、その対象が「私」の感覚器官に「現前しているとき」である (6.f409:AT.VII,75.13-14/E.77.09-10)はずだ。このようにして、ひじょうに「生き生きとして」いるどころか生々しく 「判然としていて、それなりにまた」「判明でもあった」「諸々の観念」は「感覚によって知得される」(6.f410:AT.VII,75.14- 16/E.77.10-13)ものだから、「私」に判っていたかぎりでは、「感覚によって知得されていた」観念のほうが判然としていたのだ (6.f503:AT.VII,75.26/E.77.25-26)。しかし、「身体と精神とから複合されたものが私であるというかぎりにおいて」 (6.M305:AT.VII,81.25/E.85.09-10)、「全く確か」なのは「私の身体」(6.M303:AT.VII, 81.24/E.85.07-08)なのである。要するに、「私」の感覚器官に諸物体が現前してようが現前してなかろうが、「私」はみずからの身体と複合 したままである、ということは確かなのだ。以上より、苦痛や飢えや渇きを感ずる際に、「自然に」感覚で知得されることが「本来、与えられて」いて、「精神 に指示する」のは、「ただ、いったいどんなものが複合体にとって」(6.N802:AT.VII,83.16-18/E.87.09-11)「好都合なの か、もしくは不都合なのか」ということにすぎない(6.N804:AT.VII,83.18-19/E.87.12)のであって、物体なり身体なりの本質 については「きわめて不明瞭で不分明にしか、指示しない」のである(6.N807:AT.VII,83.22-23/E.87.16-18)。というの も、一般的に観て自然で本性的たることから、すなわち神から、「私」に賦与されているものすべてが成している「この綜体」のうちには、「もっぱら精神のみ に属するもの」も「多く含まれている」し(6.N303:AT.VII,82.17-18/E.86.02-04)、「もっぱら物体および身体のみに関わ るものも多く」(6.N307:AT.VII,82.21-22/E.86.07-08)含まれているからである。実に、欲求や感情や苦痛や快楽「以外の もの」に関しても、「私が感覚の対象について判断していた」もの「すべて」を「私」は「自然に教わったのだ」、とてっきり「私には思われていた」 (6.f801:AT.VII,76.16-18/E.78.21-23)。

      一般的に観て「自然」なことのうちで、「私」にとって「これ以上ないくらいに判然と」していることがあった (6.K101:AT.VII,80.27-28/E.84.01-02)。それはすなわち、「身体をもっている」のが「私」である(6.K102: AT.VII,80.28/E.84.01-02)、ということだ。そういえば、「私が特殊の或る権利でもって、私のものと称していた」ところの「あの物 体」なり身体なり(6.f601:AT.VII,75.30-76.01/E.77.30-78.01)から「私」は「いつだって」「切り離されることは できなかった」(6.f603:AT.VII,76.02/E.78.03-04)。「私」が「かの」身体において、そしてその身体のために「感覚してい た」ところの「欲求と感情とのすべて」に(6.f605:AT.VII,76.03-04/E.78.04-05)、「さらに」「その」身体の「諸々の部 分において」「私」が感覚していたところの「苦痛と快楽の擽りと」に(6.f606:AT.VII,76.04-05/E.78.05-07)、「私は気 づいていた」(6.f608:AT.VII,76.06/E.78.08)のである。このように、「きわめて疑わしく不確実である」ものでも (6.J103:AT.VII,80.14-15/E.83.15-16)、「私」にとって「自然」であるかぎりは「すべて」、「何らかの真理をもってい る」(6.J300:AT.VII,80.20-21/E.83.22-24)のだが、それというのも、「神から」「機能」を「何も」「賦与され」ていな いので「私」が「私」の意見における虚偽を「矯正」できない(6.J204:AT.VII,80.17-18/E.83.19-20)、という「このこと そのもの」(6.J201:AT.VII,80.15/E.83.16)が、「固より疑いない」(6.J300:AT.VII, 80.20/E.83.22)からである。要するに、いくら疑っても自分で過誤を正せないがゆえに真とせざるをえないという点で、「私」は有限なのであっ て、これは自然なことである。「今」、このように自然で本性的なのは、一般的に観られているということで、「神そのものにほかならない」(6.J402: AT.VII,80.22-23/E.83.25-26)のであって、「ほかならぬ私」にとって「自然」で本性的たること「をとおして」、それらは「個別 的」になる(6.J501:AT.VII,80.24-25/E.83.27-28)のだ。ところで「物体」なり身体なりとして「実在する」「事物」 (6.i800:AT.VII,80.04/E.83.02-03)の「多く」が「きわめて不明瞭で不分明な」のは、「諸々の感覚」でもって「包括的に把 握する」からなのであって(6.i903:AT.VII,80.06-07/E.83.05-07)、「一般的に観られ」ると(6.i907: AT.VII,80.09/E.83.09)、それらのすべては「純粋‘数学'の対象」として「包括的に把握される」ようになるのだ(6.i908: AT.VII,80.09-10/E.83.09-10)。したがって、もし「思惟する事物にほかならない」「私」(6.L202:AT.VII, 81.05-06/E.84.14-15)が、身体に被った「傷」とでも云うべき「その」苦痛の感覚を「純粋な知性によって知得」しても(6.L204: AT.VII,81.07-08/E.84.16-17)、こうした苦痛の感覚は「思惟する様態」としては「何か不分明」であるが、それは「精神が身体 と、あたかも混合しているかの如くに合一している、ということから起きて」いるのだ(6.L302:AT.VII,81.12-14/E.84.22- 25)。苦痛に限らず、飢えや渇きについても同様のことが云える。なるほど、痛いと感じるのは「私」であるにも拘わらず、「私」は足が痛いのである。飢え を感じるのは「私」であるにも拘わらず、「私」は腹が減っている。渇きを感じるのは「私」であるにも拘わらず、「私」は喉が渇いているのだ。とはいえ「我 々」にとって「自然」で本性的たることが「堅固でない」のは、「認知されるべき」ことなのである(6.W903:AT.VII,90.15- 16/E.95.19-20)。
      よって、「私」が「苦痛や飢えや渇きなど」を「感覚」する(6.L102: AT.VII,81.01-02/E.84.08-09)のは「私」自身にとって(6.L202:AT.VII,81.05/E.84.14)やはり「自 然」なことだ(6.L101:AT.VII,81.01/E.84.08)。これが、要点の第二のものである。

    presented by K.-m. as the SHYNAMITES.
    初出:"What a cool believes"(blog),June 19,2007.



    The HARVEST and DIGESTS on That's Fusion, Not Confusion.--part 1

    AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
        
    ...(頁、行)
    E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
        
    ...(頁、行)
      cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
        
    ...(6=「第六省察」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)


    The HARVEST and DIGESTS(part 1)
    on That's Fusion, Not Confusion.

    要点と結論(序を兼ねて)--其の壱

      本論文は、デカルトの「第六省察」を扱うにあたって、同じくデカルトの「幾何学」を利用したものであり、三つの部から成 る。第一部においては、「第六省察」の各段落(ADAM & TANNERY版に準拠)を分解したのち、三重構造として再編成した。第二部では、かの三重構造を保ちながら、数段落ずつを連結したところ、三つの組に なった。さらに第三部では「第六省察」の前半・後半の区分を取り除いて、全段落を連結したところ、三本一組の筋になった。
      以上の作業を経たところ、三つの要点が得られたので、まずはそれらを挙げておく。

      第一の要点は、次のとおりである。
      すなわち、「飢えや渇きや苦痛など」を「感覚」して いるのが「私」であることは「確か」だ(6.L301:AT.VII,81.11/E.84.21)。これは、「私の起源の創作者を」、つまり神を「今な お知らずにいた」「私」(6.G301:AT.VII,77.14-15/E.79.24-26)にさえ、「ひじょうに真なるものとして現れ出てくる」 (6.G304:AT.VII,77.17-18/E.79.29-30)のであって、ましてや「私自身と」神とを「よりよく知りはじめている後」である 「今」の「私」(6.H101:AT.VII,77.28-29/E.80.12-13)にとっては、もはや決して「疑いのなかに呼び戻されるべき」もの ではない(6.H104:AT.VII,78.01/E.80.15-16)。ところで「神」が「構成」したところによれば(6.U301: AT.VII,88.07-08/E.92.27-28)、精神は、「何らかの」苦痛を「感覚する」と(6.U204:AT.VII,88.03- 04/E.92.22-23)、その苦痛の「原因」に対して(6.U206:AT.VII,88.05-06/E.92.25)「みずから」の「最大限」 (6.U208:AT.VII,88.06/E.92.26)の力を発揮するのだが、それは、苦痛というその感覚の「もたらす」(6.U106: AT.VII,87.22-23/E.92.11-12)ものが、「人間」を「健康」に「維持」するのに際して「最大にして最も頻繁に有利だ」 (6.U108:AT.VII,87.23-25/E.92.13-15)からである。苦痛のみならず、「我々の感覚のすべて」は、「そのような」ものと して「自然に仕込まれて」いる(6.U110:AT.VII,87.26/E.92.15-16)かぎり、いずれも「神」が「有能であり善であること」を 「立証」している(6.U112:AT.VII,87.27-28/E.92.17-18)のである。また神において(6.i604:AT.VII, 79.25/E.82.24)「ただ卓越して」いるだけとはいえ「含まれている」のは(6.i606:AT.VII,79.26-27/E.82.25- 26)、「感覚された事物の」諸「観念」(6.i401:AT.VII,79.08/E.82.02)が苦痛の「対象として事実たること」 (6.i604:AT.VII,79.25-26/E.82.24)であるから、そうした観念を「私」が「受け取って認識する」だけで、つまり「感覚す る」だけで(6.i401:AT.VII,79.07-09/E.82.02-03)、「私」は神に依存しているのだ。要するに、精神が苦痛の原因に対し て全力で挑むことは、有能で善なる神に従うことである。飢えや渇きについても同様のことが云えよう。このように、「どうして」も(6.o101: AT.VII,83.24/E.87.19-20)「善」なる「神」に「抗しない」(6.o102:AT.VII,83.24-25/E.87.20)場 合は「誰」にでもある(6.o301:AT.VII,83.29/E.87.25-26)のであって、この点において、人間の「完全たること」は「有限 だ」(6.o603:AT.VII,84.06-07/E.88.04-05)。

      但し、「神」が「善」であれ、「どんな仕方で」あれ、欺かないようにと「妨げることはない」のも自然だ(6.Q400: AT.VII,85.25-26/E.90.04-05)。「自分では今でもなお、時折は、みずから苦痛を感ずるように思われる」ことはあるが、「その身 体の部分」を自分は以前に「失った」はずだ(6.G109:AT.VII,77.03-04/E.79.10-11)。ところで、肢体のどこかに「私」が 「苦痛を感覚して」も(6.G111:AT.VII,77.06-07/E.79.14)、「果てしなく善」である「神」には「抗しない」 (6.V102:AT.VII,88.19-20/E.93.12-13)、ということは「およそ明瞭」である(6.V101:AT.VII, 88.19/E.93.12)。そうであれば、足以外の「部分」のどこであれ、その部分をとおして「諸々の神経が足から脳に届いている」(6.V203: AT.VII,88.22-24/E.93.16-18)かぎり、そうした苦痛の「感覚が欺かれる」のも「自然で」あろう(6.V207:AT.VII, 88.26-27/E.93.21-22)。それでも、「精神と身体とから複合されたものとして」(6.N311:AT.VII, 82.84/E.86.11)の「私」に対しては、むしろ「苦痛の感覚をもたらす諸々のものを忌避する」ということを、「教えている」のが、「この」自然 (6.N401:AT.VII,82.25-26/E.86.12-14)なのである。つまり、苦痛の感覚が欺かれようが欺かれまいが、苦痛の原因を忌避 するのは、「私」にとって自然なことであって、飢えや渇きについても同様である。ちなみに「私」の「想像する」(6.D101:AT.VII, 74.01/E.75.19)苦痛がこのように「想像にまで至った」のは、「感覚から記憶の助けを介して」きたせいだ(6.D106:AT.VII, 74.05-06/E.75.24-25)から、そうした苦痛について「真実を知る」と、このことは「もっぱら精神のみに」(6.N404: AT.VII,82.30-83.01/E.86.19-20)「属する、と思われる」(6.N406:AT.VII,83.01-02/E.86.20 -21)。このように、苦痛と快楽と感情とは神を知らない「私」にも知解できるのであって、「私」はこれらを感覚したあと記憶してから想像するのである。

      そこでまず「私が知っている」ところによれば(6.H201:AT.VII,78.02/E.80.17)、「一つの」 事物が「他の」事物とは「別個であること」は、「私」にとって「確かなのである」(6.H204:AT.VII,78.05-06/E.80.21- 22)。そうであれば、「私の存在することを知っている」のが「私」であるという、「このこと自身」(6.H208:AT.VII, 78.08/E.80.24-25)とは、つまり「思惟する事物」が「私」である、ということだ(6.H212:AT.VII, 78.12/E.80.30)。ところで「私自身の明晰・判明な観念をもっている」「私」(6.H303:AT.VII,78.15- 16/E.81.03-05)は、「延長する」事物では「ない」(6.H305:AT.VII,78.17/E.81.06)。よって「確か」なのは、 「私」が「私の身体から実際に区別されているということ」(6.H309:AT.VII,78.19-20/E.81.08-09)、そして「私」がそう した身体を「介さずに存在しうるということ」(6.H310:AT.VII,78.20/E.81.10)である。つまり、「私」は確かに身体ではない。 また、身体は確かに「私」ではない。

      その「私が私のなかに」「或る種の特殊な機能」として「見いだす」のは(6.i101:AT.VII,78.21- 22/E.81.11-12)、苦痛の原因を忌避する際に想像したり感覚したりする機能であるが、「私」は、これらの機能がなくても「すべて」を「明晰・ 判明に知解することができる」(6.i103:AT.VII,78.23-24/E.81.13-15)。よって、これらの能力は「思惟する様態」 (6.i101:AT.VII,78.22/E.81.12)として「私」から「区別される」(6.i108:AT.VII, 78.28/E.81.19)。「実に」、想像したり感覚したりする機能は、「形相」として「みずから」「概念」になると、「いくらか」は「知解」される ようになる(6.i105:AT.VII,78.25-27/E.81.17-18)。すなわち、「私」の感じる苦痛のせいで想像したり感覚したりするの が「私」である、ということなら、「私」は若干であれ知解する。

      また「私」がほかに「或る種の機能」として「認知する」のは、苦痛の原因を忌避するべく「場所を変え」たり「様々な形 を」装ったりする機能の類いである(6.i201:AT.VII,78.28-29/E.81.20-22)。これらの機能は「知解されること」も「でき る」し(6.i204:AT.VII,79.01/E.81.24)、「存在することも」できるが、何か「実体を介さ」なければならない(6.i205: AT.VII,79.01-02/E.81.24-25)。とはいえ明らかに、「これら」の機能が(6.i301:AT.VII,79.02- 03/E.81.25)「実在する」(6.i302:AT.VII,79.03/E.81.26)のは、決して「知解する」実体のなかでは「ない」 (6.i304:AT.VII,79.04/E.81.27-28)。よって、場所を変えたり様々な形を装ったりする機能は「明晰・判明な概念」になって も(6.i307:AT.VII,79.05-06/E.81.29-30)、「全然」「知解」(6.i306:AT.VII, 79.05/E.81.28-29)されないままであろう。すなわち、「私」の感じる苦痛のせいで場所を変えたり様々な形を装ったりするのが「私」である とは、決して「私」は知解しないのだ。

      するとここで「私は気づく」(6.W102:AT.VII,89.09-10/E.94.08)。すなわち、「本性」 上、「私」が「晒されている過誤のすべて」(ibid.:AT.VII,89.08-10/E.94.07-08)のうちで、「身体」にとって「好都合な ことに関わるもの」(6.W202:AT.VII,89.12/E.94.11)を、「私」が「感覚する」のは「目覚めているときに」だ、と「私には思わ れる」(6.G206:AT.VII,77.14/E.79.23-24)のだが、それらを記憶することでもって、「現在のものを過去のものに連結する」 (6.W206:AT.VII,89.15-16/E.94.15-16)と、「感覚から私に常日頃表示されるもの」(6.W210:AT.VII, 89.18/E.94.18-19)は「はじき出されうる」(6.W303:AT.VII,89.20/E.94.21)のだ。

      さて「私が感覚した」ところによれば、「頭、手、足、およびその他の肢体」を、そして「それらから成るところの物体なり 身体なり」を「もっている」のは「私」であるが(6.F101:AT.VII,74.17-18/E.76.08-10)、「私」はそういう身体を「あた かも私の部分であるかのように、あるいはおそらくまた、あたかも私全体であるかのように、観ていた」(ibid.:AT.VII,74.18- 20/E.76.10-12)。というのも、この身体は他の多くの物体によって「好都合に」であれ「不都合に」であれ「様々に触発される」 (6.F103:AT.VII,74.21-22/E.76.13-14)からである。それらのうち「好都合なものを或る種の快の感覚によって、そして不 都合なものを苦の感覚によって測り分けていた」「私」が(6.F104:AT.VII,74.22-23/E.76.15-16)感覚していたのは、「身 体的」に「或る種」傾いて、喜んだり悲しんだり怒ったり、その他これに類する感情をもつこと(6.F203:AT.VII,74.25- 27/E.76.19-22)、そして「光、色、匂い、味、音」であった(6.F303:AT.VII,75.02-03/E.75.02-03)。なる ほど、「私の身体の周りには様々な他の物体なり身体なりが実在している」が、これは「私」にとって「自然」なことであって(6.M101:AT.VII, 81.15-16/E.84.26-27)、「私の感覚する色、音、匂い、味、熱、堅さ」の類いが「きわめて多様な」のは「確か」である(6.M201: AT.VII,81.17-19/E.84.29-85.01)。こうした「感覚」での「様々な」「知得は」、「私」の身辺の諸々の物体から「到来する」 (6.M204:AT.VII,81.20-21/E.85.03-04)。となれば、対象が何であれ、それが「私」の感覚器官に「現前しているときに は」、それを「私は感覚せずにはいられない」のである(6.f409:AT.VII,75.13-14/E.77.09-10)。このようにして「感覚に よって知得された諸観念は」「いつでも」ひじょうに「生き生きとして」いるどころか生々しく「判然としていて、それなりにまた」「判明でもあった」 (6.f410:AT.VII,75.14-16/E.77.10-13)のだが、「思い起こせ」ば、「私」が「感覚を使用していた」のは「理性を使用す る以前」(6.f501:AT.VII,75.23-24/E.77.22-23)のことなのだから、「おそらく」諸々の物体は「それら」の知得には「類 似していない」(6.M206:AT.VII,81.22/E.85.05)だろうが、「私」にとって「好ましくないもの」(6.M302: AT.VII,81.23-24/E.85.07)もある。いずれにせよ、「私」を「取り巻いている物体なり身体なりによって、好都合にであれ不都合にで あれ様々な仕方で、触発されうる」のが「私」なのだ(6.M306:AT.VII,81.26-27/E.85.10-11)。要するに「私」が感覚で もって諸物体をどのように知得しようとも、苦痛を感じうるのはやはり「私」なのであって、飢えや渇きについても同様である。以上より、自分にとっての苦痛 の原因を自分で忌避する際に「感覚」でもって「知得」されたこと(6.N801:AT.VII,83.15-16/E.87.08-09)が「充分に明 晰・判明である」(6.N805:AT.VII,83.19/E.87.13)のは、精神が複合体の「部分である」(6.N803:AT.VII, 83.18/E.87.11-12)かぎりにおいてなのであって、物体なり身体なりの本質については、それらの知得は「きわめて不明瞭で不分明にしか指示 しない」(6.N807:AT.VII,83.22-23/E.87.16-18)のである。実に、少なくとも「私」が知解するところによると、「苦痛を もたらす事物の感覚と、そうした感覚から起こる悲しみの思惟との間に」は、類縁したところが全然ないのだ(6.f708:AT.VII,76.15- 16/E.78.19-21)。

      一般的に観て「自然」なことのうちで、「私」にとって「これ以上ないくらいに判然と」していることがあった (6.K101:AT.VII,80.27-28/E.84.01-02)。それはすなわち、「私」のもっている身体が悪いのは「私が苦痛を感覚する場 合」(6.K103:AT.VII,80.28-29/E.84.03)や「私が飢えもしくは渇きを被る場合など」(6.K105:AT.VII, 80.29/E.84.04-05)だ、ということである。そういえば、「私が気づいていた」(6.f608:AT.VII, 76.06/E.78.08)ところによると、「私が特殊の或る権利でもって、私のものと称していた」ところの「あの物体」なり身体なり(6.f601: AT.VII,75.30-76.01/E.77.30-78.01)において、そしてそうした身体のために「欲求と感情とのすべて」を「私は感覚してい た」(6.f605:AT.VII,76.03-04/E.78.04-05)。このように「ただ個別的」であるにすぎないもの(6.J101: AT.VII,80.11-12/E.83.12)においても「真理に達しうる」という「確実な希望」が「私に」示されている(6.J205: AT.VII,80.18-19/E.83.20-22)のだが、それは「欺かない」のが「神」だ(6.J202:AT.VII, 80.15/E.83.16-17)からである。「私の知解する」ところによると、「諸々の被造物」は「神によって制定されて」いて「互いに秩序づけ」ら れている(6.J403:AT.VII,80.23-24/E.83.26-27)。ところで「物体」なり身体なりとして「実在する」「事物」 (6.i800:AT.VII,80.04/E.83.02-03)の「すべて」は「おそらく、そのとおりにおよそ実在する」(6.i901: AT.VII,80.04-05/E.83.03-04)のであって、「私がそれらを明晰・判明に知解する」(6.i905:AT.VII,80.08- 09/E.83.08)かぎり、それらの事物すべては「純粋‘数学'の対象において包括的に把握されている」(6.i908:AT.VII,80.09- 10/E.83.09-10)。したがって、もし「身体が傷つけられ」ても(6.L201:AT.VII,81.05/E.84.13-14)、「私が苦 痛を感覚していない」(6.L203:AT.VII,81.06-07/E.84.15)という場合には、身体が傷つけられたという「このこと自体を、私 は判然と知解するだろう」(6.L207:AT.VII,81.09-10/E.84.19)。なるほど、身体が傷めつけられているにも拘わらず、「私」 は苦しいとか痛いとか感じたり感じなかったりする。喉が干からびているにも拘わらず、「私」は渇きを感じたり感じなかったりするし、胃が引き攣れているに も拘わらず、「私」は飢えを感じたり感じなかったりするのだ。とはいえ「このように精確」に「吟味」されようにも、「いつも」「猶予を許し与え」られるわ けでは「ない」のだが、それは「事物」が「行動されるべき」必要に迫られているからである(6.W901:AT.VII,90.12- 13/E.95.15-17)。
      よって、「飢えや渇きや苦痛など」を「感覚」しているのが「私」であることは、やはり「確か」なのだ(6.L301:AT.VII,81.11/E.84.21)。これが、要点の第一のものである。

    presented by K.-m. as the SHYNAMITES.
    初出:"What a cool believes"(blog),June 18,2007.