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    Ain't Nothing Like This REAL THING--ABC

    David RITZ 1982/98:
    David RITZ(解説), Marvin Gaye 《Midnight Love & the Sexual Healing Sessions》[CS-8817~8]所収、
    Sony Music Entertainment,1982/1998.

      I am a man
    with the power to face my fears.
    --Marvin Gaye
    (cited from David RITZ 1982/98,p.11) 

     
    Notes.

    * I'm a man with ...
      1960年代に、マーヴィン・ゲイは、プロのアメフト選手やボクサーになることを目指して、トレーニングを受けていた。その動機として、本人曰く、「自分が男らしいってことを証明したかったからかな」...「目の前の恐怖に立ち向かうパワーを身につけたかったんだよ」(藤林 初枝 訳、p.32: Marvin Gaye 《Midnight Love & the Sexual Healing Sessions》[CS-8817~8]所収、Sony Music Entertainment,1982/1998)。
    * Marvin GAYE(1939-1984):
      1939年4月2日、ワシントンDC出身(本名 Marvin Pentz Gay Jr.)。牧師である実父からの布教活動と暴力とに影響される。デトロイトに移り、モータウン・レコード社と契約し、リズム&ブルーズおよびソウル・ミュージックの歌手となる。音楽で成功を収める一方で、家庭や税金や麻薬にまつわる問題に悩まされ続け、放浪生活を送る。のちにCBS社と契約して、1982年10月に発表した〈Sexual Healing〉という曲で「ベストR&Bヴォーカル・パフォーマンス男性部門」においてグラミー賞を獲得する(1983年3月)。1984年4月1日、ロサンゼルスにて、実父により射殺される。

    *****

    AT.:OEVRES DE DESCARTES,publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition,J.VRIN,Paris,1996.
        ...(頁、行)
    E.:TOKORO,Takefumi《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
        ...(頁、行)
      cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
      and 山田 弘明 訳『省察』(ちくま学芸文庫、2006)
        ...(2=「第二省察」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)

        たとえ「物体やら身体やら」が「どのようにして」いようとも(2.Z202:AT.VII,23.21/E.14.*3)、
        「人間」としての「精神」にとって「自然」で本性的なこと「について」(2.Z100:AT.VII,23.20/E.14.*2)、
        「比較的周知と」なって「いる」のは、あくまで、その精神「そのもの」のはずだ(2.Z201:AT.VII,23.20-21/E.14.*2-*3)。

    §101 Line of 《ABC》

     for Ain't Nothing Like This REAL THING

    (1) One extreme line of 《ABC》(大掛かりなことが気掛かりだ/儚き風体と飽くなき野望)

    [2.A101-A102-A106-A202-A206-A209-A304] [2.B101-B102-B106-B110-B302]

    [2.C101-C103-C213-C222-C323-C422-C434-C502-C601-C603-C703-(C801)-C803-C807-C808] 

     「昨日の省察から」「壮大な疑い」の数々の「なかへ」「ぶち込まれ」つつ推測のようなことまでさせられた(conjectus)のが、「私である」(2.A101:AT.VII,23.22-23/E.14.21)。しかも、そうした諸々の疑いを「忘れること」も「ずっと」「できずにいた」「私」「として」は(2.A102:AT.VII,23.23/E.14.22)、「最も奥まった」ところ「に」片「足を据えること」さえも「できないかも」(2.A106:AT.VII,24.02/E.15.03-04)しれない。
      そこで、「昨日に」「私が立ち入ってしまった」途(2.A202:AT.VII,24.04/E.15.06)の「ほか」に「もし」「何もない」ならば(2.A206:AT.VII,24.08/E.15.10-11)、そのとおりに「私は認識するつもりだ」(2.A209:AT.VII,24.09/E.15.12)が、じつはここで「希望されるべき」こと「もまた」「偉大な」ので「ある」(2.A304:AT.VII,24.11/E.15.15)。
      「それゆえ」「すべてのもの」について「私が想定している」のは(2.B101:AT.VII,24.14/E.15.17)、すなわち、「それらが偽であるということ」であり、そのように「私が見る」かぎり(2.B102:AT.VII,24.14/E.15.17-18)、「身体やら物体やら」(2.B106:AT.VII,24.16/E.15.20)は、いわば「キマイラじみたもの」、つまりは幻「であり」、「そして」そんな幻の蠢く「場所」では(2.B110:AT.VII,24.17/E.15.21)、「何も」「確実で」は「ない」の「である」(2.B302:AT.VII,24.18/E.15.23)。

      さて、今、挙げられた「それらのすべてとは異なった」ものなどは「何もない」の「である」が、そのことを「どこから」ともなく「知る」のが、「私」だ(2.C101:AT.VII,24.19/E.15.23-25)。「じつに」、それらについて「疑う」ような「機会」は、たとえ「きわめて僅か」とはいえ、「有る」のでは「ない」のか(2.C103:AT.VII,24.20-21/E.15.25-26)。いかにも、神とか何とかが「私に」「送り込んでいる」のは、「これらの思惟そのもの」だ(2.C213:AT.VII,24.22-23/E.15.27-28)。しかし、それにしても「あれらの」思惟を作者として「促す者」「自身もおのずと」「居る」ということであれば、それくらいなら「おそらく」「私にもできるはず」だし、その「際」には(2.C222:AT.VII,24.23-24/E.15.29-30)、「いかなる身体も物体も」(2.C323:AT.VII,24.26/E.16.02)「なしに居る」「ような」ことも、「私にはできるはず」では「ない」のか(2.C422:AT.VII,25.01-02/E.16.04-05)。また、「精神も何もない」(2.C434:AT.VII,25.03-04/E.16.07)「私に」対し、「何かを説得したり納得させたりした」のも、そのせいで信じ込んだのも、「もし」「私」自身だとしたら(2.C502:AT.VII,25.05/E.16.09)、そのように「引っ掛けて誑かす者が」きっと「居る」はずだ(2.C601:AT.VII,25.05-06/E.16.09-10)。それが「誰なのか」「私は知らない」(ibid.:AT.VII,25.06/E.16.10)が、せっかく「狡くて巧妙たる」点では「最高」なのだから(2.C603:AT.VII,25.06-07/E.16.10-11)、そいつが「欺いて」誤らせてしまえば、「いかに偉大な」ことでも、そいつなら「できる」はずだ(2.C703:AT.VII,25.08-09/E.16.13)。

      「そうすると」(2.C801:AT.VII,25.10/E.16.15)、「最後に定められるべき」なのは、「この」ように「宣言なり予報なりされたこと」「であるはず」だ(2.C803:AT.VII,25.11-12/E.16.16-17)。すなわち、「精神でもって把握されて」(2.C807:AT.VII,25.13/E.16.18-19)しかも「真なる」ものは、「必然的に」「存在する」(2.C808:AT.VII,25.13/E.16.19)、ということになるはずだ。

    (2) The moderate line of 《ABC》(沫[バブル]、ハジケマシタ、私、イジケマシタ/物色して、持ち出し)

    [2.A101-A103-A105-A201-A203-A205-A208-A301-A303-A305]

    [2.B101-B103-B105-B107-B109-B200]

    [2.C101-C211-C311-C322-C411-C421-C431-C433-C435-C501-C601-C604-C702-C704-C801-C802-C804-C806-C808]

      「昨日の省察から」「壮大な疑い」の数々の「なかへ」「ぶち込まれ」つつ推測のようなことまでさせられた(conjectus)のは、「私である」(2.A101:AT.VII,23.22-23/E.14.21)。「にも拘わらず」、それらの疑いが「いかなる根拠でもって解かれるべきであるのか」、それ「を見る」のは、もしや「私」では「ないのかも」(2.A103:AT.VII,23.23-24/E.14.23-15.01)しれない。だからこそ、「こうして」「不穏になった」のが、「私である」(2.A105:AT.VII,24.01-02/E.15.03)。
      「それでもやはり」「この途を」「力ずくで」「立ち向かうべく試みよう Enitar ... & tentabo」とする「私」が、その「後ろへ」(2.A201:AT.VII,24.03-04/E.15.05-06)「すっかり除去して」いることがあって、それらの「すべて」が「許している」のは、たとえ「最も小さいもの」で「さえ」も、「疑い」なのだ(2.A203:AT.VII,24.04-06/E.24.04-06)。 
      「さらに」「私が前進しよう」とするのも、あくまで「何ものか」が「確実」になる「まで」(2.A205:AT.VII,24.07/E.15.10)のことなのであって、やはり「何もない」というのが、むしろ「確実な」こと「である」(2.A208:AT.VII,24.08-09/E.15.11-12)。一つの地「点を捜し求めていた」のが「アルキメデス」という人で「ないかどうか」はともかく、「何もない」(2.A301:AT.VII,24.09-10/E.15.12-13)ような「場所から」「大地」といわずとも土地やら地域やらを「全体」「として」「退かしていたはず」だし(2.A303:AT.VII,24.10-11/E.15.14)、おそらく「私」で「さえ」もきっとそういう地点のようなものを「見いだしただろう」が、「もし」そうなら、その「最も小さなもの」とは、いったい「何」なの「か」(2.A305:AT.VII,24.12/E.15.15-16)。
      「それゆえ」「すべてのもの」について「私が想定している」(2.B101:AT.VII,24.14/E.15.17)ところによれば、「それら」は、記憶で再現されるにせよ「いつであれ」「何であれ」「実在したことがなかった」のであり、そのように「私が信じる」かぎり(2.B103:AT.VII,24.14-15/E.15.18-19)は、なるほど「平易に」なるが、「私のもつ」「感覚」は「何もない」(2.B105:AT.VII,24.16/E.15.20)、つまり「私」は何も感じない。
      そこで、「形」が(2.B107:AT.VII,/E.15.20)「動き」をもった(2.B109:AT.VII,24.17/E.15.21)ところで、形状が運動したところで、いったい「何が」「真なるもの」なの「であろう」か(2.B200:AT.VII,24.17-18/E.15.22)。

      さて、今、挙げられた「それらのすべてとは異なった」ものなどは「何もない」の「である」が、そのことを「どこから」ともなく「知る」のは、「私」だ(2.C101:AT.VII,24.19/E.15.23-25)。いかにも、そこには、「神」だか「何だか」はともかく、「何かしら存在する」(2.C211:AT.VII,24.21/E.15.26)。その一方で、「私 ego」自身だか「誰だか aliquid」はともかく、「少なくとも」「誰かしらが」「私として存在している」(2.C311:AT.VII,24.24-25/E.15.30-16.01)。「私のもっている」のが「いかなる感覚」であれ(2.C322:AT.VII,24.25-26/E.16.02)、「それでもやはり」「固執する」のが、「私」だ(2.C411:AT.VII,24.26/E.16.03)。「こうして」「身体やら物体やら」「諸々の感覚」やらに「縛られた」のが「私である」、...ということですよ「ね -ne」(2.C421:AT.VII,25.01/E.16.03-04)。
      いっそのこと、「世界には何もない」ほうが「平易に」なることも「ある」し、それを「私に」対して「説得したり納得させたりした」のも、そのせいで信じ込んだのも、「私」自身なのであって(2.C431:AT.VII,25.02-03/E.16.05-06)、「大地も土地も何もない」(2.C433:AT.VII,25.03/E.16.06-07)うえに「物体も身体も何もない」(2.C435:AT.VII,25.04/E.16.07)のが「私であった」からには、「むしろ」「私」自身のほうを「確実に」(2.C501:AT.VII,25.05/E.16.08-09)「引っ掛けて誑かす者が」きっと「居る」はずだ(2.C601:AT.VII,25.05-06/E.16.09-10)。それが「誰なのか」「私は知らない」(ibid.:AT.VII,25.06/E.16.10)し、そいつが「私を欺いて」誤らせるときは「常に」「虎視眈々と de industriâ」している(2.C604:AT.VII,25.07/E.16.11-12)。しかしそれにしても、そいつが「欺いてくる」のは、はたして「私」のことなの「かどうか」(2.C702:AT.VII,25.08/E.16.12-13)。それはともかく、そいつが「結果として生じよう」とすることは、「やはり」「どこにもない」だろう(2.C704:AT.VII,25.09/E.16.13-14)。

      「そうすると」、次の「ように」なる(2.C801:AT.VII,25.10/E.16.15)。すなわち、「あなたがたの重んじているはず」の「すべてのこと」を「充分に超えて」(2.C802:AT.VII,25.10-11/E.16.15-16)いるのが「私」自身「である」(2.C804:AT.VII,25.12/E.16.17)。このことが「私によって」「いかに頻繁に」「運用される」にせよ、「真である」かぎり、このことは「必然的に」なるのだ(2.C808:AT.VII,25.13/E.16.19)。

    (3) The other extreme line of 《ABC》(偽りのなかに居座りながら/だから何?)

     [2.A101-A104-A107-A204-A207-A302-A306] [2.B101-B104-B108-B301]

    [2.C101-C102-C212-C221-C321-C412-C432-C436-C601-C602-C701-C705-C801-C805-C808]

      「昨日の省察から」「壮大な疑い」の数々の「なかへ」「ぶち込まれ」つつ推測のようなことまでさせられて(conjectus)「いる」「私」(2.A101:AT.VII,23.22-23/E.14.21)にしてみれば、これは「渦」のような「深みのなかへ」「予期せぬ」こと「から」「あたかも」「滑り落ちて」しまったかのようだ(2.A104:AT.VII,23.24-24.01/E.15.01-03)。何せ、「最も高いところへ」「泳いで逃げること」もでき「ない」(2.A107:AT.VII,24.02-03/E.15.04)。
      そこで、すでに「私が確認してしまった」ところによれば、「もし」かすると「すべて偽である」かもしれない、ということになるのだが、これ「に比較して別途に何もない」となると(2.A204:AT.VII,24.06-07/E.15.09)、「この」、すべて偽なのかもしれぬということ「そのもの」は、たとえ「確実な」ものの「目前に」すぎないとはいえ、「少なくとも」(2.A207:AT.VII,24.08/E.15.11)「堅固で不動であるはず」だ(2.A302:AT.VII,24.10/E.15.13-14)、すなわちこれは、「確実で揺るぎなき」こと「である」のかもしれない(2.A306:AT.VII,24.12-13/E.15.16-17)。
      「それゆえ」「すべてのもの」について「私が想定している」のは(2.B101:AT.VII,24.14/E.15.17)、すなわち、「それらを」「表象して再現している」「如何わしい記憶」が(2.B104:AT.VII,24.15-16/E.15.18-19)「延長」している(2.B108:AT.VII,24.17/E.15.21)ということ、「おそらく」「このこと」「一つ」だ(2.B301:AT.VII,24.18/E.15.22)。

      さて、「それらのすべてとは異なった」ものなどは「何もない」の「である」が、そのことを「どこから」ともなく「知る」のが、「私」だ(2.C101:AT.VII,24.19/E.15.23-25)。ちなみに、たった「今」、それらを「再び挙げた」のも「私」だが、その「今」となっては(2.C102:AT.VII,24.20/E.15.25-26)、たとえ「どんな名称でもって」「あの」神とやらのことを「私が呼ぶ」にせよ(2.C212:AT.VII,24.21-22/E.15.27)、「どうして」も「こういうことを考え」つつ、てっきりそう思い込んでしまう(puto)、というのが、「私」なのかもしれない(2.C221:AT.VII,24.23/E.15.28-29)。
      その「私が」「今」さら「否定した」(2.C321:AT.VII,24.25/E.16.01-02)ところで、「それだから」「何」なのか(2.C412:AT.VII,24.26-25.01/E.16.03)。要するに、「天空も何もない」(2.C432:AT.VII,25.03/E.16.06)のに「存在する」の「だったら igitur」、それはもはや「私」で「さえも」「ない」、...ということでは「ない」のですか「ね -ne」(2.C436:AT.VII,25.04-05/E.16.08)。どうやら「引っ掛けて誑かす者が居る」らしく、それが「誰なのか」「私は知らない」(2.C601:AT.VII,25.05-06/E.16.09-10)が、そいつがせっかく「有能たる」点では「最高」なのだから(2.C602:AT.VII,25.06/E.16.10)、「それだったら igitur」「私」自身が「存在する」こと「も」、「疑わしくなりようがない Haud dubie」(2.C701:AT.VII,25.07-08/E.16.12)。たとえ、あたかも「何もない」かの「ように」「私が居る」にしても、「何者か」が「私」「である」からには、「いかに長い間で」あれ、「思惟する」のが「私だろう」(2.C705:AT.VII,25.09-10/E.16.14-15)。

      「そうすると」(2.C801:AT.VII,25.10/E.16.15)、「実在する」のは「私」であり(2.C805:AT.VII,25.12/E.16.17)、このことが「真である」のは、「必然的に」なる(2.C808:AT.VII,25.13/E.16.19)。

    arranged by K.-m. as the SHYNAMITES,2009.

    *語句を一部、訂正致しました(2009/4/20-21)。