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Arrangement and performance about Rene DESCARTES'〈The First Meditation〉
treated with his own analytical geometry
& decorated with Marvin GAYE's words.
(May 09,2001-June 30,2002&after this,2007)
Contents of Going Straight in Straits
「第一省察」解析幾何学的処理・目次
§000:The Harvest and Digests--結論と要点(序を兼ねる)
第1章:分析(§§101-111)
§101 Line of《A》
(1) One extreme line of 《A》(内装改築のため、本日より閉店)
(2) The moderate line of 《A》(安全なうちに、大胆に)
(3) The other extreme line of 《A》(暗室にて知識培養中)
§102 Line of 《B》
(1) One extreme line of 《B》(偽なるものに対して)
(2) The moderate line of 《B》(不審なものにも精確な対応を)
(3) The other extreme line of 《B》(原理めがけて、まっしぐらに)
§103 Line of 《CD》
(1) One extreme line of 《CD》(感覚の裏表/蒸気は狂気から)
(2) The other extreme line of 《CD》(感じ取っても決して疑えないもの)
(3) The moderate line of 《CD》(演説で狂気発覚か/蕩けるビードロに惚ける私)
§104 Line of 《EF》
(1) One extreme line of 《EF》(覚醒と睡眠との間の区別/個別的なものは真である)
(2) The moderate line of 《EF》(眠っているうちは判明でないこと)
(3) The other extreme line of 《EF》(茫然自失でもしないと裏づけられないこと)
§105 Line of 《f2》
(1) One extreme line of 《f2》(出回っていない類似品)
(2) The other extreme line of 《f2》(想い描かれただけの事物)
(3) The moderate line of 《f2》(たいして奇抜でない独創性)
§106 Line of 《G》
(1) One extreme line of 《G》(延長する大きさと数と持続時間)
(2) The other extreme line of 《G》(延長する形状と実在の場所)
(3) The moderate line of 《G》(延長する量)
§107 Line of 《H》
(1) One extreme line of 《H》(単純で一般的なものから複合されたままで考察される事物)
(2) The other extreme line of 《H》(確かで疑えないことを何か含んでいれば怪しまれないはずだ)
(3) The moderate line of 《H》(単純で一般的な事物を取り扱おうとしないから疑われる)
§108 Line of 《i》
(1) One extreme line of 《i》(延長していない事物の実在について)
(2) The moderate line of 《i》(私の判断では過誤なのに、他の人々は知り尽くしたという)
(3) The other extreme line of 《i》(神のせいか私のせいか)
§109 Line of 《J》
(1) One extreme line of 《J》(神以外の事物はすべて不確かだとせざるをえない)
(2) The other extreme line of 《J》(ろくに考察しないで軽々しく疑う連中には関わらない)
(3) The moderate line of 《J》(疑わせてくれないなら同意しない)
§110 Line of 《K》
(1) One extreme line of 《K》(習慣から抜けだして認識しようという意志)
(2) The moderate line of 《K》(私自身を欺く私)
(3) The other extreme line of 《K》(軽信する私/不信を募らせる私)
§111 Line of 《L》
(1) One extreme line of 《L》(意見する私の今後に光はない)
(2) The other extreme line of 《L》(闇の暮らし)
(3) The moderate line of 《L》(怠けて楽しんでいる奴には構わず...)
第2章:表現(§§201-203)
§201 Surface of《AiJKL》
(1) The 1st surface of 《AiJKL》
(知っているのは私なのだから、信じるのも疑うのも私の勝手だ)
(2) The 2nd surface of 《AiJKL》
(延長していない事物のうちで、神以外の事物については、すべて疑ってみても安全だ)
(3) The 3rd surface of 《AiJKL》
(習慣から抜けだして認識したうえで私が判断したところでは過誤なのに、それについて知り尽くしたと云ったり、ろくに考察しないで軽々しく疑ったりする輩がいる)
§202 Surface of 《Bf2GHKL》
(1) The 1st surface of 《Bf2GHKL》
(延長する事物がどこでどんな形に複合されていようとも、単純で一般的なものに基づいて認識されるかぎり、たいして奇抜ではない)
(2) The 2nd surface of 《Bf2GHKL》
(延長する事物がどんな大きさでいつまでに幾つ想い描かれようとも、単純で一般的な事物を取り扱うかぎり、私は精確に意見できる)
(3) The 3rd surface of 《Bf2GHKL》
(延長する事物に確かで疑えないことがどのくらい含まれていようとも、危険も過誤もない場合)
§203 Surface of 《CDEFKL》
(1) The 1st surface of 《CDEFKL》
(いつまでも楽をしていると、後で茫然自失して怖くなる)
(2) The 2nd surface of 《CDEFKL》
(眠っているうちは判明ではないものについてであれ、どう感じ取っても決して疑えないものについてであれ、認識するには意志が要る)
(3) The 3rd surface of 《CDEFKL》
(私が信じようと疑おうと、覚醒中の私にとっては、個別的なものが真である)
第3章:演出(§§301-303)
§301:The 1st Solid of 《AiJBf2GHCDEFKL》(信じられたり疑われたりする意見) §302:The 2nd Solid of 《AiJBf2GHCDEFKL》(危険も過誤もない場合) §303:The 3rd Solid of 《AiJBf2GHCDEFKL》(認識しようという意志)
凡例
引用するにあたって、出典は文中に括弧で示した。その左項は、『省察』の序数(「第一省察」については1とした)と、ADAM&
TANNERY版(AT.)の各段落およびそのなかの句・節とに準じて、本論文の筆者(K.-m. as the
SHYNAMITES)が任意に区分したものである。
また右項は、同AT版第VII巻の頁数と行数、ならびに第二版(E.)の頁数と行数である。
引用文献・参考文献
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991),
cf.Meditetiones de Prima Philosophia Lateinisch/Deutsch,
übersetzt und herausgegeben von Gerhart SCHMIDT,
Philipp Reclam Jun.,Stuttgart,1986.
* 翻訳(上記以外)
三宅 徳嘉・小池 健男 訳「方法叙説」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
谷川 多佳子 訳『方法序説』(岩波文庫、1997)
原 亨吉 訳「幾何学」(『デカルト著作集 1』所収、白水社、1973)
* 論文および著作
-G-
マーシャル・ゲルー(小泉 義之 訳)「デカルト形而上学と理由の順序」
(デカルト研究会 編『現代デカルト論集I フランス篇』所収、勁草書房、1996)
-H-
平松 希伊子「デカルトの自然学」--渦動と光」
(湯川 佳一郎・小林 道夫 編『デカルト読本』所収、法政大学出版局、1998)
-K-
香川 知晶「精神の洞見と「実体」--デカルトの蜜蝋の分析について」
(デカルト研究会 編『現代デカルト論集III 日本篇』所収、勁草書房、1996)
倉田 隆「方法論--『規則論』と『方法序説』第二部」
(湯川 佳一郎・小林 道夫 編『デカルト読本』所収、法政大学出版局、1998)
小泉 義之『デカルト=哲学のすすめ』(講談社現代新書、1996)
河野 勝彦「デカルトと数学」
(湯川 佳一郎・小林 道夫 編『デカルト読本』所収、法政大学出版局、1998)
古賀 祥二郎「自然学の基礎づけ--物質的事物の本質と存在」
(湯川 佳一郎・小林 道夫 編『デカルト読本』所収、法政大学出版局、1998)
-M-
村上 勝三『デカルト形而上学の成立』(勁草書房、1990)
-N-
西村 哲一「デカルトの永遠真理創造説について--「普遍的創造説」の学問的射程」
(湯川 佳一郎・小林 道夫 編『デカルト読本』所収、法政大学出版局、1998)
-R-
ジュヌヴィエーヴ・ロディス=レヴィス(西村 哲一 訳)
「デカルト主義における人間の言語と自然的記号」
(デカルト研究会 編『現代デカルト論集Ⅰ フランス篇』所収、勁草書房、1996)
ジュヌヴィエーヴ・ロディス=レヴィス著/飯塚 勝久 訳『デカルト伝』(未来社、1998)
-S-
坂井 昭宏「デカルトの二元論--心身結合の同時的存立について」
(デカルト研究会 編『現代デカルト論集III 日本篇』所収、勁草書房、1996)
佐々木 周「驚くべきこと--デカルト「概要/第六省察」Synop.15,20-16,6」
(デカルト研究会 編『現代デカルト論集III 日本篇』所収、勁草書房、1996)
佐藤 公一「方法的懐疑とコギト」
(湯川 佳一郎・小林 道夫 編『デカルト読本』所収、法政大学出版局、1998)
-T-
所 雄章『デカルトI』(勁草書房、1967/新装版1996)
所 雄章『デカルトII』(勁草書房、1971/新装版1996)
-Y-
山田 弘明「人間学としてのデカルト哲学--「第六省察」の一解釈」
(デカルト研究会 編『現代デカルト論集III 日本篇』所収、勁草書房、1996)
* 参考資料
-E-
Ben EDMONDS 解説/泉山 真奈美 訳
(Marvin Gaye 《What's Going On》[UICY-7028~9]所収、Motown/Universal Music, 1971/2001)
-G-
Marvin GAYE 著(Original album notes)/泉山 真奈美 訳
(Marvin Gaye 《What's Going On》[UICY-7028~9]所収、Motown/Universal Music, 1971/2001)
-I-
泉山 真奈美 解説
(Marvin Gaye&Tammi Terrell 《GREATEST HITS》[POCT-1953]所収、Motown/POLYDOR, 1970/1998)
泉山 真奈美 解説
(Marvin Gaye 《What's Going On》[UICY-7028~9]所収、Motown/Universal Music, 1971/2001)
-K-
紺野 慧『イナー・シティ・ブルース マーヴィン・ゲイが聴こえる』
(ヤマハ・ミュージック・メディア、1997)
紺野 慧 解説
(Marvin Gaye 《TROUBLE MAN》[POCT-1899]所収、Motown/POLYDOR, 1972/1994)
-O-
大伴 良則 解説
(Marvin Gaye《Midnight Love&the Sexual Healing Sessions》[CS-8817~8]所収、Sony Music Entertainment,1982/1998)
-R-
David RITZ 解説/泉山 真奈美 訳
(Marvin Gaye《VULNERABLE》[POCT-1926]所収、Motown/POLYDOR,1997)
David RITZ 解説/藤林 初枝 訳
(Marvin Gaye《Midnight Love&the Sexual Healing Sessions》[CS-8817~8]所収、Sony Music Entertainment,1982/1998)
Smokey ROBINSON 著(序文)/泉山 真奈美 訳
(Marvin Gaye 《What's Going On》[UICY-7028~9]所収、Motown/Universal Music, 1971/2001)
-T-
Steve TURNER, TROUBLE MAN the life and death of Marvin Gaye,
Penguin Books, London,1998.
-Y-
吉岡 正晴『ソウル・サーチン R&Bの心を求めて』(音楽之友社、2000)
-W-
Harry WEINGER 解説/泉山 真奈美 訳
(Marvin Gaye 《What's Going On》[UICY-7028~9]所収、Motown/Universal Music, 1971/2001)
produced and arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),May 15, 2007.
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY,
nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
...(頁、行)
E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
...(頁、行)
cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
...(1=「第一省察」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)
The HARVEST and DIGESTS(part 3)
on Going Straight in Straits
要点と結論(序を兼ねて)--其の参
第三の要点は、次のとおりである。すなわち、「私」の意志でもってすれば、「邪まな習慣」のせいで「私の判断」が歪んで
正しく「事物」を「知得」できないということは「もはやない」はずだ(1.K207:AT.VII,22.16-18/E.13.13-15)。このよう
にして「私が掛かりきっている」諸々の事物は、「もっぱら認識されるべき」ものとなる(1.K304:AT.VII,22.21-22/E.13.19-
20)。なるほど、「何か真なるものを認識すること」については「私」が「有能」では「ない」場合もあるし(1.L302:AT.VII,23.04-
06/E.14.04-05)、守護霊で「なく」ても、誰かしら「ひっかける者が、私に何らかのものを」(1.L305:AT.VII,
23.07/E.14.06-07)「押しつけることができるかもしれない」(1.L308:AT.VII,23.08/E.14.08)ので、「私は独
りで隠退した」(1.A403:AT.VII,18.01-02/E.08.01)。このように真なる認識を「企てて暮らす」のは「苦労する」
(1.L401:AT.VII,23.09-10/E.14.09-10)。というのも、「このことに向かって」(1.K101:AT.VII,
22.03/E.12.27)「思い起こすように頓着されるべき」なのは「私」だ(1.K102:AT.VII,22.03-04/E.12.27-
28)からである。つまり、真なるものを認識しようとしているのは「私」である、ということにこだわる必要があるのだ。そうでもしないと、「私が」事物を
めぐる諸々の意見に「同意したり信頼したりするという習慣から抜けだす」ことは「一度もない」だろう(1.K106:AT.VII,22.07-
08/E.13.02-03)。そのようななかで「私は、何か堅固で」留まりうるものを「いつか」「定着させて」「知識」にするときが来るだろう、と「待
ち望んでいる」(1.A107:AT.VII,17.06-08/E.07.16-18)のだが、どうやらその「試練に取り組むのにこれ以上適した」年頃
は「後には続かない」ようなので(1.A204:AT.VII,17.09-10/E.07.20-21)、「きわめて蓋然的」(1.K110:
AT.VII,22.10/E.13.06)ではあるけれども、「私」は「意志」を「全く反対に」向き変えて(1.K203:AT.VII,
22.13/E.13.09-10)、「残っている時期」で「実行する」(1.A302:AT.VII,17.12/E.07.23)。
さて、「何であれ」「後から私が積み上げた」せいでかなり疑わしく(1.A104:AT.VII,17.03-
04/E.07.13-14)なったものはひじょうに多いが、このことに「私が気づいた」のは「すでに数年前」である(1.A101:AT.VII,
17.02/E.07.10-11)。まず、「諸々の事物」が「複合された」ままで「考察」される、ということに「依拠している」(1.H102:
AT.VII,20.22-23/E.11.05-06)ものといえば、「‘自然学'、‘天文学'、‘医学’および他の諸々の学科なり訓練なり」の「すべ
て」(1.H101:AT.VII,20.21-22/E.11.04-05)である。これらの学科や訓練で扱われるのは、まず、物体なり身体なりとして
「自然」で本性的たることが「一般」化したもの(1.G101:AT.VII,20.15-16/E.10.27-28)、「さらには、延長した諸々の事
物の形状」(1.G200:AT.VII,20.16-17/E.10.29)だが、これらの事物は「実在するかもしれない」(1.G401:
AT.VII,20.18/E.11.01)。そうであれば、延長したこれらの事物が実在する「場所」(ibid.)「およびそれに類するもの」
(1.G403:AT.VII,20.19/E.11.02)も、ここで扱われるはずだ。ところで諸々の事物が複合されたままで考察されたがゆえに、その
像は「真であったり偽であったり」(1.f605:AT.VII,20.13/E.10.25)するのであって、こうした「事物の像は」比較的単純で普遍
的なものから、つまり真なるものから、「作りだされている」(1.f607:AT.VII,20.14/E.10.26-27)。だからこそ、「天空が何
もない」(1.i202:AT.VII,21.04/E.11.22)とか、「形状が何もない」(1.i204:AT.VII,
21.05/E.11.23)とか、「場所が何もない」(1.i206:AT.VII,21.05-06/E.11.23)とか、「否それどころか」、
「どうして」も「過っている、と私の判断する」もので「さえも」、「他の人々が」「それら」のものをめぐって「きわめて完全に知っているのだ、とみずから
思いなしている」ことは、「時々」ある(1.i301:AT.VII,21.07-09/E.11.25-28)。だからこそまた、「私が四角形の辺を数
える」(1.i303:AT.VII,21.10/E.11.29)場合も、「至上」の「善である」と「云われる」(1.i402:AT.VII,
21.12/E.12.01-02)神が「私」を「創造した」かぎりでは、「私はいつも欺かれて誤るよう」なのだ(1.i404:AT.VII,
21.13-14/E.12.03)。しかし、このように真なるものについて「考察せぬままで、もしくは軽々しく」疑うのは(1.J304:
AT.VII,21.29/E.12.21-22)、「明らかに偽なるものに対して」疑うのと、「あまり劣らない」(1.J307:AT.VII,
21.31/E.12.24-25)のだから、「我々は彼らに反駁しないことにする」(1.J201:AT.VII,21.19/E.12.09-
10)。これらの「事物」は、いくら複合されていようとも、「本性」上は、ひじょうに単純できわめて一般的なのである(1.H203:AT.VII,
20.25-26/E.11.10-11)。ここで、「私の精神に」「古くから」「こびりついてしまっている」「或る意見」(1.i101:
AT.VII,21.01-02/E.11.18-19)によれば、神によって「このよう」に(1.i103:AT.VII,
21.02/E.11.07)いつも欺かれて誤るべく「創造されたもの」が「私である」(1.i105:AT.VII,21.03/E.11.20)とい
う。この意見に同意したりこの意見を信頼したりするという習慣のせいで「私」の判断が歪んだ場合に知得される事物とは、すなわち、いつも欺かれて誤るとは
限らないのが「私」である、ということだ。ところで、「私」の欺かれて誤る頻度が時々であるならば、それを神は容赦しているのであって、「最終的に」神は
善であると云えよう(1.i406:AT.VII,21.15-16/E.12.05-06)。
したがって、もし「邪まな習慣」のせいで「私の判断」が歪んで正しく「事物」を「知得」できないならば、それは「もは
や」「私」に意志が「ない」からであろう(1.K207:AT.VII,22.16-18/E.13.13-15)。意志あるかぎりの「私が掛かりきって
いる」諸々の事物は、「もっぱら認識されるべき」ものである(1.K304:AT.VII,22.21-22/E.13.19-20)。これが、第三の要
点である。
以上で要点が三つ揃ったわけだが、これらが示しているところによれば、まず事物と意見とに相違がみられる。すなわち、信
じられたり否定されたりするのは、つまり真あるいは偽として扱われるのは、事物をめぐる意見のほうである。事物そのものは、もっぱら認識されるべきもので
あって、決して真偽を問われるものではないのだ。但し「私」が事物を認識するにあたっては、「私」の意志が要る。とはいえ、事物を認識しようという意志さ
え「私」にあれば、「私」は正しく事物を知得することができるし、「私」の判断も歪まないのである。では、或る事物を「私」が行動に移さなかったのはなぜ
か。それは、もしその事物が行動に移された場合に「私」にとって危険かどうかを「私」がまだ知らないから、もしくは、同じその場合に「私」の過誤になるの
かどうかを「私」がまだ知らないからである。ところで、そうした危険そのものや過誤そのものもまた事物なのである。危うさもしくじりも、決して意見ではな
い。そうすると、もし或る事物を「私」が行動に移す際に何らかの危険や過誤が生ずる場合でも、そうした危険や過誤を認識しようという意志を「私」がもって
いるかぎり、「私」はそうした危険や過誤を正しく知得することができるし、また歪みなき判断を下すこともできる。このようにして、「私」にとって当初の事
物は、行動に移されても移されなくてもどちらでも構わないものとなる。よって、認識においても行動においても「私」が安全で正しくいることができるのは、
「私」に意志があるからなのだ。「私」にとっての危険も過誤も事物として認識する「私」は、行動するかしないかをみずから選ぶことができる。これを以て、
結論とする。
(2002年記)
presented by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),May 15,2007.
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY,
nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
...(頁、行)
E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
...(頁、行)
cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
...(1=「第一省察」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)
The HARVEST and DIGESTS(part 2)
on Going Straight in Straits
要点と結論(序を兼ねて)--其の弐
第二の要点は、次のとおりである。すなわち、或る事物をめぐる諸々の意見について、信じるという「予断」と否定するとい う予断とが「ちょうど均等」の「重さ」になった(1.K206:AT.VII,22.15-16/E.13.12-13)とはいえ、そうした予断に「随 伴」する「危険」について、もしくはそうした予断から「帰結」する「過誤」について、「私が」「全然」知らないのであれば(1.K301:AT.VII, 22.18-19/E.13.15-17)、「今」の「私が掛かりきっている」その「事物」は「行動されるべき」では「ない」(1.K303: AT.VII,22.20-21/E.13.18-19)のだ。なるほど、「私は」「落ち着いて」「省察」して(1.L301:AT.VII, 23.04/E.14.02-03)いるし、「偽なるものには、私は同意しないつもりで」(1.L304:AT.VII,23.06- 07/E.14.06)いるし、「私」をひっかける者(1.L305:AT.VII,23.07/E.14.06-07)に対して、「私は用心して」 (1.L309:AT.VII,23.09/E.14.09)いるが、このようにして「私に気配りしてきた」のが「私」である(1.A402: AT.VII,18.01/E.07.25-08.01)からこそ、「慎重になりながら」ではあったものの、「私の費やす」(1.A303: AT.VII,17.12-13/E.07.24)「暇」は「安泰」だった(1.A402:AT.VII,18.01/E.07.25-08.01)。そ ういえば、「私」が「習慣」づけられていた「生活」へ引き戻されたのは、「私」が「或る種」「怠惰」だったり「不精」だったりしたせいだ(1.L402: AT.VII,23.10-11/E.14.10-11)。こうした事物に「向かった」(1.K101:AT.VII,22.03/E.12.27)とた んに「絶えず駆け戻ってくる」「諸々の意見」が「習慣づけられてしまって」(1.K103:AT.VII,22.04-05/E.12.28-29)いる ということは、「ほとんど私の意に反してさえも」(1.K105:AT.VII,22.06-07/E.13.01-02)いる。とはいえ、「元からすべ てを打倒する」という、「一生に一度」の(1.A105:AT.VII,17.04-05/E.07.14-15)「壮大さ」を「要する」 (1.A201:AT.VII,17.08/E.07.18-19)ほどの試練に取り組めるくらいに年頃が「成熟している」以上(1.A203: AT.VII,17.09/E.07.20)、もし「それら」の意見を「信じることのほうが否定することよりもかなり理にかなっている」ところが「大き い」(1.K111:AT.VII,22.11-12/E.13.07-08)ならば、「私が行動する」ぶんには「悪くない」はずだ(1.K202: AT.VII,22.12-13/E.13.09)。行動されても行動されなくてもどちらでも構わない事物をあえて「私」が行動に移したところで、何も悪 くない場合がある。その場合、そうした事物をめぐる意見のうちで「私」が否定せずに信じたほうの意見は、比較的理にかなっているのだ。むしろ、もし「私が 長い間」その行動を「延期してきた」ならば、「後々」「私が」咎められることになる(1.A301:AT.VII,17.10-11/E.07.21- 23)。
さて、「偽」であるにも拘わらず「真なる」ものとして「私が受け容れてきた」(1.A103:AT.VII, 17.03/E.07.12)ものはひじょうに多いが、このことに「私が気づいた」のは、「すでに数年前」である(1.A101:AT.VII, 17.02/E.07.10-11)。まず「いかにも疑わしい」(1.H103:AT.VII,20.23/E.11.07)ものといえば、「‘自然学 '、‘天文学'、‘医学’および他の諸々の学科なり訓練なり」の「すべて」(1.H101:AT.VII,20.21-22/E.11.04-05)だ。 これらの学科や訓練で扱われるのは、まず、物体なり身体なりとして「自然」で本性的たることが「一般」化したもの(1.G101:AT.VII, 20.15-16/E.10.27-28)、「さらには」その延長した諸々の事物の「量」(1.G301:AT.VII,20.17/E.10.29- 30)、「およびそれに類するもの」(1.G403:AT.VII,20.19/E.11.02)であるが、「こうした」像の「すべて」は、「あたかも色 のごとく」比較的単純で普遍的なものから、つまり「そうした真なる」ものから(1.f604:AT.VII,20.12/E.10.24-25)「作りだ されて」、「事物の像」となっている(1.f607:AT.VII,20.14/E.10.26-27)。だからこそ、「延長した事物が何もない」 (1.i203:AT.VII,21.04-05/E.11.22)にも拘わらず、「今」の「私」には、「これら」の事物の「すべてが実在している」と 「思われる」(1.i207:AT.VII,21.06-07/E.11.24-25)だけでなく、「何か他のものが仮想されること」も「比較的容易」に 「できる」(1.i304:AT.VII,21.10-11/E.11.30)のだ。もし、その「他の事物のすべてを不確かだと信ずる」(1.J102: AT.VII,21.18-19/E.12.08-09)ならば、「我々は、神」が有能であること「全体を虚構的なものだ、と仮定しておこう」 (1.J202:AT.VII,21.19-20/E.12.10-11)。そうすると、「何かしら確かで疑われようのないことを含んでいる」 (1.H205:AT.VII,20.27/E.11.11-12)のは、「‘数論'、‘幾何学'」およびその他のようなもの(1.H201: AT.VII,20.23-24/E.11.07-08)である。「結局」、「旧来真なるものと私が考えていた」からといって、なにもそれを「私が余儀な く認容する」ことは「ない」のだ(1.J302:AT.VII,21.27-28/E.12.19-20)。こうして、「何か確かなものを発見したい」 「私」が(1.J309:AT.VII,22.01-02/E.12.26)、「強かに省みられた理由に近づいて」(1.J305:AT.VII, 21.30/E.12.22-23)みたところ、「或る意見」が「私の精神に」「古くから」「こびりついてしまって」(1.i101:AT.VII, 21.01-02/E.11.18-19)いた。すなわち、「存在している」「神が」「何でもできる」(1.i102:AT.VII, 21.02/E.11.19)せいで、「創造された」ほうの「私」は(1.i105:AT.VII,21.03/E.11.20)いつも欺かれて誤るの だ、という意見である。この意見を「私」が信じたせいで誤る場合にも、否定したせいで誤る場合にも、同一のことが帰結する。すなわちそれは、「私」がいつ も誤るとは限らない、ということである。ところで、「私」の欺かれて誤る頻度が時々であるならば、それを神は容赦しているのであって、「最終的に」神は善 であると云えよう(1.i406:AT.VII,21.15-16/E.12.05-06)。
したがって、或る事物をめぐる諸々の意見について、信じるという「予断」と否定するという予断とが「ちょうど均等」の 「重さ」になった(1.K206:AT.VII,22.15-16/E.13.12-13)とはいえ、そうした予断に「随伴」する「危険」について、もし くはそうした予断から「帰結」する「過誤」について、「私が」「全然」知らないのであれば(1.K301:AT.VII,22.18- 19/E.13.15-17)、「今」の「私が掛かりきっている」その「事物」は「行動されるべき」では「ない」(1.K303:AT.VII, 22.20-21/E.13.18-19)のだ。これが、第二の要点である。
presented by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出: "What a cool believes"(blog), May 15,2007.
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY,
nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
...(頁、行)
E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
...(頁、行)
cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
...(1=「第一省察」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)
The HARVEST and DIGESTS(part 1)
on Going Straight in Straits
要点と結論(序を兼ねて)--其の壱
本論文は、デカルトの「第一省察」を扱うにあたって、同じくデカルトの「幾何学」を利用したものであり、三つの部分から 成る。第一部においては、「第一省察」の各段落(ADAM&TANNERY版に準拠)を分解したのち、三重構造として再編成した。第二部では、か の三重構造を保ちながら数段落を連結したところ、三つの組になった。すなわち、最初の段落から最後の段落まで3種類(計9通り)の仕方で至ることができた のである。さらに第三部では、「第一省察」の全段落を連結したので、三本一組の筋になった。
以上の作業を経たところ、三つの要点が得られたので、まずはそれらを挙げておく。
第一の要点は、次のとおりである。すなわち、習慣づけられた諸々の意見を「しばらくはすべて偽なるものであり想い描かれ ただけのものである、と仮想」(1.K205:AT.VII,22.14-15/E.13.10-12)しておいたせいで、「私」は「不信に」なっている のであって、「私が」その不信を「募らせすぎ」たせいでそのように仮想することは決して「ありえない」(1.K302:AT.VII,22.19- 20/E.13.17-18)。なるほど、手や目や肉や血や感覚といった「これらのすべてを私がもっている」、という「意見」が「偽で」あれ (1.L205:AT.VII,23.03/E.14.01-02)、「このことが私のなかに在る」のは「確か」なのであり(1.L303: AT.VII,23.06/E.14.05-06)、また「機会よく、きょう」、「すべての心配から」解放されたのは「私」の「精神」なのであって (1.A401:AT.VII,17.13-18.01/E.07.24-25)、これらのことは、「私」をひっかける者が「いかに巧みで」も (1.L307:AT.VII,23.08/E.14.08)「異なることがない」(1.L501:AT.VII,23.11/E.14.11-12)。 ただ、いくら「このことに向かった」(1.K101:AT.VII,22.03/E.12.27)ところで、「あたかも長く使用」されたか親しくなって 「権利」を得たかのようにして習慣づけられた諸々の意見が、「互いに絡みあって」「占拠する」と、「私」は「軽信」してしまう(1.K104: AT.VII,22.05-06/E.12.29-13.01)。とはいえ、幼少の頃の最初の土台から新規に開始できるくらいに成熟した「年頃を期待して いた」のも「私」であり(1.A202:AT.VII,17.08-09/E.07.19)、「或る何らかの仕方で疑わしい」(1.K108: AT.VII,22.09/E.13.04-05)、と「意見するように」なったのも「私」である(1.K201:AT.VII, 22.12/E.13.09)。要するに、古い意見によっても親しい意見によっても決して覆されないのは、次の二つのことである。すなわち第一に、どうし てかはともかく、疑わしいという意見をもっているのが「私」であることは確かだ。第二に、期待していた年頃を迎えて、きょう、何の心配もないのは「私」の 精神なのである。そこでもし「私が長い間」そうした土台から開始するのを「延期してきた」ならば、「後々」「私が」咎められることになる(1.A301: AT.VII,17.10-11/E.07.21-23)。
さて、「幼少の頃」(1.A102:AT.VII,17.03/E.07.11-12)に「新規に開始する」と「最初の 土台」(1.A106:AT.VII,17.06/E.07.15-16)になるものはひじょうに多いが、このことに「私が気づいた」のは、「すでに数年 前」である(1.A101:AT.VII,17.02/E.07.10-11)。まず「いかにも疑わしい」(1.H103:AT.VII, 20.23/E.11.07)ものといえば、「‘自然学'、‘天文学'、‘医学’および他の諸々の学科なり訓練なり」の「すべて」(1.H101: AT.VII,20.21-22/E.11.04-05)だ。これらの学科なり訓練なりで扱われるのは、まず、物体なり身体なりとして「自然」で本性的た ることが「一般」化したもの(1.G101:AT.VII,20.15-16/E.10.27-28)、「およびその延長」(1.G102: AT.VII,20.16/E.10.28-29)、そして延長した諸々の事物の「大きさと数」(1.G302:AT.VII,20.17- 18/E.10.30-11.01)だが、これらの事物は「持続するかもしれない」(1.G402:AT.VII,20.18-19/E.11.01- 02)。そうであれば、延長したこれらの事物が持続する「時間」(ibid.:AT.VII,20.18/E.11.01-02)「およびそれに類するも の」(1.G403:AT.VII,20.19/E.11.02)も、ここで扱われるはずだ。ところで、「我々の思惟のなかにある」「それら」のものは (1.f606:AT.VII,20.13/E.10.25-26)「事物の像」として「作りだされている」(1.f607:AT.VII, 20.14/E.10.26-27)。だからこそ、「私がどこから」か「知る」ところによると、「神がもたらさなかった」ならば「大地は全然存在しないよ う」だ(1.i201:AT.VII,21.03-04/E.11.20-22)し、「大きさも何もない」(1.i205:AT.VII, 21.05/E.11.23)ようだ。だからこそまた、「私」は「2と3とを加えて」「一緒に」するたびに「欺かれて誤るよう」(1.i302: AT.VII,21.09-10/E.11.28-29)なのだ。そこで「我々は、神」が有能であること「全体を虚構的なものだ、と仮定しておこう」 (1.J202:AT.VII,21.17-18/E.12.10-11)。そうすれば、「ひじょうに単純できわめて一般的な事物についてでなければ取り 扱わない」(1.H202:AT.VII,20.24-25/E.11.08-10)ということには「あまり頓着しなくて」(1.H204: AT.VII,20.26-27/E.11.11)済むはずだ。このようにして、諸々のものについて「精確に」応ずるよう、「引き続き」「同意」せずに 「保留」(1.J308:AT.VII,22.01/E.12.25-26)しているのは、なにも、旧来それらを真なるものと「私」が考えていたからでは なくて、むしろ、「同じそれら」のものに対して(1.J306:AT.VII,21.30-31/E.12.23-24)「疑うことが許されない」 (1.J303:AT.VII,21.28-29/E.12.20-21)からである。ここで、「私の精神に」「古くから」「こびりついてしまっている」 「或る意見」(1.i101:AT.VII,21.01-02/E.11.17-19)によれば、「私」はまさに「このとおりのもの」として、つまりいつ も軽信してひっかかるものとして、「実在している」(1.i104:AT.VII,21.03/E.11.20)という。しかし「そのようにして私がひっ かかることを、おそらく神は望まなかった」だろう(1.i401:AT.VII,21.11-12/E.11.30-12.01)。というのも、かの意見 を「私」が軽信してひっかかった場合であれ、また、その意見に対して「私」が不信を募らせた場合であれ、もしくは、その意見を疑うべきではないものとして 精確に応ずるべく、「私」がその意見に同意せずに保留している場合であれ、導きだされる事物は、すなわち、いつも軽信してひっかかるとは限らないのが 「私」である、ということだからである。ところで「私」の「欺かれて誤る」頻度が「時々」であるならば、それを神は「容赦する」(1.i405: AT.VII,21.14-15/E.12.04-05)。よって、神が善であることに「縁遠いと思われている」(ibid.:AT.VII, 21.14/E.12.04)とはいえ、このことは「最終的には云われえない」(1.i406:AT.VII,21.15-16/E.12.05-06) はずだ。
したがって、習慣づけられた諸々の意見を「しばらくはすべて偽なるものであり想い描かれただけのものである、と仮想」 (1.K205:AT.VII,22.14-15/E.13.10-12)しておいたせいで、「私」は「不信に」なっているのであって、「私が」その不信 を「募らせすぎ」たせいでそのように仮想することは決して「ありえない」(1.K302:AT.VII,22.19-20/E.13.17-18)。これ が、第一の要点である。
presented by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),May 15,2007.
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
...(頁、行)
E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
...(頁、行)
cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
...(1=「第一省察」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)
The 3rd Solid of 《AiJBf2GHCDEFKL》
(§303:認識しようという意志)
for Going Straight in Straits
[1.A101-A104-A107-A204-A302-A403-A404]
[1.i101-i103-i105-i202-i204-i206-i301-i303-i402-i404-i406]
[1.J101-J201-J203-J207-J301-J304-J307][1.B101-B102-B203-B205-B303-B306]
[1.f301-f303-f402-f404-f501-f503-f505-f603-f605-f607]
[1.G101-G200-G401-G403][1.H101-H102-H203-H302]
[1.C101-C103-C202-D102-D202-D205-D303-D307-D311-D401]
[1.E101-E103-E105-E202-E204-E302-E304-E402-E404-F101-F103-F105-F107]
[1.K101-K102-K106-K110-K203-K207-K304]
[1.L101-L103-L201-L204-L302-L305-L308-L401-L503-L602-L605-L606]
「すでに数年前に」「私が気づいた」ところによれば、ひじょうに「多くのもの」(1.A101:AT.VII,
17.02/E.07.10-11)のうえに「後から私が積み上げた」ものは「何であれ」、かなり「疑わしい」(1.A104:AT.VII,17.03
-04/E.07.13-14)ので、「私は、何か堅固で」留まりうるものを「いつか」「定着させて」「知識」にするときが来るだろう、と「待ち望んでい
る」(1.A107:AT.VII,17.06-08/E.07.16-18)のだが、どうやらその「試練に取り組むことにこれ以上適した」年頃は「後に
は続かない」ようなので(1.A204:AT.VII,17.09-10/E.07.20-21)、「残っている時期」で「実行する」(1.A302:
AT.VII,17.12/E.07.23)。そこで「独りで隠退した」「私」が(1.A403:AT.VII,18.01-02/E.08.01)、
「ついに」「本気で自由に」「没頭するつもり」になれば、「私の諸々の意見」は「全般的に打倒」されて「このように」なるはずだ(1.A404:
AT.VII,18.02-03/E.08.02-03)。
まず、「私の精神に」「古くから」「こびりついてしまっている」「或る意見」(1.i101:AT.VII,21.01
-02/E.11.17-19)によれば、神によって「このよう」に(1.i103:AT.VII,21.02/E.11.19-20)「創造されたも
の」が「私である」(1.i105:AT.VII,21.03/E.11.20)という。「天空が何もない」(1.i202:AT.VII,
21.04/E.11.22)とか、「形状が何もない」(1.i204:AT.VII,21.05/E.11.23)とか、「場所が何もない」
(1.i206:AT.VII,21.05-06/E.11.23)とか、「否それどころか」、「どうして」も「過っている
errare、と私の判断する」もので「さえも」、「他の人々が」「それら」のものをめぐって「きわめて完全に知っているのだ、とみずから思いなしてい
る」ことは、「時々」ある(1.i301:AT.VII,21.07-09/E.11.25-28)。「四角形の辺を数える」のは「私」だが
(1.i303:AT.VII,21.10/E.11.29)、「至上」の「善である」と「云われる」(1.i402:AT.VII,
21.12/E.12.01-02)神が「私」を「創造した」かぎりでは、「私はいつも欺かれて誤るよう」だ(1.i404:AT.VII,21.13-
14/E.12.03)。とはいえ、このように時々欺かれて誤る「私」を容赦しているのは神なのだから、「最終的には」神が善であることに縁遠いと「云わ
れることはできない」(1.i406:AT.VII,21.15-16/E.12.05-06)。にも拘わらず、「それほど」に「有能な何らかの神を否定
する」人々が「いるらしい」(1.J101:AT.VII,21.17-18/E.12.06-08)。「おそらく」そのように「選り好む」人々は「少な
くない」(ibid.:AT.VII,21.17-18/E.12.07-08)だろうが、「我々は彼らに反駁しないことにする」(1.J201:
AT.VII,21.19/E.12.09-10)。また、「運命によって」(1.J203:AT.VII,21.20/E.12.11)「欺かれたり
過ったり falli & errare
するのは或る種」「不完全なことだ、と思われている」(1.J207:AT.VII,21.22-23/E.12.14-15)らしいが、「その議論に対
しては固より私は答えようがない」(1.J301:AT.VII,21.26-27/E.12.18-19)。「考察せぬままで、もしくは軽々しく」疑う
のは(1.J304:AT.VII,21.29/E.12.21-22)、「明らかに偽なるものに対して」疑うのと、「あまり劣らない」(1.J307:
AT.VII,21.31/E.12.24-25)のであって、そうした疑いは「このためには必要にならない」(1.B101:AT.VII,
18.04/E.08.03-04)ことである。なぜならそれは、「私」のそれらの意見の「すべてが偽である、ということを指し示す」こと
(1.B102:AT.VII,18.04-05/E.08.04-05)だからである。したがって「明らかに偽なるものに対して」は、まず「同意」せず
に「保留しなければならない」(1.B203:AT.VII,18.07-08/E.08.08-09)。さらに、「私」はそれらの意見の「各々のうち
に」「何らかの理由なり根拠なり」を「見いだし」て「疑う」ようになった(1.B205:AT.VII,18.09-10/E.08.10-11)。
さて、「掘り返された土台」(1.B303:AT.VII,18.11-12/E.08.13-14)とも云うべき原理
そのものに「依拠していた」のは、「旧来私の信じてきたものすべて」であった(1.B306:AT.VII,18.13-14/E.08.16-17)。
第一に、「目、頭、手および全身といった、こうした一般的なもの」は「少なくとも」(1.f301:AT.VII,19.29-30/E.10.06-
08)「真なる」事物として「実在する」(1.f303:AT.VII,19.30-31/E.10.08-09)。画家たちの仮想するべく励んでいるの
が、なにもセイレーンやサテュロスといった、人間の半身に別の動物の半身を接いだようなきわめてただならぬ姿なり形なりをした生物でなくても
(1.f402:AT.VII,19.31-20.01/E.10.09-10)、「それら」の生物に「割り当てることができる」「本性」の「部分ならい
ずれも」、画家たちにとっては「新しい」(1.f404:AT.VII,20.02-03/E.10.12-13)。「あるいは、もし」画家たちの「考え
だす」ものが「ひょっとして何かひじょうに新しいもの」(1.f501:AT.VII,20.04-05/E.10.14-15)であっても、また「その
ようにして」考えだされたものが「まったく虚構的で虚偽で」(1.f503:AT.VII,20.06/E.10.16-17)あっても、「それを複合す
るのは」真なる色からである(1.f505:AT.VII,20.07-08/E.10.18-19)。第二に、そうした一般的なものでない「他のもの」
は「或る種」「なおいっそう単純で普遍的な」ものであるかぎりで「真なるものであって」、このことは「少なくとも」「必然的に」「認容されるべきである」
(1.f603:AT.VII,20.10-12/E.10.21-24)。というのも「真であれ偽であれ」(1.f605:AT.VII,
20.13/E.10.25)、「事物の像は」こうした単純で普遍的なものから、つまり真なるものから、「作りだされている」からである(1.f607:
AT.VII,20.14/E.10.26-27)。ところで「こういう種類に」属すると「思われる」のは、「物体」なり身体なりとして「自然」で本性的
たること「一般」(1.G101:AT.VII,20.15-16/E.10.27-28)、「さらには、延長した諸々の事物の形状
figura」(1.G200:AT.VII,20.16-17/E.10.29)だが、これらの事物は「実在するかもしれない」(1.G401:
AT.VII,20.18/E.11.01)。そうであれば、延長したこれらの事物が実在する「場所」(ibid.)「およびそれに類するもの」
(1.G403:AT.VII,20.19/E.11.02)も、ここに属すると思われる。そうすると「我々は」「このことから、たぶん」次のように「結
論するのだろう」が、それも「悪くない」(1.H101:AT.VII,20.20/E.11.02-04)。すなわち、「‘自然学'、‘天文学'、‘医
学’および他の諸々の学科なり訓練なり」の「すべて」(ibid.:AT.VII,20.21-22/E.11.04-05)は、「諸々の事物」が「複合
された」ままで「考察」される、ということに「依拠している」(1.H102:AT.VII,20.22-23/E.11.05-06)、と結論されるは
ずだ。なるほど複合されているこれらの「事物の自然なり本性なりにおいて」は、ひじょうに単純できわめて一般的な事物が「在る」(1.H203:
AT.VII,20.26/E.11.10-11)。たとえば「足して5になった juncta esse
quinque」のは、「2と3と」が「一緒に」(1.H302:AT.VII,20.28-29/E.11.13-14)なったせいである、といったよ
うにして、「思うに、どれも皆、私はとりわけ真なるものとして受け容れてきた」(1.C101:AT.VII,18.15/E.08.17-18)のだ
が、「諸々の感覚をとおして私が受け取った」(1.C103:AT.VII,18.16/E.08.19)ものであっても、「賢明」であれば「決して全面
的には信頼しない」(1.C202:AT.VII,18.17-18/E.08.20-21)。なぜならそれらは「我々を一度でも惑わしたことがある」か
らなのだ(ibid.:AT.18.18/E.08.21-22)。
但し「他の大多数」については、「疑われることは全くできない」のである(1.D102:AT.VII,18.20-
21/E.08.24-25)。たとえば「炉辺に座っていること」(1.D202:AT.VII,18.22/E.08.27)、「およびそれに類する」
諸々のこと(1.D205:AT.VII,18.24/E.08.29)は、「何の理由で否定されることができようか」(1.D303:AT.VII,
18.25-26/E.08.30-09.01)。いくら「貧乏だ」(1.D307:AT.VII,19.03/E.09.05)からといって、「みずか
ら」の全身が「カボチャ」型の壷である(1.D311:AT.VII,19.04-05/E.09.06-07)と云い張るなら、そういう人々は「正気を
失っている」のだが(1.D401:AT.VII,19.05/E.09.08)、「素晴らしい」ことに「そのとおり」であった(1.E101:
AT.VII,19.08/E.09.10)。なるほど「私」がたいてい「睡眠中に偲ぶ」もの「すべて」を「同じく」(1.E103:AT.VII,
19.09/E.09.12)「そうした人々は目覚めていながら」(1.E105:AT.VII,19.10-11/E.09.13-14)偲ぶ。にも拘
わらず他方で「私がここに居て」(1.E202:AT.VII,19.11/E.09.15)、「炉辺に座っていて」(1.E204:AT.VII,
19.12/E.09.15-16)、「私の揺らしているこの頭がまどろんでいない」(1.E302:AT.VII,19.15/E.09.19-20)
という、「これほど判明な」ことすら、「眠っている者」には「到達しない」(1.E304:AT.VII,19.16-17/E.09.21-22)。別
のときに、この類いの諸々の思惟でさえも騙されたことがあるのは、睡眠中の「私」だが、「このことを比較的注意深く思惟するうちに」(1.E402:
AT.VII,19.19/E.09.24-25)、「唖然とする」のも「私」だ(1.E404:AT.VII,19.21/E.09.27)。
そこでまず、「我々は夢みているとする」のが「よかろう」(1.F101:AT.VII,
19.23/E.09.29)。「それならば」(ibid.)、「我々が目を開くこと」(1.F103:AT.VII,19.24/E.09.30)も、
「手を伸ばすこと」(1.F105:AT.VII,19.24/E.10.01)も、真ではないはずだし、我々がもっている「全身」は「このような」もの
では「ない」(1.F107:AT.VII,19.25-26/E.10.02)はずなのだが、それでは「まだ充足させてくれない」(1.K101:
AT.VII,22.03/E.12.27)。というのも、「このことに向かって」(ibid.)「思い起こすように頓着されるべき」なのは「私」だ
(1.K102:AT.VII,22.03-04/E.12.27-28)からである。そうでもしないと、「私がそれら」の意見に「同意したり信頼したり
するという習慣から抜けだす」ことは「一度もない」だろう(1.K106:AT.VII,22.07-08/E.13.02-03)。しかしこれは「きわ
めて蓋然的」(1.K110:AT.VII,22.10/E.13.06)なことである。すなわち、「意志」が「全く反対に向き変わって」
(1.K203:AT.VII,22.13/E.13.09-10)いる場合、その意志でもってすれば、「邪まな習慣」のせいで「私の判断」が「歪め」ら
れて正しく「事物」を「知得」できない、といったことは、「もはやない」はずだ(1.K207:AT.VII,22.16-18/E.13.13-
15)。このようにして「私が掛かりきっている」諸々の事物は、「もっぱら認識されるべき」ものとなる(1.K304:AT.VII,22.21-
22/E.13.19-20)。次に「私が想定しようとする」のは、「最善の神ではなく」て(1.L101:AT.VII,22.23/E.13.20-
21)、「或るけちな守護霊」(1.L103:AT.VII,22.24/E.13.22)である。すると「天空、空気、大地、色、形状、音を私は考える
だろう」が(1.L201:AT.VII,22.26-27/E.13.25-26)、いくら「私が私自身を考察」したところで、「あたかも手をもってい
ない者のごとく、目をもたない」者のごとく、「肉をもたない」者のごとく、「血をもたない」者のごとく、「何ら感覚をもたない」者のごとくであろう
(1.L204:AT.VII,22.29-23.03/E.13.28-14.01)。このように、「何らかの真なるものを認識すること」については
「私」が「有能」では「ない」場合がある(1.L302:AT.VII,23.04-06/E.14.04-05)。のみならず「そうした」守護霊で「な
く」ても、誰かしら「ひっかける者が、私に何らかのものを」(1.L305:AT.VII,23.07/E.14.06-07)「押しつけることができる
かもしれない」(1.L308:AT.VII,23.08/E.14.08)。
もちろん「このこと」を「企てて暮らす
institutum」のは「苦労する」(1.L401:AT.VII,23.09-10/E.14.09-10)。というのも、「自分は眠っている」の
ではないか、と「不審がりはじめる場合」、「のちに」なって(1.L503:AT.VII,23.12-13/E.14.13-14)「醒めるのを恐れ
る」のが「私」だ(1.L602:AT.VII,23.15/E.14.16-17)からである。「今、提起された困難という闇」は「解きがたい」ものだ
が、その「あいだで」(1.L605:AT.VII,23.17-18/E.14.18-20)「今後は過ごされるべきであろう」(1.L606:
AT.VII,23.18/E.14.20)。
arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),May 13,2007.
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
...(頁、行)
E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
...(頁、行)
cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
...(1=「第一省察」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)
The 2nd Solid of 《AiJBf2GHCDEFKL》
(§302:危険も過誤もない場合)
for Going Straight in Straits
[1.A101-A103-A105-A201-A203-A301-A303-A402-A404] [1.i101-i102-i105-i203-i207-i304-i403-i406]
[1.J101-J102-J202-J205-J209-J302-J305-J309]
[1.B101-B201-B204-B302-B305-B306][1.f201-f401-f404-f502-f601-f604-f607]
[1.G101-G301-G403][1.H101-H103-H201-H205-H304]
[1.C101-C102-C201-D101-D103-D204-D301-D305-D309-D312-D403]
[1.E101-E104-E201-E205-E301-E401-E405-F104-F107]
[1.K101-K103-K105-K107-K109-K111-K202-K204-K206-K301-K303]
[1.L101-L104-L106-L202-L204-L301-L304-L306-L309-L402-L502-L504-L601-L603-L606]
「すでに数年前に」「私が気づいた」ところによれば、ひじょうに「多くのものを」(1.A101:AT.VII,
17.02/E.07.10-11)、「偽」であるにも拘わらず「真なる」ものとして「受け容れてきた」のは「私」だ(1.A103:AT.VII,
17.03/E.07.12)。ただ、「元からすべてを打倒すること」には、「一生に一度」の(1.A105:AT.VII,17.04-
05/E.07.14-15)「壮大さ」を「要する、と私には思われた」(1.A201:AT.VII,17.08/E.07.18-19)。ところで
「そのように」試練に取り組めるくらいに年頃が「成熟している」(1.A203:AT.VII,17.09/E.07.20)以上、もし「私が長い間延期
してきた」ならば「後々」咎められることになるのは「私」だ(1.A301:AT.VII,17.10-11/E.07.21-23)。また、「慎重にな
りながら」ではあったものの、「私の消費する」(1.A303:AT.VII,17.12-13/E.07.24)「暇」は「安泰」だったのだが、それ
は、「私が私に気配りしてきた」(1.A402:AT.VII,18.01/E.07.25-08.01)からである。そこで「ついに」「私が」「本気で
自由に」「没頭するつもり」になれば、「私の諸々の意見」は「全般的に打倒」されて「このように」なるはずだ(1.A404:AT.VII,18.02-
03/E.08.02-03)。
まず、「私の精神に」「古くから」「こびりついてしまっている」「或る意見」(1.i101:AT.VII,21.01
-02/E.11.17-19)によれば、「存在している」「神が」「何でもできる」(1.i102:AT.VII,21.02/E.11.19)せい
で、「創造された」ほうの「私」は(1.i105:AT.VII,21.03/E.11.20)いつも欺かれて誤るのだという。なるほど、「延長した事物
が何もない」(1.i203:AT.VII,21.04-05/E.11.22)にも拘わらず、「今」の「私」には、「これら」の事物の「すべてが実在し
ている」と「思われる」ようだし(1.i207:AT.VII,21.06-07/E.11.24-25)、「何か他のものが仮想されること」も「比較的
容易」に「できる」(1.i304:AT.VII,21.10-11/E.11.29-30)ようだが、「このことは」「もし」かしたら「善なる」「神」
に「矛盾しているかもしれない」(1.i403:AT.VII,21.12-13/E.12.02-03)。しかし時々欺かれて誤る「私」を容赦している
のは神なのだから、「最終的には」神が善であることに縁遠いと「云われることはできない」(1.i406:AT.VII,21.15-
16/E.12.05-06)はずだ。にも拘わらず、「それほど」に「有能な何らかの神を否定する」人々が「いるらしい」(1.J101:AT.VII,
21.17-18/E.12.06-08)。そのように「選り好む」人々は「おそらく少なくない」(ibid.:AT.VII,21.17-
18/E.12.07-08)だろうが、「他の事物のすべてを不確かだと信ずる」(1.J102:AT.VII,21.18-19/E.12.08-
09)「我々は、神についてのこのこと全体を虚構的なものだ、と仮定しておこう」(1.J202:AT.VII,21.19-20/E.12.10-
11)。また、「事物の連続的な組なり列なり」のせいで(1.J205:AT.VII,21.21/E.12.11-12)、あるいは彼らが割り当てよう
とするところによると、「私」の起源の創作者があまり有能でないせいで、「私」が「不完全である」から、「いつも欺かれて誤る」のが「私」なのだというけ
れども、このことは「比較的蓋然的であろう」(1.J209:AT.VII,21.25-26/E.12.16-18)。「結局」、「旧来真なるものと私
の考えていたもののうちに」は、「私が認容するのを余儀なくされる」ものは「何もない」(1.J302:AT.VII,21.27-28/E.12.19
-20)。「強かに省みられた理由に近づいて」(1.J305:AT.VII,21.30/E.12.22-23)、「何か確かなものを私は発見したい」
(1.J309:AT.VII,22.01-02/E.12.26)のであって、そのような認容は「このためには必要にならない」(1.B101:
AT.VII,18.04/E.08.03-04)ことである。なぜなら「今すでに理性が説得している」(1.B201:AT.VII,
18.06/E.08.06-07)ところによれば、それは「私」の意見の「すべてを突っぱねるためには充分であろう」(1.B204:AT.VII,
18.08-09/E.08.10)が、「それは」また「果てしない作業」だからである(1.B302:AT.VII,18.11/E.08.13)。し
たがって「私は、ただちに原理そのものに着手するつもりだ」(1.B305:AT.VII,18.13/E.08.15-16)。
さて、その原理には、「旧来私の信じてきたものすべてが依拠していた」(1.B306:AT.VII,18.13-
14/E.08.16-17)。第一に「認容されるべき」なのは、「休息をとおして見られたものが、ちょうど或る種の画像 pictas
imagines のようである」、ということだ(1.f201:AT.VII,19.26-27/E.10.03-04)。「実際に
profecto」(ibid.:AT.VII,19.26/E.10.03)「そのとおり」なのであって、なるほど「画家たち自身」(1.f401:
AT.VII,19.31/E.10.09)にとって「新しい本性」ならば「どの部分から」でも「割り当て」て「それら」の生物をきわめてただならぬ姿な
り形なりにすることが「できる」(1.f404:AT.VII,20.02-03/E.10.12-13)けれども、「およそ」そうした生物に「類似した
ものは何ら見られたことがない」はずなのであって(1.f502:AT.VII,20.05-06/E.10.15-16)、それと「理由」が「似つかな
くもない」(1.f601:AT.VII,20.08/E.10.19)。「こうした」像の「すべて」は、「あたかも色のごとく」比較的単純で普遍的なも
のから、つまり「そうした真なる」ものから(1.f604:AT.VII,20.12/E.10.24-25)「作りだされて」、「事物の像」となってい
る(1.f607:AT.VII,20.14/E.10.26-27)。ところで「こういう種類に」属すると「思われる」のは、「物体」なり身体なりとし
て「自然」で本性的たること「一般」(1.G101:AT.VII,20.15-16/E.10.27-28)、「さらには」その延長した諸々の事物の
「量」(1.G301:AT.VII,20.17/E.10.30)、「およびそれに類するもの」(1.G403:AT.VII,
20.19/E.11.02)である。
そうすると「我々は」「このことから、たぶん」次のように「結論するのだろう」が、それも「悪くない」(1.H101:
AT.VII,20.20/E.11.02-04)。すなわち「‘自然学'、‘天文学'、‘医学’および他の諸々の学科なり訓練なり」の「すべて」
(ibid.:AT.VII,20.21-22/E.11.04-05)は「いかにも疑わしい」(1.H103:AT.VII,
20.23/E.11.07)が、「‘数論'、‘幾何学'」およびその他のようなもの(1.H201:AT.VII,20.23-24/E.11.07-
08)は、「何かしら確かで疑われようのないことを含んでいる」(1.H205:AT.VII,20.27/E.11.11-12)、と結論されるはず
だ。なるほど、「それほど」までに「真理」が「明るく澄みきっている」ならば、「虚偽」かもしれないといった「不審」へと「流れ込むようなことは、生じえ
ないと思われる」(1.H304:AT.VII,20.30-31/E.11.15-17)、といったようにして、「思うに、どれも皆、私はとりわけ真な
るものとして受け容れてきた」(1.C101:AT.VII,18.15/E.08.17-18)のだが、そのようななかで、「諸々の感覚から」
(1.C102:AT.VII,18.16/E.08.18)「時々」欺かれるのを、「私は思い知らされたことがあった」(1.C201:AT.VII,
18.16-17/E.08.19-20)。このように、「諸感覚が時々、我々を欺く」のは、「何か微小なものや比較的隔たったものをめぐって」なので
あって(1.D101:AT.VII,18.19-20/E.08.22-24)、他方で、同じく諸感覚から「汲み出される」(1.D103:
AT.VII,18.21-22/E.08.25-26)ところによれば、「この紙を手で触れている」(1.D204:AT.VII,18.23-
24/E.08.28-29)際の、「これらの手そのもの」は「実に」(1.D301:AT.VII,18.24/E.08.29)「私」のものである。
ところが、はたして「胆汁」が「黒い」せいなのかどうかはともかく、落胆して狂気に陥ると、人々の「脳なんてもの
cerebella」は「とてもしぶとい蒸気」で「ぐらついてしまう」(1.D305:AT.VII,19.01-02/E.09.02-03)。こうし
た人々にとっては、「裸」とは(1.D309:AT.VII,19.03-04/E.09.06)、融けた「ビードロ」を吹いてできあがった
(1.D312:AT.VII,19.05/E.09.07-08)ものとなる。そこで「私はそういう例を、彼らから私に転じてみた」(1.D403:
AT.VII,19.06-07/E.09.09-10)ところ、「素晴らしい」ことに「そのとおり」であった(1.E101:AT.VII,
19.08/E.09.10)。なるほど「私」のたいてい偲ぶものが「比較的真もどき」であることが「時々」ある(1.E104:AT.VII,
19.09-10/E.09.12-13)。「普段のそうしたこと」を「いかに頻繁に」(1.E201:AT.VII,19.11/E.09.14-
15)「夜の休息が信じ込ませることか」(1.E205:AT.VII,19.12/E.09.16)。「今」「この紙片に目を凝らす」「私が」「目覚め
ている」のは「確か」なのだが(1.E301:AT.VII,19.13-14/E.09.17-19)、「別のときには、それに類する思惟によってでさ
えも騙されたことがある」(1.E401:AT.VII,19.17-19/E.09.22-24)。あのときは「私が睡眠中」(ibid.:
AT.19.18-19/E.09.23-24)だったこともあって、「あたかも」それを「さっぱり思い起こさないかのよう」(ibid.:
AT.19.17-18/E.09.22-23)であった。ところが「このこと自身」で「私」は「ほとんど茫然自失」した(1.E405:AT.VII,
19.21-22/E.09.27-28)。
この茫然自失によって「裏づけ」られるところによれば、かの「意見」は「睡眠」中のものであって(ibid.:
AT.19.22/E.09.28)、「頭を動かすこと」(1.F104:AT.VII,19.24/E.09.30)も真ではないはずだし、我々がもっ
ている「全身」も「このような」ものでは「ない」(1.F107:AT.VII,19.25-26/E.10.02)はずなのだが、それでは「まだ充足さ
せてくれない」(1.K101:AT.VII,22.03/E.12.27)。というのも、「このことに向かった」(ibid.)とたんに「絶えず駆け
戻ってくる」「諸々の意見」が「習慣づけられてしまって」(1.K103:AT.VII,22.04-05/E.12.28-29)いるということは、
「ほとんど私の意に反してさえも」(1.K105:AT.VII,22.06-07/E.13.01-02)いるからである。しかし「私が想定するかぎり
では、実際にそのようなものである」(1.K107:AT.VII,22.08-09/E.13.03-04)。すなわち、「たった今指し示されたよう
に」(1.K109:AT.VII,22.09-10/E.13.05-06)、「それら」の意見を「信じることのほうが否定することよりもかなり理にか
なっている」ところが「大きい」はずだ(1.K111:AT.VII,22.11-12/E.13.07-08)。となれば、「私が行動する」ぶんには
「悪くない」だろう(1.K202:AT.VII,22.12-13/E.13.09)。そこでまず「私は私自身を欺く」(1.K204:AT.VII,
22.13-14/E.13.10)ことにした。すると「ついに、予断 praejudiciorum
の重さ」が「両側でちょうど均等になった」(1.K206:AT.VII,22.15-16/E.13.12-13)。そういえば「私が知っている」とこ
ろによると、「その際に危険もしくは過誤が」そうした予断から「随伴したり帰結したり」することは「全然なかった」(1.K301:AT.VII,
22.18-19/E.13.15-17)。となると、「今」の「私」が掛かりきっているのは、「諸々の事物」が「行動されるべき」か、ということでは
「ない」(1.K303:AT.VII,22.20-21/E.13.18-19)のだ。次に、「私は最善の神を想定しないことにする」(1.L101:
AT.VII,22.23/E.13.20-21)。或るけちな守護霊は「有能で巧みな」ところは「至上」なもので(1.L104:AT.VII,
22.24-25/E.13.22-23)、どうやら「私を欺いていたよう」だ(1.L106:AT.VII,22.26/E.13.24-25)。もし
「外部のものの一切が、諸々の夢という愚弄にほかならない」(1.L202:AT.VII,22.27-28/E.13.26-27)のであれば、「私が
私自身を考察」したところで、「あたかも手をもっていない者のごとく、目をもたない」者のごとく、「肉をもたない」者のごとく、「血をもたない」者のごと
く、「何ら感覚をもたない」者のごとくであろう(1.L204:AT.VII,22.29-23.03/E.13.28-14.01)。よって「私は、こ
の省察のなかに落ち着いて立ちはだかって留まることにする」(1.L301:AT.VII,23.04/E.14.02-03)。「偽なるものには、私は
同意しないつもりだ」(1.L304:AT.VII,23.06-07/E.14.06)。「私」をひっかける者が「いかに有能で」も(1.L306:
AT.VII,23.07-08/E.14.07)、「私は牢固たる精神でもって用心しよう」(1.L309:AT.VII,23.08-
09/E.14.08-09)。そうでもしないと、「或る種の怠惰なり不精なり」で引き戻された「生活」へと「私」は「習慣」づけられてしまう
(1.L402:AT.VII,23.10-11/E.14.10-11)。囚われた人は、「想い描かれただけの自由で楽しんでいた」のが「おそらく睡眠
中」(1.L502:AT.VII,23.11-12/E.14.12-13)だったから、「起こされるのを怖がっている」(1.L504:
AT.VII,23.13/E.14.14)のであって、「そのとおりに」すると、「私はおのずと古くからの諸々の意見のなかへと退く」(1.L601:
AT.VII,23.14-15/E.14.15-16)ことになる。「穏やかな休息に継続する」「覚醒」で「苦労しないように」(1.L603:
AT.VII,23.15-16/E.14.17-18)、「今後は過ごされるべきだろう」(1.L606:AT.VII,
23.18/E.14.20)。
arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),May 13,2007.
David RITZ 1998:
David RITZ (解説),
Marvin Gaye 《Midnight Love&the Sexual Healing Sessions》[CS-8817~8]所収、
Sony Music Entertainment, 1982/1998.
I'm afraid of
what will happen to me
back in Los Angeles.
--Marvin Gaye
(cited from David RITZ 1998, p.13)
Notes.
* I'm afraid of what will happen to me ...:
1982年秋、ベルギーを発つ直前のデイヴィッド・リッツにマーヴィン・ゲイが云った言葉。この時期には、〈Sexual
Healing〉という曲の反響がアメリカで起こっていたので、マーヴィンがアメリカに戻れば歓迎されるはずなのだが、ロサンゼルスはマーヴィンの家族が
ワシントンDCから越してきた地であり、マーヴィンは家族がらみのトラブルも被ることになってしまう。曰く、「ロサンゼルスに戻って自分の身に何が起こる
か考えると不安になるんだ」(藤林 初枝 訳、p.34:Marvin Gaye 《Midnight Love&the Sexual
Healing Sessions》[CS-8817~8]所収、Sony Music Entertainment, 1982/1998)。
*****
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
...(頁、行)
E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
...(頁、行)
cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
...(1=「第一省察」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)
「諸々のもの」が「呼び戻され」て疑われうるということについて
(1.Z000:AT.VII,17.01/E.07.08-09)
The Solid of 《AiJBf2GHCDEFKL》
(§301:信じられたり疑われたりする意見)
for Going Straight in Straits
[1.A101-A102-A106-A202-A301-A401-A404][1.i101-i104-i201-i205-i302-i401-i405-i406]
[1.J101-J202-J204-J206-J208-J301-J303-J306-J308]
[1.B101-B103-B202-B204-B301-B304-B306][1.f202-f302-f403-f405-f504-f602-f606-f607]
[1.G101-G102-G302-G402-G403][1.H101-H103-H202-H204-H301-H303]
[1.C101-C202-D201-D203-D205-D302-D304-D306-D308-D310-D312-D402]
[1.E101-E102-E105-E203-E206-E303-E403-F102-F106-F107]
[1.K101-K104-K108-K201-K205-K302]
[1.L101-L102-L105-L203-L205-L303-L307-L501-L505-L604-L606]
「すでに数年前に」「私が気づいた」のは、ひじょうに「多くのもの」(1.A101:AT.VII,
17.02/E.07.10-11)について、「幼少の頃」(1.A102:AT.VII,17.03/E.07.11-12)の「最初の土台から新規に
開始すること」(1.A106:AT.VII,17.06/E.07.15-16)である。ところで、それができるくらいに成熟した「年頃を期待してい
た」のが「私」である以上(1.A202:AT.VII,17.08-09/E.07.19)、もし「長い間私が延期してきた」場合に「後々」咎められる
ことになるのは「私」(1.A301:AT.VII,17.10-11/E.07.21-23)なのだが、「機会よく、きょう」「私」の「精神」は「すべ
ての心配から」解放されてしまった(1.A401:AT.VII,17.13-18.01/E.07.24-25)ので、「ついに」「私は」「本気で自由
に」「没頭するつもり」だし、そうなれば、「私の諸々の意見」は「全般的に打倒」されて「このように」なるはずだ(1.A404:AT.VII,
18.02-03/E.08.02-03)。
まず、「私の精神に」「古くから」「こびりついてしまっている」「或る意見」(1.i101:AT.VII,21.01
-02/E.11.17-19)によれば、「私」はまさに「このとおりのもの」として「実在している」(1.i104:AT.VII,
21.03/E.11.20)という。また、「私がどこから」か「知る」ところによると、「神がもたらさなかった」ならば「大地は全然存在しないよう」だ
し(1.i201:AT.VII,21.03-04/E.11.20-22)、「大きさも何もない」(1.i205:AT.VII,
21.05/E.11.23)ようだが、「私」のほうこそ、「2と3とを加えて」「一緒に」するたびに「欺かれて誤るよう」(1.i302:
AT.VII,21.09-10/E.11.28-29)なのだ。しかし「そのようにして私がひっかかることを、おそらく神は望まなかった」だろう
(1.i401:AT.VII,21.11-12/E.11.30-12.01)。何しろ、「時々欺かれて誤るような」「私」を「容赦する」のは神なのだ
から、たとえ神が善であることに「縁遠いと思われている」(1.i405:AT.VII,21.14-15/E.12.04-05)にせよ、このことは
「最終的には云われえない」(1.i406:AT.VII,21.15-16/E.12.05-06)はずだ。にも拘わらず、「それほど」に「有能な何ら
かの神を否定する」人々が「いるらしい」(1.J101:AT.VII,21.17-18/E.12.06-08)。そのように「選り好む」人々は「おそ
らく少なくない」(ibid.:AT.VII,21.17-18/E.12.07-08)だろうが、「我々は、神についてのこのこと全体を虚構的なもの
だ、と仮定しておこう」(1.J202:AT.VII,21.19-20/E.12.10-11)。また「偶然によってであれ」(1.J204:
AT.VII,21.21/E.12.11)「他のいずれの仕方であれ」、「それなりに」「通り抜けてきた」のが「私」だ、と「彼らは想定しているらし
い」(1.J206:AT.VII,21.21-22/E.12.12-13)。しかも「彼らが割り当てようとする」ところによれば、「私の起源の創作
者」は「あまり有能ではない」(1.J208:AT.VII,21.24-25/E.12.15-16)ようだ。しかし、「その議論に対しては固より私は
答えようがない」(1.J301:AT.VII,21.26-27/E.12.18-19)。旧来真なるものと「私」が考えていた諸々のものについて、も
し「疑うことが許されない」(1.J303:AT.VII,21.28-29/E.12.20-21)ならば、「同じそれら」のものに対しても
(1.J306:AT.VII,21.30-31/E.12.23-24)「精確に」応ずるよう、「引き続き」「同意」せずに「保留」すべきなのであって
(1.J308:AT.VII,22.01/E.12.25-26)、そうした議論に答えるのは「このためには必要にならない」(1.B101:
AT.VII,18.04/E.08.03-04)ことである。なぜなら「おそらく、私がそれを達成することは、まずない」(1.B103:
AT.VII,18.05/E.08.05-06)だろうからである。したがって「確かで疑われえない」ことが「全面的」では「ない」ようなものに対して
「精確に」(1.B202:AT.VII,18.06-07/E.08.07-08)応じさえすれば、「充分」に「私」の意見の「すべてを突っぱねる」こ
とができるだろう(1.B204:AT.VII,18.08-09/E.08.10)。となれば、それらの意見を「一つ一つ」「走査することさえも」しな
くて構わないだろう(1.B301:AT.VII,18.10-11/E.08.12)。土台のうえに「建てられたもの」は「どれも皆、おのずと崩れ落ち
る」(1.B304:AT.VII,18.12-13/E.08.14-15)のだ。
さて、その土台とも云うべき原理そのものに「依拠していた」のは、「旧来私の信じてきたものすべて」であった
(1.B306:AT.VII,18.13-14/E.08.16-17)。第一に、休息をとおして見られた、あの画像のようなものは、「もし真なる事
物」に「類似」させられていなければ「仮想されることはできなかった」(1.f202:AT.VII,19.27-28/E.10.05-06)のだか
ら、「或る種」「想い描かれた」だけの「事物」(1.f302:AT.VII,19.30/E.10.08)にすぎない。「セイレーンやサテュロス」と
いった、人間の半身に別の動物の半身を接いだような「きわめてただならぬ姿なり形なり
forma」をした生物を「仮想する」べく画家たちが「励む場合」(1.f403:AT.VII,20.01-02/E.10.10-11)も、「ただ単
に異なった動物の肢体を混合している」にすぎない(1.f405:AT.VII,20.03-04/E.10.13-14)のであって、「少なくとも色は
真なるものでなければならない」ということは「確か」だ(1.f504:AT.VII,20.06-07/E.10.17-18)。第二に、「目、頭、手
およびそれに類するものといった、こうした一般的なものさえもが、想い描かれた」だけのもので「ありうる」(1.f602:AT.VII,20.08-
10/E.10.19-21)のだが、それは、「我々の思惟のなかにある」「それら」のものが(1.f606:AT.VII,20.13/E.10.25
-26)「事物の像」として「作りだされている」からである(1.f607:AT.VII,20.14/E.10.26-27)。ところで「こういう種類
に」属すると「思われる」のは、「物体」なり身体なりとして「自然」で本性的たること「一般」(1.G101:AT.VII,20.15-
16/E.10.27-28)、「およびその延長」(1.G102:AT.VII,20.16/E.10.28-29)、そして延長した諸々の事物の「大
きさと数」(1.G302:AT.VII,20.17-18/E.10.10.30-11.01)だが、これらの事物は「持続するかもしれない」
(1.G402:AT.VII,20.18-19/E.11.01-02)。そうであれば、延長したこれらの事物が持続する「時間」(ibid.:
AT.VII,20.18/E.11.01-02)「およびそれに類するもの」(1.G403:AT.VII,20.19/E.11.02)も、ここに属
すると思われる。そうすると「我々は」「このことから、たぶん」次のように「結論するのだろう」が、それも「悪くない」(1.H101:AT.VII,
20.20/E.11.02-04)。すなわち、「‘自然学'、‘天文学'、‘医学’および他の諸々の学科なり訓練なり」の「すべて」(ibid.:
AT.VII,20.21-22/E.11.04-05)は、「いかにも疑わしいのだ」(1.H103:AT.VII,20.23/E.11.07)が、
それは、「ひじょうに単純できわめて一般的な事物についてでなければ取り扱わない」(1.H202:AT.VII,20.24-25/E.11.08-
10)ということに「あまり頓着しない」(1.H204:AT.VII,20.26-27/E.11.11)からである、と結論されるはずだ。なるほど、
たとえば「私が目覚めていようと眠っていようと」(1.H301:AT.VII,20.27-28/E.11.12-13)、「四角形」の「もっている
辺」は「4つ以上」では「ない」(1.H303:AT.VII,20.29-30/E.11.14-15)といったようにして、「思うに、どれも皆、私は
とりわけ真なるものとして受け容れてきた」(1.C101:AT.VII,18.15/E.08.17-18)のだが、それらのうちで「我々を一度でも惑
わしたことのあるもの」は、「決して全面的に信頼しないのが賢明である」(1.C202:AT.VII,18.17-18/E.08.20-22)。
但し、「今ここにいる」「私」(1.D201:AT.VII,18.22/E.08.26-27)が「冬の衣を纏ってい
ること」(1.D203:AT.VII,18.23/E.08.27-28)、「およびそれに類する」ような諸々のこと(1.D205:AT.VII,
18.24/E.08.29)、要するに「この全身が私のものであること」(1.D302:AT.VII,18.24-25/E.08.29-30)を
「私が知らない」(1.D304:AT.VII,18.26/E.09.02)のは、「ひょっとして」「私が」みずからを「誰かに比喩」しているせいで
「狂気」になっている(ibid.:AT.18.26/E.09.01-02)からかもしれない。それもそのはず、「いつまでも云い張る」ところによれ
ば、「自分は国王であり」(1.D306:AT.VII,19.02/E.09.04)、「紫衣で纏われていて」(1.D308:AT.VII,
19.03/E.09.05)、「もっている」「頭」は「粘土製」(1.D310:AT.VII,19.04/E.09.06)で、みずからの全身は融け
た「ビードロ」を吹いてできあがった(1.D312:AT.VII,19.05/E.09.07-08)、というのだから、「私自身が精神を喪失している
と思われていた」(1.D402:AT.VII,19.06/E.09.08-09)ようなのだが、「素晴らしい」ことに「そのとおり」であった
(1.E101:AT.VII,19.08/E.09.10)。なるほど「私は、あたかも眠るのがたいてい夜ではない人間であるかのように」
(1.E102:AT.VII,19.08-09/E.09.10-11)、それこそ、ちょうど「そうした人々が目覚めているとき」のように
(1.E105:AT.VII,19.10-11/E.09.13-14)、「衣服を着ている」(1.E203:AT.VII,
19.12/E.09.15)と信じ込んだままであるが、「私が伏せている」「寝床のなか」は「着物」の位置から離れている(1.E206:
AT.VII,19.13/E.09.16-17)。にも拘わらず他方で「私」は「こうした手を伸ばしたり感覚したり」するのを「察しながらも知って
prudens &
sciens」いる(1.E303:AT.VII,19.15-16/E.09.20-21)。「私に判る」ことは「それほどに平たい」のだ
(1.E403:AT.VII,19.20/E.09.25)。すなわち、「覚醒」が「睡眠から」「確実」に「区別されることができる」のは「決して」
「標示による」のでは「ない」(ibid.:AT.19.20-21/E.09.25-27)。
もし「そうした個別的なものが真ではないとすれば」(1.F102:AT.VII,19.23/E.09.29-
30)、「おそらく我々がもっている」「手さえも」「このような」ものでは「ない」(1.F106:AT.VII,19.25/E.10.01-02)は
ずだし、「全身」も「このような」ものでは「ない」(1.F107:AT.VII,19.25-26/E.10.02)はずなのだが、それでは「まだ充足
させてくれない」(1.K101:AT.VII,22.03/E.12.27)。というのも、いくら「このことに向かった」(ibid.)ところで、「あ
たかも長く使用」されたか親しくなって「権利」を得たかのようにして習慣づけられた諸々の意見が、「互いに絡みあって」「占拠する」と、「私」は「軽信」
してしまう(1.K104:AT.VII,22.05-06/E.12.29-13.01)からである。そこでまず「或る何らかの仕方で疑わしい」
(1.K108:AT.VII,22.09/E.13.04-05)、と「意見するように」なった「私」は(1.K201:AT.VII,
22.12/E.13.08-09)、習慣づけられた「それら」の意見を「しばらくはすべて偽なるものであり想い描かれただけのものである、と仮想するつ
もりだ」(1.K205:AT.VII,22.14-15/E.13.10-12)。そうすれば、いくら「私を不信に譲って」も「私が」その不信を「募ら
せすぎることはありえない」(1.K302:AT.VII,22.19-20/E.13.17-18)。次に、「私は神を想定しないことにする」
(1.L101:AT.VII,22.23/E.13.20-21)。そのかわりに、「最善で」(ibid.:AT.VII,
22.23/E.13.21)「真理たることの源泉」(1.L102:AT.VII,22.23-24/E.13.21)のなかに「位置づけた」ものの
「すべて」を、「勤め」てくれたのは、守護霊である(1.L105:AT.VII,22.25-26/E.13.23-24)。その守護霊が諸々の夢で
もって「罠を張った」せいで「軽信」した「私」は(1.L203:AT.VII,22.29/E.13.27-28)、手や目や肉や血や感覚といった「こ
れらのすべてを私がもっている、と意見している」のだが、その意見が「偽で」あれ(1.L205:AT.VII,23.03/E.14.01-02)、
「このことが私のなかに在る」のは「確か」なのであって(1.L303:AT.VII,23.06/E.14.05-06)、「私」をひっかける者が「い
かに巧みで」も(1.L307:AT.VII,23.08/E.14.08)それは「異なることがない」(1.L501:AT.VII,
23.11/E.14.11)。「囚われた人」(ibid.:AT.VII,23.11/E.14.12)は「目を閉じて」「悦ばしい諸々の幻想でのんび
り」している(1.L505:AT.VII,23.13-14/E.14.14-15)けれども、「何ら光のないなかで」(1.L604:AT.VII,
23.16/E.14.18)「今後は過ごされるべきであろう」(1.L606:AT.VII,23.18/E.14.20)。
arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),May 13,2007.
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
...(頁、行)
E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
...(頁、行)
cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
...(1=「第一省察」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)
§203 Surface of 《CDEFKL》
for Going Straight in Straits
(1) The 1st surface of 《CDEFKL》(いつまでも楽をしていると、後で茫然自失して怖くなる)
[1.C101-C102-C201-D101-D103-D204-D301-D305-D309-D312-D403]
[1.E101-E104-E201-E205-E301-E401-E405-F104-F107]
[1.K101-K103-K105-K107-K109-K111-K202-K204-K206-K301-K303]
[1.L101-L104-L106-L202-L204-L301-L304-L306-L309-L402-L502-L504-L601-L603-L606]
「思うに、どれも皆、私はとりわけ真なるものとして受け容れてきた」(1.C101:AT.VII,18.15/E.08.17-18)のだ
が、「諸感覚から」(1.C102:AT.VII,18.16/E.08.18)「時々」欺かれるのを、「私は思い知らされたことがあった」
(1.C201:AT.VII,18.16-17/E.08.19-20)。このように、「諸感覚が時々、我々を欺く」のは、「何か微小なものや比較的隔
たったものをめぐって」なのだが(1.D101:AT.VII,18.19-20/E.08.22-24)、他方で、同じく諸感覚から「汲み出される」
(1.D103:AT.VII,18.21-22/E.08.25-26)ところによれば、「この紙を手で触れている」(1.D204:AT.VII,
18.23-24/E.08.28-29)際の、「これらの手そのもの」は「実に」(1.D301:AT.VII,18.24/E.08.29)「私」の
ものである。ところが「胆汁」が「黒い」せいなのか、落胆して狂気に陥ると、人々の「脳なんてもの
cerebella」は「とてもしぶとい蒸気」で「ぐらついてしまう」(1.D305:AT.VII,19.01-02/E.09.02-03)。こうし
た人々にとっては、「裸」とは(1.D309:AT.VII,19.03-04/E.09.06)、融けた「ビードロ」を吹いてできあがった
(1.D312:AT.VII,19.05/E.09.07-08)ものとなる。
そこで「私はそういう例を、彼らから私に転じてみた」(1.D403:AT.VII,19.06-07/E.09.09
-10)ところ、「素晴らしい」ことに「そのとおり」であった(1.E101:AT.VII,19.08/E.09.10)。なるほど「私」のたいてい偲
ぶものが「比較的真もどき」であることが「時々」ある(1.E104:AT.VII,19.09-10/E.09.12-13)。「普段のそうしたこと」
を「いかに頻繁に」(1.E201:AT.VII,19.11/E.09.14-15)「夜の休息が信じ込ませることか」(1.E205:AT.VII,
19.12/E.09.16)。「今」「この紙片に目を凝らす」「私が」「目覚めている」のは「確か」なのだが(1.E301:AT.VII,19.13
-14/E.09.17-19)、「別のときには、それに類する思惟によってでさえも騙されたことがある」(1.E401:AT.VII,19.17-
19/E.09.22-24)。あのときは「私が睡眠中」(ibid.:AT.19.18-19/E.09.23-24)だったこともあって、「あたか
も」それを「さっぱり思い起こさないかのよう」(ibid.:AT.19.17-18/E.09.22-23)であった。ところが「このこと自身」で
「私」は「ほとんど茫然自失」した(1.E405:AT.VII,19.21-22/E.09.27-28)。この茫然自失によって「裏づけ」られるとこ
ろによれば、かの「意見」は「睡眠」中のものであって(ibid.:AT.19.22/E.09.28)、「頭を動かすこと」(1.F104:
AT.VII,19.24/E.09.30)も真ではないようだし、我々がもっている「全身」も「このような」ものでは「ない」(1.F107:
AT.VII,19.25-26/E.10.02)らしいのだが、それでは「まだ充足させてくれない」(1.K101:AT.VII,
22.03/E.12.27)。というのも、「このことに向かった」(ibid.)とたんに「絶えず駆け戻ってくる」「諸々の意見」が「習慣づけられてし
まって」(1.K103:AT.VII,22.04-05/E.12.28-29)いるということは、「ほとんど私の意に反してさえも」(1.K105:
AT.VII,22.06-07/E.13.01-02)いるからである。「私が想定するかぎりでは、実際にそのようなものである」(1.K107:
AT.VII,22.08-09/E.13.03-04)。すなわち、「たった今指し示されたように」(1.K109:AT.VII,22.09-
10/E.13.05-06)、「それら」の意見を「信じることのほうが否定することよりもかなり理にかなっている」ところが「大きい」はずだ
(1.K111:AT.VII,22.11-12/E.13.07-08)。よって、「私が行動する」ぶんには「悪くない」だろう(1.K202:
AT.VII,22.12-13/E.13.09)。
そこでまず「私は私自身を欺く」(1.K204:AT.VII,22.13-14/E.13.10)ことにした。すると
「ついに、予断の重さ」が「両側でちょうど均等になった」(1.K206:AT.VII,22.15-16/E.13.12-13)。そういえば「私が
知っている」ところによると、「その際に危険もしくは過誤が」そうした予断から「随伴したり帰結したり」することは「全然なかった」(1.K301:
AT.VII,22.18-19/E.13.15-17)。となると、「今」の「私」が掛かりきっているのは、「諸々の事物」が「行動されるべき」か、と
いうことでは「ない」(1.K303:AT.VII,22.20-21/E.13.18-19)のだ。
次に、「私は最善の神を想定しないことにする」(1.L101:AT.VII,22.23/E.13.20-21)。或
るけちな守護霊は「有能で巧みな」ところは「至上」なもので(1.L104:AT.VII,22.24-25/E.13.22-23)、どうやら「私を欺
いていたよう」だ(1.L106:AT.VII,22.26/E.13.24-25)。「外部のものの一切が、諸々の夢という愚弄にほかならない」
(1.L202:AT.VII,22.27-28/E.13.26-27)のであれば、「私が私自身を考察」したところで、「あたかも手をもっていない者
のごとく、目をもたない」者のごとく、「肉をもたない」者のごとく、「血をもたない」者のごとく、「何ら感覚をもたない」者のごとくであろう
(1.L204:AT.VII,22.29-23.03/E.13.28-14.01)。よって「私は、この省察のなかに落ち着いて立ちはだかって留まる
ことにする」(1.L301:AT.VII,23.04/E.14.02-03)。「偽なるものには、私は同意しないつもりだ」(1.L304:
AT.VII,23.06-07/E.14.06)。「私」をひっかける者が「いかに有能で」も(1.L306:AT.VII,23.07-
08/E.14.07)、「私は牢固たる精神でもって用心しよう」(1.L309:AT.VII,23.08-09/E.14.08-09)。そうでもし
ないと、「或る種の怠惰なり不精なり」で引き戻された「生活」へと「私」は「習慣」づけられてしまう(1.L402:AT.VII,23.10-
11/E.14.10-11)。囚われ人は、「想い描かれただけの自由で楽しんでいた」のが「おそらく睡眠中」(1.L502:AT.VII,23.11
-12/E.14.12-13)だったから、「起こされるのを怖がっている」(1.L504:AT.VII,23.13/E.14.14)のであって、
「そのとおりに」すると、「私はおのずと古くからの諸々の意見のなかへと退く」(1.L601:AT.VII,23.14-15/E.14.15-16)
ことになる。「穏やかな休息に継続する」「覚醒」で「苦労しないように」(1.L603:AT.VII,23.15-16/E.14.17-18)、「今
後は過ごされるべきだろう」(1.L606:AT.VII,23.18/E.14.20)。
(2) The 2nd surface of 《CDEFKL》
(眠っているうちは判明ではないものについてであれ、どう感じ取っても決して疑えないものについてであれ、認識するには意志が要る)
[1.C101-C103-C202-D102-D202-D205-D303-D307-D311-D401]
[1.E101-E103-E105-E202-E204-E302-E304-E402-E404-F101-F103-F105-F107]
[1.K101-K102-K106-K110-K203-K207-K304]
[1.L101-L103-L201-L204-L302-L305-L308-L401-L503-L602-L605-L606]
「思うに、どれも皆、私はとりわけ真なるものとして受け容れてきた」(1.C101:AT.VII,18.15/E.08.17-18)のだ
が、「諸感覚をとおして私が受け取った」(1.C103:AT.VII,18.16/E.08.19)ものであっても、「賢明」であれば「決して全面的に
は信頼しない」(1.C202:AT.VII,18.17-18/E.08.20-21)。なぜならそれらは「我々を一度でも惑わしたことがある」からな
のだ(ibid.:AT.18.18/E.08.21-22)。ところが「他の大多数」については、「疑われることは全くできない」のである
(1.D102:AT.VII,18.20-21/E.08.24-25)。たとえば「炉辺に座っていること」(1.D202:AT.VII,
18.22/E.08.27)、「およびそれに類する」諸々のこと(1.D205:AT.VII,18.24/E.08.29)は、「何の理由で否定され
ることができようか」(1.D303:AT.VII,18.25-26/E.08.30-09.01)。いくら「貧乏だ」(1.D307:AT.VII,
19.03/E.09.05)からといって、「みずから」の全身が「カボチャ」型の壷である(1.D311:AT.VII,19.04-
05/E.09.06-07)と云い張るなら、そういう人々は「正気を失っている」のだ(1.D401:AT.VII,19.05/E.09.08)が、
「素晴らしい」ことに「そのとおり」であった(1.E101:AT.VII,19.08/E.09.10)。なるほど「私」がたいてい「睡眠中に偲ぶ」も
の「すべて」を「同じく」(1.E103:AT.VII,19.09/E.09.12)「そうした人々は目覚めていながら」(1.E105:
AT.VII,19.10-11/E.09.13-14)偲ぶ。にも拘わらず他方で「私がここに居て」(1.E202:AT.VII,
19.11/E.09.15)、「炉辺に座っていて」(1.E204:AT.VII,19.12/E.09.15-16)、「私の揺らしているこの頭がま
どろんでいない」(1.E302:AT.VII,19.15/E.09.19-20)という、「これほど判明な」ことすら、「眠っている者」には「到達し
ない」(1.E304:AT.VII,19.16-17/E.09.21-22)。別のときに、この類いの諸々の思惟でさえも騙されたことがあるのは、睡
眠中の「私」だが、「このことを比較的注意深く思惟するうちに」(1.E402:AT.VII,19.19/E.09.24-25)、「唖然とする」のも
「私」だ(1.E404:AT.VII,19.21/E.09.27)。
そこでまず、「我々は夢みているとする」のが「よかろう」(1.F101:AT.VII,
19.23/E.09.29)。「それならば」(ibid.)、「我々が目を開くこと」(1.F103:AT.VII,19.24/E.09.30)も、
「手を伸ばすこと」(1.F105:AT.VII,19.24/E.10.01)も、真ではないはずだし、我々がもっている「全身」は「このような」もの
では「ない」(1.F107:AT.VII,19.25-26/E.10.02)はずだが、それでは「まだ充足させてくれない」(1.K101:
AT.VII,22.03/E.12.27)。というのも、「このことに向かって」(ibid.)「思い起こすように頓着されるべき」なのは「私」だ
(1.K102:AT.VII,22.03-04/E.12.27-28)からである。そうでもしないと、「私がそれら」の意見に「同意したり信頼したり
するという習慣から抜けだす」ことは「一度もない」だろう(1.K106:AT.VII,22.07-08/E.13.02-03)。これは「きわめて蓋
然的」(1.K110:AT.VII,22.10/E.13.06)なことなのであって、もし「意志」が「全く反対に向き変わって」(1.K203:
AT.VII,22.13/E.13.09-10)いれば、「邪まな習慣」のせいで「私の判断」が「歪め」られて正しく「事物」を「知得」できない、と
いったことは「もはやない」はずだ(1.K207:AT.VII,22.16-18/E.13.13-15)。このようにして「私が掛かりきっている」諸
々の事物は、「もっぱら認識されるべき」ものとなる(1.K304:AT.VII,22.21-22/E.13.19-20)。
次に「私が想定しようとする」のは、「最善の神ではなく」て(1.L101:AT.VII,22.23/E.13.20
-21)、「或るけちな守護霊」(1.L103:AT.VII,22.24/E.13.22)である。「天空、空気、大地、色、形状、音を私は考えるだろ
う」(1.L201:AT.VII,22.26-27/E.13.25-26)が、いくら「私が私自身を考察」したところで、「あたかも手をもっていない
者のごとく、目をもたない」者のごとく、「肉をもたない」者のごとく、「血をもたない」者のごとく、「何ら感覚をもたない」者のごとくであろう
(1.L204:AT.VII,22.29-23.03/E.13.28-14.01)。このように、「何らかの真なるものを認識すること」については
「私」が「有能」では「ない」場合がある(1.L302:AT.VII,23.04-06/E.14.04-05)。のみならず「そうした」守護霊で「な
く」ても、誰かしら「ひっかける者が、私に何らかのものを」(1.L305:AT.VII,23.07/E.14.06-07)「押しつけることができる
かもしれない」(1.L308:AT.VII,23.08/E.14.08)。
もちろん「このこと」を「企てて暮らす
institutum」のは「苦労する」(1.L401:AT.VII,23.09-10/E.14.09-10)。というのも、「自分は眠っている」の
ではないか、と「不審がりはじめる場合」、「のちに」なって(1.L503:AT.VII,23.12-13/E.14.13-14)「醒めるのを恐れ
る」のが「私」だ(1.L602:AT.VII,23.15/E.14.16-17)からである。「今、提起された困難という闇」は「解きがたい」ものだ
が、その「あいだで」(1.L605:AT.VII,23.17-18/E.14.18-20)「今後は過ごされるべきであろう」(1.L606:
AT.VII,23.18/E.14.20)。
(3) The 3rd surface of 《CDEFKL》(私が信じようと疑おうと、覚醒中の私にとっては、個別的なものが真である)
[1.C101-C202-D201-D203-D205-D302-D304-D306-D308-D310-D312-D402]
[1.E101-E102-E105-E203-E206-E303-E403-F102-F106-F107]
[1.K101-K104-K108-K201-K205-K302]
[1.L101-L102-L105-L203-L205-L303-L307-L501-L505-L604-L606]
「思うに、どれも皆、私はとりわけ真なるものとして受け容れてきた」(1.C101:AT.VII,18.15/E.08.17-18)のだ
が、それらのうちで「我々を一度でも惑わしたことのあるもの」は、「決して全面的に信頼しないのが賢明である」(1.C202:AT.VII,18.17
-18/E.08.20-22)。但し、「今ここにいる」「私」(1.D201:AT.VII,18.22/E.08.26-27)が「冬の衣を纏ってい
ること」(1.D203:AT.VII,18.23/E.08.27-28)、「およびそれに類する」ような諸々のこと(1.D205:AT.VII,
18.24/E.08.29)、要するに「この全身が私のものであること」(1.D302:AT.VII,18.24-25/E.08.29-30)を
「私が知らない」(1.D304:AT.VII,18.26/E.09.02)のは、「ひょっとして」「私が」みずからを「誰かに比喩」しているせいで
「狂気」になっている(ibid.:AT.18.26/E.09.01-02)からかもしれない。それもそのはず、「いつまでも云い張る」ところによれ
ば、「自分は国王であり」(1.D306:AT.VII,19.02/E.09.04)、「紫衣で纏われていて」(1.D308:AT.VII,
19.03/E.09.05)、「もっている」「頭」は「粘土製」(1.D310:AT.VII,19.04/E.09.06)だが、みずからの全身は融
けた「ビードロ」を吹いてできあがった(1.D312:AT.VII,19.05/E.09.07-08)、というのだから、「私自身が精神を喪失してい
ると思われていた」(1.D402:AT.VII,19.06/E.09.08-09)ようなのだが、「素晴らしい」ことに「そのとおり」であった
(1.E101:AT.VII,19.08/E.09.10)。なるほど「私は、あたかも眠るのがたいてい夜ではない人間であるかのように」
(1.E102:AT.VII,19.08-09/E.09.10-11)、それこそ、ちょうど「そうした人々が目覚めているとき」のように
(1.E105:AT.VII,19.10-11/E.09.13-14)、「衣服を着ている」(1.E203:AT.VII,
19.12/E.09.15)と信じ込んだままであるが、「私が伏せている」「寝床のなか」は「着物」の位置から離れている(1.E206:
AT.VII,19.13/E.09.16-17)。にも拘わらず他方で「私」は「こうした手を伸ばしたり感覚したり」するのを「察しながらも知って
prudens &
sciens」いる(1.E303:AT.VII,19.15-16/E.09.20-21)。「私に判る」ことは「それほどに平たい」のだ
(1.E403:AT.VII,19.20/E.09.25)。すなわち、「覚醒」が「睡眠から」「確実」に「区別されることができる」のは「決して」
「標示による」のでは「ない」(ibid.:AT.19.20-21/E.09.25-27)。
もし「そうした個別的なものが真ではないとすれば」(1.F102:AT.VII,19.23/E.09.29-
30)、「おそらく我々がもっている」「手さえも」「このような」ものでは「ない」(1.F106:AT.VII,19.25/E.10.01-02)は
ずだし、「全身」も「このような」ものでは「ない」(1.F107:AT.VII,19.25-26/E.10.02)はずなのだが、それでは「まだ充足
させてくれない」(1.K101:AT.VII,22.03/E.12.27)。というのも、いくら「このことに向かった」(ibid.)ところで、「あ
たかも長く使用」されたか親しくなって「権利」を得たかのようにして習慣づけられた諸々の意見が、「互いに絡みあって」「占拠する」と、「私」は「軽信」
してしまう(1.K104:AT.VII,22.05-06/E.12.29-13.01)からである。しかし「或る何らかの仕方で疑わしい」
(1.K108:AT.VII,22.09/E.13.04-05)、と「意見するように」なったからには、「私」は(1.K201:AT.VII,
22.12/E.13.08-09)、習慣づけられた「それら」の意見を「しばらくはすべて偽なるものであり想い描かれただけのものである、と仮想するつ
もりだ」(1.K205:AT.VII,22.14-15/E.13.10-12)。そうすれば、いくら「私を不信に譲って」も「私が」その不信を「募ら
せすぎることはありえない」(1.K302:AT.VII,22.19-20/E.13.17-18)。
そこで次に、「私は神を想定しないことにする」(1.L101:AT.VII,22.23/E.13.20-21)。そ
のかわりに、「最善で」(ibid.:AT.VII,22.23/E.13.21)「真理たることの源泉」(1.L102:AT.VII,22.23-
24/E.13.21)のなかに「位置づけた」ものの「すべて」を、守護霊が「勤め」てくれた(1.L105:AT.VII,22.25-
26/E.13.23-24)。その守護霊が諸々の夢でもって「罠を張った」せいで「軽信」した「私」は(1.L203:AT.VII,
22.29/E.13.27-28)、手や目や肉や血や感覚といった「これらのすべてを私がもっている、と意見している」のだが、その意見が「偽で」あれ
(1.L205:AT.VII,23.03/E.14.01-02)、「このことが私のなかに在る」のは「確か」なのであって(1.L303:
AT.VII,23.06/E.14.05-06)、「私」をひっかける者が「いかに巧みで」も(1.L307:AT.VII,
23.08/E.14.08)それは「異なることがない」(1.L501:AT.VII,23.11/E.14.11)。「囚われた人」(ibid.:
AT.VII,23.11/E.14.12)は「目を閉じて」「悦ばしい諸々の幻想でのんびり」している(1.L505:AT.VII,23.13-
14/E.14.14-15)けれども、「何ら光のないなかで」(1.L604:AT.VII,23.16/E.14.18)「今後は過ごされるべきであ
ろう」(1.L606:AT.VII,23.18/E.14.20)。
arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),May 09,2007.
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
...(頁、行)
E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
...(頁、行)
cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
...(1=「第一省察」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)
§202 Surface of 《Bf2GHKL》
for Going Straight in Straits
(1) The 1st surface of 《Bf2GHKL》
(延長する事物がどこでどんな形に複合されていようとも、単純で一般的なものに基づいて認識されるかぎり、たいして奇抜ではない)
[1.B101-B102-B203-B205-B303-B306]
[1.f301-f303-f402-f404-f501-f503-f505-f603-f605-f607]
[1.G101-G200-G401-G403][1.H101-H102-H203-H302]
[1.K101-K102-K106-K110-K203-K207-K304]
[1.L101-L103-L201-L204-L302-L305-L308-L401-L503-L602-L605-L606]
「しかし、このために必要にはならない」(1.B101:AT.VII,18.04/E.08.03-04)ことがある。すなわちそれは、
「私」のそれらの意見の「すべてが偽である、ということを指し示す」こと(1.B102:AT.VII,18.04-05/E.08.04-05)だろ
う。とはいえ「明らかに偽なるものに対して」は、まず「同意」せずに「保留しなければならない」(1.B203:AT.VII,18.07-
08/E.08.08-09)が、「私」はそれらの意見の「各々のうちに」「何らかの理由なり根拠なり」を「見いだし」て「疑う」ようになった
(1.B205:AT.VII,18.09-10/E.08.10-11)。
すると「掘り返された土台」(1.B303:AT.VII,18.11-12/E.08.13-14)とも云うべき原理
そのものに「依拠していた」のは、「旧来私の信じてきたものすべて」であった(1.B306:AT.VII,18.13-14/E.08.16-17)。
第一に、「目、頭、手および全身といった、こうした一般的なもの」は「少なくとも」(1.f301:AT.VII,19.29-30/E.10.06-
08)「真なる」事物として「実在する」(1.f303:AT.VII,19.30-31/E.10.08-09)。画家たちの仮想するべく励んでいるの
が、なにもセイレーンやサテュロスといった、人間の半身に別の動物の半身を接いだようなきわめてただならぬ姿なり形なりをした生物でなくても
(1.f402:AT.VII,19.31-20.01/E.10.09-10)、「それら」の生物に「割り当てることができる」「本性」の「部分ならい
ずれも」、画家たちにとっては「新しい」(1.f404:AT.VII,20.02-03/E.10.12-13)。「あるいは、もし」画家たちの「考え
だす」ものが「ひょっとして何かひじょうに新しいもの」(1.f501:AT.VII,20.04-05/E.10.14-15)であっても、また「その
ようにして」考えだされたものが「まったく虚構的で虚偽で」(1.f503:AT.VII,20.06/E.10.16-17)あっても、「それを複合す
るのは」真なる色からである(1.f505:AT.VII,20.07-08/E.10.18-19)。第二に、そうした一般的なものでない「他のもの」
は「或る種」「なおいっそう単純で普遍的な」ものであるかぎりで「真なるものであって」、このことは「少なくとも」「必然的に」「認容されるべきである」
(1.f603:AT.VII,20.10-12/E.10.21-24)。
このように「真であれ偽であれ」(1.f605:AT.VII,20.13/E.10.25)、「事物の像は」こうした
単純で普遍的なものから、つまり真なるものから、「作りだされている」のだ(1.f607:AT.VII,20.14/E.10.26-27)。ところで
「こういう種類に」属すると「思われる」のは、「物体的な本性一般」(1.G101:AT.VII,20.15-16/E.10.27-28)、「さらに
は、延長した諸々の事物の形状
figura」(1.G200:AT.VII,20.16-17/E.10.29)だが、これらの事物は「実在するかもしれない」(1.G401:
AT.VII,20.18/E.11.01)。そうであれば、延長したこれらの事物が実在する「場所」(ibid.)「およびそれに類するもの」
(1.G403:AT.VII,20.19/E.11.02)も、ここに属すると思われる。
そうすると「我々は」「このことから、たぶん」次のように「結論するのだろう」が、それも「悪くない」(1.H101:
AT.VII,20.20/E.11.02-04)。すなわち、「‘自然学'、‘天文学'、‘医学’および他の諸々の学科なり訓練なり」の「すべて」
(ibid.:AT.VII,20.21-22/E.11.04-05)は、「諸々の事物」が「複合された」ままで「考察」される、ということに「依拠し
ている」(1.H102:AT.VII,20.22-23/E.11.05-06)、と結論されるはずだ。なるほど複合されているこれらの「事物の自然な
り本性なりにおいて」は、ひじょうに単純できわめて一般的な事物が「在る」(1.H203:AT.VII,20.26/E.11.10-11)。たとえば
「足して5になった juncta esse
quinque」のは、「2と3と」を「一緒に」(1.H302:AT.VII,20.28-29/E.11.13-14)したものであるが、それでは
「まだ充足させてくれない」(1.K101:AT.VII,22.03/E.12.27)。というのも、「このことに向かって」(ibid.)「思い起こ
すように頓着されるべき」なのは「私」だ(1.K102:AT.VII,22.03-04/E.12.27-28)からである。そうでもしないと、「私が
それら」の意見に「同意したり信頼したりするという習慣から抜けだす」ことは「一度もない」だろう(1.K106:AT.VII,22.07-
08/E.13.02-03)。これは「きわめて蓋然的」(1.K110:AT.VII,22.10/E.13.06)なことなのであって、もし「意志」
が「全く反対に向き変わって」(1.K203:AT.VII,22.13/E.13.09-10)いれば、「邪まな習慣」のせいで「私の判断」が「歪め」
られて正しく「事物」を「知得」できない、といったことは「もはやない」はずだ(1.K207:AT.VII,22.16-18/E.13.13-
15)。
このようにして「私が掛かりきっている」諸々の事物は、「もっぱら認識されるべき」ものなのである(1.K304:
AT.VII,22.21-22/E.13.19-20)。そこで「私が想定しようとする」のは、「最善の神ではなく」て(1.L101:AT.VII,
22.23/E.13.20-21)、「或るけちな守護霊」(1.L103:AT.VII,22.24/E.13.22)である。なるほど「天空、空気、
大地、色、形状、音を私は考えるだろう」(1.L201:AT.VII,22.26-27/E.13.25-26)が、「私が私自身を考察」したところ
で、「あたかも手をもっていない者のごとく、目をもたない」者のごとく、「肉をもたない」者のごとく、「血をもたない」者のごとく、「何ら感覚をもたな
い」者のごとくであろう(1.L204:AT.VII,22.29-23.03/E.13.28-14.01)。このように、「何らかの真なるものを認識
すること」については「私」が「有能」では「ない」場合がある(1.L302:AT.VII,23.04-06/E.14.04-05)。のみならず「そ
うした」守護霊で「なく」ても、誰かしら「ひっかける者が、私に何らかのものを」(1.L305:AT.VII,23.07/E.14.06-07)「押
しつけることができるかもしれない」(1.L308:AT.VII,23.08/E.14.08)。もちろん「このこと」を「企てて暮らす
institutum」のは「苦労する」(1.L401:AT.VII,23.09-10/E.14.09-10)。というのも、「自分は眠っている」の
ではないか、と「不審がりはじめる場合」、「のちに」なって(1.L503:AT.VII,23.12-13/E.14.13-14)「醒めるのを恐れ
る」のが「私」だ(1.L602:AT.VII,23.15/E.14.16-17)からである。「今、提起された困難という闇」は「解きがたい」ものだ
が、その「あいだで」(1.L605:AT.VII,23.17-18/E.14.18-20)「今後は過ごされるべきであろう」(1.L606:
AT.VII,23.18/E.14.20)。
(2) The 2nd surface of 《Bf2GHKL》
(延長する事物がどんな大きさでいつまでに幾つ想い描かれようとも、単純で一般的な事物を取り扱うかぎり、私は精確に意見できる)
[1.B101-B103-B202-B204-B301-B304-B306]
[1.f202-f302-f403-f405-f504-f602-f606-f607]
[1.G101-G102-G302-G402-G403][1.H101-H103-H202-H204-H301-H303]
[1.K101-K104-K108-K201-K205-K302]
[1.L101-L102-L105-L203-L205-L303-L307-L501-L505-L604-L606]
「しかし、このために必要にならない」(1.B101:AT.VII,18.04/E.08.03-04)ことがある。「おそらく、私がそれ
を達成することは、まずない」(1.B103:AT.VII,18.05/E.08.05-06)。よって「確かで疑われえない」ことが「全面的」では
「ない」ようなものに対して「精確に」(1.B202:AT.VII,18.06-07/E.08.07-08)応じさえすれば、「充分」に「私」の意見
の「すべてを突っぱねる」ことができるだろう(1.B204:AT.VII,18.08-09/E.08.10)から、それらの意見を「一つ一つ」「走査
することさえも」しなくて構わないだろう(1.B301:AT.VII,18.10-11/E.08.12)。土台のうえに「建てられたもの」は「どれも
皆、おのずと崩れ落ちる」(1.B304:AT.VII,18.12-13/E.08.14-15)のだ。
さて、その土台とも云うべき原理そのものには、「旧来私の信じてきたものすべて」が「依拠していた」(1.B306:
AT.VII,18.13-14/E.08.16-17)。第一に、休息をとおして見られた、あの画像のようなものは、「もし真なる事物」に「類似」させ
られていなければ「仮想されることはできなかった」(1.f202:AT.VII,19.27-28/E.10.05-06)のだから、「或る種」「想い
描かれた」だけの「事物」(1.f302:AT.VII,19.30/E.10.08)にすぎない。「セイレーンやサテュロス」といった、人間の半身に別
の動物の半身を接いだような「きわめてただならぬ姿なり形なり
forma」をした生物を「仮想する」べく画家たちが「励む場合」(1.f403:AT.VII,20.01-02/E.10.10-11)も、「ただ単
に異なった動物の肢体を混合している」にすぎない(1.f405:AT.VII,20.03-04/E.10.13-14)のであって、「少なくとも色は
真なるものでなければならない」ということは「確か」だ(1.f504:AT.VII,20.06-07/E.10.17-18)。第二に、「目、頭、手
およびそれに類するものといった、こうした一般的なものさえもが、想い描かれた」だけのもので「ありうる」(1.f602:AT.VII,20.08-
10/E.10.19-21)のだが、それは、「我々の思惟のなかにある」「それら」のものが(1.f606:AT.VII,20.13/E.10.25
-26)「事物の像」として「作りだされている」からである(1.f607:AT.VII,20.14/E.10.26-27)。ところで「こういう種類
に」属すると「思われる」のは、「物体的な本性一般」(1.G101:AT.VII,20.15-16/E.10.27-28)、「およびその延長」
(1.G102:AT.VII,20.16/E.10.28-29)、そして延長した諸々の事物の「大きさと数」(1.G302:AT.VII,
20.17-18/E.10.10.30-11.01)だが、これらの事物は「持続するかもしれない」(1.G402:AT.VII,20.18-
19/E.11.01-02)。そうであれば、延長したこれらの事物が持続する「時間」(ibid.:AT.VII,20.18/E.11.01-02)
「およびそれに類するもの」(1.G403:AT.VII,20.19/E.11.02)も、ここに属すると思われる。
そうすると「我々は」「このことから、たぶん」次のように「結論するのだろう」が、それも「悪くない」(1.H101:
AT.VII,20.20/E.11.02-04)。すなわち、「‘自然学'、‘天文学'、‘医学’および他の諸々の学科なり訓練なり」の「すべて」
(ibid.:AT.VII,20.21-22/E.11.04-05)は、「なるほど疑わしいのだ」(1.H103:AT.VII,
20.23/E.11.07)が、それは、「ひじょうに単純できわめて一般的な事物についてでなければ取り扱わない」(1.H202:AT.VII,
20.24-25/E.11.08-10)ということに「あまり頓着しない」(1.H204:AT.VII,20.26-27/E.11.11)からであ
る、と結論されるはずだ。なるほど「私が目覚めていようと眠っていようと」(1.H301:AT.VII,20.27-28/E.11.12-13)、
「四角形」の「もっている辺」は「4つ以上」では「ない」(1.H303:AT.VII,20.29-30/E.11.14-15)が、それでは「まだ充
足させてくれない」(1.K101:AT.VII,22.03/E.12.27)。というのも、いくら「このことに向かった」(ibid.)ところで、
「あたかも長く使用」されたか親しくなって「権利」を得たかのようにして習慣づけられた諸々の意見が、「互いに絡みあって」「占拠する」と、「私」は「軽
信」してしまう(1.K104:AT.VII,22.05-06/E.12.29-13.01)からである。しかし「或る何らかの仕方で疑わしい」
(1.K108:AT.VII,22.09/E.13.04-05)、と「意見するように」なったからには、「私」は(1.K201:AT.VII,
22.12/E.13.08-09)、習慣づけられた「それら」の意見を「しばらくはすべて偽なるものであり想い描かれただけのものである、と仮想するつ
もりだ」(1.K205:AT.VII,22.14-15/E.13.10-12)。そうすれば、いくら「私を不信に譲って」も「私が」その不信を「募ら
せすぎることはありえない」(1.K302:AT.VII,22.19-20/E.13.17-18)。
そこで「私は神を想定しないことにする」(1.L101:AT.VII,22.23/E.13.20-21)。そのかわ
りに、「最善で」(ibid.:AT.VII,22.23/E.13.21)「真理たることの源泉」(1.L102:AT.VII,22.23-
24/E.13.21)のなかに「位置づけた」ものの「すべて」を、守護霊が「勤め」てくれた(1.L105:AT.VII,22.25-
26/E.13.23-24)。その守護霊が諸々の夢でもって「罠を張った」せいで「軽信」した「私」は(1.L203:AT.VII,
22.29/E.13.27-28)、手や目や肉や血や感覚といった「これらのすべてを私がもっている、と意見している」のだが、その意見が「偽で」あれ
(1.L205:AT.VII,23.03/E.14.01-02)、「このことが私のなかに在る」のは「確か」なのであって(1.L303:
AT.VII,23.06/E.14.05-06)、「私」をひっかける者が「いかに巧みで」も(1.L307:AT.VII,
23.08/E.14.08)、それは「異なることがない」(1.L501:AT.VII,23.11/E.14.11)。「囚われた人」(ibid.:
AT.VII,23.11/E.14.12)は「目を閉じて」「悦ばしい諸々の幻想でのんびり」している(1.L505:AT.VII,23.13-
14/E.14.14-15)けれども、「何ら光のないなかで」(1.L604:AT.VII,23.16/E.14.18)「今後は過ごされるべきであ
ろう」(1.L606:AT.VII,23.18/E.14.20)。
(3) The 3rd surface of 《Bf2GHKL》
(延長する事物に確かで疑えないことがどのくらい含まれていようとも、危険も過誤もない場合)
[1.B101-B201-B204-B302-B305-B306]
[1.f201-f401-f404-f502-f601-f604-f607]
[1.G101-G301-G403][1.H101-H103-H201-H205-H304]
[1.K101-K103-K105-K107-K109-K111-K202-K204-K206-K301-K303]
[1.L101-L104-L106-L202-L204-L301-L304-L306-L309-L402-L502-L504-L601-L603-L606]
「しかし、このために必要にならない」(1.B101:AT.VII,18.04/E.08.03-04)ことがある。「今すでに理性が説得
している」(1.B201:AT.VII,18.06/E.08.06-07)ところによれば、それは「私」の意見の「すべてを突っぱねるためには充分で
あろう」(1.B204:AT.VII,18.08-09/E.08.10)が、「それは」また「果てしない作業」でもある(1.B302:
AT.VII,18.11/E.08.13)。よって「私は、ただちに原理そのものに着手するつもりだ」(1.B305:AT.VII,
18.13/E.08.15-16)。
さて、その原理には、「旧来私の信じてきたものすべてが依拠していた」(1.B306:AT.VII,18.13-
14/E.08.16-17)。第一に「認容されるべき」なのは、「休息をとおして見られたものが、ちょうど或る種の画像 pictas
imagines のようである」、ということだ(1.f201:AT.VII,19.26-27/E.10.03-04)。「実際に
profecto」(ibid.:AT.VII,19.26/E.10.03)「そのとおり」なのであって、「画家たち自身」(1.f401:
AT.VII,19.31/E.10.09)にとって「新しい本性」ならば「どの部分から」でも「割り当て」て「それら」の生物をきわめてただならぬ姿な
り形なりにすることが「できる」(1.f404:AT.VII,20.02-03/E.10.12-13)けれども、「およそ」そうした生物に「類似した
ものは何ら見られたことがない」はずなのであって(1.f502:AT.VII,20.05-06/E.10.15-16)、それと「理由」が「似つかな
くもない」(1.f601:AT.VII,20.08/E.10.19)。「そうした」像の「すべて」は、「あたかも色のごとく」比較的単純で普遍的なも
のから、つまり「そうした真なる」ものから(1.f604:AT.VII,20.12/E.10.24-25)「作りだされて」、「事物の像」となってい
る(1.f607:AT.VII,20.14/E.10.26-27)。ところで「こういう種類に」属すると「思われる」のは、「物体的な本性一般」
(1.G101:AT.VII,20.15-16/E.10.27-28)、「さらには」その延長した諸々の事物の「量」(1.G301:AT.VII,
20.17/E.10.30)、「およびそれに類するもの」(1.G403:AT.VII,20.19/E.11.02)である。
そうすると「我々は」「このことから、たぶん」次のように「結論するのだろう」が、それも「悪くない」(1.H101:
AT.VII,20.20/E.11.02-04)。すなわち「‘自然学'、‘天文学'、‘医学’および他の諸々の学科なり訓練なり」の「すべて」
(ibid.:AT.VII,20.21-22/E.11.04-05)は「なるほど疑わしいのだ」(1.H103:AT.VII,
20.23/E.11.07)が、「‘数論'、‘幾何学'」およびその他のようなもの(1.H201:AT.VII,20.23-24/E.11.07-
08)は、「何かしら確かで疑われようのないことを含んでいる」(1.H205:AT.VII,20.27/E.11.11-12)、と結論されるはず
だ。「それほど」までに「真理」が「明るく澄みきっている」ならば、「虚偽」かもしれないといった「不審」へと「流れ込むようなことは、生じえないと思わ
れる」(1.H304:AT.VII,20.30-31/E.11.15-17)。「けれども」、それでは「まだ充足させてくれない」(1.K101:
AT.VII,22.03/E.12.27)。というのも、「このことに向かった」(ibid.)とたんに「絶えず駆け戻ってくる」「諸々の意見」は「習
慣づけられてしまって」(1.K103:AT.VII,22.04-05/E.12.28-29)いて、それこそ「ほとんど私の意に反してさえも」
(1.K105:AT.VII,22.06-07/E.13.01-02)いるからである。「私が想定するかぎりでは、実際にそのようなものである」
(1.K107:AT.VII,22.08-09/E.13.03-04)。すなわち、「たった今指し示されたように」(1.K109:AT.VII,
22.09-10/E.13.05-06)、「それら」の意見を「信じることのほうが否定することよりもかなり理にかなっている」ところが「大きい」はず
だ(1.K111:AT.VII,22.11-12/E.13.07-08)。よって、「私が行動する」ぶんには「悪くない」だろう(1.K202:
AT.VII,22.12-13/E.13.09)。そこで「私が私自身を欺く」(1.K204:AT.VII,22.13-14/E.13.10)と、
「ついに、予断の重さ」が「両側でちょうど均等になった」(1.K206:AT.VII,22.15-16/E.13.12-13)。そういえば「私が
知っている」ところによると、「その際に危険もしくは過誤が」そうした予断から「随伴したり帰結したり」することは「全然なかった」(1.K301:
AT.VII,22.18-19/E.13.15-17)。となると、「今」の「私」が掛かりきっているのは、「諸々の事物」が「行動されるべき」か、と
いうことでは「ない」(1.K303:AT.VII,22.20-21/E.13.18-19)のだ。
そこで、「私は最善の神を想定しないことにする」(1.L101:AT.VII,22.23/E.13.20-21)。
或るけちな守護霊は「有能で巧みな」ところは「至上で」(1.L104:AT.VII,22.24-25/E.13.22-23)、どうやら「私を欺いて
いたよう」だ(1.L106:AT.VII,22.26/E.13.24-25)。「外部のものの一切が、諸々の夢という愚弄にほかならない」
(1.L202:AT.VII,22.27-28/E.13.26-27)のであれば、いくら「私が私自身を考察」したところで、「あたかも手をもってい
ない者のごとく、目をもたない」者のごとく、「肉をもたない」者のごとく、「血をもたない」者のごとく、「何ら感覚をもたない」者のごとくであろう
(1.L204:AT.VII,22.29-23.03/E.13.28-14.01)。よって「私は、この省察のなかに落ち着いて立ちはだかって留まる
ことにする」(1.L301:AT.VII,23.04/E.14.02-03)。「偽なるものには、私は同意しないつもりだ」(1.L304:
AT.VII,23.06-07/E.14.06)。「私」をひっかける者が「いかに有能で」も(1.L306:AT.VII,23.07-
08/E.14.07)、「私は牢固たる精神でもって用心しよう」(1.L309:AT.VII,23.08-09/E.14.08-09)。そうでもし
ないと、「或る種の怠惰なり不精なり」で引き戻された「生活」へと「私」は「習慣」づけられてしまう(1.L402:AT.VII,23.10-
11/E.14.10-11)。囚われ人は、「想い描かれただけの自由で楽しんでいた」のが「おそらく睡眠中」(1.L502:AT.VII,23.11
-12/E.14.12-13)だったから、「起こされるのを怖がっている」(1.L504:AT.VII,23.13/E.14.14)のであって、
「そのとおりに」すると、「私はおのずと古くからの諸々の意見のなかへと退く」(1.L601:AT.VII,23.14-15/E.14.15-16)
ことになる。「穏やかな休息に継続する」「覚醒」で「苦労しないように」(1.L603:AT.VII,23.15-16/E.14.17-18)、「今
後は過ごされるべきだろう」(1.L606:AT.VII,23.18/E.14.20)。
arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),May 08,2007.
David RITZ 1998:
David RITZ (解説),
Marvin Gaye 《Midnight Love&the Sexual Healing Sessions》[CS-8817~8]所収、
Sony Music Entertainment, 1982/1998.
The Devil is winning
all over the world,
and the Devil is winning
inside of me.
--Marvin Gaye
(cited from David RITZ 1998, p.14)
Notes.
* The Devil is winning ...:
逆境にいた頃(おそらく1981年頃)のマーヴィン・ゲイがデイヴィッド・リッツに云ったところによれば、善い神と悪い神(つまり悪魔)との
うちで、今は悪魔のほうが勝っているという。「世界中で、悪魔」が「力をつけて」いて、「僕の心の中も悪魔に支配されそうなんだ」(藤林 初枝
訳、p.34: Marvin Gaye 《Midnight Love&the Sexual Healing
Sessions》[CS-8817~8]所収、Sony Music Entertainment, 1982/1998)。
*****
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
...(頁、行)
E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
...(頁、行)
cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
...(1=「第一省察」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)
「諸々のもの」が「呼び戻され」て疑われうるということについて
(1.Z000:AT.VII,17.01/E.07.08-09)
§201 Surface of《AiJKL》
for Going Straight in Straits
(1) The 1st surface of 《AiJKL》(知っているのは私なのだから、信じるのも疑うのも私の勝手だ)
[1.A101-A102-A106-A202-A301-A401-A404]
[1.i101-i104-i201-i205-i302-i401-i405-i406]
[1.J101-J202-J204-J206-J208-J301-J303-J306-J308]
[1.K101-K104-K108-K201-K205-K302]
[1.L101-L102-L105-L203-L205-L303-L307-L501-L505-L604-L606]
「すでに数年前に」「私が気づいた」のは、ひじょうに「多くのもの」(1.A101:AT.VII,17.02/E.07.10-11)につ
いて、「幼少の頃」(1.A102:AT.VII,17.03/E.07.11-12)の「最初の土台から新規に開始すること」(1.A106:
AT.VII,17.06/E.07.15-16)である。それができるくらいに成熟した「年頃を、期待していた」のが「私」である以上(1.A202:
AT.VII,17.08-09/E.07.19)、もし「長い間私が延期してきた」場合に、「後々」咎められることになるのは「私」(1.A301:
AT.VII,17.10-11/E.07.21-23)だ。ところで「機会よく、きょう」「私」の「精神」は「すべての心配から」解放されてしまった
(1.A401:AT.VII,17.13-18.01/E.07.24-25)ので、「ついに」「私が」「本気で自由に」「没頭するつもり」になれば、
「私の諸々の意見」は「全般的に打倒」されて「このように」なるはずだ(1.A404:AT.VII,18.02-03/E.08.02-03)。
さて、「私の精神に」「古くから」「こびりついてしまっている」「或る意見」(1.i101:AT.VII,21.01
-02/E.11.17-19)によれば、「私」はまさに「このとおりのもの」として「実在している」(1.i104:AT.VII,
21.03/E.11.20)という。また、「私がどこから」か「知る」ところによると、「神がもたらさなかった」ならば「大地は全然存在しないよう」だ
(1.i201:AT.VII,21.03-04/E.11.20-22)し、「大きさも何もない」(1.i205:AT.VII,
21.05/E.11.23)ようだが、「私」のほうこそ、「2と3とを加えて」「一緒に」するたびに「欺かれて誤るよう」(1.i302:
AT.VII,21.09-10/E.11.28-29)なのだ。しかし「そのようにして私がひっかかることを、おそらく神は望まなかった」だろう
(1.i401:AT.VII,21.11-12/E.11.30-12.01)。なるほど「時々欺かれて誤るような」「私」を「容赦する」のは神なのだ
から、神が善であることに「縁遠いと思われている」(1.i405:AT.VII,21.14-15/E.12.04-05)けれども、このことは「最終
的には云われえない」(1.i406:AT.VII,21.15-16/E.12.05-06)はずだ。にも拘わらず、「それほど」に「有能な何らかの神
を否定する」人々が「いるらしい」(1.J101:AT.VII,21.17-18/E.12.06-08)。そのように「選り好む」人々は「おそらく少
なくない」(ibid.:AT.VII,21.17-18/E.12.07-08)だろうが、「我々は、神についてのこのこと全体を虚構的なものだ、と仮
定しておこう」(1.J202:AT.VII,21.19-20/E.12.10-11)。また「偶然によってであれ」(1.J204:AT.VII,
21.21/E.12.11)「他のいずれの仕方であれ」、「それなりに」「通り抜けてきた」のが「私」だ、と「彼らは想定しているらしい」
(1.J206:AT.VII,21.21-22/E.12.12-13)。しかも「彼らが割り当てようとする」ところによれば、「私の起源の創作者」は
「あまり有能ではない」(1.J208:AT.VII,21.24-25/E.12.15-16)ようだ。しかし、「その議論に対しては固より私は答えよ
うがない」(1.J301:AT.VII,21.26-27/E.12.18-19)。なるほど旧来真なるものと「私」が考えていた諸々のものについて、
もし「疑うことが許されない」(1.J303:AT.VII,21.28-29/E.12.20-21)ならば、「同じそれら」のものに対しても
(1.J306:AT.VII,21.30-31/E.12.23-24)「精確に」応ずるよう、「引き続き」「同意」せずに「保留」すべきである
(1.J308:AT.VII,22.01/E.12.25-26)が、それでは「まだ充足させてくれない」(1.K101:AT.VII,
22.03/E.12.27)。というのも、いくら「このことに向かった」(ibid.)ところで、「あたかも長く使用」されたか親しくなって「権利」を
得たかのようにして習慣づけられた諸々の意見が、「互いに絡みあって」「占拠する」と、「私」は「軽信」してしまう(1.K104:AT.VII,
22.05-06/E.12.29-13.01)からである。けれども「或る何らかの仕方で疑わしい」(1.K108:AT.VII,
22.09/E.13.04-05)、と「意見するように」なったからには、「私」は(1.K201:AT.VII,22.12/E.13.08-
09)、習慣づけられた「それら」の意見を「しばらくはすべて偽なるものであり想い描かれただけのものである、と仮想するつもりだ」(1.K205:
AT.VII,22.14-15/E.13.10-12)。そうすれば、いくら「私を不信に譲って」も「私が」その不信を「募らせすぎることはありえな
い」(1.K302:AT.VII,22.19-20/E.13.17-18)。
そこで、「私は神を想定しないことにする」(1.L101:AT.VII,22.23/E.13.20-21)。そのか
わりに、「最善で」(ibid.:AT.VII,22.23/E.13.21)「真理たることの源泉」(1.L102:AT.VII,22.23-
24/E.13.21)のなかに「位置づけた」ものの「すべて」を、守護霊が「勤め」てくれた(1.L105:AT.VII,22.25-
26/E.13.23-24)。その守護霊が諸々の夢でもって「罠を張った」せいで「私」は「軽信」して(1.L203:AT.VII,
22.29/E.13.27-28)、手や目や肉や血や感覚といった「これらのすべてを私がもっている、と意見している」のだが、その意見が「偽で」あれ
(1.L205:AT.VII,23.03/E.14.01-02)、「このことが私のなかに在る」のは「確か」なのであって(1.L303:
AT.VII,23.06/E.14.05-06)、「私」をひっかける者が「いかに巧みで」も(1.L307:AT.VII,
23.08/E.14.08)それは「異なることがない」(1.L501:AT.VII,23.11/E.14.11)。「囚われた人」(ibid.:
AT.23.11/E.14.11-12)は「目を閉じて」「悦ばしい諸々の幻想でのんびり」している(1.L505:AT.VII,23.13-
14/E.14.14-15)けれども、「何ら光のないなかで」(1.L604:AT.VII,23.16/E.14.18)「今後は過ごされるべきであ
ろう」(1.L606:AT.VII,23.18/E.14.20)。
(2) The 2nd surface of 《AiJKL》
(延長していない事物のうちで、神以外の事物については、すべて疑ってみても安全だ)
[1.A101-A103-A105-A201-A203-A301-A303-A402-A404]
[1.i101-i102-i105-i203-i207-i304-i403-i406]
[1.J101-J102-J202-J205-J209-J302-J305-J309]
[1.K101-K103-K105-K107-K109-K111-K202-K204-K206-K301-K303]
[1.L101-L104-L106-L202-L204-L301-L304-L306-L309-L402-L502-L504-L601-L603-L606]
「すでに数年前に」「私が気づいた」ところによれば、ひじょうに「多くのものを」(1.A101:AT.VII,17.02/E.07.10
-11)、「偽」であるにも拘わらず「真なる」ものとして「私は受け容れてきた」(1.A103:AT.VII,17.03/E.07.12)。そうする
と「元からすべてを打倒すること」には、「一生に一度」の(1.A105:AT.VII,17.04-05/E.07.14-15)「壮大さ」を「要す
る、と私には思われた」(1.A201:AT.VII,17.08/E.07.18-19)。ところで「そのように」試練に取り組めるくらいに年頃が「成
熟している」(1.A203:AT.VII,17.09/E.07.20)にも拘わらず「私が長い間延期してきた」ならば、「後々」咎められることになる
のは「私」だ(1.A301:AT.VII,17.10-11/E.07.21-23)。また、「慎重になりながら」ではあったものの、「私の消費する」
(1.A303:AT.VII,17.12-13/E.07.24)「暇」は「安泰」だったのだが、それは、「私が私に気配りしてきた」(1.A402:
AT.VII,18.01/E.07.25-08.01)からである。そこで「ついに」「私が」「本気で自由に」「没頭するつもり」になれば、「私の諸々
の意見」は「全般的に打倒」されて「このように」なるはずだ(1.A404:AT.VII,18.02-03/E.08.02-03)。
さて、「私の精神に」「古くから」「こびりついてしまっている」「或る意見」(1.i101:AT.VII,21.01
-02/E.11.17-19)によれば、「存在している」「神が」「何でもできる」(1.i102:AT.VII,21.02/E.11.19)せい
で、「創造された」ほうの「私」は(1.i105:AT.VII,21.03/E.11.20)いつも欺かれて誤るのだという。なるほど、「延長した事物
が何もない」(1.i203:AT.VII,21.04-05/E.11.22)にも拘わらず、「今」の「私」には、「これら」の事物の「すべてが実在し
ている」と「思われる」ようだ(1.i207:AT.VII,21.06-07/E.11.24-25)し、「何か他のものが仮想されること」も「比較的
容易」に「できる」(1.i304:AT.VII,21.10-11/E.11.29-30)ようだが、「このことは」「もし」かしたら「善なる」「神」
に「矛盾しているかもしれない」(1.i403:AT.VII,21.12-13/E.12.02-03)。しかし時々欺かれて誤る「私」を容赦している
のは神なのだから、「最終的には」神が善であることに縁遠いと「云われることはできない」(1.i406:AT.VII,21.15-
16/E.12.05-06)はずだ。にも拘わらず、「それほど」に「有能な何らかの神を否定する」人々が「いるらしい」(1.J101:AT.VII,
21.17-18/E.12.06-08)。そのように「選り好む」人々は「おそらく少なくない」(ibid.:AT.VII,21.17-
18/E.12.07-08)だろうが、「他の事物のすべてを不確かだと信ずる」(1.J102:AT.VII,21.18-19/E.12.08-
09)「我々は、神についてのこのこと全体を虚構的なものだ、と仮定しておこう」(1.J202:AT.VII,21.19-20/E.12.10-
11)。また、「事物の連続的な組なり列なり」のせいで(1.J205:AT.VII,21.21/E.12.11-12)、あるいは彼らが割り当てよう
とするところによると、「私」の起源の創作者があまり有能でないせいで、「私」が「不完全である」から、「いつも欺かれて誤る」のが「私」なのだというけ
れども、このことは「比較的蓋然的であろう」(1.J209:AT.VII,21.25-26/E.12.16-18)。「結局」、「旧来真なるものと私
の考えていたもののうちに」は、「私が認容するのを余儀なくされる」ものは「何もない」(1.J302:AT.VII,21.27-28/E.12.19
-20)。そこで、「強かに省みられた理由に近づいて」(1.J305:AT.VII,21.30/E.12.22-23)、「何か確かなものを私は発見
したい」(1.J309:AT.VII,22.01-02/E.12.26)のだが、「まだ充足させてくれない」(1.K101:AT.VII,
22.03/E.12.27)。というのも、「このことに向かった」(ibid.)とたんに「絶えず駆け戻ってくる」「諸々の意見」は「習慣づけられてし
まって」(1.K103:AT.VII,22.04-05/E.12.28-29)いて、それこそ「ほとんど私の意に反してさえも」(1.K105:
AT.VII,22.06-07/E.13.01-02)いるからである。「私が想定するかぎりでは、実際にそのようなものである」(1.K107:
AT.VII,22.08-09/E.13.03-04)。すなわち、「たった今指し示されたように」(1.K109:AT.VII,22.09-
10/E.13.05-06)、「それら」の意見を「信じることのほうが否定することよりもかなり理にかなっている」ところが「大きい」はずだ
(1.K111:AT.VII,22.11-12/E.13.07-08)。よって、「私が行動する」ぶんには「悪くない」だろう(1.K202:
AT.VII,22.12-13/E.13.09)。そこで「私が私自身を欺く」(1.K204:AT.VII,22.13-14/E.13.10)と、
「ついに、予断の重さ」が「両側でちょうど均等になった」(1.K206:AT.VII,22.15-16/E.13.12-13)。そういえば「私が
知っている」ところによると、「その際に危険もしくは過誤が」そうした予断から「随伴したり帰結したり」することは「全然なかった」(1.K301:
AT.VII,22.18-19/E.13.15-17)。となると、「今」の「私」が掛かりきっているのは、「諸々の事物」が「行動されるべき」か、と
いうことでは「ない」(1.K303:AT.VII,22.20-21/E.13.18-19)のだ。
そこで、「私は最善の神を想定しないことにする」(1.L101:AT.VII,22.23/E.13.20-21)。
或るけちな守護霊は「有能で巧みな」ところは「至上で」(1.L104:AT.VII,22.24-25/E.13.22-23)、どうやら「私を欺いて
いたよう」だ(1.L106:AT.VII,22.26/E.13.24-25)。「外部のものの一切が、諸々の夢という愚弄にほかならない」
(1.L202:AT.VII,22.27-28/E.13.26-27)のであれば、いくら「私が私自身を考察」したところで、「あたかも手をもってい
ない者のごとく、目をもたない」者のごとく、「肉をもたない」者のごとく、「血をもたない」者のごとく、「何ら感覚をもたない」者のごとくであろう
(1.L204:AT.VII,22.29-23.03/E.13.28-14.01)。よって「私は、この省察のなかに落ち着いて立ちはだかって留まる
ことにする」(1.L301:AT.VII,23.04/E.14.02-03)。「偽なるものには、私は同意しないつもりだ」(1.L304:
AT.VII,23.06-07/E.14.06)。「私」をひっかける者が「いかに有能で」も(1.L306:AT.VII,23.07-
08/E.14.07)、「私は牢固たる精神でもって用心しよう」(1.L309:AT.VII,23.08-09/E.14.08-09)。そうでもし
ないと、「或る種の怠惰なり不精なり」で引き戻された「生活」へと「私」が「習慣」づけられてしまう(1.L402:AT.VII,23.10-
11/E.14.10-11)。囚われ人は、「想い描かれただけの自由で楽しんでいた」のが「おそらく睡眠中」(1.L502:AT.VII,23.11
-12/E.14.12-13)だったから、「起こされるのを怖がっている」(1.L504:AT.VII,23.13/E.14.14)のであって、
「そのとおりに」すると、「私はおのずと古くからの諸々の意見のなかへと退く」(1.L601:AT.VII,23.14-15/E.14.15-16)
ことになる。「穏やかな休息に継続する」「覚醒」で「苦労しないように」(1.L603:AT.VII,23.15-16/E.14.17-18)、「今
後は過ごされるべきだろう」(1.L606:AT.VII,23.18/E.14.20)。
(3) The 3rd surface of 《AiJKL》
(習慣から抜けだして認識したうえで私が判断したところでは過誤なのに、それについて知り尽くしたと云ったり、ろくに考察しないで軽々しく疑ったりする輩がいる)
[1.A101-A104-A107-A204-A302-A403-A404]
[1.i101-i103-i105-i202-i204-i206-i301-i303-i402-i404-i406]
[1.J101-J201-J203-J207-J301-J304-J307]
[1.K101-K102-K106-K110-K203-K207-K304]
[1.L101-L103-L201-L204-L302-L305-L308-L401-L503-L602-L605-L606]
「すでに数年前に」「私が気づいた」ところによれば、ひじょうに「多くのもの」(1.A101:AT.VII,17.02/E.07.10-
11)のうえに「後から私が積み上げた」ものは「何であれ」、かなり「疑わしい」(1.A104:AT.VII,17.03-04/E.07.13-
14)ので、「私は、何か堅固で」留まりうるものを「いつか」「定着させて」「知識」にするときが来るだろう、と「待ち望んでいる」(1.A107:
AT.VII,17.06-08/E.07.16-18)。どうやらその「試練に取り組むことにこれ以上適した」年頃は「後には続かない」ようなので
(1.A204:AT.VII,17.09-10/E.07.20-21)、「残っている時期」で「実行する」(1.A302:AT.VII,
17.12/E.07.23)。そこで「独りで隠退した」「私」が(1.A403:AT.VII,18.01-02/E.08.01)、「ついに」「本気
で自由に」「没頭するつもり」になれば、「私の諸々の意見」は「全般的に打倒」されて「このように」なるはずだ(1.A404:AT.VII,18.02
-03/E.08.02-03)。
さて、「私の精神に」「古くから」「こびりついてしまっている」「或る意見」(1.i101:AT.VII,21.01
-02/E.11.17-19)によれば、神によって「このよう」に(1.i103:AT.VII,21.02/E.11.19-20)「創造されたも
の」が「私である」(1.i105:AT.VII,21.03/E.11.20)という。「天空が何もない」(1.i202:AT.VII,
21.04/E.11.22)とか、「形状が何もない」(1.i204:AT.VII,21.05/E.11.23)とか、「場所が何もない」
(1.i206:AT.VII,21.05-06/E.11.23)とか、「否それどころか」、「どうして」も「過っている
errare、と私の判断する」もので「さえも」、「他の人々が」「それら」のものをめぐって「きわめて完全に知っているのだ、とみずから思いなしてい
る」ことは、「時々」ある(1.i301:AT.VII,21.07-09/E.11.25-28)。「四角形の辺を数える」のは「私」だが
(1.i303:AT.VII,21.10/E.11.29)、「至上」の「善である」と「云われる」(1.i402:AT.VII,
21.12/E.12.01-02)神が「私」を「創造した」かぎりでは、「私はいつも欺かれて誤るよう」だ(1.i404:AT.VII,21.13-
14/E.12.03)。このように、時々欺かれて誤る「私」を容赦しているのは神なのだから、「最終的には」神が善であることに縁遠いと「云われること
はできない」(1.i406:AT.VII,21.15-16/E.12.05-06)。にも拘わらず、「それほど」に「有能な何らかの神を否定する」人
々が「いるらしい」(1.J101:AT.VII,21.17-18/E.12.06-08)。「おそらく」そのように「選り好む」人々は「少なくない」
(ibid.:AT.VII,21.17-18/E.12.07-08)だろうが、「我々は彼らに反駁しないことにする」(1.J201:AT.VII,
21.19/E.12.09-10)。また、「運命によって」(1.J203:AT.VII,21.20/E.12.11)「欺かれたり過ったり
falli & errare
するのは或る種」「不完全なことだ、と思われている」(1.J207:AT.VII,21.22-23/E.12.14-15)らしいが、「その議論に対
しては固より私は答えようがない」(1.J301:AT.VII,21.26-27/E.12.18-19)。なるほど、「考察せぬままで、もしくは軽々
しく」疑うのは(1.J304:AT.VII,21.29/E.12.21-22)、「明らかに偽なるものに対して」疑うのと、「あまり劣らない」
(1.J307:AT.VII,21.31/E.12.24-25)のだが、それでは「まだ充足させてくれない」(1.K101:AT.VII,
22.03/E.12.27)。というのも、「このことに向かって」(ibid.)「思い起こすように頓着されるべき」なのは「私」だ(1.K102:
AT.VII,22.03-04/E.12.27-28)からである。そうでもしないと、「私がそれら」の意見に「同意したり信頼したりするという習慣か
ら抜けだす」ことは「一度もない」だろう(1.K106:AT.VII,22.07-08/E.13.02-03)。これは「きわめて蓋然的」
(1.K110:AT.VII,22.10/E.13.06)なことなのであって、もし「意志」が「全く反対に向き変わって」(1.K203:
AT.VII,22.13/E.13.09-10)いれば、「邪まな習慣」のせいで「私の判断」が「歪め」られて正しく「事物」を「知得」できない、と
いったことは「もはやない」はずだ(1.K207:AT.VII,22.16-18/E.13.13-15)。このようにして「私が掛かりきっている」諸
々の事物は、「もっぱら認識されるべき」ものなのである(1.K304:AT.VII,22.21-22/E.13.19-20)。
そこで「私が想定しようとする」のは、「最善の神ではなく」て(1.L101:AT.VII,
22.23/E.13.20-21)、「或るけちな守護霊」(1.L103:AT.VII,22.24/E.13.22)である。「天空、空気、大地、
色、形状、音を私は考えるだろう」(1.L201:AT.VII,22.26-27/E.13.25-26)が、いくら「私が私自身を考察」したところ
で、「あたかも手をもっていない者のごとく、目をもたない」者のごとく、「肉をもたない」者のごとく、「血をもたない」者のごとく、「何ら感覚をもたな
い」者のごとくであろう(1.L204:AT.VII,22.29-23.03/E.13.28-14.01)。このように、「何らかの真なるものを認識
すること」については「私」が「有能」では「ない」場合がある(1.L302:AT.VII,23.04-06/E.14.04-05)。のみならず「そ
うした」守護霊で「なく」ても、誰かしら「ひっかける者が、私に何らかのものを」(1.L305:AT.VII,23.07/E.14.06-07)「押
しつけることができるかもしれない」(1.L308:AT.VII,23.08/E.14.08)。もちろん「このこと」を「企てて暮らす
institutum」のは「苦労する」(1.L401:AT.VII,23.09-10/E.14.09-10)。というのも、「自分は眠っている」の
ではないか、と「不審がりはじめる場合」、「のちに」なって(1.L503:AT.VII,23.12-13/E.14.13-14)「醒めるのを恐れ
る」のが「私」だ(1.L602:AT.VII,23.15/E.14.16-17)からである。「今、提起された困難という闇」は「解きがたい」ものだ
が、その「あいだで」(1.L605:AT.VII,23.17-18/E.14.18-20)「今後は過ごされるべきであろう」(1.L606:
AT.VII,23.18/E.14.20)。
arranged by K.-m. as the SHYNAMITES. 初出:"What a cool believes"(blog),May 07,2007.
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY,
nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
...(頁、行)
E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
...(頁、行)
cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
...(1=「第一省察」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)
§105 Line of 《f2》
for Going Straight in Straits
(1) One extreme line of 《f2》(出回っていない類似品)
[1.f201-f401-f404-f502-f601-f604-f607]
「しかし認容されるべき」なのは、「休息をとおして見られたものが、ちょうど或る種の画像 pictas imagines のようである」、ということだ(1.f201:AT.VII,19.26-27/E.10.03-04)。
「実際に
profecto」(ibid.:AT.VII,19.26/E.10.03)「そのとおり」なのであって、「画家たち自身」(1.f401:
AT.VII,19.31/E.10.09)にとって「新しい本性」ならば「どの部分から」でも「割り当て」て「それら」の生物をきわめてただならぬ姿な
り形なりにすることが「できる」(1.f404:AT.VII,20.02-03/E.10.12-13)けれども、「およそ」そうした生物に「類似した
ものは何ら見られたことがない」はずだ(1.f502:AT.VII,20.05-06/E.10.15-16)。それと「理由」が「似つかなくはない」
(1.f601:AT.VII,20.08/E.10.19)。
「そうした」像の「すべて」は、「あたかも色のごとく」
比較的単純で普遍的なものから、つまり「そうした真なる」ものから(1.f604:AT.VII,20.12/E.10.24-25)「作りだされて」、
「事物の像」となっている(1.f607:AT.VII,20.14/E.10.26-27)。
(2) The other extreme line of 《f2》(想い描かれただけの事物)
[1.f202-f302-f403-f405-f504-f602-f606-f607]
休息をとおして見られた、あの画像のようなものは、「もし真なる事物」に「類似」させられていなければ「仮想されることはできなかった」
(1.f202:AT.VII,19.27-28/E.10.05-06)のだから、「或る種」「想い描かれた」だけの「事物」(1.f302:
AT.VII,19.30/E.10.08)にすぎない。
「セイレーンやサテュロス」といった、人間の半身に別の動物の
半身を接いだような「きわめてただならぬ姿なり形なり
forma」をした生物を「仮想する」べく画家たちが「励む場合」(1.f403:AT.VII,20.01-02/E.10.10-11)も、「ただ単
に異なった動物の肢体を混合している」にすぎない(1.f405:AT.VII,20.03-04/E.10.13-14)のであって、「少なくとも色は
真なるものでなければならない」ということは「確か」だ(1.f504:AT.VII,20.06-07/E.10.17-18)。
また、「目、頭、手およびそれに類するものといった、こうした一般的なものさえもが、想い描かれた」だけのもので「ありうる」(1.f602:
AT.VII,20.08-10/E.10.19-21)のは、「それらが、我々の思惟のなかにある」(1.f606:AT.VII,
20.13/E.10.25-26)ところの「事物の像」として「作りだされている」からである(1.f607:AT.VII,
20.14/E.10.26-27)。
(3) The moderate line of 《f2》(たいして奇抜でない独創性)
[1.f301-f303-f402-f404-f501-f503-f505-f603-f605-f607]
「目、頭、手および全身といった、こうした一般的なもの」は「少なくとも」(1.f301:AT.VII,19.29-30/E.10.06
-08)「真なる」事物として「実在する」(1.f303:AT.VII,19.30-31/E.10.08-09)。
画家たちの仮想するべく励んでいるのが、なにもセイレーンやサテュロスといった、人間の半身に別の動物の半身を接いだようなきわめてただならぬ姿なり形な
りをした生物でなくても(1.f402:AT.VII,19.31-20.01/E.10.09-10)、「それら」の生物に「割り当てることができる」
「本性」の「部分ならいずれも」、画家たちにとっては「新しい」(1.f404:AT.VII,20.02-03/E.10.12-13)。
「あるいは、もし」画家たちの「考えだす」ものが「ひょっとして何かひじょうに新しいもの」(1.f501:AT.VII,20.04-
05/E.10.14-15)であっても、また「そのようにして」考えだされたものが「まったく虚構的で虚偽で」(1.f503:AT.VII,
20.06/E.10.16-17)あっても、「それを複合するのは」真なる色からである(1.f505:AT.VII,20.07-
08/E.10.18-19)。したがって、そうした一般的なものでない「他のもの」は「或る種」「なおいっそう単純で普遍的な」ものであるかぎりで「真
なるものであって」、このことは「少なくとも」「必然的に」「認容されるべきである」(1.f603:AT.VII,20.10-12/E.10.21-
24)。
「真であれ偽であれ」(1.f605:AT.VII,20.13/E.10.25)、「事物の像は」こうした単純で普遍的なものから、つまり真なるものから、「作りだされている」のだ(1.f607:AT.VII,20.14/E.10.26-27)。
arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),Apr.30,2007.
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY,
nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
...(頁、行) E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
...(頁、行)
cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
...(1=「第一省察」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)
§111 Line of 《L》
for Going Straight in Straits
(1) One extreme line of 《L》(意見する私の今後に光はない)
[1.L101-L102-L105-L203-L205-L303-L307-L501-L505-L604-L606]
「それゆえに、私は神を想定しないことにする」(1.L101:AT.VII,22.23/E.13.20-21)。そのかわりに、「最善
で」(ibid.:AT.VII,22.23/E.13.21)、「真理たることの源泉」(1.L102:AT.VII,22.23-
24/E.13.21)のなかに「位置づけた」のは、守護霊の「勤めのすべて」(1.L105:AT.VII,22.25-26/E.13.23-24)
である。
その守護霊が諸々の夢でもって「罠を張った」せいで「私」は「軽信」して(1.L203:AT.VII,
22.29/E.13.27-28)、手や目や肉や血や感覚といった「これらのすべてを私がもっている、と偽にも意見している」(1.L205:
AT.VII,23.03/E.14.01-02)とはいえ、「このことが私のなかに在る」のは「確か」なのであって(1.L303:AT.VII,
23.06/E.14.05-06)、「私」をひっかける者が「いかに巧みで」も(1.L307:AT.VII,23.08/E.14.08)「異ならな
い」(1.L501:AT.VII,23.11/E.14.11-12)。
「囚われた人」(ibid.:AT.VII,
23.11/E.14.12)は「目を閉じて」「悦ばしい諸々の幻想でのんびり」している(1.L505:AT.VII,23.13-
14/E.14.14-15)けれども、「何ら光のないなかで」(1.L604:AT.VII,23.16/E.14.18)「今後は過ごされるべきであ
ろう」(1.L606:AT.VII,23.18/E.14.20)。
(2) The other extreme line of 《L》(闇の暮らし)
[1.L101-L103-L201-L204-L302-L305-L308-L401-L503-L602-L605-L606]
「それゆえに、私が想定しようとする」のは、「最善の神ではなく」て(1.L101:AT.VII,22.23/E.13.20-21)、
「或るけちな守護霊」(1.L103:AT.VII,22.24/E.13.22)である。「天空、空気、大地、色、形状、音を私は考えるだろう」
(1.L201:AT.VII,22.26-27/E.13.25-26)が、「私が私自身を考察」したところで、「あたかも手をもっていない者のごと
く、目をもたない」者のごとく、「肉をもたない」者のごとく、「血をもたない」者のごとく、「何ら感覚をもたない」者のごとくであろう(1.L204:
AT.VII,22.29-23.03/E.13.28-14.01)。
このように、「何らかの真なるものを認識するこ
と」については「私」が「有能」では「ない」場合がある(1.L302:AT.VII,23.04-06/E.14.04-05)。のみならず、「そうし
た」守護霊で「なく」ても、誰かしら「ひっかける者が、私に何らかのものを」(1.L305:AT.VII,23.07/E.14.06-07)「押しつ
けることができるかもしれない」(1.L308:AT.VII,23.08/E.14.08)。
が、それにしても、「こ
のこと」を「企てて暮らす
institutum」のは「苦労する」(1.L401:AT.VII,23.09-10/E.14.09-10)。というのも、「自分は眠っている」の
ではないか、と「不審がりはじめる場合」、「のちに」なって(1.L503:AT.VII,23.12-13/E.14.13-14)、「醒めるのを恐れ
る」のが「私」だ(1.L602:AT.VII,23.15/E.14.16-17)からである。
「今、提起された困難
という闇」は「解きがたい」ものだが、その「あいだで」(1.L605:AT.VII,23.17-18/E.14.18-20)「今後は過ごされるべき
であろう」(1.L606:AT.VII,23.18/E.14.20)。
(3) The moderate line of 《L》(怠けて楽しんでいる奴には構わず...)
[1.L101-L104-L106-L202-L204-L301-L304-L306-L309-L402-L502-L504-L601-L603-L606]
「それゆえに、私は最善の神を想定しないことにする」(1.L101:AT.VII,22.23/E.13.20-21)。或るけちな守護霊
は「有能で巧みな」ところは「至上で」(1.L104:AT.VII,22.24-25/E.13.22-23)、どうやら「私を欺いていたよう」だ
(1.L106:AT.VII,22.26/E.13.24-25)。「外部のものの一切が、諸々の夢という愚弄にほかならない」(1.L202:
AT.VII,22.27-28/E.13.26-27)のであれば、「私が私自身を考察」したところで、「あたかも手をもっていない者のごとく、目をも
たない」者のごとく、「肉をもたない」者のごとく、「血をもたない」者のごとく、「何ら感覚をもたない」者のごとくであろう(1.L204:
AT.VII,22.29-23.03/E.13.28-14.01)。
そこで「私は、この省察のなかに落ち着いて立ち
はだかって留まることにする」(1.L301:AT.VII,23.04/E.14.02-03)。「偽なるものには、私は同意しないつもりだ」
(1.L304:AT.VII,23.06-07/E.14.06)。「私」をひっかける者が「いかに有能で」も(1.L306:AT.VII,
23.07-08/E.14.07)、「私は牢固たる精神でもって用心しよう」(1.L309:AT.VII,23.08-09/E.14.08-
09)。
そうでもしないと、「或る種の怠惰なり不精なりが、生活の習慣」へと「私を引き戻す」(1.L402:
AT.VII,23.10-11/E.14.10-11)。囚われ人は、「想い描かれただけの自由で楽しんでいた」のが「おそらく睡眠中」
(1.L502:AT.VII,23.11-12/E.14.12-13)だったから、「起こされるのを怖がっている」(1.L504:AT.VII,
23.13/E.14.14)のであって、「そのとおりに」すると、「私はおのずと古くからの諸々の意見のなかへと退く」(1.L601:AT.VII,
23.14-15/E.14.15-16)ことになる。
「穏やかな休息に継続する」「覚醒」で「苦労しないように」(1.L603:AT.VII,23.15-16/E.14.17-18)、「今後は過ごされるべきだろう」(1.L606:AT.VII,23.18/E.14.20)。
arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),May 04,2007.
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY,
nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
...(頁、行) E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
...(頁、行)
cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
...(1=「第一省察」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)
§110 Line of 《K》
for Going Straight in Straits
(1) One extreme line of 《K》(習慣から抜けだして認識しようという意志)
[1.K101-K102-K106-K110-K203-K207-K304]
「けれども、このことに向かったことはまだ充足させてくれない」(1.K101:AT.VII,22.03/E.12.27)。それというの
も、「私が思い起こすように頓着されるべきだ」(1.K102:AT.VII,22.03-04/E.12.27-28)からである。さもないと、「私が
それら」の意見に「同意したり信頼したりするという習慣から抜けだす」ことは「一度もない」だろう(1.K106:AT.VII,22.07-
08/E.13.02-03)。
但し、「きわめて蓋然的」(1.K110:AT.VII,22.10/E.13.06)
なのは、「全く反対に向き変わった意志」(1.K203:AT.VII,22.13/E.13.09-10)であり、その意志でもってすれば、「邪まな習
慣が私の判断を正しい事物の知得から歪める」ことは「もはやない」はずだ(1.K207:AT.VII,22.16-18/E.13.13-15)。この
ようにして「私が掛かりきっている」のは、「もっぱら認識されるべき」諸々の事物なのである(1.K304:AT.VII,22.21-
22/E.13.19-20)。
(2) The moderate line of 《K》(私自身を欺く私)
[1.K101-K103-K105-K107-K109-K111-K202-K204-K206-K301-K303]
「けれども、このことに向かったことはまだ充足させてくれない」(1.K101:AT.VII,22.03/E.12.27)。というのも
「絶えず駆け戻ってくる」「諸々の意見」は「習慣づけられてしまって」(1.K103:AT.VII,22.04-05/E.12.28-29)いて、そ
れこそ「ほとんど私の意に反してさえも」(1.K105:AT.VII,22.06-07/E.13.01-02)いるからである。
「私が想定するかぎりでは、実際にそのようなものである」(1.K107:AT.VII,22.08-09/E.13.03-04)。すなわち、「たった
今指し示されたように」(1.K109:AT.VII,22.09-10/E.13.05-06)、「それら」の意見を「信じることのほうが否定すること
よりもかなり理にかなっている」ところが「大きい」はずだ(1.K111:AT.VII,22.11-12/E.13.07-08)。よって、「私が行動
する」のも「悪くない」だろう(1.K202:AT.VII,22.12-13/E.13.09)。
そこで「私が私自身
を欺く」(1.K204:AT.VII,22.13-14/E.13.10)と、「ついに、予断の重さ」が「両側でちょうど均等になった」
(1.K206:AT.VII,22.15-16/E.13.12-13)。そういえば「私が知っている」ところによると、「その際に危険もしくは過誤
が」そうした予断から「随伴なり帰結なりすることは全然なかった」(1.K301:AT.VII,22.18-19/E.13.15-17)。ということ
は、「今」の「私」が掛かりきっている「諸々の事物」は、「行動されるべき」ものでは「ない」(1.K303:AT.VII,22.20-
21/E.13.18-19)のである。
(3) The other extreme line of 《K》(軽信する私/不信を募らせる私)
[1.K101-K104-K108-K201-K205-K302]
「けれども、このことに向かったことはまだ充足させてくれない」(1.K101:AT.VII,22.12/E.12.27)。というのは、
「あたかも長く使用」されたか「親しさ」で「権利」を得たかのようにして習慣づけられた諸々の意見が、「互いに絡みあって」「私の軽信性を占拠している」
(1.K104:AT.VII,22.05-06/E.12.29-13.01)からである。
ところが「或る何らかの仕
方で疑わしい」(1.K108:AT.VII,22.09/E.13.04-05)、と「意見するように」なった「私」は(1.K201:AT.VII,
22.12/E.13.08-09)、習慣づけられた「それら」の意見を「しばらくはすべて偽なるものであり想い描かれただけのものである、と仮想するつ
もりだ」(1.K205:AT.VII,22.14-15/E.13.10-12)が、いくら「私を不信に譲って」も「私が」その不信を「募らせすぎるこ
とはありえない」(1.K302:AT.VII,22.19-20/E.13.17-18)。
arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),May 04,2007.
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY,
nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
...(頁、行)
E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
...(頁、行)
cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
...(1=「第一省察」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)
§109 Line of 《J》
for Going Straight in Straits
(1) One extreme line of 《J》(神以外の事物はすべて不確かだとせざるをえない)
[1.J101-J102-J202-J205-J209-J302-J305-J309]
「実はしかし、それほど」に「有能な何らかの神を否定する」人々が「いるらしく」(1.J101:AT.VII,21.17-
18/E.12.06-08)、そのように「選り好む」人々は「おそらく少なくない」(ibid.:AT.VII,21.17-18/E.12.07-
08)だろうが、「他の事物のすべてを不確かだと信ずる」(1.J102:AT.VII,21.18-19/E.12.08-09)「我々は、神について
のこのこと全体を虚構的なものだ、と仮定しておこう」(1.J202:AT.VII,21.19-20/E.12.10-11)。
ところで、「事物の連続的な組なり列なり」のせいで(1.J205:AT.VII,21.21/E.12.11-12)、あるいは彼らが割り当てようとす
るところによると、「私」の起源の創作者があまり有能でないせいで、「私」が「不完全である」から、「いつも欺かれて誤る」のが「私」なのだというけれど
も、このことは「比較的蓋然的であろう」(1.J209:AT.VII,21.25-26/E.12.16-18)。
「結局」、「旧来真なるものと私の考えていたもののうちに」は、「私が認容するのを余儀なくされる」ものは「何もない」(1.J302:AT.VII,
21.27-28/E.12.19-20)。そこで、「強かに省みられた理由に近づいて」(1.J305:AT.VII,21.30/E.12.22-
23)、「何か確かなものを私は発見したい」(1.J309:AT.VII,22.01-02/E.12.26)。
(2) The other extreme line of 《J》(ろくに考察しないで軽々しく疑う連中には関わらない)
[1.J101-J201-J203-J207-J301-J304-J307]
「実はしかし、それほど」に「有能な何らかの神を否定する」人々が「いるらしく」(1.J101:AT.VII,21.17-
18/E.12.06-08)、そのように「選り好む」人々は「おそらく少なくない」(ibid.:AT.VII,21.17-18/E.12.07-
08)だろうが、「我々は彼らに反駁しないことにする」(1.J201:AT.VII,21.19/E.12.09-10)。
ところで「運命によって」(1.J203:AT.VII,21.20/E.12.11)「欺かれたり過ったり falli & errare
するのは或る種」「不完全なことだ、と思われている」(1.J207:AT.VII,21.22-23/E.12.14-15)らしいが、「その議論に対
しては固より私は答えようがない」(1.J301:AT.VII,21.26-27/E.12.18-19)。
というの
も、「考察せぬままで、もしくは軽々しく」疑うのは(1.J304:AT.VII,21.29/E.12.21-22)、「明らかに偽なるものに対して」
疑うのと、「あまり劣らない」(1.J307:AT.VII,21.31/E.12.24-25)からである。
(3) The moderate line of 《J》(疑わせてくれないなら同意しない)
[1.J101-J202-J204-J206-J208-J301-J303-J306-J308]
「実はしかし、それほど」に「有能な何らかの神を否定する」人々が「いるらしく」(1.J101:AT.VII,21.17-
18/E.12.06-08)、そのように「選り好む」人々は「おそらく少なくない」(ibid.:AT.VII,21.17-18/E.12.07-
08)だろうが、「神についてのこのこと全体を虚構的なものだ、と我々は仮定しておこう」(1.J202:AT.VII,21.19-
20/E.12.10-11)。
ところで「偶然によってであれ」(1.J204:AT.VII,
21.21/E.12.11)「他のいずれの仕方であれ」、「そう在るところのものにまで」「通り抜けてきた」のが「私」だ、と「彼らは想定しているらし
い」(1.J206:AT.VII,21.21-22/E.12.12-13)。また、「彼らが割り当てようとする」ところによれば、「私の起源の創作
者」は「あまり有能ではない」(1.J208:AT.VII,21.24-25/E.12.15-16)ようだ。
しか
し、「その議論に対しては固より私は答えようがない」(1.J301:AT.VII,21.26-27/E.12.18-19)。旧来真なるものと「私」
が考えていた諸々のものについて「疑うことが許されない」(1.J303:AT.VII,21.28-29/E.12.20-21)ならば、「同じそれ
ら」のものに対しても(1.J306:AT.VII,21.30-31/E.12.23-24)「精確に」応ずるよう、「引き続き」「同意」せずに「保
留」すべきである(1.J308:AT.VII,22.01/E.12.25-26)。
arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),May 04,2007.
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY,
nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996. ...(頁、行)
E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
...(頁、行)
cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
...(1=「第一省察」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)
§108 Line of 《i》
for Going Straight in Straits
(1) One extreme line of 《i》(延長していない事物の実在について)
[1.i101-i102-i105-i203-i207-i304-i403-i406]
「とはいっても、私の精神に」「古くから」「こびりついてしまっている」「或る意見」(1.i101:AT.VII,21.01-
02/E.11.17-19)によれば、「存在している」「神が」「何でもできる」(1.i102:AT.VII,21.02/E.11.19)せいで、
「創造された」「私」は(1.i105:AT.VII,21.03/E.11.20)いつも欺かれて誤るのだという。
さ
て、「延長した事物が何もない」(1.i203:AT.VII,21.04-05/E.11.22)にも拘わらず、「今」の「私」には、「これら」の事物
の「すべてが実在している」と「思われる」ようだ(1.i207:AT.VII,21.06-07/E.11.24-25)し、「何か他のものが仮想され
ること」も「比較的容易」に「できる」(1.i304:AT.VII,21.10-11/E.11.29-30)ようだが、「このことは」「もし」かした
ら「善なる」「神」に「矛盾しているかもしれない」(1.i403:AT.VII,21.12-13/E.12.02-03)。
しかし時々欺かれて誤る「私」を容赦しているのは神なのだから、「最終的には」神が善であることに縁遠いと「云われることはできない」(1.i406:AT.VII,21.15-16/E.12.05-06)。
(2) The moderate line of 《i》(私の判断では過誤なのに、他の人々は知り尽くしたという)
[1.i101-i103-i105-i202-i204-i206-i301-i303-i402-i404-i406]
「とはいっても、私の精神に」「古くから」「こびりついてしまっている」「或る意見」(1.i101:AT.VII,21.01-
02/E.11.17-19)によれば、神によって「このよう」に(1.i103:AT.VII,21.02/E.11.19-20)「創造されたもの」
が「私である」(1.i105:AT.VII,21.03/E.11.20)という。「天空が何もない」(1.i202:AT.VII,
21.04/E.11.22)とか、「形状が何もない」(1.i204:AT.VII,21.05/E.11.23)とか、「場所が何もない」
(1.i206:AT.VII,21.05-06/E.11.23)とか、「否それどころか」、「どうして」も「過っている
errare、と私の判断する」もので「さえも」、「他の人々が」「それら」のものをめぐって「きわめて完全に知っているのだ、とみずから思いなしてい
る」ことは、「時々」ある(1.i301:AT.VII,21.07-09/E.11.25-28)。
なるほど「四角形
の辺を数える」のは「私」だが(1.i303:AT.VII,21.10/E.11.29)、「至上」の「善である」と「云われる」(1.i402:
AT.VII,21.12/E.12.01-02)神が「私」を「創造した」かぎりでは、「私はいつも欺かれて誤るよう」だ(1.i404:
AT.VII,21.13-14/E.12.03)。
ところで、時々欺かれて誤る「私」を容赦しているのは神なのだから、「最終的には」神が善であることに縁遠いと「云われることはできない」(1.i406:AT.VII,21.15-16/E.12.05-06)。
(3) The other extreme line of 《i》(神のせいか私のせいか)
[1.i101-i104-i201-i205-i302-i401-i405-i406]
「とはいっても、私の精神に」「古くから」「こびりついてしまっている」「或る意見」(1.i101:AT.VII,21.01-
02/E.11.17-19)によれば、「私」はまさに「このとおりのもの」として「実在している」(1.i104:AT.VII,
21.03/E.11.20)という。
ところで、「私がどこから」か「知る」ところによると、「神がもたらさなかった」
ならば「大地は全然存在しないよう」だ(1.i201:AT.VII,21.03-04/E.11.20-22)し、「大きさも何もない」
(1.i205:AT.VII,21.05/E.11.23)ようだが、「私」のほうこそ、「2と3とを加えて」「一緒に」するたびに「欺かれて誤るよ
う」(1.i302:AT.VII,21.09-10/E.11.28-29)なのだ。
しかし「そのようにして私がひっ
かかることを、おそらく神は望まなかった」だろう(1.i401:AT.VII,21.11-12/E.11.30-12.01)。「また」「時々欺かれ
て誤るような」「私」を「容赦する」のは神なのだから、神が善であることに「縁遠いと思われている」(1.i405:AT.VII,21.14-
15/E.12.04-05)けれども、このことは「最終的には云われえない」(1.i406:AT.VII,21.15-16/E.12.05-
06)。
arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),May 03,2007.
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY,
nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
...(頁、行)
E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
...(頁、行)
cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
...(1=「第一省察」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)
§107 Line of 《H》
for Going Straight in Straits
(1) One extreme line of 《H》(単純で一般的なものから複合されたままで考察される事物)
[1.H101-H102-H203-H302]
「それゆえに」、「我々は」「このことから、たぶん」次のように「結論するのだろう」が、それも「悪くない」(1.H101:AT.VII,
20.20/E.11.02-04)。すなわち、「‘自然学'、‘天文学'、‘医学’および他の諸々の学科なり訓練なり」の「すべて」(ibid.:
AT.VII,20.21-22/E.11.04-05)は、「諸々の事物」が「複合された」ままで「考察」される、ということに「依拠している」
(1.H102:AT.VII,20.22-23/E.11.05-06)、と我々は結論するだろう。
ところで、複合さ
れているこれらの「事物の自然なり本性なりにおいて在る」のは、ひじょうに単純できわめて一般的な事物なのである(1.H203:AT.VII,
20.26/E.11.10-11)。「足して5になった juncta esse
quinque」のは、「2と3と」が「一緒に」(1.H302:AT.VII,20.28-29/E.11.13-14)なったものである。
(2) The other extreme line of 《H》(確かで疑えないことを何か含んでいれば怪しまれないはずだ)
[1.H101-H103-H201-H205-H304]
「それゆえに」、「我々は」「このことから、たぶん」次のように「結論するのだろう」が、それも「悪くない」(1.H101:AT.VII,
20.20/E.11.02-04)。すなわち、「‘自然学'、‘天文学'、‘医学’および他の諸々の学科なり訓練なり」の「すべて」(ibid.:
AT.VII,20.21-22/E.11.04-05)は、「なるほど疑わしいのだ」(1.H103:AT.VII,20.23/E.11.07)が、
「‘数論'、‘幾何学'」およびその他のようなもの(1.H201:AT.VII,20.23-24/E.11.07-08)は、「何かしら確かで疑われ
ようのないことを含んでいる」(1.H205:AT.VII,20.27/E.11.11-12)のであって、「それほど」までに「真理」が「明るく澄み
きっている」ならば、「虚偽」かもしれないといった「不審」へと「流れ込むようなことは、生じえないと思われる」(1.H304:AT.VII,
20.30-31/E.11.15-17)。
(3) The moderate line of 《H》(単純で一般的な事物を取り扱おうとしないから疑われる)
[1.H101-H103-H202-H204-H301-H303]
「それゆえに」、「我々は」「このことから、たぶん」次のように「結論するのだろう」が、それも「悪くない」(1.H101:AT.VII,
20.20/E.11.02-04)。すなわち、「‘自然学'、‘天文学'、‘医学’および他の諸々の学科なり訓練なり」の「すべて」(ibid.:
AT.VII,20.21-22/E.11.04-05)は、「なるほど疑わしいのだ」(1.H103:AT.VII,20.23/E.11.07)が、
それは「ひじょうに単純できわめて一般的な事物についてでなければ取り扱わない」(1.H202:AT.VII,20.24-25/E.11.08-
10)ということに「あまり頓着しない」(1.H204:AT.VII,20.26-27/E.11.11)からである。
「私が目覚めていようと眠っていようと」(1.H301:AT.VII,20.27-28/E.11.12-13)、「四角形」の「もっている辺」は「4
つ以上」では「ない」(1.H303:AT.VII,20.29-30/E.11.14-15)。
arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),May 03,2007.
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY,
nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
...(頁、行) E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
...(頁、行)
cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
...(1=「第一省察」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)§106 Line of 《G》
for Going Straight in Straits
(1) One extreme line of 《G》(延長する大きさと数と持続時間)
[1.G101-G102-G302-G402-G403]
「こういう種類に」属すると「思われる」のは、「物体的な本性一般」(1.G101:AT.VII,20.15-16/E.10.27-
28)、「およびその延長」(1.G102:AT.VII,20.16/E.10.28-29)、そして延長した諸々の事物の「大きさと数」
(1.G302:AT.VII,20.17-18/E.10.30-11.01)だが、これらの事物は「持続するかもしれない」(1.G402:
AT.VII,20.18-19/E.11.02)。そうであれば、延長したこれらの事物が持続する「時間」(ibid.:AT.VII,
20.18/E.11.01-02)「およびそれに類するもの」(1.G403:AT.VII,20.19/E.11.02)も、ここに属すると思われ
る。
(2) The other extreme line of 《G》(延長する形状と実在の場所)
[1.G101-G200-G401-G403]
「こういう種類に」属すると「思われる」のは、「物体的な本性一般」(1.G101:AT.VII,20.15-16/E.10.27-
28)、「さらには、延長した諸々の事物の形状
figura」(1.G200:AT.VII,20.16-17/E.10.29)だが、これらの事物は「実在するかもしれない」(1.G401:
AT.VII,20.18/E.11.01)。そうであれば、延長したこれらの事物が実在する「場所」(ibid.:AT.VII,
20.18/E.11.01)「およびそれに類するもの」(1.G403:AT.VII,20.19/E.11.02)も、ここに属すると思われる。
(3) The moderate line of 《G》(延長する量)
[1.G101-G301-G403]
「こういう種類に」属すると「思われる」のは、「物体的な本性一般」(1.G101:AT.VII,20.15-16/E.10.27-
28)、「さらには」その延長した諸々の事物の「量」(1.G301:AT.VII,20.17/E.10.29-30)、「およびそれに類するもの」
(1.G403:AT.VII,20.19/E.11.02)である。
arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),May 03,2007.
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY,
nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996. ...(頁、行)
E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
...(頁、行)
cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
...(1=「第一省察」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)
§104 Line of 《EF》
for Going Straight in Straits
(1) One extreme line of 《EF》(覚醒と睡眠との間の区別/個別的なものは真である)
[1.E101-E102-E105-E203-E206-E303-E403-F102-F106-F107]
「そのとおり」であれば「素晴らしい」(1.E101:AT.VII,19.08/E.09.10)。なるほど「私は、あたかも眠るのがたい
てい夜ではない人間であるかのように」(1.E102:AT.VII,19.08-09/E.09.10-11)、それこそ、ちょうど「そうした人々が目
覚めているとき」のように(1.E105:AT.VII,19.10-11/E.09.13-14)、「衣服を着ている」(1.E203:AT.VII,
19.12/E.09.15)と信じ込んだままであるが、「私が伏せている」「寝床のなか」は「着物」の位置から離れている(1.E206:
AT.VII,19.13/E.09.16-17)。にも拘わらず他方で「私」は「こうした手を伸ばしたり感覚したり」するのを「察しながらも知って
prudens &
sciens」いる(1.E303:AT.VII,19.15-16/E.09.20-21)。「私に判る」ことは「それほどに平たい」のだ
(1.E403:AT.VII,19.20/E.09.25)。すなわち、「覚醒」が「睡眠から」「確実」に「区別されることができる」のは「決して」
「標示による」のでは「ない」(ibid.:AT.VII,19.20-21/E.09.25-26)。もし「そうした個別的なものが真ではないとすれ
ば」(1.F102:AT.VII,19.23/E.09.29-30)、「おそらく我々がもっている」「手さえも」「このような」ものでは「ない」
(1.F106:AT.VII,19.25/E.10.01-02)はずだし、「全身」も「このような」ものでは「ない」(1.F107:AT.VII,
19.25-26/E.10.02)はずだ。
(2) The moderate line of 《EF》(眠っているうちは判明でないこと)
[1.E101-E103-E105-E202-E204-E302-E304-E402-E404-F101-F103-F105-F107]
「そのとおり」であれば「素晴らしい」(1.E101:AT.VII,19.08/E.09.10)。なるほど「私」がたいてい「睡眠中に偲
ぶ」もの「すべて」を「同じく」(1.E103:AT.VII,19.09/E.09.10-11)「そうした人々は目覚めていながら」(1.E105:
AT.VII,19.10-11/E.09.13-14)偲ぶ。にも拘わらず他方で「私がここに居て」(1.E202:AT.VII,
19.11/E.09.15)、「炉辺に座っていて」(1.E204:AT.VII,19.12/E.09.15-16)、「私の揺らしているこの頭がま
どろんでいない」(1.E302:AT.VII,19.15/E.09.19-20)という、「これほど判明な」ことすら、「眠っている者」には「到達し
ない」(1.E304:AT.VII,19.16-17/E.09.21-22)。別のときに、この類いの諸々の思惟でさえも騙されたことがあるのは、睡
眠中の「私」だが、「このことを比較的注意深く思惟するうちに」(1.E402:AT.VII,19.19/E.09.24-25)、「唖然とする」のも
「私」だ(1.E404:AT.VII,19.21/E.09.27)。そこで、「我々は夢みているとする」のが「よかろう」(1.F101:
AT.VII,19.23/E.09.29)。「それならば」(ibid.:AT.VII,19.23/E.09.29)、「我々が目を開くこと」
(1.F103:AT.VII,19.24/E.09.30)も、「手を伸ばすこと」(1.F105:AT.VII,19.24/E.10.01)も、真
ではないはずだし、我々がもっている「全身」は「このような」ものでは「ない」(1.F107:AT.VII,19.25-26/E.10.02)はず
だ。
(3) The other extreme line of 《EF》(茫然自失でもしないと裏づけられないこと)
[1.E101-E104-E201-E205-E301-E401-E405-F104-F107]
「そのとおり」であれば「素晴らしい」(1.E101:AT.VII,19.08/E.09.10)。なるほど「私」のたいてい偲ぶものが
「比較的真もどき」であることが「時々」ある(1.E104:AT.VII,19.09-10/E.09.12-13)。「普段のそうしたこと」を「いか
に頻繁に」(1.E201:AT.VII,19.11/E.09.14-15)「夜の休息が信じ込ませることか」(1.E205:AT.VII,
19.12/E.09.09.16)。「今」「この紙片に目を凝らす」「私が」「目覚めている」のは「確か」であるが(1.E301:AT.VII,
19.13-14/E.09.17-18)、「別のときには、それに類する思惟によってでさえも騙されたことがある」(1.E401:AT.VII,
19.18-19/E.09.23-24)。あのときは「私が睡眠中」(ibid.:AT.VII,19.18-19/E.09.24)だったこともあっ
て、「あたかも」それを「さっぱり思い起こさないかのよう」(ibid.:AT.VII,19.17-18/E.09.22-23)であった。とはいえ
「このこと自身」で「私」は「ほとんど茫然自失」した(1.E405:AT.VII,19.21-22/E.09.27-28)。この茫然自失ということ
が「裏づけてくれる」ところによれば、かの「意見」は「睡眠」中のものであって(ibid.:AT.VII,19.22/E.09.28)、「頭を動かす
こと」(1.F104:AT.VII,19.24/E.09.30)も真ではないようだし、我々がもっている「全身」も「このような」ものでは「ない」
(1.F107:AT.VII,19.25-26/E.10.02)らしい。
arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),Apr.28,2007.
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY,
nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
...(頁、行)
E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
...(頁、行)
cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
...(1=「第一省察」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)
§103 Line of 《CD》
for Going Straight in Straits
(1) One extreme line of 《CD》(感覚の裏表/蒸気は狂気から)
[1.C101-C102-C201-D101-D103-D204-D301-D305-D309-D312-D403]
「思うに、どれも皆、私はとりわけ真なるものとして受け容れてきた」(1.C101:AT.VII,18.15/E.08.17-18)のだ
が、「諸感覚から」(1.C102:AT.VII,18.16/E.08.18)「時々」欺かれるのを、「私は思い知らされたことがあった」
(1.C201:AT.VII,18.16-17/E.08.19-20)。
このように、「諸感覚が時々、我々を欺く」
のは、「何か微小なものや比較的隔たったものをめぐって」なのだが(1.D101:AT.VII,18.19-20/E.08.22-24)、他方で、同
じく諸感覚から「汲み出される」(1.D103:AT.VII,18.21-22/E.08.25-26)ところによれば、「この紙を手で触れている」
(1.D204:AT.VII,18.23-24/E.08.28-29)際の、「これらの手そのもの」は「実に」(1.D301:AT.VII,
18.24/E.08.29)「私」のものである。ところが「胆汁」が「黒い」せいなのか、落胆して狂気に陥ると、人々の「脳なんてもの
cerebella」は「とてもしぶとい蒸気」で「ぐらついてしまう」(1.D305:AT.VII,19.01-02/E.09.02-03)。こうし
た人々にとっては、「裸」とは(1.D309:AT.VII,19.03-04/E.09.06)、融けた「ビードロ」を吹いてできあがった
(1.D312:AT.VII,19.05/E.09.07-08)ものとなる。そこで「私はそういう例を、彼らから私に転じてみた」(1.D403:
AT.VII,19.06-07/E.09.09-10)。
(2) The other extreme line of 《CD》(感じ取っても決して疑えないもの)
[1.C101-C103-C202-D102-D202-D205-D303-D307-D311-D401]
「思うに、どれも皆、私はとりわけ真なるものとして受け容れてきた」(1.C101:AT.VII,18.15/E.08.17-18)のだ
が、「諸感覚をとおして私が受け取った」(1.C103:AT.VII,18.16/E.08.19)ものであっても、「賢明」であれば「決して全面的に
は信頼しない」(1.C202:AT.VII,18.17-18/E.08.20-21)。なぜならそれらは「我々を一度でも惑わしたことがある」からな
のだ(ibid.:AT.VII,18.18/E.08.21-22)。
ところが「他の大多数」については、「疑われる
ことは全くできない」のである(1.D102:AT.VII,18.20-21/E.08.24-25)。たとえば「炉辺に座っていること」
(1.D202:AT.VII,18.22/E.08.27)、「およびそれに類する」諸々のこと(1.D205:AT.VII,
18.24/E.08.29)は、「何の理由で否定されることができようか」(1.D303:AT.VII,18.25-26/E.08.30-
09.01)。いくら「貧乏だ」(1.D307:AT.VII,19.03/E.09.05)からといって、「みずから」の全身が「カボチャ」型の壷であ
る(1.D311:AT.VII,19.04-05/E.09.06-07)と云い張るなら、そういう人々は「正気を失っている amentes
sunt」のだ(1.D401:AT.VII,19.05/E.09.08)。
(3) The moderate line of 《CD》(演説で狂気発覚か/蕩けるビードロに惚ける私)
[1.C101-C202-D201-D203-D205-D302-D304-D306-D308-D310-D312-D402]
「思うに、どれも皆、私はとりわけ真なるものとして受け容れてきた」(1.C101:AT.VII,18.15/E.08.17-18)のだ
が、それらのうちで「我々を一度でも惑わしたことのあるもの」は、「決して全面的に信頼しないのが賢明である」(1.C202:AT.VII,18.17
-18/E.08.20-22)。
但し、「今ここにいる」「私」(1.D201:AT.VII,
18.22/E.08.26-27)が「冬の衣を纏っていること」(1.D203:AT.VII,18.23/E.08.27-28)、「およびそれに類
する」ような諸々のこと(1.D205:AT.VII,18.24/E.08.29)、要するに「この全身が私のものであること」(1.D302:
AT.VII,18.24-25/E.08.29-30)を「私が知らない」(1.D304:AT.VII,18.26/E.09.02)のは、「ひょっ
として」「私が」みずからを「誰かに比喩」しているせいで「狂気」になっている(ibid.:AT.VII,18.26/E.09.01-02)からかも
しれない。それもそのはず、「いつまでも云い張る」ところによれば、「自分は国王であり」(1.D306:AT.VII,19.02/E.09.04)、
「紫衣で纏われていて」(1.D308:AT.VII,19.03)、「もっている」「頭」は「粘土製」(1.D310:AT.VII,
19.04/E.09.06)だが、みずからの全身は融けた「ビードロ」を吹いてできあがった(1.D312:AT.VII,19.05/E.09.07
-08)、というのだから、「私自身が精神 mens を喪失している de-
と思われていた」(1.D402:AT.VII,19.06/E.09.08-09)にちがいない。
arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),Apr.27,2007.
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY,
nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
...(頁、行)
E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
...(頁、行)
cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
...(1=「第一省察」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)
§102 Line of 《B》
for Going Straight in Straits
(1) One extreme line of 《B》(偽なるものに対して)
[1.B101-B102-B203-B205-B303-B306]
「しかし、このために必要にはならない」(1.B101:AT.VII,18.04/E.08.03-04)ことがある。すなわちそれは、
「私」のそれらの意見の「すべてが偽である、ということを指し示す」こと(1.B102:AT.VII,18.04-05/E.08.04-05)だろ
う。なるほど「明らかに偽なるものに対して」は、まず「同意」せずに「保留しなければならない」(1.B203:AT.VII,18.07-
08/E.08.08-09)が、「私」はそれらの意見の「各々のうちに」「何らかの理由なり根拠なり」を「見いだし」て「疑う」ようになった
(1.B205:AT.VII,18.09-10/E.08.10-11)。
すると「掘り返された土台」
(1.B303:AT.VII,18.11-12/E.08.13-14)とも云うべき原理そのものに「依拠していた」のは、「旧来私の信じてきたものす
べて」であった(1.B306:AT.VII,18.13-14/E.08.16-17)。
(2) The moderate line of 《B》(不審なものにも精確な対応を)
[1.B101-B103-B202-B204-B301-B304-B306]
「しかし、このために必要にならない」(1.B101:AT.VII,18.04/E.08.03-04)ことがある。「おそらく、私がそれ
を達成することは、まずない」(1.B103:AT.VII,18.05/E.08.05-06)。よって「確かで疑われえない」ことが「全面的」では
「ない」ようなものに対して「精確に」(1.B202:AT.VII,18.06-07/E.08.07-08)応じさえすれば、「充分」に「私」の意見
の「すべてを突っぱねる」ことができるだろう(1.B204:AT.VII,18.08-09/E.08.10)から、それらの意見を「一つ一つ」「走査
することさえも」しなくて構わないだろう(1.B301:AT.VII,18.10-11/E.08.12)。
すると土
台のうえに「建てられたもの」は「どれも皆、おのずと崩れ落ちる」(1.B304:AT.VII,18.12-13/E.08.14-15)のだが、その
土台とも云うべき原理そのものに「依拠していた」のは、「旧来私の信じてきたものすべて」であった(1.B306:AT.VII,18.13-
14/E.08.16-17)。
(3) The other extreme line of 《B》(原理めがけて、まっしぐらに)
[1.B101-B201-B204-B302-B305-B306]
「しかし、このために必要にならない」(1.B101:AT.VII,18.04/E.08.03-04)ことがある。「今すでに理性が説得
している」(1.B201:AT.VII,18.06/E.08.06-07)ところによれば、それは「私」の意見の「すべてを突っぱねるためには充分で
あろう」(1.B204:AT.VII,18.08-09/E.08.10)が、「それは」また「果てしない作業」でもある(1.B302:
AT.VII,18.11/E.08.13)。
よって「私は、ただちに原理そのものに着手するつもりだ」
(1.B305:AT.VII,18.13/E.08.15-16)。というのも、その原理には、「旧来私の信じてきたものすべてが依拠していた」
(1.B306:AT.VII,18.13-14/E.08.16-17)からである。
arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),Apr.27,2007.
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