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AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
...(頁、行)
E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
...(頁、行)
cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
...(6=「第六省察」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)
§206 Surface of 《QRSTUV》
for That's Fusion, Not Confusion.
(1) The 1st surface of 《QRSTUV》(全力を尽くすこと)
[6.Q101-Q102-Q201-Q300-Q400]
[6.R101-R102-R202-R204-R302-R503-R603][6.S102-S302-S501-S502]
[6.T101-T103-T202-T301-T305-T501-T506]
[6.U102-U104-U106-U108-U110-U112-U202-U204-U206-U208-U301-U303 -U401-U403-U405-U407]
[6.V101-V102-V203-V207-V304-V402-V405-V408]
「そして確かに」(6.Q101:AT.VII,85.18/E.89.25)、「注視してみれば」、「水腫病を患っている身体」
(6.Q102:AT.VII,85.18-19/E.89.25-26)と精神との「複合体」(6.Q201:AT.VII,85.21-
22/E.89.29-30)が「渇く」と、「飲料」で「みずからを害し」てしまう(6.Q300:AT.VII,85.24/E.90.02-03)。
よって、「このとおりに取られ」ても「欺く」のが「自然」な(6.Q400:AT.VII,85.26-27/E.90.05)のであって、「神」が
「善」であれ、「どんな仕方で」あれ、欺かないようにと「妨げることのない」のが自然だ(ibid.:AT.VII,85.25-26/E.90.04-
05)。そして、このことこそが「探求されるべく」「ここで留まって」いるのだ(ibid.:AT.VII,85.25/E.90.03-04)。
「思うに、とりわけまずここで私が気づく」ところによれば、「精神と物体と mentem &
corpus」は大きく異なっている(6.R101:AT.VII,85.28-29/E.90.06-07)。「物体」や身体が「分割されうる」のは
「その本性からして」「常」である(6.R102:AT.VII,85.29-30/E.90.07-09)が、「私自身」は「ただ思惟するだけの事物で
ある」(6.R202:AT.VII,86.01-02/E.90.10-11)。その「かぎりにおいて」(ibid.:AT.VII,
86.02/E.90.10-11)「全く一にして」掬える「事物は私」なのであって(6.R204:AT.VII,86.03-04/E.90.12-
13)、このことを「知解する」のも「私」だ(ibid.:AT.VII,86.04/E.90.13)。それこそ、「足、もしくは腕、もしくは他のどれ
でも、身体の部分」なら「切断してしまえば」(6.R302:AT.VII,86.05-06/E.90.15-16)、「このこと自体」でもって「私
は」、物体および身体としての事物が、すなわち延長する事物が「分割されうる」、ということを「知解する」(6.R503:AT.VII,86.12-
13/E.90.23-24)のだが、これでは「まだ充分ではない」(6.R603:AT.VII,86.15/E.90.27)。そこで、「私はこのこ
とを別のところから知る」つもりなのだが(ibid.)、「ただ単に脳から」であれ、「もしくはおそらくまた、ただ」脳の「微小な一つの部分だけから」で
あれ(6.S102:AT.VII,86.17-18/E.90.30-91.01)、「精神に表示」されるのが「同じもの」である(6.S302:
AT.VII,86.20-21/E.91.04)ならば、そのことを「証明している」「経験」は「無数」にある(6.S501:AT.VII,
86.22-23/E.91.06)ので、「それらをここで列挙すること」は「不要だ」(6.S502:AT.VII,86.23/E.91.07)。
他方、「物体」や身体について「私が気づく」ところによれば、「その本性」上(6.T101:AT.VII,
86.24/E.91.08-09)、物体および身体の或る部分が「動かされうる」のは、或る程度隔たった別の部分からでも、これら二つの部分に「介在し
ている」部分のうちの「どこからでも」、「同じ仕方」なのであって(6.T103:AT.VII,86.26-27/E.91.10-12)、それは綱
ABCDの「最後の部分なるD」によって「引きずられる」(6.T202:AT.VII,86.28-87.01/E.91.14)のと「似つかぬわけで
はない」(6.T301:AT.VII,87.04/E.91.18)。だからこそ、諸々の神経が「足において引きずられ」て(6.T305:
AT.VII,87.07/E.91.22)「起こりうる」(6.T501:AT.VII,87.13/E.91.30)ならば、それが「脳のなかに生ず
る運動」であれ、「足」を「刺激され」て「悪く」なったときに「生ずる」運動であれ、「まったく同じ」なのだ(6.T506:AT.VII,87.15-
16/E.92.02-04)。このように、「運動」であるからには、そのうちの「各々」が(6.U102:AT.VII,87.19-
20/E.92.07-08)精神に「もたらす」「何らかの感覚」は、「一つしかない」(6.U104:AT.VII,87.21-22/E.92.09
-10)。となると、「かの」感覚の「もたらす」(6.U106:AT.VII,87.22-23/E.92.11-12)ものが「最大にして最も頻繁に
有利である」のは、「人間」を「健康」に「維持」するのに際してだ(6.U108:AT.VII,87.23-25/E.92.13-15)。なぜなら
「我々の感覚のすべて」が「そのような」ものとして「自然に仕込まれて a naturâ
inditos」いる(6.U110:AT.VII,87.26/E.92.15-16)ならば、「神」が「有能であり善であること」を「立証しない
(non
testari)」感覚は、何もない(6.U112:AT.VII,87.27-28/E.92.17-18)はずだからである。よって、諸々の神経の
「こうした運動が」(6.U202:AT.VII,88.02/E.92.21)脳の奥で「精神に合図を与える」と、この精神は「何らかのものを感覚する
こと」になる(6.U204:AT.VII,88.03-04/E.92.22-23)のだが、この合図によって「引き起こされ」た精神は、苦痛の「原
因」に対して(6.U206:AT.VII,88.05-06/E.92.25)「みずから」の「最大限」(6.U208:AT.VII,
88.06/E.92.26)の力を発揮するべく、「神によって構成されることができた」のだろう(6.U301:AT.VII,88.07-
08/E.92.27-28)。したがって「本性」上、「実に」「人間」の(ibid.:AT.VII,88.07/E.92.27)脳におけるあの運動
によって精神に表示されるものは、運動「そのもの」である「かぎり」なら、「脳のなかに」あろうが「足のなかに」あろうが、その「中間の場所のうちのどこ
に」あろうが、「最後に、任意」のものなら「他のどこに」あろうが(6.U303:AT.VII,88.09-11/E.92.29-93.02)、「同
じ仕方」だ(6.U401:AT.VII,88.13/E.93.04-05)。たとえば「飲料を要求する」「我々」(ibid.)においては咽
(guttur)の「神経」が「動かさ」れて、「その」神経の「助け」を介して、「脳の内部」が動かされる(6.U403:AT.VII,88.14-
15/E.93.06-07)のだが、飲料を求めて体調を維持するということを「この状況全体において」「知る」と、それは「我々にとって有用」となる
(6.U405:AT.VII,88.16-17/E.93.08-09)。「そして」同じようなことは「そのほかについて」も云える(6.U407:
AT.VII,88.18/E.93.11)。
以上から「およそ明瞭な」のは(6.V101:AT.VII,88.19/E.93.12)、「果てしなく善」である
「神」には「抗しない」(6.V102:AT.VII,88.19-20/E.93.12-13)、ということだ。足以外の「部分」のどこであれ、その部
分をとおして「諸々の神経が足から脳に届いている」(6.V203:AT.VII,88.22-24/E.93.16-18)ならば、「感覚が欺かれる」
のも「自然で」あろう(6.V207:AT.VII,88.26-27/E.93.21-22)。そうすると、「足の」苦痛を「常に」「精神に表示する」
ほうが、「別の部分の苦痛」を表示する「よりもむしろ」、「理にかなっている」(6.V304:AT.VII,88.30-89.02/E.93.26-
28)ことになる。また「飲料」は「たいてい」、「身体の調子に有利である」が、そうで「ない」(6.V402:AT.VII,89.03-
04/E.93.29-30)「場合にも」、感覚を「欺く」のが喉の干からびであれば、「かなりまし」だ(6.V405:AT.VII,89.05-
06/E.94.02-03)。「そして」同じようなことは「残りのことについても」云える(6.V408:AT.VII,89.07/E.94.04-
05)。
(2) The 2nd surface of 《QRSTUV》(誤りを正すこと)
[6.Q101-Q104-Q106-Q203-Q400]
[6.R101-R103-R401-R501-R602-R603][6.S200-S302-S502]
[6.T101-T102-T104-T204-T303-T307-T401-T502-T504-T600]
[6.U101-U105-U108-U111-U203-U207-U302-U402-U406-U407]
[6.V101-V103-V202-V205-V302-V403-V407-V408]
「そして確かに」(6.Q101:AT.VII,85.18/E.89.25)「廃れている」のが「自然」だ、と「云われている」その身体
(6.Q104:AT.VII,85.19-20/E.89.27-28)について、もしその身体が「飲料を求めていない」(6.Q106:
AT.VII,85.21/E.89.29)ならば、その「命名」は「純粋ではない」(6.Q203:AT.VII,85.23/E.90.01)。よっ
て、「このように取られ」ても「欺く」のが「自然」な(6.Q400:AT.VII,85.26-27/E.90.05)のであって、「神」が「善」であ
れ、「どんな仕方で」あれ、欺かないようにと「妨げることのない」のが自然だ(ibid.:AT.VII,85.25-26/E.90.04-05)。そ
して、このことこそが「探求されるべく」「ここで留まって」いるのだ(ibid.:AT.VII,85.25/E.90.03-04)。
「思うに、とりわけまずここで私が気づく」ところによれば、「精神と物体と mentem &
corpus」は大きく異なっている(6.R101:AT.VII,85.28-29/E.90.06-07)。「精神は」その本性からして「全く分割さ
れえない」(6.R103:AT.VII,85.30-86.01/E.90.09)。「意欲し」たり「感覚し」たり「知解し」たりすること「等々」は精
神の「機能」なのであるから、「部分」と「云われることはできない」(6.R401:AT.VII,86.07-09/E.90.17-19)。「逆
に」、「私によって思惟されることのできる」「事物」が「物体的」でもなく身体的でも「ない」ならば、「すなわち延長して」いない(6.R501:
AT.VII,86.10-11/E.90.21-22)ならば、その事物は物体や「身体とはおよそ別個な」ので、「精神」である(6.R602:
AT.VII,86.14-15/E.90.26)。しかしこれでは「まだ充分ではない」(6.R603:AT.VII,86.15/E.90.27)。
そこで「私はこのことを別のところから知る」つもりなのだが(ibid.)、「感覚」として「共通」に「云われている」部分から(6.S200:
AT.VII,86.19/E.91.01-02)「精神に表示」されるものが「同じ」である(6.S302:AT.VII,86.20-
21/E.91.04)ならば、「それらをここで列挙すること」は「不要だ」(6.S502:AT.VII,86.23/E.91.07)。
他方、「私が気づく」ところによれば、「物体」や身体は、「その本性」上(6.T101:AT.VII,
86.24/E.91.08-09)、「いかなる部分」であれ「動かされえない」という場合、その「他の部分」が「或る程度隔たって」いるのであれば
(6.T102:AT.VII,86.24-26/E.91.09-10)、この「隔たった」ほうの部分が「何もはたらきかけなく」(6.T104:
AT.VII,86.27-28/E.91.12-13)ても、「動かされることもできる」(6.T204:AT.VII,87.02/E.91.15-
16)はずだ。ところで「自然学やら物理学やら Physica
が私に教えてきた」ところによると、「私」の足における「この」苦痛の「感覚が生ずる」にあたっては「諸々の神経の助けを」介する(6.T303:
AT.VII,87.05/E.91.19-20)のだが、「足をとおして広がっている」これらの神経が(ibid.:AT.VII,
87.06/E.91.20-21)「何らかの運動を」脳の奥の部分に「引き起こす」(6.T307:AT.VII,87.09/E.91.24-25)
ためには、「脛、腿、腰、背および首を通過しなければならない」(6.T401:AT.VII,87.11-12/E.91.27-29)。したがって、
「それらの神経」(ibid.:AT.VII,87.11/E.91.27)の「部分が」(6.T502:AT.VII,87.13-
14/E.91.30-92.01)「触れられない」(6.T504:AT.VII,87.14/E.92.01)場合には、「どれについてであれ」「同
じ」く「他の感覚」である、と「考えられるべき」だ(6.T600:AT.VII,87.17-18/E.92.05-06)。そうすると「私が気づく」
(6.U101:AT.VII,87.19/E.92.07)かぎり、「こうした事物において」「それ以上何もない」くらいに「よい」ことが「考え出され
うる」(6.U105:AT.VII,87.22/E.92.10-11)。すなわちそれは、「人間」を「健康」に「維持」するのに「最大にして最も頻繁
に有利である」もの「以外に」(6.U108:AT.VII,87.23-25/E.92.13-15)、感覚のなかには「まったく何も見いだされない」
(6.U111:AT.VII,87.26-27/E.92.16-17)、ということである。たとえば、「脊髄をとおして per spinae
dorsi medullam
脳の奥へと伝達」(6.U203:AT.VII,88.02-03/E.92.21-22)される神経の運動ならば、「足に害がはびこっている
infestum
ように」(6.U207:AT.VII,88.06/E.92.26)「脳のなかで精神に表示」されるが、「任意なら他の何」が表示されようとも、神経の
「運動」はこれと「同じ」ようである(6.U302:AT.VII,88.08-09/E.92.28-29)。また、「咽(guttur)において」
「何か」「乾燥しはじめる」(6.U402:AT.VII,88.13-14/E.93.05-06)のは、「我々が」「飲料」でもって「体調」を「維
持」しようと「求めている」(6.U406:AT.VII,88.17-18/E.93.09-11)せいなのである。「そして」同じようなことは「その
ほかについて」も云える(6.U407:AT.VII,88.18/E.93.11)。
以上から「およそ明瞭な」(6.V101:AT.VII,88.19/E.93.12)ところによると、「人間」は、
「精神と身体とから複合されている」かぎり、みずからの「本性」によって欺かれざるをえないときもある(6.V103:AT.VII,88.20-
22/E.93.13-15)。よって、「足においてではない」(6.V202:AT.VII,88.22/E.93.16)何らかの原因で「引き起こ」
された「運動」と、「足」が「刺激され」て「悪く」なったときに「たいてい引き起こされがち」な運動とが、どちらも「まったく同じ」である
(6.V205:AT.VII,88.24-25/E.93.19-20)ならば、このように運動しはじめる「原因」でもって「足を傷つけている」ほう
が、頻度は「はるかに」高いのが「常である」(6.V302:AT.VII,88.28-30/E.93.24-25)けれども、このように運動しはじめ
る「原因」がそれと「反対の何か」であっても(6.V403:AT.VII,89.04/E.93.30-94.01)、「身体」は「良好」に「構成され
ている」(6.V407:AT.VII,89.06-07/E.94.04)。「そして」同じようなことは、「残りのことについても」云える
(6.V408:AT.VII,89.07/E.94.04-05)。
(3) The 3rd surface of 《QRSTUV》
(心身が合一しているにも拘わらず、身体の部分や感覚やその原因は多様だ)
[6.Q101-Q103-Q105-Q202-Q204-Q400]
[6.R101-R201-R203-R301-R303-R402-R502-R601-R603][6.S101-S301-S400-S502]
[6.T101-T201-T203-T205-T302-T304-T306-T308-T402-T503-T505-T507]
[6.U103-U107-U109-U201-U205-U209-U304-U404-U407]
[6.V101-V201-V204-V206-V301-V303-V401-V404-V406-V408]
「そして確か」なのは(6.Q101:AT.VII,85.18/E.89.25)、「外面的」に「ただ命名」されただけでは
(6.Q103:AT.VII,85.19/E.89.26-27)、「喉が乾いたままだ、ということ」(6.Q105:AT.VII,85.20-
21/E.89.28)である。「精神」が「そのような身体」と「合一している」(6.Q202:AT.VII,85.22-23/E.89.30-
90.01)ことについて、もしそれが「自然」による「過誤」ならば「真」に(6.Q204:AT.VII,85.23-24/E.90.01-02)な
るのだ、というように「取られ」ても、「欺く」のが「自然」なのであって(6.Q400:AT.VII,85.26-27/E.90.05)、「神」が
「善」であれ、「どんな仕方で」あれ、欺かないようにと「妨げることのない」のが自然だ(ibid.:AT.VII,85.25-26/E.90.04-
05)。そして、このことこそが「探求されるべく」「ここで留まって」いるのだ(ibid.:AT.VII,85.25/E.90.03-04)。
「思うに、とりわけまずここで私が気づく」ところによれば、「大きな相違」は「精神と物体との間に inter
mentem & corpus
ある」(6.R101:AT.VII,85.28-29/E.90.06-07)。「精神を考察する場合」の「私」は、「固より」(6.R201:
AT.VII,86.01/E.90.09-10)「何も部分を区別することができない」(6.R203:AT.VII,86.02-
03/E.90.11-12)のだが、それは「私においては」(ibid.:AT.VII,86.02/E.90.11)「身体全体と精神全体とが合一し
ていると思われる」(6.R301:AT.VII,86.04-05/E.90.13-15)からである。「私の認識する」ところによれば、「取り除かれ
る」ものが「何もない」「精神」(6.R303:AT.VII,86.06-07/E.90.16-17)と、「意欲し」たり「感覚し」たり「知解し」た
りする「精神」とは、「同一である」(6.R402:AT.VII,86.09-10/E.90.19-21)から、「私が思惟」することでもって精神を
「分割し」て「部分に」するというのは、「容易で」は「ない」(6.R502:AT.VII,86.11-12/E.90.22-23)。しかし「このこ
と一つ」で「充足して」しまうと、なるほど「私に教えること」はできるが(6.R601:AT.VII,86.13-14/E.90.25)、それでは
「まだ充分ではない」(6.R603:AT.VII,86.15/E.90.27)。そこで、「そのことを別のところから私は知る」つもりだが
(ibid.)、「私が気づく」ところによれば、「精神の触発される」のが「身体の部分のすべてから」で「なく」ても、また「媒介なしで」なくても
(6.S101:AT.VII,86.16-17/E.90.28-29)、脳の微小な一部分が「いつでも同じ仕方で配置される」(6.S301:
AT.VII,86.20/E.91.02-03)ならば、「その際に身体の残りの部分は別個の仕方でみずからを保つことができる」(6.S400:
AT.VII,86.21-22/E.91.04-06)のだから、「それらをここで列挙すること」は「不要だ」(6.S502:AT.VII,
86.23/E.91.07)。
他方、「物体」や身体について「私が気づく」のは、「その本性」である(6.T101:AT.VII,
86.24/E.91.08-09)。「綱ABCD」におけるような例を示すと(6.T201:AT.VII,86.28/E.91.13-14)、「動
かされる」のが「最初の」部分「Aにほかならない」という「様子
pacto」については(6.T203:AT.VII,87.01-02/E.91.15)、「最後の」部分「Dが動かないままでいる」ならば、「中間
の」部分のうちの「一つ」なる「BもしくはC」によって、部分Aは「引きずられている」(6.T205:AT.VII,87.02-04/E.91.16
-18)。ちなみに、「私が苦痛を感覚している」「足」(6.T302:AT.VII,87.04/E.91.18-19)から「脳にまでずっと伸びてい
る」諸々の神経は、「綱そっくりで」(6.T304:AT.VII,87.06-07/E.91.21-22)、「脳の奥の部分」へと「続いている」
(6.T306:AT.VII,87.07-08/E.91.23-24)。諸々の神経がこの部分を「引きずって」(ibid.:AT.VII,
87.07/E.91.23)この運動が「精神を触発」すると、精神は、「苦痛」が「あたかも足に存するかのように」「感覚」するのだが、このように「自
然に制定された」のである(6.T308:AT.VII,87.09-11/E.91.25-27)。となると、「足から脳に至る」(6.T402:
AT.VII,87.12-15/E.91.29-30)神経ならば、「足のなかにある」部分(6.T503:AT.VII,
87.14/E.92.01)であれ、「ただ中間の」部分のうちのどこかだけ(6.T505:AT.VII,87.14-15/E.92.01-02)で
あれ、「精神の感覚する」「苦痛」は「必然的に」「同じであろう」(6.T507:AT.VII,87.16-17/E.92.04-05)。このように
「脳のあの部分」が「精神を触発する」にあたっては、「何も媒介しない」のだが、この部分に「生じ」ている各々の運動は(6.U103:AT.VII,
87.20-21/E.92.08-09)感覚の「すべて」を「もたらすことができる」(6.U107:AT.VII,87.23/E.92.12-
13)。「経験」によって「立証」されている(6.U109:AT.VII,87.25/E.92.15)例によると(6.U201:AT.VII,
87.28/E.92.19)、「足に在る神経」が「いつもと違って激しく動かされ」ている場合(ibid.:AT.VII,88.01-
02/E.92.19-21)には、「苦痛」を「あたかも足のなかに存在するが如き」ものとして(6.U205:AT.VII,88.04-
05/E.92.24-25)「除去する」(6.U209:AT.VII,88.04-05/E.92.26-27)ことでもって「身体」を「維持」する
「以外に」「有利な」ことは「なかった」(6.U304:AT.VII,88.11-13/E.93.03-04)。「同じく」(ibid.:
AT.VII,88.12/E.93.04)、咽(guttur)の神経から脳の内部に伝わった「運動」に「触発」されたせいで「精神」が「感覚」するの
は「渇き」である(6.U404:AT.VII,88.15-16/E.93.07-08)。「そして」同じようなことは、「そのほかについても」云える
(6.U407:AT.VII,88.18/E.93.11)。
以上から「およそ明瞭な」(6.V101:AT.VII,88.19/E.93.12)ところによると、「何らかの原
因」で(6.V201:AT.VII,88.22/E.93.16)「脳そのもののなかに」引き起こされる運動も(6.V204:AT.VII,
88.24/E.93.18-19)、そしてまた「あたかも足におけるかのように」「苦痛が」「感覚されることになる」(6.V206:AT.VII,
88.26/E.93.20-21)場合に「脳のなかに」引き起こされる「運動」も、どちらも「同じ」であるならば(6.V301:AT.VII,
88.27/E.93.22-23)、「この」運動が「精神にもたらすことのできる」「感覚」は「常に同じ」で「しかない」(ibid.:AT.VII,
88.27-28/E.93.22-24)とはいえ、「別のところに」は足を傷つける原因「以外の」ものが「存在している」(6.V303:
AT.VII,88.30/E.93.25-26)。したがって、「或るときに喉の干からび」(6.V401:AT.VII,89.02/E.93.28
-29)に「至っている」人が「水腫病に」かかっているならば(6.V404:AT.VII,89.04-05/E.94.01-02)、喉の干からびが
感覚を「欺く」のは、「常に」身体の良好とは「逆」の場合である(6.V406:AT.VII,89.06/E.94.03)。「そして」同じようなこと
は、「残りのことについても」云える(6.V408:AT.VII,89.07/E.94.04-05)。
arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),June 10,2007.
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
...(頁、行) E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
...(頁、行)
cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
...(6=「第六省察」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)
§205 Surface of 《KLMN2N3PQ》
for That's Fusion, Not Confusion.
(1) The 1st surface of 《KLMN2N3PQ》(苦痛について)
[6.K101-K103-K105-K202] [6.L101-L103-L201-L203-L205-L207-L301]
[6.M101-M201-M204-M206-M302-M306]
[6.N203-N302-N304-N306-N308-N311-N401-N404-N406]
[6.N501-N601-N603-N606-N701-N801-N803-N805-N807]
[6.P101-P103-P202-P204-P206-P302-P401-P403-P405-P407-P409-P411 -P502-P504-P506-P600-P702-P704-P802]
[6.Q101-Q102-Q201-Q300-Q400]
「しかし」、「私に、これ以上ないくらいに判然と教える」のが「そうした自然」なり本性なりだが、それによれば(6.K101:
AT.VII,80.27-28/E.84.01-02)、まず、「私」のもっている身体が悪いのは「私が苦痛を感覚する場合」(6.K103:
AT.VII,80.28-29/E.84.03)や、「私が飢えもしくは渇きを被る場合など」(6.K105:AT.VII,80.29-
30/E.84.04-05)である。「このことのなかには何らかの真理がある」(6.K202:AT.VII,80.31/E.84.06-07)はず
だ。「また」、「教えて」くれるのが「自然」だということで、それによれば(6.L101:AT.VII,81.01/E.84.08)、第二に、「私」
が「私の身体に居合わせている」様子は「あたかも水夫が舟に乗り合わせているかの如く」である(6.L103:AT.VII,81.02-
03/E.84.09-10)。もし「身体が傷つけられ」ても(6.L201:AT.VII,81.05/E.84.13-14)、「私が苦痛を感覚して
いない」(6.L203:AT.VII,81.06-07/E.84.15)という場合には、「あたかも舟のなかで何か壊されたもの」を「水夫が視て知得
するかのように」(6.L205:AT.VII,81.08-09/E.84.17-18)、「このこと自体を私は判然と知解するだろう」
(6.L207:AT.VII,81.09-10/E.84.19)。しかし「確か」に「私」は、「そうした飢えや渇きや苦痛など」を「感覚」しているの
だ(6.L301:AT.VII,81.11/E.84.21)。「それに加えてまた」第三に、「私が自然に教わった doceor a
naturâ」ところによれば、「私の身体の周りには様々な他の物体なり身体なりが実在している」(6.M101:AT.VII,81.15-
16/E.84.26-27)。「私の感覚する色、音、匂い、味、熱、堅さおよびこれに類するもの」が「きわめて多様な」のは「確か」なのであって
(6.M201:AT.VII,81.17-19/E.84.29-85.01)、「そうした感覚」での「様々な」「知得は」諸々の物体から「到来する」
(6.M204:AT.VII,81.20-21/E.85.03-04)。「おそらく」諸々の物体は「それら」の知得には「類似していない」
(6.M206:AT.VII,81.22/E.85.05)だろうが、「私」にとって「好ましくないもの」(6.M302:AT.VII,81.23-
24/E.85.07)もある。「私」を「取り巻いている物体なり身体なりによって、好都合にであれ不都合にであれ様々な仕方で私は触発されることができ
る」のだ(6.M306:AT.VII,81.26-27/E.85.10-11)。
さて「私が何らかのものを自然に a naturâ
教わる、と私が云う場合」(6.N203:AT.VII,82.14-15/E.85.29-30)、「私に神から賦与されているものすべての綜体」
(6.N302:AT.VII,82.16-17/E.86.01-02)のうち、「為されることは為されないことではありえないのだと私が知得する、と
いったようなこと」(6.N304:AT.VII,82.19-20/E.86.04-05)については「ここでは語らない」し(6.N306:
AT.VII,82.21/E.86.07)、物体が「下方へ向かうということ、およびそれに類するようなこと」(6.N308:AT.VII,
82.22-23/E.86.08-09)についても語らない。なぜなら、「精神と身体とから複合されたものとして」(6.N311:AT.VII,
82.84/E.86.11)の「私」に「教えている」のは「この」自然だが、それによると、「なるほど苦痛の感覚をもたらす諸々のものを忌避すること」
(6.N401:AT.VII,82.25-26/E.86.12-14)であって、「それらについて真実を知る」と、「もっぱら精神のみに」
(6.N404:AT.VII,82.30-83.01/E.86.19-20)「属する、と思われる」(6.N406:AT.VII,83.01-
02/E.86.20-21)からである。たとえば、「星」よりも「小さな松明の火のほう」が「いっそう刺激する」のは「私の目」だし(6.N501:
AT.VII,83.02-03/E.86.21-23)、「火に近づくと熱を感覚する」のも「私」だが(6.N601:AT.VII,83.06-
07/E.86.26-27)、「何も根拠がない」にも拘わらず「火のなかには、そうした熱に類似したものが何かあるのだ」、と「説き伏せ」られてしまう
のも「私」だ(6.N603:AT.VII,83.08-09/E.86.29-30)。しかし「所詮何であれ」(6.N606:AT.VII,
83.10-11/E.87.02)、「或る空間のなかには、感覚を動かすものは何もない」(6.N701:AT.VII,83.12-
13/E.87.04-05)のであって、「感覚」でもって「知得」したことは(6.N801:AT.VII,83.15-16/E.87.08-
09)、精神が複合体の「部分である」(6.N803:AT.VII,83.18/E.87.11-12)「かぎりでは、充分に明晰・判明である」
(6.N805:AT.VII,83.19/E.87.13)が、物体なり身体なりの本質については、「きわめて不明瞭で不分明にしか指示しない」
(6.N807:AT.VII,83.22-23/E.87.16-18)。
そうであれば、「実に稀ならざる」ことに、「誤る」「我々」が「自然に a naturâ
駆り遣られて」(6.P101:AT.VII,84.08-09/E.88.06)「飲料あるいは食物を欲求する」と、「少し後でみずからを害する
(nocere)」(6.P103:AT.VII,84.09-10/E.88.08-09)けれども、我々が「誤る」のは、我々みずからの本性が廃れて
いるせいで(6.P202:AT.VII,84.11/E.88.10)は「ない」(6.P204:AT.VII,84.12/E.88.11-12)の
だから、「困難」は「除去」される(ibid.)。そこで「私に思われる」ところによれば、「矛盾する」のは、「神から授かっている」にも拘わらず「人
間」にとっての「自然」が「欺く」ことだ(6.P206:AT.VII,84.14-15/E.88.13-15)。たとえば「仕上がり」が「悪く」て
「時を正しく報じない」(6.P302:AT.VII,84.17-18/E.88.18-19)時計と「人間の身体」とを「同じように」「考察する」
「私」にとっては(6.P401:AT.VII,84.19-20/E.88.20-21)、その身体のなかに「何も精神が存在していない」
(6.P403:AT.VII,84.22-23/E.88.24-25)のは、「自然なことだ」と「認知する」が、それは「私」にとって「容易だ」
(6.P405:AT.VII,84.25-26/E.88.27-28)。「それと同じで」(ibid.:AT.VII,
84.25/E.88.28)、人間の身体は「喉の干からびを被る」と(6.P407:AT.VII,84.26-27/E.88.29)、その干からび
によって「その」身体の「神経および残りの」他の「部分」が「配置される」のだが、その身体が「とる」「飲料」は「病気」を「重く」するし
(6.P409:AT.VII,84.28-29/E.88.30-89.03)、「喉の乾燥」は「似ていて」も、それに「動かされ」て人間の身体が「摂
取する」「飲料」は「みずからにとって有用」(6.P411:AT.VII,84.30-85.02/E.89.04-05)でもある。ここで「私が云え
る」のは、時計が(6.P502:AT.VII,85.03/E.89.07)「みずからの本性」を「逸脱している」ということ(6.P504:
AT.VII,85.04/E.89.08)であり、また「私が考える」ところによれば、人間の身体も、「みずから」にとっての「自然」に「背いている」
(6.P506:AT.VII,85.07/E.89.11-12)。「しかし、この後者」を「自然」として「受け取る」と、「前者とは甚だしく異なる」
ということに「私」は「充分に気づいている」(6.P600:AT.VII,85.09-10/E.89.14-16)。それにも拘わらず、「健康な人間
の観念や、正しく造られた時計の」観念と「対比」されたせいで、「病気の人間や、仕上がりの悪い時計」(6.P702:AT.VII,85.12-
14/E.89.18-21)だと「外面的」に「云われている」のならば、そうした「事物」(6.P704:AT.VII,85.14-
15/E.89.21-22)は「若干」であれ「真理をもっている」(6.P802:AT.VII,85.16-17/E.89.23-24)。というの
も「確かに」(6.Q101:AT.VII,85.18/E.89.25)、「注視してみれば」、「水腫病を患っている身体」(6.Q102:
AT.VII,85.18-19/E.89.25-26)と精神との「複合体」(6.Q201:AT.VII,85.21-22/E.89.29-30)
が「渇く」と、「飲料」で「みずからを害し」てしまう(6.Q300:AT.VII,85.24/E.90.02-03)からである。よって、「このとお
りに取られ」ても「欺く」のが「自然」な(6.Q400:AT.VII,85.26-27/E.90.05)のであって、「神」が「善」であれ、「どんな
仕方で」あれ、欺かないようにと「妨げることのない」のが自然だ(ibid.:AT.VII,85.25-26/E.90.04-05)。そして、このこ
とこそが「探求されるべく」「ここで留まって」いるのだ(ibid.:AT.VII,85.25/E.90.03-04)。
(2) The 2nd surface of 《KLMN2N3PQ》(お召し上がりの際には...)
[6.K101-K104-K202][6.L101-L104-L206-L208]
[6.M102-M203-M205-M301-M304]
[6.N201-N301-N305-N309-N402-N406]
[6.N501-N503-N605-N607-N703-N806-N807]
[6.P101-P102-P203-P301-P402-P404-P408-P501-P505-P507-P701-P703-P802]
[6.Q101-Q104-Q106-Q203-Q400]
「しかし」まず、「そうした自然」に、あるいは本性上、「これ以上ないくらいに判然と教え」てもらっている「私」が(6.K101:
AT.VII,80.27-28/E.84.01-02)「食物あるいは飲料を要するということ」(6.K104:AT.VII,
80.29/E.84.04)のなかには、「何らかの真理がある」(6.K202:AT.VII,80.31/E.84.06-07)はずだ。「また」、
「教えて」くれるのが「自然」だということで、それによれば(6.L101:AT.VII,81.01/E.84.08)第二に、「あたかも混合している
かの如く」みずからの「身体にひじょうに緊密に結合している」「私」は、「このようにして」身体と「複合」して「一なるもの」となっている
(6.L104:AT.VII,81.03-05/E.84.11-13)。
但し、「食物あるいは飲料を要する」ところ
の「身体」は(6.L206:AT.VII,81.09/E.84.18-19)、「飢えと渇きと」を「不分明」に「感覚」するところの「私」では「な
い」(6.L208:AT.VII,81.10-11/E.84.20)。なるほど「私にとって追求されるべきもの」は「幾つかあって」(6.M102:
AT.VII,81.16-17/E.84.28)、「諸々の物体に」おける「何らかの」(6.M203:AT.VII,81.20/E.85.02)
「多様性は、それら」を感覚で知得したものに「対応する」(6.M205:AT.VII,81.21-22/E.85.04)。「それらの知得のうち」に
は「好ましい」ものもあるが、それは「私にとって」(6.M301:AT.VII,81.22-23/E.85.05-07)、「あるいはむしろ全体とし
ての私」(6.M304:AT.VII,81.24-25/E.85.08)にとって、好ましいのである。
さて「このことにおいて充分に判明に知得しない事物がない」(6.N201:AT.VII,82.12-
13/E.85.26-27)のは、「ここで」「私が取る」「自然」の意味が「思うに、比較的厳密」だ(6.N301:AT.VII,82.14-
15/E.85.30)からである。あたかも「光によって」いるが如く「自然に」「知られたもの」の残らず「すべて」(6.N305:AT.VII,
82.20-21/E.86.05-07)について「私は論じるのではない」(6.N309:AT.VII,82.23/E.86.09-10)。なぜな
ら、ここで「私」の扱う自然には、「快楽の感覚を」もたらすものを「追求すること、およびその類いのこと」(6.N402:AT.VII,82.26-
27/E.86.14-15)が「属していると思われる」(6.N406:AT.VII,83.01-02/E.86.20-21)からである。たとえ
ば、「星」よりも「小さな松明の火のほう」が「いっそう私の目を刺激する」(6.N501:AT.VII,83.02-03/E.86.21-23)とい
うだけで、「私」は、星が松明の火よりは大きくないということを「幼い頃から根拠もなく判断してきた」(6.N503:AT.VII,83.05-
06/E.86.25-26)。ちなみに「ただ単にそこにある」根拠が「私」を説き伏せるところによれば、「何らかのもの」が(6.N605:
AT.VII,83.10/E.87.01-02)「我々において、そうした熱もしくは苦痛の感覚を創り出す」(6.N607:AT.VII,83.11
-12/E.87.03-04)ということになるのだが、「この場合にも、他の夥しい場合にも」、「通例」は「私が自然の秩序を覆して
(pervertere)」いる、と「私には思える」のだ(6.N703:AT.VII,83.14-15/E.87.06-08)。このように、感覚で
もって知得したことを「あたかも確実な規則であるかのように使用する」ことでもって「私」が「媒介なしで適正に」知ろう(6.N806:AT.VII,
83.19-21/E.87.14-16)としても、「我々の外部に位置する物体なり身体なりの本質」(ibid.:AT.VII,
83.21/E.87.15-16)については感覚での知得は「きわめて不明瞭で不分明にしか指示しない」のである(6.N807:AT.VII,
83.22-23/E.87.06-08)。
そうであれば、「実に稀ならざる」ことに、「誤る」「我々」を諸々のものに駆り遣っているのも「自然」なら
(6.P101:AT.VII,84.08-09/E.88.06-07)、人々が「病を患っている」場合に(6.P102:AT.VII,
84.09/E.88.07-08)「廃れている」のも「自然」だ(6.P203:AT.VII,84.11-12/E.88.10-11)。それこそ
「歯車と分銅とからできて(conficere)」いる「時計のように」「自然のすべてを」「法則」として「精確に遵守する(accurate
observare)」(6.P301:AT.VII,84.15-17/E.88.15-18)「或る種の機械というかぎりで」は、「骨、神経、筋肉、
血管、血液および皮膚」という装置から「複合されて」いて(6.P402:AT.VII,84.20-22/E.88.21-24)、機械と同じく「あら
ゆる運動」をする(6.P404:AT.VII,84.23/E.88.25)のだから、それらの運動がそうした機械なるものの「なかに出て来る」のは、
「意志」が「命令」するせいでも「なく」、「精神から」でも「ない」(ibid.:AT.VII,84.23-25/E.88.25-27)。そこで、
「渇きの感覚を精神にもたらす」のは「たいてい干からび」だ(6.P408:AT.VII,84.27/E.88.30)という点に「注視して」みよう
(6.P501:AT.VII,85.02/E.89.06)。「用途」を「予定された」「時計」(ibid.:AT.VII,85.02-
03/E.89.05-07)と「同じように」、「人間の身体」を「考察すると」、「あたかも」そうした身体の「なかにたいてい運動が生ずる」べく「準備
された」「機械」のように(6.P505:AT.VII,85.04-06/E.89.09-11)、「その喉(fauces)は干からびている」
(6.P507:AT.VII,85.07-08/E.89.12-13)。「この」自然は、「命名」されたものに「ほかならない」のだが、「思惟」する
「私」に(6.P701:AT.VII,85.10-12/E.89.16-18)「依拠している」(6.P703:AT.VII,
85.14/E.89.21)かぎりで「若干の真理をもっている」(6.P802:AT.VII,85.16-17/E.89.23-24)。というのも
「確かに」(6.Q101:AT.VII,85.18/E.89.25)「廃れている」のが「自然」だ、と「云われている」その身体(6.Q104:
AT.VII,85.19-20/E.89.27-28)について、もしその身体が「飲料を求めていない」(6.Q106:AT.VII,
85.21/E.89.29)ならば、その「命名」は「純粋ではない」(6.Q203:AT.VII,85.23/E.90.01)からである。よって、
「このように取られ」ても「欺く」のが「自然」な(6.Q400:AT.VII,85.26-27/E.90.05)のであって、「神」が「善」であれ、
「どんな仕方で」あれ、欺かないようにと「妨げることのない」のが自然だ(ibid.:AT.VII,85.25-26/E.90.04-05)。そし
て、このことこそが「探求されるべく」「ここで留まって」いるのだ(ibid.:AT.VII,85.25/E.90.03-04)。
(3) The 3rd surface of 《KLMN2N3PQ》(心身合一体ならではの身の上相談)
[6.K101-K102-K201-K202][6.L101-L102-L202-L204-L302]
[6.M103-M202-M303-M305]
[6.N202-N303-N307-N310-N312-N403-N405-N406]
[6.N501-N502-N602-N604-N702-N802-N804-N807]
[6.P101-P201-P205-P303-P406-P410-P503-P508-P801-P802]
[6.Q101-Q103-Q105-Q202-Q204-Q400]
「しかし」、「私に、これ以上ないくらいに判然と教える」のが「そうした自然」なり本性なりだが、それによれば(6.K101:
AT.VII,80.27-28/E.84.01-02)、まず、「身体をもっている」のは「私」である(6.K102:AT.VII,
80.28/E.84.02-03)。「私が疑ってはならない」のは(6.K201:AT.VII,80.30-31/E.84.05-06)、「このこ
とのなかに何らかの真理がある、ということ」だ(6.K202:AT.VII,80.31/E.84.06-07)。「また」、「教えて」くれるのが「自
然」だが、それによれば(6.L101:AT.VII,81.01/E.84.08)、第二に、「そうした苦痛や飢えや渇きなど」を「感覚」している
(6.L102:AT.VII,81.01-02/E.84.08-09)のは「私」である(6.L202:AT.VII,
81.05/E.84.14)。たとえ「思惟する事物にほかならない」「私」(ibid.:AT.VII,81.05-06/E.84.14-15)が、
身体に被った「傷」とでも云うべき「その」感覚を「純粋な知性によって知得」したところで(6.L204:AT.VII,81.07-
08/E.84.16-17)、こうした感覚は「思惟する様態」としては「何か不分明」であるが、それは「精神が身体と、あたかも混合しているかの如くに
合一している、ということから起きて(exoriri)」いるのだ(6.L302:AT.VII,81.12-14/E.84.22-25)。したがっ
て、「私」にとって「忌避されるべきもの」がある(6.M103:AT.VII,81.17/E.84.29)、と「私が結論する」のは「正しい」
(6.M202:AT.VII,81.19/E.85.02)のである。
さて、「私の身体」が「まったく確かである」のは(6.M303:AT.VII,81.24/E.85.07-08)、
「身体と精神とから複合されたものが私であるというかぎりにおいて」(6.M305:AT.VII,81.25/E.85.09-10)なのだが、ここで
「私が何を本来知解しているのかを、いっそう精確に私は定義せねばならない」(6.N202:AT.VII,82.13-14/E.85.28-29)。
なぜなら第一に、「私」に神から賦与されているものすべての「この綜体」のうちには、「もっぱら精神のみに属するもの」も「多く含まれている」し
(6.N303:AT.VII,82.17-18/E.86.02-04)、「もっぱら物体および身体のみに関わるものも多く」(6.N307:
AT.VII,82.21-22/E.86.07-08)含まれているからである。第二に、「ただ私には」(6.N310:AT.VII,82.23-
24/E.86.10-11)「神から賦与されている」(6.N312:AT.VII,82.24-25/E.86.11-12)にすぎないものとしての
自然については、まだ「現れていない」ので明らかになっていない(6.N403:AT.VII,82.27/E.86.15)ことがあるからである。それ
はすなわち、「我々に教える」のが「その」ように自然たることによって、「我々は、我々の外部に位置している事物について、予め知性でもって吟味すること
のないままで、感覚でのそうした知得から何かを結論する」(ibid.:AT.VII,82.27-30/E.86.15-19)、ということである。第
三に、それについて真実を知ろうとしても、精神と身体との「複合体ではない」(6.N405:AT.VII,83.01/E.86.20)ものに「属し
て」しまう、と「思われる」(6.N406:AT.VII,83.01-02/E.86.20-21)からである。たとえば、「星」よりも「小さな松明の
火のほう」が、「いっそう私の目を刺激する」(6.N501:AT.VII,83.02-03/E.86.21-23)が、「そのことにおいて事実的に、
すなわち積極的に」傾いていない場合は、星が松明の火よりも「大きくないと信じる」ようになる(6.N502:AT.VII,83.03-
05/E.86.23-25)。「また」、火の「そばに近づきすぎると苦痛を感覚する」「私」(6.N602:AT.VII,83.07-
08/E.86.27-29)は、根拠が全然ないにも拘わらず、その火のなかに「そうした苦痛に」類似したものが何かあるのだ、と説き伏せられてしまう
(6.N604:AT.VII,83.09-10/E.86.30-87.01)。しかし「だからといって、そこには物体が何もないということは帰結しな
い」(6.N702:AT.VII,83.13-14/E.87.05-06)。要するに、「自然に」感覚で知得されることが「本来、与えられて」いて、
「精神に指示する」のは、「ただ、いったいどんなものが複合体にとって」(6.N802:AT.VII,83.16-18/E.87.09-11)「好都
合なのか、もしくは不都合なのか」ということにすぎない(6.N804:AT.VII,83.18-19/E.87.12)のであって、物体なり身体なり
の本質については「きわめて不明瞭で不分明にしか、指示しない」のである(6.N807:AT.VII,83.22-23/E.87.16-18)。
そうであれば、「実に稀ならざる」ことに、「誤る」「我々」を諸々のものに駆り遣っているのも「自然」である
(6.P101:AT.VII,84.08-09/E.88.06-07)、と「ここでは多分云われることができるだろう」(6.P201:
AT.VII,84.10-11/E.88.09-10)が、「病気」であれ「健康」であれ「人間」が「神によって造られている」のは「真」なのだから
(6.P205:AT.VII,84.12-14/E.88.12-13)、人間の身体の「どの部分をとっても製作者の望み」は満たされている
(6.P303:AT.VII,84.18-19/E.88.19-20)。たとえば、身体が「水腫病を患っている」場合(6.P406:AT.VII,
84.26/E.88.28-29)でも、そうした身体の「なかにそのような疾患が何もない場合」(6.P410:AT.VII,
84.30/E.89.03-04)でも、みずから「報じる」「時」が「正しくない場合」(6.P503:AT.VII,85.03-
04/E.89.07-08)でも、「みずから」を「維持」するのに「飲料」が「有益」で「なく」(6.P508:AT.VII,85.08-
09/E.89.13-14)ても、自然をとおして「私が知解する」ところによると、「実際に事物のなかに」「何らかの」ものが「見いだされる」
(6.P801:AT.VII,85.15-16/E.89.22-23)ならば、それが「もっている」のは「若干」であれ「真理」なのだ
(6.P802:AT.VII,85.16-17/E.89.23-24)。というのも、「確か」なのは(6.Q101:AT.VII,
85.18/E.89.25)、「外面的」に「ただ命名」されただけでは(6.Q103:AT.VII,85.19/E.89.26-27)、「喉が乾い
たままだ、ということ」(6.Q105:AT.VII,85.20-21/E.89.28)だからである。したがって、「精神」が「そのような身体」と
「合一している」(6.Q202:AT.VII,85.22-23/E.89.30-90.01)ことについて、もしそれが「自然」による「過誤」ならば
「真」に(6.Q204:AT.VII,85.23-24/E.90.01-02)なるのだ、というように「取られ」ても、「欺く」のが「自然」なので
あって(6.Q400:AT.VII,85.26-27/E.90.05)、「神」が「善」であれ、「どんな仕方で」あれ、欺かないようにと「妨げること
のない」のが自然だ(ibid.:AT.VII,85.25-26/E.90.04-05)。そして、このことこそが「探求されるべく」「ここで留まっ
て」いるのだ(ibid.:AT.VII,85.25/E.90.03-04)。
arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),June 10,2007.
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
...(頁、行)
E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
...(頁、行)
cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
...(6=「第六省察」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)
つぎに「精神」が「身体から区別」されるのは「事実」だということについて
(6.Z200:AT.VII,71.11-12/E.72.19)
§204 Surface of《JN1oW》
for That's Fusion, Not Confusion.
(1) The 1st surface of 《JN1oW》(自然のとおりに、神のとおりに)
[6.J101-J202-J205-J403][6.N101-N102-N105-N107-N113]
[6.o101-o102-o301-o501-o603]
[6.W101-W102-W202-W206-W210-W303-W502-W506-W510-W512 -W602-W604-W607-W703-W705-W901]
一方で、たとえば「太陽が然々の大きさもしくは形などであるといったような」、「ただ個別的」であるにすぎないものが「残っている」が、それ
らに「関するかぎり」(6.J101:AT.VII,80.11-13/E.83.11-13)、「神の欺かないこと」(6.J202:AT.VII,
80.15/E.83.16-17)が「私に示している」のは、「それらのものにおいても真理に達しうる」という「確実な希望」である(6.J205:
AT.VII,80.18-19/E.83.20-22)。というのも「私の知解する」ところによると、「諸々の被造物」は「神によって制定されて」いて
「互いに秩序づけ」られている(6.J403:AT.VII,80.23-24/E.83.26-27)からである。
他方で「実に」「多くある」
ものは(6.N101:AT.VII,82.01/E.85.12)、てっきり「自然に a naturâ
教わったものだと私には思われるけれども」(ibid.:AT.VII,82.01-02/E.85.12-13)、「実際には」自然に教わったものでは
ない(6.N102:AT.VII,82.02/E.85.13-14)のであって、たとえば、「すべての空間」(6.N105:AT.VII,
82.04/E.85.16)には「空虚が」あったり(6.N107:AT.VII,82.06/E.85.18)、「星も塔も、そして他のどんな物体
も」、「隔たって」いると「ただそのとおりの大きさや形」にすぎなかったり(6.N113:AT.VII,82.10-11/E.85.23-25)する
のだ。
このことは「すでに前に充分に私が洞察した」(6.o101:AT.VII,83.24/E.87.19-20)。とな
ると、「どうして」も(ibid.)「善」なる「神」に「抗しない(non
obstare)」(6.o102:AT.VII,83.24-25/E.87.20)場合は「誰」にでもある(6.o301:AT.VII,
83.29/E.87.25-26)。よって、「ここから結論されうる」(6.o501:AT.VII,84.03-04/E.88.01)に「ふさわし
い」のは、すなわち、人間の「完全たること」が「有限だ」、ということに「ほかならない」(6.o603:AT.VII,84.06-
07/E.88.04-05)。
そうすると、「この考察が寄与する」ものは「ひじょうに多い」(6.W101:AT.VII,
89.08/E.94.06)。「私の気づく」ところによれば、「本性」上、「私」が「晒されている過誤のすべて」(6.W102:AT.VII,
89.08-10/E.94.07-08)のうちで、「身体」にとって「好都合なことに関わるもの」(6.W202:AT.VII,
89.12/E.94.11)を記憶することでもって、「現在のものを過去のものに連結する」(6.W206:AT.VII,89.15-
16/E.94.15-16)と、「感覚から私に常日頃表示されるもの」(6.W210:AT.VII,89.18/E.94.18-19)は、「はじき
出されうる」(6.W303:AT.VII,89.20/E.94.21)のだ。ところで、「夢のなか」のものが「記憶」されても、それらは「生活の残り
の活動のすべてには決して結合されることはない」(6.W502:AT.VII,89.23-24/E.94.24-26)から、「私に忽然と出現して」
(6.W506:AT.VII,89.26/E.94.28)も、「どこへ立ち去るのか」「私」に判ら「ない」ものが(6.W510:AT.VII,
89.28/E.94.30)「幻影
spectrum」であることに「不当はない」(6.W512:AT.VII,89.28-90.01/E.95.01)。「むしろ」(ibid.:
AT.VII,90.01/E.95.01)諸々の事物は、「判明に」(6.W602:AT.VII,90.03/E.95.04)「私が気づいている」
(6.W604:AT.VII,90.04/E.95.05)かぎりでは、「夢のなかに」は「ない」(6.W607:AT.VII,
90.06/E.95.08)ので、そうした事物がそのほかのものと矛盾しないということは、「私に」は(6.W703:AT.VII,
90.09/E.95.12)、「これらの」事物のうちなら「いずれからでも」「通知される」(6.W705:AT.VII,90.10/E.95.12
-13)。但し、「事物」が「行動されるべき」必要に迫られている場合は、「そのように精確」に「吟味」されようにも、「いつも」「猶予を許し与え」られ
るわけでは「ない」(6.W901:AT.VII,90.12-13/E.95.15-17)。
(2) The 2nd surface of 《JN1oW》(虚偽ならず、吟味せよ)
[6.J102-J203-J401-J502][6.N101-N103-N109-N111-N115]
[6.o101-o201-o303-o402-o601]
[6.W101-W201-W203-W205-W207-W209-W211-W302-W401-W501-W503-W505 -W507-W509-W511-W513-W601-W603-W605-W608-W702-W704-W801-W902]
一方で、「光、音、苦痛およびこれに類するもののような、あまり明晰には知解されないもの」(6.J102:AT.VII,80.13-
14/E.83.13-15)に関するかぎり、「いかなる虚偽も私の意見のなかには見いだされるようにはなりえない」(6.J203:AT.VII,
80.16-17/E.83.17-19)のであって、「一般的に観られた」ところ「自然」で本性的な(6.J401:AT.VII,80.21-
22/E.83.24-25)「神から私に賦与されたもののすべて」は「綜体」を成している(6.J502:AT.VII,80.25-
26/E.83.29-30)。
他方で「実に」「多くある」ものは(6.N101:AT.VII,82.01/E.85.12)、てっきり「自然
に教わったものだと私には思われるけれども」(ibid.:AT.VII,82.01-02/E.85.12-13)、そうではなくて「思慮もせずに」
「何らかの習慣で」「判断」して「受け取ったもの」である(6.N103:AT.VII,82.02-03/E.85.14-15)。例をだすと、「熱
い」物体における「何らかのもの」が「熱の観念にまったく類似している」のであれば、その観念は「私のなかに」ある(6.N109:AT.VII,
82.06-07/E.85.19-20)ことになるし、「苦い」物体「もしくは甘い」物体にある「味」は「私」が感ずるのと「同じ」である
(6.N111:AT.VII,82.09/E.85.22)。「その種のこと」が「ほか」にもある(6.N115:AT.VII,
82.12/E.85.26)ということは、「すでに前に充分に私が洞察してきた」(6.o101:AT.VII,83.24/E.87.19-20)。
となると、ここで「どうして」も(ibid.)、「ここでは新しい困難に出くわす」ことになる(6.o201:AT.VII,83.26/E.87.21
-22)。すなわち諸々のものは、それ自体は「あたかも追求されるべきものとして、あるいは忌避されるべきものとして、私に」対して「自然に a
naturâ
表示される」(ibid.:AT.VII,83.26-28/E.87.22-24)が、それを「摂取し」たところ、「内部に潜んでいる」のが「毒」で
あったり(6.o303:AT.VII,83.30/E.87.27)毒でなかったりしても(6.o402:AT.VII,84.02-
03/E.87.30)、「不思議ではない」のだ(6.o601:AT.VII,84.05/E.88.02-03)。
そうすると、「この考察が寄与する」ものは「ひじょうに多い」(6.W101:AT.VII,
89.08/E.94.06)。「固より」、「私が知る」ところによると、「すべての感覚は」、身体にとって好都合なことに関わるものを「めぐって」は
(6.W201:AT.VII,89.11-12/E.94.10-11)、「真なるもの」を「報じる」頻度が「はるかに」高い(6.W203:
AT.VII,89.12-13/E.94.12-13)。たとえそれらの感覚が「偽なるもの」を報じた場合でも(ibid.:AT.VII,
89.13/E.94.12-13)、さらに「記憶」(6.W205:AT.VII,89.15/E.94.14-15)と「知性」(6.W207:
AT.VII,89.16/E.94.16)とでもってすれば、「私はもはや恐れなくて」済む(6.W209:AT.VII,89.17-
18/E.94.17-18)。そういえば、「私」に常日頃感覚から表示されるものが「偽ではないのか」(ibid.&6.W211:
AT.VII,89.17-18/E.94.19)といった、「笑いに値するような」(6.W302:AT.VII,89.19-20/E.94.20)
「至上の」疑いは「とりわけ」、「睡眠について」(6.W401:AT.VII,89.20-21/E.94.21-22)なされた。「今、私が気づく」
ところによれば、「ひじょうに大きな差異がある」のは、睡眠中に出くわすものと(6.W501:AT.VII,89.21-23/E.94.23-24)
「覚醒しているときに出くわすもの」(6.W503:AT.VII,89.24-25/E.94.26-27)との間なのだ。もし「私が覚醒している際
に」(6.W505:AT.VII,89.25-26/E.94.28)「ただちに消え失せて」しまっていて、「のちに」(6.W507:AT.VII,
89.26-27/E.94.28-29)なっても、いったい「どこから来たのか」、「さっぱり
scilicet」(6.W509:AT.VII,89.27-28/E.94.29-30)「私には」判らない(6.W511:AT.VII,
89.28/E.95.01)というのであれば、それは「私の脳のなかで作成された幻想
phantasma」である(6.W513:AT.VII,90.01/E.95.01-02)。「実に、そうした諸々の事物」に「私」が「出くわし」た
場合に(6.W601:AT.VII,90.02-03/E.95.03-04)、それらの事物が「どこから、どこへ、いつ、私に到来」したのか
(6.W603:AT.VII,90.03-04/E.95.04-05)、ということを「知得」したうえで、「それら」の事物を「残りの生活全体に私が
連結して」みて何も「中断」されていない(6.W605:AT.VII,90.04-05/E.95.05-07)のであれば、それらの事物に「出くわ
し」たのは「私」が「覚醒しているとき」である(6.W608:AT.VII,90.06/E.95.08)。ところで「私」が「感覚のすべてと記憶と知
性とを召集した」うえで、「それら」の事物を「吟味」した「後で」ある(6.W702:AT.VII,90.08-09/E.95.10-12)にも拘わ
らず、それらが「そのほかのものと」何かしら「矛盾する」(6.W704:AT.VII,90.09-10/E.95.12)場合もある。しかし「欺かな
い」のが「神」なのだから(6.W801:AT.VII,90.10-11/E.95.13-14)、むしろ「認容されるべき」なのは、「個別的な事物を
めぐってしばしば過誤に晒されている」のが「人間の生活だ」、ということである(6.W902:AT.VII,90.14-15/E.95.17-
19)。
(3) The 3rd surface of 《JN1oW》(疑っても直せないから全知ではない)
[6.J103-J201-J204-J300-J402-J501]
[6.N101-N104-N106-N108-N110-N112-N114]
[6.o101-o103-o202-o302-o401-o403-o502-o602]
[6.W101-W103-W204-W208-W301-W402-W504-W508-W511-W514 -W603-W606-W701-W704-W802-W903]
一方で、「きわめて疑わしく不確実である」ものでも(6.J103:AT.VII,80.14-15/E.83.15-16)、「このことそ
のもの」(6.J201:AT.VII,80.15/E.83.16)は、すなわち、「神から」「機能」を「何も」「賦与され」ていないので「私」が
「私」の意見における虚偽を「矯正」できない、ということ(6.J204:AT.VII,80.17-18/E.83.19-20)は、「固より疑いな
い」(6.J300:AT.VII,80.20/E.83.22)。となると、「私が自然に a naturâ
教えられるもののすべては何らかの真理をもっている」(ibid.:AT.VII,80.20-21/E.83.22-24)ことになる。というのも、
「今」のこの自然で本性的たることは「ほかならぬ神そのもの」(6.J402:AT.VII,80.22-23/E.83.25-26)であって、「ほか
ならぬ私」にとって「自然」で本性的たること「をとおして」、それらは「個別的」になる(6.J501:AT.VII,80.24-25/E.83.27
-28)からである。
他方で「実に」「多く」のものを「自然に教わった」つもりでいるのは「私」だから(6.N101:AT.VII,82.01-
02/E.85.12-13)、それらが「偽であることに至る」のは「容易」だ(6.N104:AT.VII,82.03-04/E.85.15-
16)。そうすると、たとえば「私の感覚を動かすものにまったく」出くわさなかったり(6.N106:AT.VII,82.04-05/E.85.16-
18)、「物体における」(6.N108:AT.VII,82.06/E.85.18)「白や緑」は「私が感覚する」ところの「白もしくは緑」と「同じ」
であったり(6.N110:AT.VII,82.07-09/E.85.20-22)、「残りの」他のものからも「そのとおりに」(6.N112:
AT.VII,82.09-10/E.85.22-23)「表示」されているのが「私の感覚」であったり(6.N114:AT.VII,82.11-
12/E.85.25-26)するのだ。
このことは「すでに前に充分に私が洞察した」(6.o101:AT.VII,83.24/E.87.19-20)。よっ
て、「どうして」も(ibid.)、「私の判断は偽であることに至る」(6.o103:AT.VII,83.25/E.87.20-21)し、「内部感覚
においてでさえ、過誤を思い知らされたことがある、と私には思われる」(6.o202:AT.VII,83.28-29/E.87.24-25)。「或る
食物」に「味」の好ましさで「騙される」(6.o302:AT.VII,83.29-30/E.87.26-27)、という「場合には、思うに、ただ自然
に a naturâ
駆り遣られて」その食物を「欲求している」にすぎないのであって(6.o401:AT.VII,84.01-02/E.87.27-29)、その食物にお
いて「成り立っている」「味が」「好ましい」(ibid.:AT.VII,84.02/E.87.29)ということについては「まったく知らない」
(6.o403:AT.VII,84.03/E.87.30)。このように、「そうした本性」からしても、「私」は「全知ではない」(6.o502:
AT.VII,84.04-05/E.88.01-02)。したがって、「人間は有限な事物である」(6.o602:AT.VII,84.05-
06/E.88.03)。
そうすると、「この考察が寄与する」ものは「ひじょうに多い」(6.W101:AT.VII,
89.08/E.94.06)。「私」が本性上、晒されているのは諸々の過誤だが、それらの過誤を「矯正したり回避したりすること」が「私」には「容易に
できる」し(6.W103:AT.VII,89.10-11/E.94.08-10)、また、すべての感覚のうちの「大半のもの」を「ほとんど常に使用す
ること」でもって「同じ」一つの「事物を吟味する」ことも「私」には「できる」(6.W204:AT.VII,89.13-15/E.94.13-
14)。のみならず、過誤に陥る「原因のすべて」については「すでに」知性でもって「洞察した」(6.W208:AT.VII,89.16-
17/E.94.16-17)。となると、「先日から superiorum
dierum」の諸々の「疑い」が「究極的(hyperbolicus)」だった(6.W301:AT.VII,89.19/E.94.19-20)の
は、「私」が睡眠を「覚醒から区別せずにいた」(6.W402:AT.VII,89.21/E.94.22)せいなのであって、「固より」「誰かが」
(6.W504:AT.VII,89.25/E.94.27)「夢のなかのように生じ(fieri)」ても(6.W508:AT.VII,
89.27/E.94.29)、「私には判って」いた(6.W511:AT.VII,89.28/E.95.01)。「私が判断していた」ところによれ
ば、「真なる人間」が「居る」かぎり(6.W514:AT.VII,90.02/E.95.02-03)、その人間が「どこから、どこへ、いつ、私に到来
する」のか(6.W603:AT.VII,90.03-04/E.95.04-05)は、「私」にとって「まったく確かなのである」(6.W606:
AT.VII,90.05-06/E.95.07)。したがって、「それら」の事物が「真理であることについて」、「私は僅かなれども疑ってはならない」
(6.W701:AT.VII,90.07/E.95.08-10)。そして「そのほかのものと矛盾する」(6.W704:AT.VII,90.09-
10/E.95.12)「類い」のものにおいては「およそ」「私は欺かれて誤ることはない」(6.W802:AT.VII,90.11-
12/E.95.14-15)。以上のことが「帰結する」(ibid.:AT.VII,90.11/E.95.14)ならば、むしろ「認知されるべき」な
のは、すなわち、「堅固でない」のが、我々の本性だとか、「我々」にとって「自然」なのだとかいうことだ(6.W903:AT.VII,90.15-
16/E.95.19-20)。
arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),June 07,2007.
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
...(頁、行) E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
...(頁、行)
cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
...(6=「第六省察」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)
§203 Surface of 《E1FfE2GE3Hi》
for That's Fusion, Not Confusion.
(1) The 1st surface of 《E1FfE2GE3Hi》
(私が神知らずでも、苦・快と感情とは知解されうる)
[6.E100-6.F101-F103-F104-F203-F303-F304]
[6.f401-f404-f405-f409-f410-f413-f415-f501-f505]
[6.f601-f605-f608][6.f701-f702-f706-f708-f802]
[6.E200-6.G101-G105-G107-G109-G111][6.G201-G202-G203-G206]
[6.G301-G304][6.G401-G502-G603-G605]
[6.E300-6.H101-H104]
[6.H201-H204-H208-H212-H303-H305-H309-H310]
[6.i101-i103-i105-i108][6.i201-i204-i205][6.i301-i302-i 304-i306-i307]
[6.i401-i404-i502-i505-i507-i509 -i511-i513-i602-i604-i606-i702-i704]
[6.i800-i901-i905-i908]
「なるほど私のもとでここに繰り返すことに」する(6.E100:AT.VII,74.11/E.76.01-02)。「第一に」、「感覚に よって知得されたものとして真であると従来に私が考えたのはいったい何であるか、そしてどのような諸原因によって私はそう考えたのか」(ibid.: AT.VII,74.11-13/E.76.01-04)。
まず「私の感覚した」ところによれば、「私がもっているの は、頭、手、足、およびその他の肢体であり、それらから成るところの物体なり身体なり」であるが(6.F101:AT.VII,74.17- 18/E.76.08-10)、そういう身体を「私」は「あたかも私の部分であるかのように、あるいはおそらくまた、あたかも私全体であるかのように、観 ていた」(ibid.:AT.VII,74.18-20/E.76.10-12)。というのも、この身体は他の多くの物体によって「好都合に」であれ「不 都合に」であれ「様々に触発される」(6.F103:AT.VII,74.21-22/E.76.13-14)からである。それらのうち「好都合なものを 或る種の快の感覚によって、そして不都合なものを苦の感覚によって測り分けていた」「私」が(6.F104:AT.VII,74.22- 23/E.76.15-16)感覚していたのは、「身体的」に「或る種」傾いて、喜んだり悲しんだり怒ったり、その他、これに類する感情をもつこと (6.F203:AT.VII,74.25-27/E.76.19-22)、そして「光、色、匂い、味、音」であった(6.F303:AT.VII, 75.02-03/E.76.25-27)。したがって、「それらのものの多様性によって、天空、大地、海、およびそれ以外の諸物体を私が相互に区別して いた」のも(6.F304:AT.75.03-05/E.76.27-29)、「固より、理由がないわけではない」(6.f401:AT.VII, 75.05/E.76.29)。だからこそ「私が考えていた」のは、すなわち、「私の感覚する」ところの「或る事物」が、「私の思惟とは全く別個な」「諸 々の物体および身体」であり、「そこから出来していた」のが、そうしたすべての性質の「観念」である、ということなのだ(6.f404:AT.VII, 75.08-10/E.77.02-05)。「私が経験していた」ところによれば、「それらの観念」は「何ら」「私」に「同意」もせずに「到来する」ので (6.f405:AT.VII,75.10-11/E.77.05-07)、いかなる対象であれ、それが「私」の感覚器官に「現前しているときには」、そ れを「私は感覚せずにはいられない」のである(6.f409:AT.VII,75.13-14/E.77.09-10)。このようにして「感覚によって知 得された諸々の観念は」「いつでも」ひじょうに「生き生きとして」いるどころか生々しく「判然としていて、それなりにまた」「判明でもあった」 (6.f410:AT.VII,75.14-16/E.77.10-13)から、まさか「私自身から」それらの観念の「出来するようなこと」が「生じる」 とは「私には思えずにいた」(6.f413:AT.VII,75.18-19/E.77.15-16)のであって、ほかならぬ「そうした観念そのものか ら」得られるのは、「それら」他の「事物についての知」である(6.f415:AT.VII,75.20-22/E.77.18-20)。「しかもまた」 「私」は「理性を使用する以前に感覚を使用していた」のを「思い起こしていた」(6.f501:AT.VII,75.23-24/E.77.22- 23)。それだから「私」は、「前以て感覚において」自分で「もっていなかった」観念を「知性においてもつことは全然ない」のだ、と「自分で信じ込んでい た」のであって、それは「容易」なことである(6.f505:AT.VII,75.27-29/E.77.27-29)。「また」もう一つの理由もないわ けではない(6.f601:AT.VII,75.29/E.77.29-30)。というのは、「私が特殊の或る権利でもって、私のものと称していた」とこ ろの「あの物体」なり身体なり(ibid.:AT.75.30-76.01/E.77.30-78.01)において、そしてそうした身体のために「私が感 覚していた」のは、「欲求と感情とのすべて」だ(6.f605:AT.VII,76.03-04/E.78.04-05)ということに、「私は気づいてい た」(6.f608:AT.VII,76.06/E.78.08)からである。「実はしかし」、「私が知らない」のは、「なぜ、苦痛の感覚から」続いて生 じるのが「或る種の心の悲しみ」であり(6.f701:AT.VII,76.06-07/E.78.08)、「擽りの感覚から」続いて生じるのが「或る種 の喜び」であるのか(6.f702:AT.VII,76.07-08/E.78.10-11)、ということである。そういうことについて「固より」「私」 の「もっていた」「理由」といえば、「そのように私」の「教わった」のが「自然」で本性的だから、ということくらいしかなかった(6.f706: AT.VII,76.11-12/E.78.14-16)。そして少なくとも「私」が知解するところによると、「苦痛をもたらす事物の感覚と、そうした感 覚から起こる悲しみの思惟との間に」は、類縁性が全然ない(6.f708:AT.VII,76.15-16/E.78.19-21)。こうして、「それら のものがそのようにして在るということを」「以前に」「自分で信じ込んでしまっていた」「私」は、「当のそのことを証明するため」に「何らかの理由」を 「費やすようになった(6.f802:AT.VII,76.18-20/E.78.23-26)。
「次に」、感覚によって知得されたものとして真であると「私」が考えたということに関しては、諸々のことが「後になっ て」呼び戻されて疑われるのだが、「私」はその「諸原因をもまた、考量しよう」(6.E200:AT.VII,74.13-15/E.76.04- 06)。「実は」、「感覚に対して私がもっていたすべての信用」は、のちに「多くの経験」によって、「次第に」揺らいだ(6.G101:AT.VII, 76.21-22/E.78.27-29)。とりわけ「内部」感覚の判断(6.G105:AT.VII,76.28-77.01/E.79.06-07) については、「いつぞや私は人々から聞いたことがあった」(6.G107:AT.VII,77.01-02/E.79.08)。彼らによると、「自分では 今でもなお、時折は、みずから苦痛を感ずるように思われる」ことはあるが、「その身体の部分」を自分は以前に「失った」はずだという(6.G109: AT.VII,77.03-04/E.79.10-11)。とはいえ、肢体のどこかに「苦痛を感覚する」のは「私」である(6.G111:AT.VII, 77.06-07/E.79.14)。
「これら」の理由に「また」、「疑う」「私が先頃付け加えた」「二つの」理由は、「著しく一般的」である(6.G201:AT.VII, 77.07-08/E.79.14-16)。「第一」に、「私が常に信じてきた」かぎりで、「私の目覚めている間に私が感覚しない」ものならば何であれ、 まさかそれらを(6.G202:AT.VII,77.08-09/E.79.16-18)、「眠っている間にもいつか私が感覚する」のではないか、とは 「私は考えることはできない」(6.G203:AT.VII,77.09-11/E.79.18-19)はずだったからである。にも拘わらず、「そのこと を私が信じようとしていたのはむしろ」(6.G206:AT.VII,77.13/E.79.23)、「目覚めているときに感覚すると私に思われるものに ついて」なのだが、「どうして」そうなのか、「私は気づかずにいたのだ」(ibid.:AT.VII,77.13-14/E.79.22-24)。
「もう一つ」は、「私の起源の創作者を今なお知らずにいた」「私」(6.G301:AT.VII,77.14-15/E.79.24-26)に さえ、「ひじょうに真なるものとして現れ出てくるもの」(6.G304:AT.VII,77.17-18/E.79.29-30)がある、という理由だ。
このように、「感覚された事物の真理たることを私は前々から」「諸々の理由」で「みずから信じ込んでしまっていた」のだ が、その「かぎりで」(6.G401:AT.VII,77.18-20/E.79.30-80.02)云えば、「理性が阻止して(dissuadere) いたもの」(6.G502:AT.VII,77.21-22/E.80.04)は「おそらく、私自身のうちにありうる」「何らかの機能」(6.G603: AT.VII,77.26-27/E.80.09-10)、すなわち感覚で諸々に知得することの「作動者」である(6.G605:AT.VII, 77.27/E.80.11)。
「最後に」、感覚によって知得されたものとして真であると「私」が考えたということについて、「何」を「私」は信じるべ きなのか、「私は考察しよう」(6.E300:AT.VII,74.15-16/E.76.06-07)。「私自身と私の起源の創作者とをよりよく知りは じめている後」である「今」の「私」(6.H101:AT.VII,77.28-29/E.80.12-13)にとっては「また」、「疑いのなかに呼び戻 されるべき」ものだけが「すべて」ではない(6.H104:AT.VII,78.01/E.80.15-16)。
「私が明晰・判明に知解するもの のすべて」については、「第一に、私の知っている」ところによれば(6.H201:AT.VII,78.02-03/E.80.17-18)、「一つの」 事物が「他の」事物とは「別個であること」は、「私」にとって「確かなのである」(6.H204:AT.VII,78.05-06/E.80.21- 22)。そうであれば、「私の存在することを知っている」のが「私」であるという、「このこと自身」(6.H208:AT.VII, 78.08/E.80.24-25)とは、つまり「思惟する事物」が「私」である、ということだ(6.H212:AT.VII, 78.12/E.80.30)。ところで「私自身の明晰・判明な観念をもっている」「私」(6.H303:AT.VII,78.15- 16/E.81.03-05)は、「延長する」事物では「ない」(6.H305:AT.VII,78.17/E.81.06)。よって「確実」なのは、 「私」が「私の身体から実際に区別されているということ」(6.H309:AT.VII,78.19-20/E.81.08-09)、そして「私」がそう した身体を「介さずに存在しうるということ」(6.H310:AT.VII,78.20/E.81.10)である。
一方で「私が私のなかに見いだす」ところの「或る種の特殊な機能」は、「思惟する様態」(6.i101:AT.VII, 78.21-22/E.81.11-12)であるから、「それら」の機能がなくても、「すべて」を「私」は「明晰・判明に知解することができる」 (6.i103:AT.VII,78.23-24/E.81.13-15)。このようにして「実は」、「それら」の機能は、「形相」として「みずから」 「概念」になると、「いくらか」は「知解」されるようになる(6.i105:AT.VII,78.25-27/E.81.17-18)という点で、「私」 から「区別される」(6.i108:AT.VII,78.28/E.81.19)。また、「場所を変える」機能や「様々な形を装う」機能「およびそれに類 する」ようなものも、「私」は「或る種の他の機能」として「認知する」(6.i201:AT.VII,78.28-29/E.81.20-22)。それら の機能は「知解されること」も「できる」し(6.i204:AT.VII,79.01/E.81.24)、「存在することも」できるが、何か「実体を介 さ」なければならない(6.i205:AT.VII,79.01-02/E.81.24-25)。とはいえ明らかに、「これら」の機能が(6.i301: AT.VII,79.02-03/E.81.25)「実在する」(6.i302:AT.VII,79.03/E.81.26)のは、「知解する」実体のな かでは「ない」(6.i304:AT.VII,79.04/E.81.27-28)のであって、「知解が全然」(6.i306:AT.VII, 79.05/E.81.28-29)「含まれて」いないまま、「これら」の機能は「明晰・判明な概念」になるのだ(6.i307:AT.VII, 79.05-06/E.81.29-30)。
他方、「感覚する機能、あるいは、感覚された事物の観念を受け取って認識する」機能は、「或る受動的な機能」として、 「なるほど私のなかにある」が(6.i401:AT.VII,79.06-09/E.81.30-82.03)、「そうした観念を産み出したり造り出した りする機能」(6.i404:AT.VII,79.11/E.82.05-06)は「知解を全然予想することなく」(6.i502:AT.VII, 79.12-13/E.82.08-09)、「そうした観念」を「産出」する(6.i505:AT.VII,79.14/E.82.10)。そうなると、 「形相」としてであれ「卓越して」であれ、「事実たることのすべてが内在していなければならない」のは(6.i507:AT.VII,79.15- 17/E.82.12-13)、「私」とは別個な何らかの実体のなかにである。ところで「この実体は、物体あるいは物体としての本性」か(6.i509: AT.VII,79.18-19/E.82.15-16)、もしくは「実に」歴として「神である」(6.i511:AT.VII, 79.21/E.82.18-19)が、神においては、そのように事実たることのすべては「卓越して含まれている」(6.i513:AT.VII, 79.22/E.82.19-20)。したがって、「およそ明瞭である」(6.i602:AT.VII,79.23/E.82.21)のは、次のことだ。 すなわち、神は「みずからでもって媒介なしにそうした観念を私に送り込むことはない」(ibid.:AT.VII,79.23-24/E.82.22- 23)のであって、「それらの」観念が「対象として事実たること realitas objectiva」は、神においては(6.i604:AT.VII,79.25-26/E.82.24)「ただ卓越して含まれているにすぎない」 (6.i606:AT.VII,79.26-27/E.82.25-26)、ということだ。「私」は、「それら」の観念が「物体および身体としての事物か ら送り出される」ということを、神のせいで大いに「信じ」がちであるが、「逆に」(6.i702:AT.VII,79.28-80.02/E.82.27 -29)、それらの観念は「物体なり身体なりとしての事物とは別のところから送り出される」のだ(6.i704:AT.VII,80.03- 04/E.83.01-02)。
以上から、「物体」なり身体なりとして「実在する」「事物」(6.i800:AT.VII,80.04/E.83.02 -03)の「すべて」は「おそらく、そのとおりにおよそ実在する」(6.i901:AT.VII,80.04-05/E.83.03-04)のであって、 「私はそれらを明晰・判明に知解する」(6.i905:AT.VII,80.08-09/E.83.08)。よって、それらすべては「純粋‘数学'の対象 において包括的に把握されている」(6.i908:AT.VII,80.09-10/E.83.09-10)。
(2) The 2nd surface of 《E1FfE2GE3Hi》
(私が過誤を正すかぎりは、たとえ身体を切断させないくらいに感覚しても、その感覚は実体と区別されて存在する)
[6.E100-6.F101-F102-F104-F201-F301-F304]
[6.f401-f403-f404-f405-f406-f408-f409-f410-f413-f414-f503-f505]
[6.f601-f603-(f605-f606)-f608][6.f706-f801-f802]
[6.E200-6.G101-G103-G106-G109][6.G201-G202-G204-G206]
[6.G301-G303-G304][6.G401-G501-G503-G602-G605]
[6.E300-6.H101-H102]
[6.H201-H203-H205-H207-H209-H211-H302-H304-H307-H310]
[6.i101-i102-i106-i108][6.i201-i202-i205][6.i301-i307]
[6.i401-i402-i404-i501-i504-i508-i512-i601-i605-i606-i703-i704]
[6.i800-i903-i907-i908]
「第一になるほど私のもとでここに繰り返すことに」するのは、「感覚によって知得されたものとして真であると従来に私が考えたのはいったい何 であるか、そしてどのような諸原因によって私はそう考えたのか」、ということである(6.E100:AT.VII,74.11-13/E.76.01- 04)。
まず「私が感覚した」ところによれば、「私がもっているのは、頭、手、足、その他の肢体であり、それらから成る ところの物体なり身体なり」である(6.F101:AT.VII,74.17-18/E.76.08-10)。ちなみにそういう身体を「私」は、「あたか も私の部分であるかのように、あるいはおそらくまた、あたかも私全体であるかのように、観ていた」(ibid.:AT.VII,74.18- 20/E.76.10-12)。そして「私が感覚した」ところによると、「この身体なり物体なり」は「他の多くの物体の間に介在している」 (6.F102:AT.VII,74.20-21/E.76.12-13)。というのも、それらのうちで「好都合なものを或る種の快の感覚によって、そし て不都合なものを苦の感覚によって測り分けていた」「私」が(6.F104:AT.VII,74.22-23/E.76.15-16)、そうした「苦や快 のほかに」(6.F201:AT.VII,74.23-24/E.76.17)「外部で」感覚していたのは、「諸物体の延長や様々な運動」であり (6.F301:AT.VII,74.27-75.01/E.76.22-23)、「それらのものの多様性によって、天空、大地、海、およびそれ以外の諸 物体を相互に私は区別していた」(6.F304:AT.VII,75.03-05/E.76.27-29)からであって、「固より、理由がないわけではな い」(6.f401:AT.VII,75.05/E.76.29)。だからこそ、それらすべての性質の観念だけを「元来に媒介なしに感覚していた」 (6.f403:AT.VII,75.07-08/E.77.01-02)「私」は、「私の感覚する或る事物」が、「私の思惟とは全く別個な」「諸々の物 体および身体」であり、「そこから出来していた」のが「そうした観念」だ、と「考えていた」のである(6.f404:AT.VII,75.08- 10/E.77.02-05)。というのも、「私」の「経験していた」ところによると、「それらの観念」は「何ら」「私」に「同意」もせずに「到来する」 からである(6.f405:AT.VII,75.10-11/E.77.05-07)。よって、「私」が「いかなる対象をも感覚できない」 (6.f406:AT.VII,75.11-12/E.77.07-08)のは、その対象が「私」の「感覚器官に現前していない」場合に限られる (6.f408:AT.VII,75.12-13/E.77.08-09)。また、「私」が「感覚せずにはいられない」のは、その対象が「私」の感覚器官 に「現前しているとき」である(6.f409:AT.VII,75.13-14/E.77.09-10)。このように、「感覚によって知得される諸々の観 念は」、ひじょうに「生き生きとして」いるどころか生々しく「判然としていて、それなりにまた」「判明でもあった」ので(6.f410:AT.VII, 75.14-16/E.77.10-13)、まさか「私自身から」それらの観念の「出来するというようなこと」が「生じる」とは「私には思えずにいた」 (6.f413:AT.VII,75.18-19/E.77.15-16)。そうなると「最後は、他の或る事物から到来するというような」ことであるが (6.f414:AT.VII,75.19-20/E.77.17-18)、判然としていたのは「感覚によって知得されていた」観念のほうだ、と「私」に は判っていた(6.f503:AT.VII,75.26/E.77.25-26)。それだから「私」は、「前以て感覚において」自分で「もっていなかっ た」観念を「私が知性においてもつことは全然ない」のだ、ということを「自分で」「容易に」「信じ込んでいた」(6.f505:AT.VII,75.27 -29/E.77.27-29)。「また」もう一つの理由もないわけではない(6.f601:AT.VII,75.29/E.77.29-30)。だから こそ、「私が特殊の或る権利でもって、私のものと称していた」ところの「あの物体」なり身体なり(ibid.:AT.VII,75.30- 76.01/E.77.30-78.01)から「私」は「いつだって」「切り離されることはできなかった」(6.f603:AT.VII, 76.02/E.78.03-04)。というのは、「私」が「かの」身体において、そしてその身体のために「感覚していた」のは、「欲求と感情とのすべ て」であり(6.f605:AT.VII,76.03-04/E.78.04-05)、「さらに」「その」身体の「諸々の部分において」「私」が感覚して いたのは、「苦痛と快楽の擽りと」であって(6.f606:AT.VII,76.04-05/E.78.05-07)、それらに「私は気づいていた」 (6.f608:AT.VII,76.06/E.78.08)からである。が、そうしたものを感覚していたことについて「固より」「私」の「もっていた」 「理由」といえば、「そのように私」の「教わった」のが「自然」で本性的だから、ということくらいしかなかった(6.f706:AT.VII,76.11 -12/E.78.14-16)。そして「それ以外のもの」に関しても、「私が感覚の対象について判断していた」もの「すべて」を、「私は自然に a naturâ 教わった」のだ、とてっきり「私には思われていた」(6.f801:AT.VII,76.16-18/E.78.21-23)。こうして、「それらのもの がそのようにして在るということを」「以前に」「自分で信じ込んでしまっていた」「私」は、「当のそのことを証明するために」「何らかの理由」を「費やす ようになった」(6.f802:AT.VII,76.18-20/E.78.23-26)。
「次に」、感覚によって知得されたものとして真であると「私」が考えたということに関しては、諸々のことが「後になっ て」呼び戻されて疑われるのだが、「私」はその「諸原因をもまた、考量しよう」(6.E200:AT.VII,74.13-15/E.76.04- 06)。「実は」、「感覚に対して私がもっていたすべての信用」を、のちに「次第に揺るがせた」「経験」は「多く」(6.G101:AT.VII, 76.21-22/E.78.27-29)、「私は」、「外部感覚の判断が欺かれて誤るのを」、「無数の事物において」「思い知らされた」 (6.G103:AT.VII,76.26-28/E.79.03-05)。しかし、「何が苦痛よりもいっそう内的でありうるか」(6.G106: AT.VII,77.01/E.79.07-08)。というのも「自分では今でもなお、時折は、みずから苦痛を感ずるように思われる」ことがあって、それ は自分が以前に「失った」はずの「その身体の部分において」だからである(6.G109:AT.VII,77.03-04/E.79.10-11)。
「これら」の理由に「また」、「疑う」「私が先頃付け加えた」「二つの」理由は、「著しく一般的」である(6.G201:AT.VII, 77.07-08/E.79.14-16)。「第一」に、「私が常に信じてきた」かぎりで、「私の目覚めている間に私が感覚しない」ものならば何であれ (6.G202:AT.VII,77.08-09/E.79.16-18)、そういうものが「感覚」されるのは「睡眠中」だ、と「私に思われる場合」 (6.G204:AT.VII,77.11-12/E.79.19-20)があるはずだったからである。その場合にも、「むしろそのことを私が信じようと していた」のは、「目覚めているときに感覚すると私に思われるものについて」なのだが(6.G206:AT.VII,77.13-14/E.79.22- 24)、「どうして」そうなのか、「私は気づかずにいたのだ」(ibid.:AT.VII,77.13/E.79.22)。「もう一つ」は、「私の起源の 創作者を今なお知らずにいた」「私」(6.G301:AT.VII,77.14-15/E.79.24-26)には「全然判っていなかった」 (6.G303:AT.VII,77.16/E.79.27)ことがある、という理由だ。すなわち、「私が本性上 naturâ、欺かれて誤るように成り立っている」、ということに「抗する obstare」(ibid.:AT.VII,77.16-17/E.79.27-28)と、「ひじょうに真なるものとして現れ出てくるもの」 (6.G304:AT.VII,77.17-18/E.79.29-30)があるのだが、それを「私」は判っていなかったからである。このように、「感覚 された事物の真理たることを私は前々から」「諸々の理由」で「みずから信じ込んでしまっていた」のだが、その「かぎりで」(6.G401:AT.VII, 77.18-20/E.79.30-80.02)「私に思われていた」ところによれば、「私」が「自然に a naturâ 駆り遣られる」ものは多い(6.G501:AT.VII,77.21/E.80.03-04)。しかし、「自然に a naturâ 教わったものはあまり当てにならない、と私は考えていた」(6.G503:AT.VII,77.22-23/E.80.04-06)。「そういうわけで、 結論されるべき」だと「私が考えていた」のは、感覚での諸々の知得の「進み出てくる」のが「私とは別個の事物から」ではなくて(6.G602: AT.VII,77.24-26/E.80.07-09)、それらの知得の「作動者」(6.G605:AT.VII,77.27/E.80.11)からで ある、ということだ。
「最後に」、感覚によって知得されたものとして真であると「私」が考えたということについて、「何」を「私」は信じるべ きなのか、「私は考察しよう」(6.E300:AT.VII,74.15-16/E.76.06-07)。「私自身と私の起源の創作者とをよりよく知りは じめている後」である「今」の「私」(6.H101:AT.VII,77.28-29/E.80.12-13)にとっては、「なるほど」、「感覚から得る と私に思われるもの」だけが「すべて」ではない(6.H102:AT.VII,77.29-30/E.80.14-15)。
「私が明晰・判明に知解するもののすべて」については、「第一に、私の知っている」かぎりで云えば(6.H201: AT.VII,78.02-03/E.80.17-18)、「充分」に「私」に「できる」のは、「他の」事物を介さずに「一つの事物を明晰・判明に知解す ること」(6.H203:AT.VII,78.04-05/E.80.19-21)であって、「それら」を「別々に措定」できるのは「少なくとも神」であ る(6.H205:AT.VII,78.06/E.80.22-23)。ところで「それらが別個なものとして見積もられ」(6.H207:AT.VII, 78.07-08/E.80.24)ても、それらはいずれも「私の本性あるいは本質には属していない」が、このことに「気づく」のは「私」である (6.H209:AT.VII,78.09-10/E.80.25-27)。したがって、「この一つのことにおいて」は「私の本質が存立するのだ」、と 「私が結論する」のは正しい(6.H211:AT.VII,78.11-12/E.80.29-30)。すなわち、みずからの身体と「きわめて緊密に結合 している」「私」は(6.H302:AT.VII,78.14-15/E.81.02-03)、「ただ思惟する事物でしかない」(6.H304: AT.VII,78.16-17/E.81.05-06)のであって、「私」は、「ただ延長する事物でしかない」(6.H307:AT.VII, 78.18/E.81.07-08)ところのそうした身体を「介さずに存在することができる」のだ(6.H310:AT.VII, 78.20/E.81.10)。
一方で「私が私のなかに見いだす」ところの「或る種の特殊な機能」は、「思惟する様態」(6.i101:AT.VII, 78.21-22/E.81.11-12)である。「たとえば想像する機能と感覚する機能と」(6.i102:AT.VII,78.22- 23/E.81.12-13)は、「私が知得する」際には「私から」(6.i106:AT.VII,78.27/E.81.18-19)「区別されてい る」(6.i108:AT.VII,78.28/E.81.19)。また「場所を変える」機能や「様々な形を装う」機能「およびそれに類するもののよう な、或る種の他の機能も、私は認知する」(6.i201:AT.VII,78.28-29/E.81.20-22)。「なるほど」それらは、「先の」二つ の機能(6.i202:AT.VII,78.30/E.81.22-23)と同じく、何らかの「実体を介さずに存在することはない」(6.i205: AT.VII,79.01-02/E.81.24-25)。「しかし」、「これら」の機能について「明らか」なのは(6.i301:AT.VII, 79.02-03/E.81.25)、「これら」の機能の「明晰・判明な概念に含まれている」(6.i307:AT.VII,79.05- 06/E.81.29-30)何かがある、ということだ。
他方、「感覚する機能、あるいは、感覚された事物の観念を受け取って認識する」機能は、「なるほど私のなかにある」 (6.i401:AT.VII,79.06-09/E.81.30-82.03)。けれどもそれを「私」は「或る受動的な機能」(ibid.: AT.VII,79.07/E.82.01)としてしか「まったく使用することができない」(6.i402:AT.VII,79.09/E.82.03- 04)のであって、「そうした観念を産み出したり造りだしたりする機能」(6.i404:AT.VII,79.11/E.82.05-06)は「固より私 自身のなかにはありえない」(6.i501:AT.VII,79.11-12/E.82.07)。「私」にとっては「しばしば嫌でも」(6.i504: AT.VII,79.14/E.82.09-10)「そうした」能動的な「機能によって」「産出され」るのが、あの感覚された事物の観念だということは、 「今すでに上で私が気づいたとおり」である(6.i508:AT.VII,79.17-18/E.82.13-15)が、そのように産出された「観念のな かに」対象として「在る」のは、「私」とは別個な何らかの実体である(ibid.)。ところで、「物体よりも身体よりも高貴な何らかの被造物」 (6.i512:AT.VII,79.21-22/E.82.19)においてであれ、「欺かない」「神」(6.i601:AT.VII,79.22- 23/E.82.20-21)においてであれ、対象として事実たることは「形相」としてではなくて(6.i605:AT.VII, 79.26/E.82.24-25)、「ただ卓越して含まれているにすぎない」(6.i606:AT.VII,79.26-27/E.82.25- 26)。よって、神の「欺かないということ」が「どうして知解されうるのか、私には判らない」(6.i703:AT.VII,80.02- 03/E.82.29-83.01)が、それらの観念は「物体なり身体なりとしての事物とは別のところから、送り出される」(6.i704: AT.VII,80.03-04/E.83.01-02)。
以上より、「物体」なり身体なりとして「実在する」「事物」(6.i800:AT.VII,80.04/E.83.02 -03)の「多く」が「きわめて不明瞭で不分明な」のは、「諸々の感覚」でもって「包括的に把握する」からなのであって(6.i903:AT.VII, 80.06-07/E.83.05-07)、「一般的に観られた」場合(6.i907:AT.VII,80.09/E.83.09)、それらのすべては 「純粋‘数学'の対象」として「包括的に把握される」のだ(6.i908:AT.VII,80.09-10/E.83.09-10)。 (3) The 3rd surface of 《E1FfE2GE3Hi》
(神の仕業で、私の知らないうちにも、欲求は身体なり物体なりに内在している)
[6.E100-6.F101-F104-F202-F302-F304]
[6.f401-f402-f404-f405-f407-f409-f410-f411-f412-f416-f502-f504-f505]
[6.f601-f602-f604-f607-f608][6.f703-f704-f705-f706-f707-f802]
[6.E200-6.G101-G102-G104-G108-G110][6.G201-G202-G205-G206]
[6.G301-G302-G304][6.G401-G402-G601-G604-G605]
[6.E300-6.H101-H103]
[6.H201-H202-H206-H210-H301-H306-H308-H310]
[6.i101-i104-i107-i108][6.i201-i203-i205][6.i301-i303-i305-i307]
[6.i401-i403-i404-i503-i506-i510-i603-i606-i701-i704]
[6.i800-i902-i904-i906-i908]
「なるほど私のもとでここに繰り返すことに」する(6.E100:AT.VII,74.11/E.76.01-02)。「第一に」、「感覚によって知得されたものとして真であると従来に私が考えたのはいったい何であるか、そしてどのような諸原因によって私はそう考えたのか」(ibid.:AT.VII,74.11-13/E.76.01-04)。
「私が感覚した」ところによれば、「私がもっているのは、頭、手、足、その他の肢体であり、それらから成るところの物体なり身体なり」である(6.F101:AT.VII,74.17-18/E.76.08-10)が、そういう身体を「私」は「あたかも私の部分であるかのように、あるいはおそらくまた、あたかも私全体であるかのように、観ていた」(ibid.:AT.VII,74.18-20/E.76.10-12)。というのも、他の多くの物体のうち、「好都合なものを或る種の快の感覚によって、そして不都合なものを苦の感覚によって、測り分けていた」「私」が(6.F104:AT.VII,74.22-23/E.76.15-16)「感覚していた」のは、「私における飢え、渇き、および他のそういった類いの欲求」であり(6.F202:AT.VII,74.24-25/E.76.17-19)、また、外部の諸物体における「堅さ、熱さ、および他の触覚的な性質」だからである(6.F302:AT.VII,75.01-02/E.76.23-25)。したがって、「それらのものの多様性によって、私が、天空、大地、海、およびそれ以外の諸物体を相互に区別していた」のも(6.F304:AT.VII,75.03-05/E.76.27-29)、「固より、理由がないわけではない」(6.f401:AT.VII,75.05/E.76.29)。だからこそ、「それらすべての性質の観念」が「思惟」する「私」「に差し出されて(se offerre)いたために」(6.f402:AT.VII,75.05-07/E.76.30-77.01)「私」は「或る事物を感覚する」のだ、と「考えていた」(6.f404:AT.VII,75.08-09/E.77.02-03)。その事物は、つまり、「思惟」する「私」「とは全く別個な」「諸々の物体および身体」であり、「そこから出来していた」のが、「そうした観念」なのであろう(ibid.:AT.VII,75.08-10/E.77.03-05)。というのも、「それらの観念」が「何ら」「私」に「同意」もせずに「到来する」のを「私は経験していた」からである(6.f405:AT.VII,75.10-11/E.77.05-07)。したがって、「私」の意志で(6.f407:AT.VII,75.12/E.77.08)「できない」のは、対象が「私」の感覚器官に「現前しているとき」に「感覚せず」にいることだ(6.f409:AT.VII,75.13-14/E.77.09-10)。ひじょうに「生き生きとして」いるどころか生々しく「判然としていて、それなりにまた」「判明でもあった」「諸々の観念」はいずれも、「私」が「感覚によって知得」したものである(6.f410:AT.VII,75.14-16/E.77.10-13)。ところでほかにも「私自身がそれを知りつつ省察することによって」「諸観念」を「作成していた」り(6.f411:AT.VII,75.16-17/E.77.13-14)、「あるいは私の記憶に」諸「観念」が「刻み込まれている」ことに「私」が「気づいていた」り(6.f412:AT.VII,75.17-18/E.77.14-15)する場合もあるが、他の或る事物に「類似している」と「私に」「思い至る」のは、感覚によって知得された諸観念でしかありえなかった(6.f416:AT.VII,75.22-23/E.77.20-21)。なぜなら、「私に判っていた」ところによれば、「さほど判然としていない」のは「私自身が作成していた観念」のほうであり(6.f502:AT.VII,75.24-25/E.77.23-25)、それらの観念の「大多数」は「諸々の部分から複合されている」からである(6.f504:AT.VII,75.26-27/E.77.26-27)が、これらは、感覚によって知得されていた観念の部分なのである(ibid.)。そういうわけで、「私」が「前以て感覚においてもっていなかった」観念を「知性においてもつことは全然ない」のだ、と「自分で信じ込んでいた」のも「容易」なことであった(6.f505:AT.VII,75.27-29/E.77.27-29)。「また」もう一つの理由もないわけではない(6.f601:AT.VII,75.29/E.77.29-30)。だからこそ、「私が特殊の或る権利でもって、私のものと称していた」ところの「あの物体」なり身体なり(ibid.:AT.VII,75.30-76.01/E.77.30-78.01)のほうが「他のいかなる」物体よりも「いっそう私に属している」のだ、と「私は思いなしていた」(6.f602:AT.VII,76.01-02/E.78.01-02)。というのも、あの身体「以外のもの」から(6.f604:AT.VII,76.03/E.78.04)「私」がいつでも切り離されることができたのは、「あの」身体の「外部に位置するもの」において(6.f607:AT.VII,76.05-06/E.78.07-08)「私」の「気づいて」(6.f608:AT.VII,76.06/E.78.08)いなかったものがあったからである。すなわち、「私が知らない」のは、「なぜ」、「私が飢えと呼ぶところの」あの「胃の引き攣れ」が「私に食物をとることについて告げ知らせるのか」(6.f703:AT.VII,76.08-10/E.78.11-13)、なぜ「喉の渇き」が水を「得ることについて」「私」に告げ知らせるのか(6.f704:AT.VII,76.10-11/E.78.13-14)、「そしてそのほかのものについて」も「そのように」なっている(6.f705:AT.VII,76.11/E.78.14)のはなぜなのか、ということである。そういうことについて「固より」「私」が「もっていた」「理由」といえば、「そのように私」の「教わった」のが「自然」で本性的だから、ということくらいしかなかった(6.f706:AT.VII,76.11-12/E.78.14-16)。「少なくとも私が知解するところ」では、胃の「そうした引き攣れ」と、「食物」をとろうという「意志との間に」は「類縁性が全然ない」のだ(6.f707:AT.VII,76.13-15/E.78.16-19)。こうして、「それらのものがそのようにして在るということを」「以前に」「自分で信じ込んでしまっていた」「私」が、「何らかの理由」を「費やすようになった」のは、「当のそのことを証明するために」である(6.f802:AT.VII,76.18-20/E.78.23-26)。
「次に」、感覚によって知得されたものとして真であると「私」が考えたということに関しては、諸々のことが「後になって」呼び戻されて疑われるのだが、「私」はその「諸原因をもまた、考量しよう」(6.E200:AT.VII,74.13-15/E.76.04-06)。「実は」、「感覚に対して私がもっていたすべての信用」は、のちに「多くの経験」によって、「次第に」揺らいだ(6.G101:AT.VII,76.21-22/E.78.27-29)。「時折」、「遠くからは円く見えていた塔」も「近くから」だと「四角く見えてくることもあった」し、「それらの塔の頂に立っている」「巨大な彫像」も、「地上から眺め」た場合には「大きくないように見えたものだ」(6.G102:AT.VII,76.22-26/E.78.29-79.03)。となると、「外部」感覚の判断(6.G104:AT.VII,76.28/E.79.06)によれば、なるほど「脚もしくは腕を切断されてしまった」(6.G108:AT.VII,77.02-03/E.79.09)が、だからといって、そうした肢体の「その部分が私に苦痛を与える」かどうか(6.G110:AT.VII,77.04-06/E.79.12-13)。「私には」このことが「まったく確実だとは、思えずにいた」(ibid.:AT.VII,77.05/E.79.12-13)。
「これら」の理由に「また」、「疑う」「私が先頃付け加えた」「二つの」理由は、「著しく一般的」である(6.G201:AT.VII,77.07-08/E.79.14-16)。「第一」に、「私が常に信じてきた」かぎりで、「私の目覚めている間に私が感覚しない」ものならば、それが何であれ(6.G202:AT.VII,77.08-09/E.79.16-18)、まさかそれが「私の外部に位置する事物から私に到来するとは、私には信じられない」はずだったからである(6.G205:AT.VII,77.12-13/E.79.21-22)。その場合に「むしろそのことを私が信じようとしていた」のは、「目覚めているときに感覚すると私に思われるものについて」なのだが、「どうして」そうなのか、「私は気づかずにいたのだ」(6.G206:AT.VII,77.13-14/E.79.22-24)。「もう一つ」は、すなわち、「私の起源の創作者を今なお知らずにいた」(6.G301:AT.VII,77.14-15/E.79.24-26)というより、「少なくとも知らずにいる、と仮想していた」「私」(6.G302:AT.VII,77.14-15/E.79.26-27)にも、「ひじょうに真なるものとして現れ出てくるもの」さえ(6.G304:AT.VII,77.17-18/E.79.29-30)あった、という理由だ。このように、「感覚された事物の真理たることを私は前々から」「諸々の理由」で「みずから信じ込んでしまっていた」のだが、その「かぎりで」は(6.G401:AT.VII,77.18-20/E.79.30-80.02)、「それら」の理由に対して「私は難なく答えていた」(6.G402:AT.VII,77.20-21/E.80.02-03)。すなわち、「私の意志には依存していない」のは、「感覚」で諸々に「知得」すること(sensuum perceptiones)であり(6.G601:AT.VII,77.23-24/E.80.06-07)、「私にまだ認識されていない」(6.G604:AT.VII,77.27/E.80.10-11)のは、そうした感覚で知得することの「作動者」である(6.G605:AT.VII,77.27/E.80.11)。
「最後に」、感覚によって知得されたものとして真であると「私」が考えたということについて、「何」を「私」は信じるべきなのか、「私は考察しよう」(6.E300:AT.VII,74.15-16/E.76.06-07)。「今」の「私」が「後に」なって「よりよく知りはじめている」のは「私自身と私の起源の創作者と」であって(6.H101:AT.VII,77.28-29/E.80.12-13)、それらを「認容」するにあたっては「せっかちで temere」いるべきだ、と「私は考える」(6.H103:AT.VII,77.30-78.01/E.80.15)。
「第一に、私が知っている」ところによれば、「私が明晰・判明に知解するもののすべて」を(6.H201:AT.VII,78.02-03/E.80.17-18)、「私が知解するそのような類いのものとして」造ることができるのは、「神」である(6.H202:AT.VII,78.03/E.80.18-19)。ここで「重要」なのは、「それを造る」神が「どのくらい有能」なのか、ということではなくて(6.H206:AT.VII,78.06-07/E.80.23-24)、「私が思惟する事物であるという、もっぱらこのことだけ」である(6.H210:AT.VII,78.10-11/E.80.28)。「おそらく」(「あるいはむしろ、すぐ後で私が云うように、確かに」)「私がもっている」(6.H301:AT.VII,78.13-14/E.80.30-81.02)のは、みずからの「身体」(ibid.:AT.VII,78.14/E.81.02)と、そうした「身体」についての「判明な観念」(6.H306:AT.VII,78.17-18/E.81.06-07)とであるが、「思惟する」事物では「ない」(6.H308:AT.VII,78.18-19/E.81.08)ところのそうした身体を「介さずに存在することができる」(6.H310:AT.VII,78.20/E.81.10)のは「私」である。
一方で「私が私のなかに見いだす」ところの「或る種の特殊な機能」は、「思惟する様態」(6.i101:AT.VII,78.21-22/E.81.11-12)である。よって、なにも「私」で「なく」ても、「云い換えれば」、わざわざ「実体」が「知解し」「なく」ても、「それら」は機能する(6.i104:AT.VII,78.24-25/E.81.15-17)。このように、それらの機能は、そうした実体に「内在している」(ibid.:AT.VII,78.25/E.81.16-17)にも拘わらず、「様態」として、「事物から」(6.i107:AT.VII,78.27/E.81.19)「区別される」(6.i108:AT.VII,78.28/E.81.19)。そして「或る種の他の機能」として「私が認知する」のは、「場所を変える」機能や「様々な形を装う」機能「およびそれに類する」ようなものであるが、それらの機能もまた(6.i201:AT.VII,78.28-29/E.81.20-22)、「何らかの実体に内在していて」(6.i203:AT.VII,78.30-79.01/E.81.23-24)、「そうした実体を介さずに存在することはない」(6.i205:AT.VII,79.01-02/E.81.24-25)。とはいえ明らかに、「これら」の機能が(6.i301:AT.VII,79.02-03/E.81.25)「内在して留まっている」のは、「物体なり身体なりといった実体」、「あるいは云うなら延長という」実体にである(6.i303:AT.VII,79.03-04/E.81.26-27)。「思うに」、何かしら「延長」(6.i305:AT.VII,79.04-05/E.81.28)したまま、「これら」は「明晰・判明な概念に含まれて」機能するのだ(6.i307:AT.VII,79.05-06/E.81.29-30)。
他方、「感覚する機能、あるいは、感覚された事物の観念を受け取って認識する」機能は、「或る受動的な機能」として、「なるほど私のなかにある」(6.i401:AT.VII,79.06-09/E.81.30-82.03)。そうであれば「また、或る能動的な機能」が「私のなかか、あるいは他のもののなかに存在する」(6.i403:AT.VII,79.09-10/E.82.04-05)ことになるが、この「機能」によって「そうした観念」が「産出」されたり「造り出」されたりする(6.i404:AT.VII,79.11/E.82.05-06)にあたって「私」は「協力しない」(6.i503:AT.VII,79.13/E.82.09)。となると、「残っている」ところによれば、そうした機能は「私とは別個の何らかの実体のなかにあるようだ」(6.i506:AT.VII,79.14-15/E.82.10-12)。「思うに」、「観念のなかに対象」として含まれている「すべて」のものは、物体あるいは物体としての本性においては「形相」として「含まれている」(6.i510:AT.VII,79.19-20/E.82.16-18)。ところで、神がそうした観念を「私」に送り込むのには「何ら被造物を媒介しない」(6.i603:AT.VII,79.24-25/E.82.23-24)のであって、それらの観念が対象として事実たることは、そうした被造物においては「ただ卓越して含まれているにすぎない」(6.i606:AT.VII,79.26-27/E.82.25-26)。神は「私にいかなる機能をも与えてくれなかった」ので、「私」は「このこと」を「認知すること」ができないが(6.i701:AT.VII,79.27-28/E.82.26-27)、それらの観念が「送り出される」のは、「物体および身体としての事物とは別のところから」である(6.i704:AT.VII,80.03-04/E.83.01-02)。
以上から、「物体および身体としての事物は実在する」(6.i800:AT.VII,80.04/E.83.02-03)。「私が感覚でもって包括的に把握するとおりのもの」(6.i902:AT.VII,80.05-06/E.83.04-05)の「すべては、少なくともそうした」物体なり身体なりとしての事物の「なかにある」(6.i904:AT.VII,80.07-08/E.83.07)のであって、「すべて」(6.i906:AT.VII,80.09/E.83.08-09)「それらは純粋‘数学'の対象において包括的に把握されている」(6.i908:AT.VII,80.09-10/E.83.09-10)。
arranged by K.-m. as the SHYNAMITES. 初出:"What a cool believes"(blog),June 06,2007.
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
...(頁、行) E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
...(頁、行)
cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
...(6=「第六省察」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)
§202 Surface of《ADEi5》
for That's Fusion, Not Confusion.
(1) The 1st surface of 《ADEi5》(物体および身体としての事物についての明晰性・判明性)
[6.A100-A202-A302-A401-A404-A406][6.D101-D106-D203-D205-D206]
[6.E100-E200-E300][6.i800-i901-i905-i908]
「残っているのは」、「実在する」「事物が」「物質的」「かどうか」、それを「私が吟味する」ところである(6.A100:AT.VII,
71.13-14/E.72.20-21)が、「それらを明晰・判明に知得する」「私」が(6.A202:AT.VII,71.15-
16/E.72.24-25)まず「判断した」のは、「何ものも神によってもたらされえないことは決してない」、ということだった(6.A302:
AT.VII,71.18-19/E.73.01-02)。そしてまた、「想像する」という「機能」から(6.A401:AT.VII,71.20-
21/E.73.04-05)「帰結すると思われる」のは、「事物」が「物質として」「実在する」ということだ(6.A404:AT.VII,
71.22/E.73.06-07)。よって、「認識するという機能を」「私」が「何らかの仕方で適用する」際に、「物体」が「そうした認識機能に親しく
現前する」ならば、その物体は「実在する」ということになるのであって、ほかに「明らかになる」ことはない(6.A406:AT.VII,72.01-
03/E.73.08-11)。ところで「私」がたいてい「想像する」ものは多くあるが(6.D101:AT.VII,74.01/E.75.19)、そ
れらが「想像にまで至った」のは、「感覚から記憶の助けを介して」きたせいだ、と「思われる」(6.D106:AT.VII,74.05-
06/E.75.24-25)。となると、みられるべきなのは、感覚という、「思惟することの様態によって諸々のものが」(6.D203:AT.VII,
74.07-08/E.75.27-28)「知得される」(6.D205:AT.VII,74.08-09/E.75.29)ことについて「私が」「確実
な」何かを「立論」できた場合に、それが「物体および身体としての事物の実在のために」なっているかどうか(6.D206:AT.VII,74.09-
10/E.75.29-76.01)、ということである。
そこで「第一になるほど私のもとでここに繰り返す」のは、「感覚によって知得されたものとして真であると従来に私が考え
たのはいったい何であるか、そしてどのような諸原因によって私はそう考えたのか」、ということだ(6.E100:AT.VII,74.11-
13/E.76.01-04)。「次に」、感覚によって知得されたものとして真であると「私」が考えたということに関しては、諸々のことが「後になって」
呼び戻されて疑われるのだが、「私」はその「諸原因をもまた、考量しよう」(6.E200:AT.VII,74.13-15/E.76.04-06)とし
た。「さらに最後に」、感覚によって知得されたものとして真であると「私」が考えたということについて、「何」を「私」は信じるべきなのか、「私は考察し
よう」(6.E300:AT.VII,74.15-16/E.76.06-07)とした。
そうすると、「物体」なり身体なりとして「実在する」「事物」(6.i800:AT.VII,
80.04/E.83.02-03)の「すべて」は「おそらく、そのとおりにおよそ実在する」(6.i901:AT.VII,80.04-
05/E.83.03-04)のであって、「私はそれらを明晰・判明に知解する」(6.i905:AT.VII,80.08-09/E.83.08)。し
たがって、それらすべては「純粋‘数学'の対象において包括的に把握されている」(6.i908:AT.VII,80.09-10/E.83.09-
10)。
(2) The 2nd surface of 《ADEi5》(純粋‘数学'の対象について)
[6.A100-A201-A402-A403-A406][6.D101-D102-D104-D201-D203-D205-D206]
[6.E100-E200-E300][6.i800-i903-i907-i908]
残すところ、「事物が」「物質として」「実在するかどうか」、それを「私」は「吟味する」のだが(6.A100:AT.VII,71.13-
14/E.72.20-21)、「実は」「私」が「すでに少なくとも」「知っている」ところによると、それら物質的な事物は「純粋‘数学'の対象であるか
ぎりでは、実在しうる」のだ(6.A201:AT.VII,71.14-15/E.72.21-23)。そしてまた、「私」の「経験する」ところによれ
ば、想像するという機能を「私」が「使用する」のは(6.A402:AT.VII,71-21/E.73.05)、「そうした物質的な事物に携わる」とき
である(6.A403:AT.VII,71.21-22/E.73.05-06)。
よって、「認識するという機能を」
「私」が「何らかの仕方で適用する」際に、「物体」なり身体なりが「そうした認識機能に親しく現前する」ならば、その物体は「実在する」ということになる
のであって、ほかに「明らかになる」ことはない(6.A406:AT.VII,72.01-03/E.73.08-11)。ところで「私」が「想像」する
(6.D101:AT.VII,74.01/E.75.19)ところの、「あの、物体なり身体なりとして自然で本性的たること」は、「純粋‘数学'の対象
である」(6.D102:AT.VII,74.01-02/E.75.19-21)にも拘わらず、「あまり判明ではない」(6.D104:AT.VII,
74.03-04/E.75.22-23)。となると、「これら」物体の実在について「いっそう都合よく論じる」(6.D201:AT.VII,
74.06/E.75.25-26)にあたって、「みられるべき」なのは(6.D203:AT.VII,74.07/E.75.27)、感覚という、「思
惟することの様態によって諸々のものが」(ibid.:AT.VII,74.07-08/E.75.27-28)「知得される」(6.D205:
AT.VII,74.08-09/E.75.29)ということについて、「私が」「確実な」何かを「立論」しうるのか、ということだ(6.D206:
AT.VII,74.09/E.75.29-30)。その立論は「事物」が「物体」なり身体なりとして「実在」することのためになるのだ(ibid.:
AT.VII,74.09-10/E.75.30-76.01)。
そこで「第一になるほど私のもとでここに繰り返すことに」するのは、「感覚によって知得されたものとして真であると従来
に私が考えたのはいったい何であるか、そしてどのような諸原因によって私はそう考えたのか」、ということである(6.E100:AT.VII,74.11
-13/E.76.01-04)。「次に」、感覚によって知得されたものとして真であると「私」が考えたということに関しては、諸々のことが「後になっ
て」呼び戻されて疑われるのだが、「私」はその「諸原因をもまた、考量しよう」(6.E200:AT.VII,74.13-15/E.76.04-06)
とした。「さらに最後に」、感覚によって知得されたものとして真であると「私」が考えたということについて、「何」を「私」は信じるべきなのか、「私は考
察しよう」(6.E300:AT.VII,74.15-16/E.76.06-07)とした。
そうすると、「物体」なり身体なりとして「実在する」「事物」(6.i800:AT.VII,
80.04/E.83.02-03)の「多く」が「きわめて不明瞭で不分明な」のは、「諸々の感覚」でもって「包括的に把握する」からなのであって
(6.i903:AT.VII,80.06-07/E.83.05-07)、「一般的に観られた」場合(6.i907:AT.VII,
80.09/E.83.09)、それらのすべては「純粋‘数学'の対象」として「包括的に把握される」ことになるのだ(6.i908:AT.VII,
80.09-10/E.83.09-10)。
(3) The 3rd surface of 《ADEi5》(物体および身体としての事物が感覚で知得されること)
[6.A100-A301-A303-A405-A406][6.D101-D103-D105-D106-D202-D204-D205-D206]
[6.E100-E200-E300][6.i800-i902-i904-i906-i908]
残すところ、「物質として」「実在する」のが「事物」なの「かどうか」、それを「私」が「吟味する」にあたって(6.A100:
AT.VII,71.13-14/E.72.20-21)、「疑いのない」ことがある(6.A301:AT.VII,71.16-
17/E.72.25)。すなわちそれは、「この私」が「このように」判明に「知得できるもののすべてを創りだすことのできるのは神だ」、ということであ
る(ibid.:AT.VII,71.17-18/E.72.25-73.01)が、「そうしたものは私によって判明に知得され」ても決して「矛盾」しな
い(6.A303:AT.VII,71.19-20/E.73.02-04)のだから、「注意深く考察する」と、「想像とはいったい何であるか」
(6.A405:AT.VII,71.23/E.73.07-08)が、「明らかとなる」(6.A406:AT.VII,72.01/E.73.08)。
すなわち想像とは、「認識」という「機能を何らかの仕方で適用することにほかならない」のであって、「そうした認識機能に親しく現前する物体は」「実在す
る」ことになる(ibid.:AT.VII,72.01-03/E.73.08-11)。ところで「私」がたいてい「想像する」ものでほかに多いのは
(6.D101:AT.VII,74.01/E.75.19)、「色、音、味、苦痛、およびこれに類するようなもの」である(6.D103:
AT.VII,74.03/E.75.21-22)。「これら」を「私」は「感覚によって」「知得する」のであって(6.D105:AT.VII,
74.04/E.75.23)、そうした「感覚から」「想像にまで」至る途中で「記憶の助けを介し」たと「思われる」(6.D106:AT.VII,
74.05-06/E.75.24-25)。となると、「感覚についても同じように論じられるべき」である(6.D202:AT.VII,74.06-
07/E.75.26-27)。すなわち「私が感覚と呼ぶ」(6.D204:AT.VII,74.08/E.75.28-29)ところの思惟様態によって
「知得される」(6.D205:AT.VII,74.08-09/E.75.29)諸々のものについて「私」が何か「確実」な「立論」をもつことができれ
ば、それは「物体的な事物の実在のために」なるのだ(6.D206:AT.VII,74.09-10/E.75.29-76.01)。
そこで「第一になるほど私のもとでここに繰り返す」のは、「感覚によって知得されたものとして真であると従来に私が考え
たのはいったい何であるか、そしてどのような諸原因によって私はそう考えたのか」、ということである(6.E100:AT.VII,74.11-
13/E.76.01-04)。
「次に」、感覚によって知得されたものとして真であると「私」が考えたということに関しては、諸々のことが「後になって」呼び戻されて疑われる
のだが、「私」はその「諸原因をもまた、考量しよう」(6.E200:AT.VII,74.13-15/E.76.04-06)とした。「さらに最後
に」、感覚によって知得されたものとして真であると「私」が考えたということについて、「何」を「私」は信じるべきなのか、「私は考察しよう」
(6.E300:AT.VII,74.15-16/E.76.06-07)とした。
そうすると、「物体および身体としての事物は実在する」(6.i800:AT.VII,80.04/E.83.02-
03)。「私が感覚でもって包括的に把握するとおりのもの」(6.i902:AT.VII,80.05-06/E.83.04-05)の「すべては、少な
くともそうした」物体なり身体なりとしての事物の「なかにある」(6.i904:AT.VII,80.07-08/E.83.07)。よって、「すべて」
(6.i906:AT.VII,80.09/E.83.08-09)「それらは純粋‘数学'の対象において包括的に把握されている」(6.i908:
AT.VII,80.09-10/E.83.09-10)。
arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),June 03,2007.
David RITZ 1998:
David RITZ (解説),
Marvin Gaye 《Midnight Love&the Sexual Healing Sessions》[CS-8817~8]所収、
Sony Music Entertainment, 1982/1998.
I was hurting and needed to express that hurt.
--Marvin Gaye
(cited from David RITZ 1998, p.7)
Notes.
* I was hurting and ...:
1980年頃、第二の妻ジャニスとの離婚騒動、そして国税庁との税金問題に悩まされたマーヴィン・ゲイは、ハワイに赴いてアルバム《Love
man》(未発表、のち1981年に《In Our
Lifetime》に改作)を制作した。その制作のきっかけについて本人は、「傷ついていたから、その痛みを表現する必要があった」と語っている(藤林
初枝 訳、p.29: Marvin Gaye 《Midnight Love&the Sexual Healing
Sessions》[CS-8817~8]所収、Sony Music Entertainment, 1982/1998)。
*****
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
...(頁、行)
E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
...(頁、行)
cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
...(6=「第六省察」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)
まずは「事物」が「物質」として「実在」することについて
(6.Z100:AT.VII,71.11/E.72.18)
§201 Surface of 《ABC》
for That's Fusion, Not Confusion.
(1) The 1st surface of 《ABC》(想像について)
[6.A100-A202-A302-A401-A404-A406]
[6.B100-B204-B305-B401-B403-B405-B407-B410-B502-B506-B700]
[6.C101-C103-C105-C106-C201-C202-C303-C400-C504-C508]
「残っているのは」、「実在する」「事物が」「物質的」「かどうか」、それを「私が吟味する」ところであるが(6.A100:AT.VII,
71.13-14/E.72.20-21)、「それらを明晰・判明に知得する」「私」が(6.A202:AT.VII,71.15-16/E.72.24
-25)まず「判断した」のは、「何ものも神によってもたらされえないことは決してない」、ということだった(6.A302:AT.VII,71.18-
19/E.73.01-02)。そしてまた、「想像する」という「機能」から(6.A401:AT.VII,71.20-21/E.73.04-05)
「帰結すると思われる」のは、「事物」が「物質として」「実在する」ということだ(6.A404:AT.VII,71.22/E.73.06-07)。
よって、「認識するという機能を」「私」が「何らかの仕方で適用する」際に、「物体」が「そうした認識機能に親しく現前する」ならば、その物体は「実在す
る」ということになるのであって、ほかに「明らかになる」ことはない(6.A406:AT.VII,72.01-03/E.73.08-11)。
そこで「このことを平易にするために、第一に私が吟味するのは、想像と純粋な知解の間にある相違である」(6.B100:
AT.VII,72.04-05/E.73.12-14)。まず「想像と私が呼ぶ」(6.B204:AT.VII,72.09-10/E.73.19-
20)のは、「あたかも現前しているかのように凝らす」こと(6.B305:AT.VII,72.13-14/E.73.25)である。「その場合に」
(6.B401:AT.VII,72.15/E.73.26)、いくら「物体的な事物について de re corporeâ
私が思惟」したところで(6.B403:AT.VII,72.16-17/E.73.27-28)、「私」の想像する或る図形が「千角形ではないことは、
明らか」であり(6.B405:AT.VII,72.18/E.73.29-30)、また、「万角形」であれ「何か他の図形」であれ「夥しい辺」をもつ図
形について「私が思惟」したところで(6.B407:AT.VII,72.20-21/E.74.02-03)、それらを「私」が「認知する」
(6.B410:AT.VII,72.23/E.74.05-06)ことはできない。「なるほど私が知解できる」のは五角形であるが(6.B502:
AT.VII,72.24/E.74.07-08)、「その五つの辺と同時にそれを満たすべく張られた面とに」、「私」の「精神」がいわば注目する
(6.B506:AT.VII,72.26-28/E.74.10-12)際に必要とされるのは、「心だか魂だか」が「新た」に「緊張」すること
(nova animi
contentio)である(6.B700:AT.VII,73.02-03/E.74.15-16)。ここに、「想像と純粋な知解の間の相違」は「明晰
に」示されている(ibid.:AT.VII,73.03-04/E.74.16-18)。「私が考察する」に、「そうした想像する力」は、「私のうちに
ある」(6.C101:AT.VII,73.05-06/E.74.18-19)けれども、「私自身の、云い換えれば、私の精神の、本質には要求されな
い」(6.C103:AT.VII,73.06-07/E.74.20-21)のだから、「私」が「現に今在るのと同じままであろう」ことは「疑いない」
(6.C105:AT.VII,73.08-09/E.74.22-24)。よって、「そこから帰結すると思われるのは、そうした想像する力が私とは別個
な何らかの事物に依存している、ということだ」(6.C106:AT.VII,73.09-10/E.74.24-25)。
「こうして容易に私が知解する」ところによれば(6.C201:AT.VII,73.10/E.74.25-26)、
「実在」している「何らかの物体なり身体なり」と「結合して」いる「精神」が、「みずからを傾注」して「この物体」を「あたかも洞観する」かのように
(6.C202:AT.VII,73.11-12/E.74.26-28)「想像している間」、精神は「物体のほうへと振り向いて」、「そうした物体のう
ち」に「何らかのもの」を「凝らす」のである(6.C303:AT.VII,73.17-18/E.75.04-05)。そのようにして凝らされたもの
は、精神「みずからによって知解された観念」か、「あるいは、感覚によって知得された観念に符合する」(ibid.:AT.VII,73.18-
20/E.75.05-07)。そうであれば、「想像がそのように成就」されうるのは、「物体および身体が実在している」かぎりにおいてだ、と「知解す
る」のは「私」が(6.C400:AT.VII,73.20-21/E.75.07-09)このように「云う」のは「容易」だ(ibid.:
AT.VII,73.20/E.75.07)。したがって、「私が精確にすべてを探求して」いけば(6.C504:AT.VII,73.24-
25/E.75.13)、「何らかの物体なり身体なりが実在する」ということが「必然的に結論」されるだろう(6.C508:AT.VII,73.27-
28/E.75.17-18)。
(2) The 2nd surface of《ABC》(想像と知解との間の相違)
[6.A100-A201-A402-A403-A406]
[6.B100-B201-B203-B301-B304-B402-B404-B407-B408-B410-B502-B505-B601-B700]
[6.C101-C102-C104-C106-C201-C301-C400-C501-C503-C506]
残すところ、「事物が」「物質として」「実在するかどうか」、それを「私」は「吟味する」のだが(6.A100:AT.VII,71.13-
14/E.72.20-21)、「実は」「私」が「すでに少なくとも」「知っている」ところによると、それら物質的な事物は「純粋‘数学'の対象であるか
ぎりでは、実在しうる」のだ(6.A201:AT.VII,71.14-15/E.72.21-23)。そしてまた、「私」の「経験する」ところによれ
ば、想像するという機能を「私」が「使用する」のは(6.A402:AT.VII,71-21/E.73.05)、「そうした物質的な事物に携わる」とき
である(6.A403:AT.VII,71.21-22/E.73.05-06)。よって、「認識するという機能を」「私」が「何らかの仕方で適用する」
際に、「物体」なり身体なりが「そうした認識機能に親しく現前する」ならば、その物体は「実在する」ということになるのであって、ほかに「明らかになる」
ことはない(6.A406:AT.VII,72.01-03/E.73.08-11)。
そこで「このことを平易にするために、第一に私が吟味するのは、想像と純粋な知解の間にある相違である」
(6.B100:AT.VII,72.04-05/E.73.12-14)。「思うに、例えば、三角形を私が想像するとき」(6.B201:
AT.VII,72.06/E.73.12-14)、「三本の線があたかも現前しているものであるかのように」、「私」は「精神」を「目」の如く「凝ら
す」のだが(6.B203:AT.VII,72.08-09/E.73.17-19)、「しかし千角形について」「私」の「意志」で「思惟しよう」として
も(6.B301:AT.VII,72.10-11/E.73.20)、「同じ仕方ではそうした千の辺を想像することはない」(6.B304:
AT.VII,72.13-14/E.73.24-25)。このように、「常に何ものかを想像するというしきたり」のせいで(6.B402:
AT.VII,72.15-16/E.73.26-27)、「おそらく何らかの図形を不分明に私は表象して再現する」(6.B404:AT.VII,
72.17-18/E.73.28-29)のだが、「万角形について、ないしは夥しい辺をもつ他のいずれかの図形について、私が思惟する」場合
(6.B407:AT.VII,72.20-21/E.74.02-03)、そうした不分明に表象された図形では、「それらの特性を」(6.B408:
AT.VII,72.21-22/E.74.03-04)「認知する」(6.B410:AT.VII,72.23/E.74.05-06)ことはできな
い。そうではなくて「私」に「できる」のは、五角形を「知解すること」と(6.B502:AT.VII,72.24/E.74.07-08)、その五角形
を「想像すること」(6.B505:AT.VII,72.25-26/E.74.09-10)である。以上から「明瞭にここで私が気づく」ところによれ
ば、「想像するために」は「或る種」「特異」に「心だか魂だか」を「緊張」させる「必要」が「私に」はある(6.B601:AT.VII,72.28-
73.02/E.74.12-14)。そのように「心なり魂なり」が「新た」に「緊張」することに、「想像と純粋な知解の間の相違」は「明晰に」示されて
いる(6.B700:AT.VII,73.02-04/E.74.15-18)。「私が考察する」に、「そうした想像する力」は「私のうちにある」
(6.C101:AT.VII,73.05-06/E.74.18-19)のだが、「知解する力から異なるのに応じて」(6.C102:AT.VII,
73.06/E.74.19-20)いるので、「想像する力が私に欠けている」(6.C104:AT.VII,73.07-08/E.74.21-22)
こともある。よって、「そこから帰結すると思われるのは、そうした想像する力が私とは別個な何らかの事物に依存している、ということだ」(6.C106:
AT.VII,73.09-10/E.74.24-25)。
「こうして容易に私が知解する」のは(6.C201:AT.VII,73.10/E.74.25-26)、想像という、
「この思惟することの様態」が「純粋な知解から異なっている」、ということだ(6.C301:AT.VII,73.14-15/E.74.30-
75.01)。したがって「想像」が「成就」されうるのは、「物体および身体が実在している」かぎりにおいてである、と「知解する」「私」が
(6.C400:AT.VII,73.20-21/E.75.07-09)このように「云う」のは「容易」なのであって(ibid.:AT.VII,
73.20/E.75.07)、かの想像を「説明するのに」ちょうど出くわしたのが、ほかならぬこの「仕方」なのである(6.C501:AT.VII,
73.21-23/E.75.09-11)。「しかし」それは「蓋然的」な仕方であるにすぎない(6.C503:AT.VII,
73.24/E.75.12)。なぜなら、物体として本性的たることという、あるいは身体として自然たることという、そうした判明な観念を、「私」は「私
の想像のなかで見いだす」からである(6.C506:AT.VII,73.26/E.75.15-16)。
(3) The 3rd surface of 《ABC》(知解について)
[6.A100-A301-A303-A405-A406]
[6.B100-B202-B302-B303-B403-B406-B409-B410-B501-B503-B504-B602-B700]
[6.C101-C106-C201-C203-C302-C400-C502-C505-C507]
残すところ、「物質として」「実在する」のが「事物」なの「かどうか」、それを「私」が「吟味する」にあたって(6.A100:
AT.VII,71.13-14/E.72.20-21)、「疑いのない」ことがある(6.A301:AT.VII,71.16-
17/E.72.25)。すなわちそれは、「この私」が「このように」判明に「知得できるもののすべてを創りだすことのできるのは神だ」、ということであ
る(ibid.:AT.VII,71.17-18/E.72.25-73.01)。しかも「そうしたものが私によって判明に知得され」ても決して「矛盾」
しない(6.A303:AT.VII,71.19-20/E.73.02-04)のだから、「注意深く考察する」と、「想像とはいったい何であるか」
(6.A405:AT.VII,71.23/E.73.07-08)が、「明らかとなる」(6.A406:AT.VII,72.01/E.73.08)。
すなわち想像とは、「認識」という「機能を何らかの仕方で適用することにほかならない」のであって、「そうした認識機能に親しく現前する物体は」「実在す
る」ことになる(ibid.:AT.VII,72.01-03/E.73.08-11)。
そこで「このことを平易にするために、第一に私が吟味するのは、想像と純粋な知解の間の相違である」(6.B100:
AT.VII,72.04-05/E.73.12-14)。たとえば三角形が「三本の線で囲まれた図形」だということを「知解」している「私」は
(6.B202:AT.VII,72.07-08/E.73.15-17)、千角形が「千の辺から成る図形であること」も「知解する」し(6.B302:
AT.VII,72.11-12/E.73.21-22)、「三角形が三つの辺から成る図形であること」も「知解する」(6.B303:AT.VII,
72.12-13/E.73.22-24)。けれども「物体としての事物について de re corporeâ
私が思惟するたびごとに」(6.B403:AT.VII,72.17-18/E.73.27-28)「私」が「表象して再現する」図形は、「事物において
は別個でない」(6.B406:AT.VII,72.18-20/E.73.30-74.02)から、そうした図形でもって「千角形が他の」様々な「多角
形と異なる」諸々の特性(6.B409:AT.VII,72.22-23/E.74.04-05)を「認知する」(6.B410:AT.VII,
72.23/E.74.05-06)ことはできない。また「五角形が問題である」場合は(6.B501:AT.VII,72.23-24/E.74.06
-07)、「千角の図形」の場合と「ちょうど」同じように(6.B503:AT.VII,72.24-25/E.74.08)、「想像の助けを介さない」
(6.B504:AT.VII,72.25/E.74.08-09)。このように、「私が知解するためには使用しない」(6.B602:AT.VII,
73.02/E.74.15)のは、すなわち「心やら魂やら」を「新た」に「緊張」させること(nova animi
contentio)である(6.B700:AT.VII,73.02-03/E.74.15-16)。ここに、「想像と純粋な知解の間の相違」が「明晰
に」示されているのだ(ibid.:AT.VII,73.03-04/E.74.16-18)。「私が考察する」に、「そうした想像する力」は「私のうち
に」ありながら(6.C101:AT.VII,73.05-06/E.74.18-19)、「私とは別個な何らかの事物に依存している」(6.C106:
AT.VII,73.09-10/E.74.24-25)。
「こうして容易に私が知解する」のは(6.C201:AT.VII,73.10/E.74.25-26)、「物体なり身
体なりとしての事物を私が想像するということ」(6.C203:AT.VII,73.13/E.74.28-29)である。というのも、「知解している
間」の「精神」が「みずからのほうへと振り向いて」「注視する」観念は、精神「みずからに内在する諸々の観念のうち」のいずれかだからである
(6.C302:AT.VII,73.15-17/E.75.01-04)。そうであれば、「想像」が「成就」されうるのは「物体および身体が実在してい
る」かぎりにおいてだ、と「知解する」「私」が(6.C400:AT.VII,73.20-21/E.75.07-09)、このように「云う」のは「容
易」だ(ibid.:AT.VII,73.20/E.75.07)。けれども「物体および身体が実在する」ということを「そこから私」は、「蓋然的に」
「推量する」(6.C502:AT.VII,73.23/E.75.11-12)にすぎないのであって、「まだ私に判らない」のは(6.C505:
AT.VII,73.25/E.75.14)、すなわち、「物体として本性的たること」という、あるいは身体として自然たることという、「そうした判明な
観念から」(ibid.:AT.VII,73.25-26/E.75.14-15)、「いかなる議論が取りあげられうるのか、ということだ」
(6.C507:AT.VII,73.27/E.75.16-17)。
arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),June 02,207.
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
...(頁、行)
E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
...(頁、行)
cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
...(6=「第六省察」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)
§135 Line of 《W》
for That's Fusion, Not Confusion.
(1) One extreme line of 《W》(夢のなかのものを記憶しても、実生活にはつながらない)
[6.W101-W102-W202-W206-W210-W303-W502-W506-W510-W512 -W602-W604-W607-W703-W705-W901]
「しかも、この考察が寄与する」ものは「ひじょうに多い」(6.W101:AT.VII,89.08/E.94.06)。「私の気づく」とこ
ろによれば、「本性」上、「私」が「晒されている過誤のすべて」(6.W102:AT.VII,89.08-10/E.94.07-08)のうちで、「身
体」にとって「好都合なことに関わるもの」(6.W202:AT.VII,89.12/E.94.11)を記憶することでもって、「現在のものを過去のも
のに連結する」(6.W206:AT.VII,89.15-16/E.94.15-16)と、「感覚から私に常日頃表示されるもの」(6.W210:
AT.VII,89.18/E.94.18-19)は、「はじき出されうる」(6.W303:AT.VII,89.20/E.94.21)のだ。
ところで、「夢のなか」のものが「記憶」されても、それらは「生活の残りの活動のすべてには決して結合されることはない」(6.W502:
AT.VII,89.23-24/E.94.24-26)ので、「私に忽然と出現して」(6.W506:AT.VII,89.26/E.94.28)も、
「どこへ立ち去るのか」「私」に判ら「ない」ものが(6.W510:AT.VII,89.28/E.94.30)「幻影
spectrum」であることに「不当はない」(6.W512:AT.VII,89.28-90.01/E.95.01)。
「むしろ」(ibid.:AT.VII,90.01/E.95.01)諸々の事物は、「判明に」(6.W602:AT.VII,
90.03/E.95.04)「私が気づいている」(6.W604:AT.VII,90.04/E.95.05)かぎりでは、「夢のなかに」は「ない」
(6.W607:AT.VII,90.06/E.95.08)ので、そうした事物がそのほかのものと矛盾しないということは、「私に」は(6.W703:
AT.VII,90.09/E.95.12)、「これらの」事物のうちなら「いずれからでも」「通知される」(6.W705:AT.VII,
90.10/E.95.12-13)。
但し、「事物」が「行動されるべき」必要に迫られている場合は、「そのように精確」に「吟味」されようにも、「いつも」「猶予を許し与え」られるわけでは「ない」(6.W901:AT.VII,90.12-13/E.95.15-17)。
(2) The other extreme line of 《W》(疑っていたのは、夢現つの区別をしなかったからである)
[6.W101-W103-W204-W208-W301-W402-W504-W508-W511-W514 -W603-W606-W701-W704-W802-W903]
「しかも、この考察が寄与する」ものは「ひじょうに多い」(6.W101:AT.VII,89.08/E.94.06)。「私」が本性上、晒
されているのは諸々の過誤だが、それらの過誤を「矯正したり回避したりすること」が「私」には「容易にできる」し(6.W103:AT.VII,
89.10-11/E.94.08-10)、また、すべての感覚のうちの「大半のもの」を「ほとんど常に使用すること」でもって「同じ」一つの「事物を吟
味する」ことも「私」には「できる」(6.W204:AT.VII,89.13-15/E.94.13-14)。のみならず、過誤に陥る「原因のすべて」
については「すでに」知性でもって「洞察した」(6.W208:AT.VII,89.16-17/E.94.16-17)。
となると、「先日から superiorum
dierum」の諸々の「疑い」が「究極的(hyperbolicus)」だった(6.W301:AT.VII,89.19/E.94.19-20)の
は、「私」が睡眠を「覚醒から区別せずにいた」(6.W402:AT.VII,89.21/E.94.22)せいなのであって、「固より」「誰かが」
(6.W504:AT.VII,89.25/E.94.27)「夢のなかのように生じ(fieri)」ても(6.W508:AT.VII,
89.27/E.94.29)、「私には判って」いた(6.W511:AT.VII,89.28/E.95.01)。
「私が判断していた」ところによれば、「真なる人間」が「居る」かぎり(6.W514:AT.VII,90.02/E.95.02-03)、その人間が
「どこから、どこへ、いつ、私に到来する」のか(6.W603:AT.VII,90.03-04/E.95.04-05)は、「私」にとって「まったく確
かなのである」(6.W606:AT.VII,90.05-06/E.95.07)。したがって、「それら」の事物が「真理であることについて」、「私は
僅かなれども疑ってはならない」(6.W701:AT.VII,90.07/E.95.08-10)。そして「そのほかのものと矛盾する」
(6.W704:AT.VII,90.09-10/E.95.12)「類い」のものにおいては「およそ」「私は欺かれて誤ることはない」(6.W802:
AT.VII,90.11-12/E.95.14-15)。
以上のことが「帰結する」(ibid.:AT.VII,
90.11/E.95.14)ならば、「堅固でない」のは、我々の本性だとか、「我々」にとって「自然」なのだとかいうことが、「認知されるべき」だ
(6.W903:AT.VII,90.15-16/E.95.19-20)。
(3) The moderate line of 《W》(感覚に記憶と知性を重ねれば、もう怖くない)
[6.W101-W201-W203-W205-W207-W209-W211-W302-W401-W501-W503-W505 -W507-W509-W511-W513-W601-W603-W605-W608-W702-W704-W801-W902]
「しかも、この考察が寄与する」ものは「ひじょうに多い」(6.W101:AT.VII,89.08/E.94.06)。「固より」、「私が
知る」ところによると、「すべての感覚は」、身体にとって好都合なことに関わるものを「めぐって」は(6.W201:AT.VII,89.11-
12/E.94.10-11)、「真なるもの」を「報じる」頻度が「はるかに」高い(6.W203:AT.VII,89.12-13/E.94.12-
13)。それらの感覚が「偽なるもの」を報じた場合でも(ibid.:AT.VII,89.13/E.94.12-13)、さらに「記憶」
(6.W205:AT.VII,89.15/E.94.14-15)と「知性」(6.W207:AT.VII,89.16/E.94.16)とでもってす
れば、「私はもはや恐れなくて」済む(6.W209:AT.VII,89.17-18/E.94.17-18)。そういえば、「私」に常日頃感覚から表示
されるものが「偽ではないのか」(ibid.&6.W211:AT.VII,89.17-18/E.94.19)といった、「笑いに値するよう
な」(6.W302:AT.VII,89.19-20/E.94.20)「至上の」疑いは「とりわけ」、「睡眠について」(6.W401:AT.VII,
89.20-21/E.94.21-22)なされた。
「今、私が気づく」ところによれば、「ひじょうに大きな差異があ
る」のは、睡眠中に出くわすものと(6.W501:AT.VII,89.21-23/E.94.23-24)「覚醒しているときに出くわすもの」
(6.W503:AT.VII,89.24-25/E.94.26-27)との間なのだ。もし「私が覚醒している際に」(6.W505:AT.VII,
89.25-26/E.94.28)「ただちに消え失せて」しまっていて、「のちに」(6.W507:AT.VII,89.26-27/E.94.28-
29)なっても、いったい「どこから来たのか」、「さっぱり
scilicet」(6.W509:AT.VII,89.27-28/E.94.29-30)「私には」判らない(6.W511:AT.VII,
89.28/E.95.01)というのであれば、それは「私の脳のなかで作成された幻想
phantasma」である(6.W513:AT.VII,90.01/E.95.01-02)。
「実に、そうした諸々
の事物」に「私」が「出くわし」た場合に(6.W601:AT.VII,90.02-03/E.95.03-04)、それらの事物が「どこから、どこへ、
いつ、私に到来」したのか(6.W603:AT.VII,90.03-04/E.95.04-05)、ということを「知得」したうえで、「それら」の事物
を「残りの生活全体に私が連結して」みて何も「中断」されていない(6.W605:AT.VII,90.04-05/E.95.05-07)のであれば、
それらの事物に「出くわし」たのは「私」が「覚醒しているとき」である(6.W608:AT.VII,90.06/E.95.08)。ところで「私」が
「感覚のすべてと記憶と知性とを召集した」うえで、「それら」の事物を「吟味」した「後で」ある(6.W702:AT.VII,90.08-
09/E.95.10-12)にも拘わらず、それらが「そのほかのものと」何かしら「矛盾する」(6.W704:AT.VII,90.09-
10/E.95.12)場合もある。
しかし「神は欺かない」のだから(6.W801:AT.VII,90.10-
11/E.95.13-14)、むしろ「認容されるべき」なのは、「個別的な事物をめぐってしばしば過誤に晒されている」のが「人間の生活だ」、というこ
とである(6.W902:AT.VII,90.14-15/E.95.17-19)。
arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),May 31,2007.
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
...(頁、行)
E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
...(頁、行)
cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
...(6=「第六省察」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)
§134 Line of 《V》
for That's Fusion, Not Confusion.
(1) One extreme line of 《V》(善なる神のもとでは、感覚が欺かれるのも自然だ)
[6.V101-V102-V203-V207-V304-V402-V405-V408]
以上の「そのことから、およそ明瞭な」のは(6.V101:AT.VII,88.19/E.93.12)、「果てしなく善」である「神」には「抗しない」(6.V102:AT.VII,88.19-20/E.93.12-13)、ということだ。
足以外の「部分」のどこであれ、その部分をとおして「諸々の神経が足から脳に届いている」(6.V203:AT.VII,88.22-
24/E.93.16-18)ならば、「感覚が欺かれる」のも「自然で」あろう(6.V207:AT.VII,88.26-27/E.93.21-
22)。そうすると、「足の」苦痛を「常に」「精神に表示する」ほうが、「別の部分の苦痛」を表示する「よりもむしろ」、「理にかなっている」
(6.V304:AT.VII,88.30-89.02/E.93.26-28)ことになる。
また「飲料」は「たいて
い」、「身体の調子に有利である」が、そうで「ない」(6.V402:AT.VII,89.03-04/E.93.29-30)「場合にも」、感覚を「欺
く」のが喉の干からびであれば、「かなりまし」だ(6.V405:AT.VII,89.05-06/E.94.02-03)。「そして」同じようなことは
「残りのことについても」云える(6.V408:AT.VII,89.07/E.94.04-05)。
(2) The other extreme line of 《V》(運動しだす原因が何であれ、身体は良好にできている)
[6.V101-V103-V202-V205-V302-V403-V407-V408]
以上の「そのことから、およそ明瞭な」(6.V101:AT.VII,88.19/E.93.12)ところによると、「人間」は、「精神と身
体とから複合されている」かぎり、みずからの「本性」によって欺かれざるをえないときもある(6.V103:AT.VII,88.20-
22/E.93.13-15)。
よって、「足においてではない」(6.V202:AT.VII,
88.22/E.93.16)何らかの原因で「引き起こ」された「運動」と、「足」が「刺激され」て「悪く」なったときに「たいてい引き起こされがち」な
運動とが、どちらも「まったく同じ」である(6.V205:AT.VII,88.24-25/E.93.19-20)ならば、このように運動しはじめる
「原因」でもって「足を傷つけている」ほうが、頻度は「はるかに」高いのが「常である」(6.V302:AT.VII,88.28-30/E.93.24
-25)けれども、このように運動しはじめる「原因」がそれと「反対の何か」であっても(6.V403:AT.VII,89.04/E.93.30-
94.01)、「身体」は「良好」に「構成されている」(6.V407:AT.VII,89.06-07/E.94.04)。「そして」同じようなこと
は、「残りのことについても」云える(6.V408:AT.VII,89.07/E.94.04-05)。
(3) The moderate line of 《V》(同じ運動からは同じ感覚しか得られないが、原因は様々だ)
[6.V101-V201-V204-V206-V301-V303-V401-V404-V406-V408]
以上の「そのことから、およそ明瞭な」(6.V101:AT.VII,88.19/E.93.12)ところによれば、「何らかの原因」で
(6.V201:AT.VII,88.22/E.93.16)「脳そのもののなかに」引き起こされる運動も(6.V204:AT.VII,
88.24/E.93.18-19)、そしてまた「あたかも足におけるかのように」「苦痛が」「感覚されることになる」(6.V206:AT.VII,
88.26/E.93.20-21)場合に「脳のなかに」引き起こされる「運動」も、どちらも「同じ」であるならば(6.V301:AT.VII,
88.27/E.93.22-23)、「この」運動が「精神にもたらすことのできる」「感覚」は「常に同じ」で「しかない」(ibid.:AT.VII,
88.27-28/E.93.22-24)とはいえ、「別のところに」は足を傷つける原因「以外の」ものが「存在している」(6.V303:
AT.VII,88.30/E.93.25-26)。
したがって、「或るときに喉の干からび」(6.V401:
AT.VII,89.02/E.93.28-29)に「至っている」人が「水腫病に」かかっているならば(6.V404:AT.VII,89.04-
05/E.94.01-02)、喉の干からびが感覚を「欺く」のは、「常に」身体の良好とは「逆」の場合である(6.V406:AT.VII,
89.06/E.94.03)。「そして」同じようなことは、「残りのことについても」云える(6.V408:AT.VII,89.07/E.94.04
-05)。
arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),May 31,2007.
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
...(頁、行) E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
...(頁、行)
cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
...(6=「第六省察」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)
§133 Line of 《U》
for That's Fusion, Not Confusion.
(1) One extreme line of 《U》(健康を維持するべく、神経も運動する)
[6.U101-U105-U108-U111-U203-U207-U302-U402-U406-U407]
「最後に私が気づく」(6.U101:AT.VII,87.19/E.92.07)かぎり、「こうした事物において」「それ以上何もない」く
らいに「よい」ことが「考え出されうる」(6.U105:AT.VII,87.22/E.92.10-11)。すなわちそれは、「人間」を「健康」に「維
持」するのに「最大にして最も頻繁に有利である」もの「以外に」(6.U108:AT.VII,87.23-25/E.92.13-15)、感覚のなかに
は「まったく何も見いだされない」(6.U111:AT.VII,87.26-27/E.92.16-17)、ということである。
たとえば、「脊髄をとおして per spinae dorsi medullam
脳の奥へと伝達」(6.U203:AT.VII,88.02-03/E.92.21-22)される神経の運動ならば、「足に害がはびこっている
infestum
ように」(6.U207:AT.VII,88.06/E.92.26)「脳のなかで精神に表示」されるが、「任意なら他の何」が表示されようとも、神経の
「運動」はこれと「同じ」ようである(6.U302:AT.VII,88.08-09/E.92.28-29)。
また、
「咽(guttur)において」「何か」「乾燥しはじめる」(6.U402:AT.VII,88.13-14/E.93.05-06)のは、「我々が」
「飲料」でもって「体調」を「維持」しようと「求めている」(6.U406:AT.VII,88.17-18/E.93.09-11)せいなのである。
「そして」同じようなことは「そのほかについて」も云える(6.U407:AT.VII,88.18/E.93.11)。
(2) The moderate line of 《U》(苦痛に対しては全力で挑む)
[6.U102-U104-U106-U108-U110-U112-U202-U204-U206-U208-U301-U303-U401-U403-U405-U407]
「運動」であるからには、そのうちの「各々」が(6.U102:AT.VII,87.19-20/E.92.07-08)精神に「もたらす」
「何らかの感覚」は、「一つしかない」(6.U104:AT.VII,87.21-22/E.92.09-10)。となると、「かの」感覚の「もたらす」
(6.U106:AT.VII,87.22-23/E.92.11-12)ものが「最大にして最も頻繁に有利である」のは、「人間」を「健康」に「維持」
するのに際してだ(6.U108:AT.VII,87.23-25/E.92.13-15)。「我々の感覚のすべて」が「そのような」ものとして「自然に
仕込まれて a naturâ
inditos」いる(6.U110:AT.VII,87.26/E.92.15-16)ならば、「神」が「有能であり善であること」を「立証しない
(non testari)」感覚は、何もない(6.U112:AT.VII,87.27-28/E.92.17-18)はずだ。
ところで、諸々の神経の「こうした運動が」(6.U202:AT.VII,88.02/E.92.21)脳の奥で「精神に合図を与える」と、この精神は
「何らかのものを感覚すること」になる(6.U204:AT.VII,88.03-04/E.92.22-23)のだが、この合図によって「引き起こさ
れ」た精神は、苦痛の「原因」に対して(6.U206:AT.VII,88.05-06/E.92.25)「みずから」の「最大限」(6.U208:
AT.VII,88.06/E.92.26)の力を発揮する。
したがって、「神によって構成されることができたなら
ば」、「本性」上、「実に」「人間」の(6.U301:AT.VII,88.07-08/E.92.27-28)脳におけるあの運動によって精神に表示さ
れるものは、運動「そのもの」である「かぎり」なら、「脳のなかに」あろうが「足のなかに」あろうが、その「中間の場所のうちのどこに」あろうが、「最後
に、任意」のものなら「他のどこに」あろうが(6.U303:AT.VII,88.09-11/E.92.29-93.02)、「同じ仕方」だ
(6.U401:AT.VII,88.13/E.93.04-05)。
「飲料を要求する」「我々」(ibid.)におい
ては咽(guttur)の「神経」が「動かさ」れて、「その」神経の「助け」を介して、「脳の内部」が動かされる(6.U403:AT.VII,
88.14-15/E.93.06-07)のだが、飲料を求めて体調を維持するということを「この状況全体において」「知る」と、それは「我々にとって有
用」となる(6.U405:AT.VII,88.16-17/E.93.08-09)。「そして」同じようなことは「そのほかについて」も云える
(6.U407:AT.VII,88.18/E.93.11)。
(3) The other extreme line of 《U》(運動が感覚のすべてをもたらすことでもって、体調を維持する)
[6.U103-U107-U109-U201-U205-U209-U304-U404-U407]
「脳のあの部分」が「精神を触発する」にあたっては、「何も媒介しない」のだが、この部分に「生じ」ている各々の運動は(6.U103:
AT.VII,87.20-21/E.92.08-09)感覚の「すべて」を「もたらすことができる」(6.U107:AT.VII,
87.23/E.92.12-13)。
「経験」によって「立証」されている(6.U109:AT.VII,
87.25/E.92.15)例によると(6.U201:AT.VII,87.28/E.92.19)、「足に在る神経」が「いつもと違って激しく動かさ
れ」ている場合(ibid.:AT.VII,88.01-02/E.92.19-21)には、「苦痛」を「あたかも足のなかに存在するが如き」ものとして
(6.U205:AT.VII,88.04-05/E.92.24-25)「除去する」(6.U209:AT.VII,88.04-05/E.92.26
-27)ことでもって「身体」を「維持」する「以外に」「有利な」ことは「なかった」(6.U304:AT.VII,88.11-13/E.93.03-
04)。
「同じく」(ibid.:AT.VII,88.12/E.93.04)、咽(guttur)の神経から脳の内部
に伝わった「運動」に「触発」されたせいで「精神」が「感覚」するのは「渇き」である(6.U404:AT.VII,88.15-16/E.93.07-
08)。「そして」同じようなことは、「そのほかについても」云える(6.U407:AT.VII,88.18/E.93.11)。
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初出:"What a cool believes"(blog),May 31,2007.
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
...(頁、行)
E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
...(頁、行)
cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
...(6=「第六省察」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)
§132 Line of 《T》
for That's Fusion, Not Confusion.
(1) One extreme line of 《T》(或る神経のうちで運動がどこも通過しないならば、感覚は別のものだ)
[6.T101-T102-T104-T204-T303-T307-T401-T502-T504-T600]
「それに加えて、私が気づく」ところによれば、「物体」や身体は、「その本性」上(6.T101:AT.VII,86.24/E.91.08
-09)、「いかなる部分」であれ「動かされえない」という場合、その「他の部分」が「或る程度隔たって」いるのであれば(6.T102:AT.VII,
86.24-26/E.91.09-10)、この「隔たった」ほうの部分が「何もはたらきかけなく」(6.T104:AT.VII,86.27-
28/E.91.12-13)ても、「動かされることもできる」(6.T204:AT.VII,87.02/E.91.15-16)はずだ。
ところで「自然学やら物理学やら Physica
が私に教えてきた」ところによると、「私」の足における「この」苦痛の「感覚が生ずる」にあたっては「諸々の神経の助けを」介する(6.T303:
AT.VII,87.05/E.91.19-20)のだが、「足をとおして広がっている」これらの神経が(ibid.:AT.VII,
87.06/E.91.20-21)「何らかの運動を」脳の奥の部分に「引き起こす」(6.T307:AT.VII,87.09/E.91.24-25)
ためには、「脛、腿、腰、背および首を通過しなければならない」(6.T401:AT.VII,87.11-12/E.91.27-29)。
したがって、「それらの神経」(ibid.:AT.VII,87.11/E.91.27)の「部分が」(6.T502:AT.VII,
87.13-14/E.91.30-92.01)「触れられない」(6.T504:AT.VII,87.14/E.92.01)場合には、「どれについて
であれ」「同じ」く「他の感覚」である、と「考えられるべき」だ(6.T600:AT.VII,87.17-18/E.92.05-06)。
(2) The other extreme line of 《T》(神経の途中の点からの運動でも、同じ感覚が得られる)
[6.T101-T103-T202-T301-T305-T501-T506]
「それに加えて」「物体」や身体について「私が気づく」ところによれば、「その本性」上(6.T101:AT.VII,
86.24/E.91.08-09)、物体および身体の或る部分が「動かされうる」のは、或る程度隔たった別の部分からでも、これら二つの部分に「介在し
ている」部分のうちの「どこからでも」、「同じ仕方」なのであって(6.T103:AT.VII,86.26-27/E.91.10-12)、それは綱
ABCDの「最後の部分なるD」によって「引きずられる」(6.T202:AT.VII,86.28-87.01/E.91.14)のと「似つかぬわけで
はない」(6.T301:AT.VII,87.04/E.91.18)。
だからこそ、諸々の神経が「足において引きずら
れ」て(6.T305:AT.VII,87.07/E.91.22)「起こりうる」(6.T501:AT.VII,87.13/E.91.30)ならば、
それが「脳のなかに生ずる運動」であれ、「足」を「刺激され」て「悪く」なったときに「生ずる」運動であれ、「まったく同じ」なのだ(6.T506:
AT.VII,87.15-16/E.92.02-04)。
(3) The moderate line of 《T》(綱そっくりの神経が運動して感覚する)
[6.T101-T201-T203-T205-T302-T304-T306-T308-T402-T503-T505-T507]
「それに加えて」、「物体」や身体について「私が気づく」のは、「その本性」である(6.T101:AT.VII,
86.24/E.91.08-09)。「綱ABCD」におけるような例を示すと(6.T201:AT.VII,86.28/E.91.13-14)、「動
かされる」のが「最初の」部分「Aにほかならない」という「様子
pacto」については(6.T203:AT.VII,87.01-02/E.91.15)、「最後の」部分「Dが動かないままでいる」ならば、「中間
の」部分のうちの「一つ」なる「BもしくはC」によって、部分Aは「引きずられている」(6.T205:AT.VII,87.02-04/E.91.16
-18)。
ちなみに、「私が苦痛を感覚している」「足」(6.T302:AT.VII,87.04/E.91.18-
19)から「脳にまでずっと伸びている」諸々の神経は、「綱そっくりで」(6.T304:AT.VII,87.06-07/E.91.21-22)、「脳
の奥の部分」へと「続いている」(6.T306:AT.VII,87.07-08/E.91.23-24)。諸々の神経がこの部分を「引きずって」
(ibid.:AT.VII,87.07/E.91.23)この運動が「精神を触発」すると、精神は、「苦痛」が「あたかも足に存するかのように」「感
覚」するのだが、このように「自然に制定された」のである(6.T308:AT.VII,87.09-11/E.91.25-27)。
となると、「足から脳に至る」(6.T402:AT.VII,87.12-15/E.91.29-30)神経ならば、「足のなかにある」部分
(6.T503:AT.VII,87.14/E.92.01)であれ、「ただ中間の」部分のうちのどこかだけ(6.T505:AT.VII,87.14-
15/E.92.01-02)であれ、「精神の感覚する」「苦痛」は「必然的に」「同じであろう」(6.T507:AT.VII,87.16-
17/E.92.04-05)。
arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),May 31,2007.
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
...(頁、行)
E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
...(頁、行)
cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
...(6=「第六省察」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)
§131 Line of 《S》
for That's Fusion, Not Confusion.
(1) One extreme line of 《S》(脳の部分の配置が同じでも、身体の部分は様々たりうる)
[6.S101-S301-S400-S502]
「次に私が気づく」ところによれば、「精神の触発される」のが「身体の部分のすべてから」で「なく」ても、また「媒介なしで」なくても (6.S101:AT.VII,86.16-17/E.90.28-29)、脳の微小な一部分が「いつでも同じ仕方で配置される」(6.S301: AT.VII,86.20/E.91.02-03)ならば、「その際に身体の残りの部分は別個の仕方でみずからを保つことができる」(6.S400: AT.VII,86.21-22/E.91.04-06)のだから、「それらをここで列挙すること」は「不要だ」(6.S502:AT.VII, 86.23/E.91.07)。
(2) The other extreme line of 《S》(無数の経験をとおしても、精神に表示されるものは同じでありうる)
[6.S102-S302-S501-S502]
「ただ単に脳から」であれ、「もしくはおそらくまた、ただ」脳の「微小な一つの部分だけから」であれ(6.S102:AT.VII, 86.17-18/E.90.30-91.01)、「精神に表示」されるのが「同じもの」である(6.S302:AT.VII,86.20- 21/E.91.04)ならば、そのことを「証明している」「経験」は「無数」にある(6.S501:AT.VII,86.22-23/E.91.06) ので、「それらをここで列挙すること」は「不要だ」(6.S502:AT.VII,86.23/E.91.07)。
(3) The moderate line of 《S》(感覚することで共通しているところから精神に表示されるものが同じとき)
[6.S200-S302-S502]
「つまり」、「感覚」として「共通」に「云われている」部分から(6.S200:AT.VII,86.19/E.91.01-02)「精神に 表示」されるものが「同じ」である(6.S302:AT.VII,86.20-21/E.91.04)ならば、「それらをここで列挙すること」は「不要 だ」(6.S502:AT.VII,86.23/E.91.07)。
arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),May 31,2007.
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
...(頁、行)
E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
...(頁、行)
cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
...(6=「第六省察」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)
§130 Line of 《R》
for That's Fusion, Not Confusion.
(1) One extreme line of 《R》(物体や身体が分割されても私は思惟するしかない)
[6.R101-R102-R202-R204-R302-R503-R603]
「思うに、とりわけまずここで私が気づく」ところによれば、「精神と物体と mentem & corpus」は大きく異なっている(6.R101:AT.VII,85.28-29/E.90.06-07)。
「物体」や身体が「分割されうる」のは「その本性からして」「常」である(6.R102:AT.VII,85.29-30/E.90.07- 09)が、「私自身」は「ただ思惟するだけの事物である」(6.R202:AT.VII,86.01-02/E.90.10-11)。その「かぎりにおい て」(ibid.:AT.VII,86.02/E.90.10-11)「全く一にして」掬える「事物は私」なのであって(6.R204:AT.VII, 86.03-04/E.90.12-13)、このことを「知解する」のも「私」だ(ibid.:AT.VII,86.04/E.90.13)。「足、もし くは腕、もしくは他のどれでも、身体の部分」なら「切断してしまえば」(6.R302:AT.VII,86.05-06/E.90.15-16)、「この こと自体」でもって「私は」、物体および身体としての事物が、すなわち延長する事物が「分割されうる」、ということを「知解する」(6.R503: AT.VII,86.12-13/E.90.23-24)。
しかしこれでは「まだ充分ではない」ので、「私はこのことを別のところから知る」つもりだ(6.R603:AT.VII,86.15/E.90.27)。
(2) The other extreme line of 《R》(精神は機能をもつが部分にならない)
[6.R101-R103-R401-R501-R602-R603]
「思うに、とりわけまずここで私が気づく」ところによれば、「精神と物体と mentem & corpus」は大きく異なっている(6.R101:AT.VII,85.28-29/E.90.06-07)。
「精神は」その本性からして「全く分割されえない」(6.R103:AT.VII,85.30-86.01/E.90.09)。「意欲し」た り「感覚し」たり「知解し」たりすること「等々」は精神の「機能」なのであるから、「部分」と「云われることはできない」(6.R401:AT.VII, 86.07-09/E.90.17-19)。「逆に」、「私によって思惟されることのできる」「事物」が「物体的」でもなく身体的でも「ない」ならば、 「すなわち延長して」いない(6.R501:AT.VII,86.10-11/E.90.21-22)ならば、その事物は物体や「身体とはおよそ別個な」 ので、「精神」である(6.R602:AT.VII,86.14-15/E.90.26)。
しかしこれでは「まだ充分ではない」ので、「私はこのことを別のところから知る」つもりだ(6.R603:AT.VII,86.15/E.90.27)。
(3) The moderate line of 《R》(心身合一体における精神は分割されない)
[6.R101-R201-R203-R301-R303-R402-R502-R601-R603]
「思うに、とりわけまずここで私が気づく」ところによれば、「大きな相違」は「精神と物体との間に inter mentem & corpus ある」(6.R101:AT.VII,85.28-29/E.90.06-07)。
「精神を考察する場合」の「私」は、「固より」(6.R201:AT.VII,86.01/E.90.09-10)「何も部分を区別すること ができない」(6.R203:AT.VII,86.02-03/E.90.11-12)のだが、それは「私においては」(ibid.:AT.VII, 86.02/E.90.11)「身体全体と精神全体とが合一していると思われる」(6.R301:AT.VII,86.04-05/E.90.13- 15)からである。そして「私の認識する」ところによれば、「取り除かれる」ものが「何もない」「精神」(6.R303:AT.VII,86.06- 07/E.90.16-17)と、「意欲し」たり「感覚し」たり「知解し」たりする「精神」とは、「同一である」(6.R402:AT.VII, 86.09-10/E.90.19-21)から、「私が思惟」することでもって精神を「分割し」て「部分に」するというのは、「容易で」は「ない」 (6.R502:AT.VII,86.11-12/E.90.22-23)。
しかし「このこと一つ」で「充足して」しま うと、なるほど「私に教えること」はできるが(6.R601:AT.VII,86.13-14/E.90.25)、それでは「まだ充分ではない」ので、 「そのことを別のところから私は知る」つもりだ(6.R603:AT.VII,86.15/E.90.27)。
arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),May 31,2007.
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
...(頁、行)
E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
...(頁、行)
cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
...(6=「第六省察」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)
§129 Line of 《Q》
for That's Fusion, Not Confusion.
(1) One extreme line of 《Q》(忠実に取られても欺くのは自然だ)
[6.Q101-Q102-Q201-Q300-Q400]
「そして確かに」(6.Q101:AT.VII,85.18/E.89.25)、「注視してみれば」、「水腫病を患っている身体」 (6.Q102:AT.VII,85.18-19/E.89.25-26)と精神との「複合体」(6.Q201:AT.VII,85.21- 22/E.89.29-30)が「渇く」と、「飲料」で「みずからを害し」てしまう(6.Q300:AT.VII,85.24/E.90.02-03)。
よって、「このとおりに取られ」ても「欺く」のが「自然」な(6.Q400:AT.VII,85.26-27/E.90.05)のであって、 「神」が「善」であれ、「どんな仕方で」あれ、欺かないようにと「妨げることのない」のが自然だ(ibid.:AT.VII,85.25- 26/E.90.04-05)。そして、このことこそが「探求されるべく」「ここで留まって」いるのだ(ibid.:AT.VII, 85.25/E.90.03-04)。
(2) The moderate line of 《Q》(何を云われようが、喉が乾いているのは確かだ)
[6.Q101-Q103-Q105-Q202-Q204-Q400]
「そして確か」なのは(6.Q101:AT.VII,85.18/E.89.25)、「外面的」に「ただ命名」されただけでは (6.Q103:AT.VII,85.19/E.89.26-27)、「喉が乾いたままだ、ということ」(6.Q105:AT.VII,85.20- 21/E.89.28)である。
「精神」が「そのような身体」と「合一している」(6.Q202:AT.VII, 85.22-23/E.89.30-90.01)ことについて、もしそれが「自然」による「過誤」ならば「真」に(6.Q204:AT.VII, 85.23-24/E.90.01-02)なるのだ、というように「取られ」ても、「欺く」のが「自然」なのであって(6.Q400:AT.VII, 85.26-27/E.90.05)、「神」が「善」であれ、「どんな仕方で」あれ、欺かないようにと「妨げることのない」のが自然だ(ibid.: AT.VII,85.25-26/E.90.04-05)。そして、このことこそが「探求されるべく」「ここで留まって」いるのだ(ibid.: AT.VII,85.25/E.90.03-04)。
(3) The other extreme line of 《Q》(命名が純粋ではないせいで、欺くのは自然だ)
[6.Q101-Q104-Q106-Q203-Q400]
「そして確かに」(6.Q101:AT.VII,85.18/E.89.25)「廃れている」のが「自然」だ、と「云われている」その身体 (6.Q104:AT.VII,85.19-20/E.89.27-28)について、もしその身体が「飲料を求めていない」(6.Q106: AT.VII,85.21/E.89.29)ならば、その「命名」は「純粋ではない」(6.Q203:AT.VII,85.23/E.90.01)。
よって、「このように取られ」ても「欺く」のが「自然」な(6.Q400:AT.VII,85.26-27/E.90.05)のであって、 「神」が「善」であれ、「どんな仕方で」あれ、欺かないようにと「妨げることのない」のが自然だ(ibid.:AT.VII,85.25- 26/E.90.04-05)。そして、このことこそが「探求されるべく」「ここで留まって」いるのだ(ibid.:AT.VII, 85.25/E.90.03-04)。
arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),May 31,2007.
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
...(頁、行) E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
...(頁、行)
cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
...(6=「第六省察」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)
§128 Line of 《P》
for That's Fusion, Not Confusion.
(1) One extreme line of 《P》(用途を予定されて命名された自然)
[6.P101-P102-P203-P301-P402-P404-P408-P501-P505-P507-P701-P703-P802]
「しかし実に稀ならざる」ことに、「誤る」「我々」を諸々のものに駆り遣っているのも「自然」なら(6.P101:AT.VII,84.08
-09/E.88.06-07)、人々が「病を患っている」場合に(6.P102:AT.VII,84.09/E.88.07-08)「廃れている」のも
「自然」だ(6.P203:AT.VII,84.11-12/E.88.10-11)。「歯車と分銅とからできて(conficere)」いる「時計のよ
うに」「自然のすべてを」「法則」として「精確に遵守する(accurate
observare)」(6.P301:AT.VII,84.15-17/E.88.15-18)「或る種の機械というかぎりで」は、「骨、神経、筋肉、
血管、血液および皮膚」という装置から「複合されて」いて(6.P402:AT.VII,84.20-22/E.88.21-24)、機械と同じく「あら
ゆる運動」をする(6.P404:AT.VII,84.23/E.88.25)のだから、それらの運動がそうした機械なるものの「なかに出て来る」のは、
「意志」が「命令」するせいでも「なく」、「精神から」でも「ない」(ibid.:AT.VII,84.23-25/E.88.25-27)。
そこで、「渇きの感覚を精神にもたらす」のは「たいてい干からび」だ(6.P408:AT.VII,84.27/E.88.30)という点に
「注視して」みよう(6.P501:AT.VII,85.02/E.89.06)。「用途」を「予定された」「時計」(ibid.:AT.VII,
85.02-03/E.89.05-07)と「同じように」、「人間の身体」を「考察すると」、「あたかも」そうした身体の「なかにたいてい運動が生ず
る」べく「準備された」「機械」のように(6.P505:AT.VII,85.04-06/E.89.09-11)、「その喉(fauces)は干からび
ている」(6.P507:AT.VII,85.07-08/E.89.12-13)。「この」自然は、「命名」されたものに「ほかならない」のだが、「思
惟」する「私」に(6.P701:AT.VII,85.10-12/E.89.16-18)「依拠している」(6.P703:AT.VII,
85.14/E.89.21)かぎりで「若干の真理をもっている」(6.P802:AT.VII,85.16-17/E.89.23-24)。
(2) The moderate line of 《P》(二つの異なる自然)
[6.P101-P103-P202-P204-P206-P302-P401-P403-P405-P407-P409-P411 -P502-P504-P506-P600-P702-P704-P802]
「しかし実に稀ならざる」ことに、「誤る」「我々」が「自然に a naturâ
駆り遣られて」(6.P101:AT.VII,84.08-09/E.88.06)「飲料あるいは食物を欲求する」と、「少し後でみずからを害する
(nocere)」(6.P103:AT.VII,84.09-10/E.88.08-09)けれども、我々が「誤る」のは、我々みずからの本性が廃れて
いるせいで(6.P202:AT.VII,84.11/E.88.10)は「ない」(6.P204:AT.VII,84.12/E.88.11-12)の
だから、「困難」は「除去」される(ibid.)。
そこで「私に思われる」ところによれば、「矛盾する」のは、「神から
授かっている」にも拘わらず「人間」にとっての「自然」が「欺く」ことだ(6.P206:AT.VII,84.14-15/E.88.13-15)。「仕
上がり」が「悪く」て「時を正しく報じない」(6.P302:AT.VII,84.17-18/E.88.18-19)時計と「人間の身体」とを「同じよ
うに」「考察する」「私」にとっては(6.P401:AT.VII,84.19-20/E.88.20-21)、その身体のなかに「何も精神が存在してい
ない」(6.P403:AT.VII,84.22-23/E.88.24-25)のは、「自然なことだ」と「認知する」が、それは「私」にとって「容易
だ」(6.P405:AT.VII,84.25-26/E.88.27-28)。
「それと同じで」(ibid.:
AT.VII,84.25/E.88.28)、人間の身体は「喉の干からびを被る」と(6.P407:AT.VII,84.26-
27/E.88.29)、その干からびによって「その」身体の「神経および残りの」他の「部分」が「配置される」のだが、その身体が「とる」「飲料」は
「病気」を「重く」するし(6.P409:AT.VII,84.28-29/E.88.30-89.03)、「喉の乾燥」は「似ていて」も、それに「動か
され」て人間の身体が「摂取する」「飲料」は「みずからにとって有用」(6.P411:AT.VII,84.30-85.02/E.89.04-05)で
もある。
ここで「私が云える」のは、時計が(6.P502:AT.VII,85.03/E.89.07)「みずからの本
性」を「逸脱している」ということ(6.P504:AT.VII,85.04/E.89.08)であり、また「私が考える」ところによれば、人間の身体
も、「みずから」にとっての「自然」に「背いている」(6.P506:AT.VII,85.07/E.89.11-12)。「しかし、この後者」を「自
然」として「受け取る」と、「前者とは甚だしく異なる」ということに「私」は「充分に気づいている」(6.P600:AT.VII,85.09-
10/E.89.14-16)。それにも拘わらず、「健康な人間の観念や、正しく造られた時計の」観念と「対比」されたせいで、「病気の人間や、仕上がり
の悪い時計」(6.P702:AT.VII,85.12-14/E.89.18-21)だと「外面的」に「云われている」のならば、そうした「事物」
(6.P704:AT.VII,85.14-15/E.89.21-22)は「若干」であれ「真理をもっている」(6.P802:AT.VII,
85.16-17/E.89.23-24)。
(3) The other extreme line of 《P》(人間が神によって造られているからには...)
[6.P101-P201-P205-P303-P406-P410-P503-P508-P801-P802]
「しかし実に稀ならざる」ことに、「誤る」「我々」を諸々のものに駆り遣っているのも「自然」である(6.P101:AT.VII,
84.08-09/E.88.06-07)、と「ここでは多分云われることができるだろう」(6.P201:AT.VII,84.10-
11/E.88.09-10)が、「病気」であれ「健康」であれ「人間」が「神によって造られている」のは「真」なのだから(6.P205:
AT.VII,84.12-14/E.88.12-13)、人間の身体の「どの部分をとっても製作者の望み」は満たされている(6.P303:
AT.VII,84.18-19/E.88.19-20)。
たとえば、身体が「水腫病を患っている」場合
(6.P406:AT.VII,84.26/E.88.28-29)もあるし、そうした身体の「なかにそのような疾患が何もない場合」(6.P410:
AT.VII,84.30/E.89.03-04)もある。みずから「報じる」「時」が「正しくない場合」(6.P503:AT.VII,85.03-
04/E.89.07-08)でも、「みずから」を「維持」するのに「飲料」が「有益」で「なく」(6.P508:AT.VII,85.08-
09/E.89.13-14)ても、自然をとおして「私が知解する」ところによると、「実際に事物のなかに」「何らかの」ものが「見いだされる」
(6.P801:AT.VII,85.15-16/E.89.22-23)ならば、それが「もっている」のは「若干」であれ「真理」なのだ
(6.P802:AT.VII,85.16-17/E.89.23-24)。
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初出:"What a cool believes"(blog),May 28,2007.
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
...(頁、行) E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
...(頁、行)
cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
...(6=「第六省察」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)
§127 Line of 《o》
for That's Fusion, Not Confusion.
(1) One extreme line of 《o》(神の善性には誰も逆らえない)
[6.o101-o102-o301-o501-o603]
「けれども、すでに前に充分に私が洞察した」ところによれば、「どうして」も(6.o101:AT.VII,83.24/E.87.19-
20)「善」なる「神」に「抗しない(non
obstare)」(6.o102:AT.VII,83.24-25/E.87.20)場合は「誰」にでもある(6.o301:AT.VII,
83.29/E.87.25-26)。「ここから結論されうる」(6.o501:AT.VII,84.03-04/E.88.01)に「ふさわしい」の
は、人間の「完全たること」が「有限だ」、ということに「ほかならない」(6.o603:AT.VII,84.06-07/E.88.04-05)。
(2) The moderate line of 《o》(やはり私は全知ではない)
[6.o101-o103-o202-o302-o401-o403-o502-o602]
「けれども、すでに前に充分に私が洞察した」とおり、「どうして」も(6.o101:AT.VII,83.24/E.87.19-20)、
「私の判断は偽であることに至る」(6.o103:AT.VII,83.25/E.87.20-21)し、「内部感覚においてでさえ、過誤を思い知らされ
たことがある、と私には思われる」(6.o202:AT.VII,83.28-29/E.87.24-25)。「或る食物」に「味」の好ましさで「騙され
る」(6.o302:AT.VII,83.29-30/E.87.26-27)、という「場合には、思うに、ただ自然に a naturâ
駆り遣られて」その食物を「欲求している」にすぎないのであって(6.o401:AT.VII,84.01-02/E.87.27-29)、その食物にお
いて「成り立っている」「味が」「好ましい」(ibid.:AT.VII,84.02/E.87.29)ということについては「まったく知らない」
(6.o403:AT.VII,84.03/E.87.30)。このように、「そうした本性」からしても、「私」は「全知ではない」(6.o502:
AT.VII,84.04-05/E.88.01-02)。したがって、「人間は有限な事物である」(6.o602:AT.VII,84.05-
06/E.88.03)。
(3) The other extreme line of 《o》(追求したら毒だった/忌避したが毒ではなかった)
[6.o101-o201-o303-o402-o601]
「けれども、すでに前に充分に私は洞察してきた」にも拘わらず、「どうして」も(6.o101:AT.VII,83.24/E.87.19-
20)、「ここでは新しい困難に出くわす」ことになる(6.o201:AT.VII,83.26/E.87.21-22)。すなわち諸々のものは、それ自
体は「あたかも追求されるべきものとして、あるいは忌避されるべきものとして、私に」対して「自然に a naturâ
表示される」(ibid.:AT.VII,83.26-28/E.87.22-24)が、それを「摂取し」たところ、「内部に潜んでいる」のが「毒」で
あったり(6.o303:AT.VII,83.30/E.87.27)毒でなかったりしても(6.o402:AT.VII,84.02-
03/E.87.30)、「不思議ではない」のだ(6.o601:AT.VII,84.05/E.88.02-03)。
arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),May 28,2007.
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
...(頁、行)
E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
...(頁、行)
cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
...(6=「第六省察」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)
§126 Line of 《N3》
for That's Fusion, Not Confusion.
(1) One extreme line of 《N3》
(感覚で知得されたものが、精神に対して自然に指示するのは、複合体にとっての都合だ)
[6.N501-N502-N602-N604-N702-N802-N804-N807]
「そのようにして」、「星」よりも「小さな松明の火のほう」が、「いっそう私の目を刺激する」(6.N501:AT.VII,83.02-
03/E.86.21-23)が、「そのことにおいて事実的に、すなわち積極的に」傾いていない場合は、星が松明の火よりも「大きくないと信じる」ように
なる(6.N502:AT.VII,83.03-05/E.86.23-25)。「また」、火の「そばに近づきすぎると苦痛を感覚する」「私」
(6.N602:AT.VII,83.07-08/E.86.27-29)は、根拠が全然ないにも拘わらず、その火のなかに「そうした苦痛に」類似したも
のが何かあるのだ、と説き伏せられてしまう(6.N604:AT.VII,83.09-10/E.86.30-87.01)。しかし「だからといって、そ
こには物体が何もないということは帰結しない」(6.N702:AT.VII,83.13-14/E.87.05-06)。「自然に」感覚で知得されるこ
とが「本来、与えられて」いて、「精神に指示する」のは、「ただ、いったいどんなものが複合体にとって」(6.N802:AT.VII,83.16-
18/E.87.09-11)「好都合なのか、もしくは不都合なのか」ということにすぎない(6.N804:AT.VII,83.18-
19/E.87.12)のであって、物体なり身体なりの本質については「きわめて不明瞭で不分明にしか、指示しない」のである(6.N807:
AT.VII,83.22-23/E.87.16-18)。
(2) The other extreme line of 《N3》(感覚での知得を確実な規則の如くに使用することについて)
[6.N501-N503-N605-N607-N703-N806-N807]
「そのようにして」、「星」よりも「小さな松明の火のほう」が「いっそう私の目を刺激する」(6.N501:AT.VII,83.02-
03/E.86.21-23)というだけで、「私」は、星が松明の火よりは大きくないということを「幼い頃から根拠もなく判断してきた」(6.N503:
AT.VII,83.05-06/E.86.25-26)。ちなみに「ただ単にそこにある」根拠が「私」を説き伏せるところによれば、「何らかのもの」が
(6.N605:AT.VII,83.10/E.87.01-02)「我々において、そうした熱もしくは苦痛の感覚を創り出す」(6.N607:
AT.VII,83.11-12/E.87.03-04)ということになるのだが、「この場合にも、他の夥しい場合にも」、「通例」は「私が自然の秩序を
覆して(pervertere)」いる、と「私には思える」のだ(6.N703:AT.VII,83.14-15/E.87.06-08)。このように、
感覚でもって知得したことを「あたかも確実な規則であるかのように使用する」ことでもって「私」が「媒介なしで適正に」知ろう(6.N806:
AT.VII,83.19-21/E.87.14-16)としても、「我々の外部に位置する物体なり身体なりの本質」(ibid.:AT.VII,
83.21/E.87.15-16)については感覚での知得は「きわめて不明瞭で不分明にしか指示しない」のである(6.N807:AT.VII,
83.22-23/E.87.06-08)。
(3) The moderate line of 《N3》
(精神が複合体の部分であるかぎり、感覚での知得は充分に明晰・判明だ)
[6.N501-N601-N603-N606-N701-N801-N803-N805-N807]
「そのようにして」、「星」よりも「小さな松明の火のほう」が「いっそう刺激する」のは「私の目」だし(6.N501:AT.VII,
83.02-03/E.86.21-23)、「火に近づくと熱を感覚する」のも「私」だ(6.N601:AT.VII,83.06-07/E.86.26
-27)が、「何も根拠がない」にも拘わらず「火のなかには、そうした熱に類似したものが何かあるのだ」、と「説き伏せ」られてしまうのも「私」だ
(6.N603:AT.VII,83.08-09/E.86.29-30)。しかし「所詮何であれ」(6.N606:AT.VII,83.10-
11/E.87.02)、「或る空間のなかには、感覚を動かすものは何もない」(6.N701:AT.VII,83.12-13/E.87.04-05)
のであって、「感覚」でもって「知得」したこと(6.N801:AT.VII,83.15-16/E.87.08-09)は、精神が複合体の「部分であ
る」(6.N803:AT.VII,83.18/E.87.11-12)「かぎりでは、充分に明晰・判明である」(6.N805:AT.VII,
83.19/E.87.13)が、物体なり身体なりの本質については、「きわめて不明瞭で不分明にしか指示しない」(6.N807:AT.VII,
83.22-23/E.87.16-18)。
arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),May 28,2007.
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
...(頁、行)
E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
...(頁、行)
cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
...(6=「第六省察」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)
§124 Line of 《N1》
for That's Fusion, Not Confusion.
(1) One extreme line of 《N1》(自然に教わったつもりでも、実際にはそうではない)
[6.N101-N102-N105-N107-N113]
「実はしかし、ほかに多くある」ものは(6.N101:AT.VII,82.01/E.85.12)、てっきり「自然に a naturâ
教わったものだと私には思われるけれども」(ibid.:AT.VII,82.01-02/E.85.12-13)、「実際には」自然に教わったものでは
ない(6.N102:AT.VII,82.02/E.85.13-14)のであって、たとえば、「すべての空間」(6.N105:AT.VII,
82.04/E.85.16)には「空虚が」あったり(6.N107:AT.VII,82.06/E.85.18)、「星も塔も、そして他のどんな物体
も」、「隔たって」いると「ただそのとおりの大きさや形」にすぎなかったり(6.N113:AT.VII,82.10-11/E.85.23-25)する
のだ。
(2) The other extreme line of 《N1》
(自然に教わったのではなく、無思慮に判断する習慣で受け取った)
[6.N101-N103-N109-N111-N115]
「実はしかし、ほかに多くある」ものは(6.N101:AT.VII,82.01/E.85.12)、てっきり「自然に教わったものだと私に
は思われるけれども」(ibid.:AT.VII,82.01-02/E.85.12-13)、そうではなくて「思慮もせずに」「何らかの習慣で」「判
断」して「受け取ったもの」である(6.N103:AT.VII,82.02-03/E.85.14-15)。例をだすと、「熱い」物体における「何らか
のもの」が「熱の観念にまったく類似している」のであれば、その観念は「私のなかに」ある(6.N109:AT.VII,82.06-
07/E.85.19-20)ことになるし、「苦い」物体「もしくは甘い」物体にある「味」は「私」が感ずるのと「同じ」である(6.N111:
AT.VII,82.09/E.85.22)。「その種のこと」は「ほか」にもある(6.N115:AT.VII,82.12/E.85.26)。
(3) The moderate line of 《N1》(自然に教わったつもりでも偽に至りやすい)
[6.N101-N104-N106-N108-N110-N112-N114]
「実はしかし、ほかに多くある」ものを「自然に教わった」つもりでいるのは「私」だから(6.N101:AT.VII,82.01-
02/E.85.12-13)、それらが「偽であることに至る」のは「容易」だ(6.N104:AT.VII,82.03-04/E.85.15-
16)。そうすると、たとえば「私の感覚を動かすものにまったく」出くわさなかったり(6.N106:AT.VII,82.04-05/E.85.16-
18)、「物体における」(6.N108:AT.VII,82.06/E.85.18)「白や緑」は「私が感覚する」ところの「白もしくは緑」と「同じ」
であったり(6.N110:AT.VII,82.07-09/E.85.20-22)、「残りの」他のものからも「そのとおりに」(6.N112:
AT.VII,82.09-10/E.85.22-23)「表示」されているのが「私の感覚」であったり(6.N114:AT.VII,82.11-
12/E.85.25-26)するのだ。
*****
§125 Line of 《N2》
for That's Fusion, Not Confusion.
(1) One extreme line of 《N2》(快楽を感じさせてくれるものを自然に追求する)
[6.N201-N301-N305-N309-N402-N406]
「けれども、このことにおいて充分に判明に知得しない事物がない」(6.N201:AT.VII,82.12-13/E.85.26-27)
のは、「ここで」「私が取る」「自然」の意味が「思うに、比較的厳密」だ(6.N301:AT.VII,82.14-15/E.85.30)からである。
あたかも「光によって」いるが如く「自然に」「知られたもの」の残らず「すべて」(6.N305:AT.VII,82.20-21/E.86.05-
07)について「私は論じるのではない」(6.N309:AT.VII,82.23/E.86.09-10)。ここで「私」の扱う自然には、「快楽の感覚
を」もたらすものを「追求すること、およびその類いのこと」(6.N402:AT.VII,82.26-27/E.86.14-15)が「属していると思
われる」(6.N406:AT.VII,83.01-02/E.86.20-21)。
(2) The other extreme line of 《N2》
(神から賦与されているものとして自然だ、ということについて、謎を解いても、心身合一体には属さない)
[6.N202-N303-N307-N310-N312-N403-N405-N406]
「私が何を本来知解しているのかを、いっそう精確に私は定義せねばならない」(6.N202:AT.VII,82.13-
14/E.85.28-29)。ところで、「私」に神から賦与されているものすべての「この綜体」のうちには、「もっぱら精神のみに属するもの」も「多く
含まれている」(6.N303:AT.VII,82.17-18/E.86.02-04)し、「もっぱら物体および身体のみに関わるものも多く」
(6.N307:AT.VII,82.21-22/E.86.07-08)含まれている。けれども「ただ私には」(6.N310:AT.VII,
82.23-24/E.86.10-11)「神から賦与されている」(6.N312:AT.VII,82.24-25/E.86.11-12)にすぎない
ものとしての自然については、まだ「現れていない」ので明らかになっていない(6.N403:AT.VII,82.27/E.86.15)ことがある。そ
れはすなわち、「我々に教える」のが「その」ように自然たることによって、「我々は、我々の外部に位置している事物について、予め知性でもって吟味するこ
とのないままで、感覚でのそうした知得から何かを結論する」(ibid.:AT.VII,82.27-30/E.86.15-19)、ということである。
しかしそれについて真実を知ろうとしても、精神と身体との「複合体ではない」(6.N405:AT.VII,83.01/E.86.20)ものに「属し
て」しまう、と「思われる」(6.N406:AT.VII,83.01-02/E.86.20-21)。
(3) The moderate line of 《N2》
(苦痛を感じさせてくれるものを自然に忌避することについては、謎を解くと、精神だけに属する)
[6.N203-N302-N304-N306-N308-N311-N401-N404-N406]
「私が何らかのものを自然に a naturâ
教わる、と私が云う場合」(6.N203:AT.VII,82.14-15/E.85.29-30)、「私に神から賦与されているものすべての綜体」
(6.N302:AT.VII,82.16-17/E.86.01-02)のうち、「為されることは為されないことではありえないのだと私が知得する、と
いったようなこと」(6.N304:AT.VII,82.19-20/E.86.04-05)については「ここでは語らない」し(6.N306:
AT.VII,82.21/E.86.07)、物体が「下方へ向かうということ、およびそれに類するようなこと」(6.N308:AT.VII,
82.22-23/E.86.08-09)についても語らない。「精神と身体とから複合されたものとして」(6.N311:AT.VII,
82.84/E.86.11)の「私」に「教えている」のは「この」自然だが、それによると、「なるほど苦痛の感覚をもたらす諸々のものを忌避すること」
(6.N401:AT.VII,82.25-26/E.86.12-14)であって、「それらについて真実を知る」と、「もっぱら精神のみに」
(6.N404:AT.VII,82.30-83.01/E.86.19-20)「属する、と思われる」(6.N406:AT.VII,83.01-
02/E.86.20-21)。
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初出:"What a cool believes"(blog),May 28,2007.
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
...(頁、行)
E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
...(頁、行)
cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
...(6=「第六省察」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)
§123 Line of 《M》
for That's Fusion, Not Confusion.
(1) One extreme line of 《M》(追求されるべきもののうちで、好ましいもの)
[6.M102-M203-M205-M301-M304]
「私にとって追求されるべきもの」は「幾つかあって」(6.M102:AT.VII,81.16-17/E.84.28)、「諸々の物体に」
おける「何らかの」(6.M203:AT.VII,81.20/E.85.02)「多様性は、それら」を感覚で知得したものに「対応する」
(6.M205:AT.VII,81.21-22/E.85.04)。「それらの知得のうち」には「好ましい」ものもあるが、それは「私にとって」
(6.M301:AT.VII,81.22-23/E.85.05-07)、「あるいはむしろ全体としての私」(6.M304:AT.VII,81.24
-25/E.85.08)にとって、好ましいのだ。
(2) The moderate line of 《M》(忌避されるべきもの/吾が身体の確かなるとき)
[6.M103-M202-M303-M305]
「私」にとって「忌避されるべきもの」がある(6.M103:AT.VII,81.17/E.84.29)、と「私が結論する」のは「正し
い」(6.M202:AT.VII,81.19/E.85.02)のであって、「私の身体」が「まったく確かである」のは(6.M303:AT.VII,
81.24/E.85.07-08)、「身体と精神とから複合されたものが私であるというかぎりにおいて」(6.M305:AT.VII,
81.25/E.85.09-10)だ。
(3) The other extreme line of 《M》(好ましくないものなら私は触発されうる)
[6.M101-M201-M204-M206-M302-M306]
「それに加えてまた、私が自然に教わった doceor a
naturâ」ところによれば、「私の身体の周りには様々な他の物体なり身体なりが実在している」(6.M101:AT.VII,81.15-
16/E.84.26-27)。「私の感覚する色、音、匂い、味、熱、堅さおよびこれに類するもの」が「きわめて多様な」のは「確か」であって
(6.M201:AT.VII,81.17-19/E.84.29-85.01)、「そうした感覚」での「様々な」「知得は」諸々の物体から「到来する」
(6.M204:AT.VII,81.20-21/E.85.03-04)。「おそらく」諸々の物体は「それら」の知得には「類似していない」
(6.M206:AT.VII,81.22/E.85.05)だろうが、「私」にとって「好ましくないもの」(6.M302:AT.VII,81.23-
24/E.85.07)もある。「私」を「取り巻いている物体なり身体なりによって、好都合にであれ不都合にであれ様々な仕方で私は触発されることができ
る」(6.M306:AT.VII,81.26-27/E.85.10-11)。
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初出:"What a cool believes"(blog),May 27,2007.
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
...(頁、行) E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
...(頁、行)
cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
...(6=「第六省察」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)
§122 Line of 《L》
for That's Fusion, Not Confusion.
(1) One extreme line of 《L》(精神が身体と合一しているせいで、感覚は不分明だ)
[6.L101-L102-L202-L204-L302]
「また」、「教えて」くれるのが「自然」だが、それによれば(6.L101:AT.VII,81.01/E.84.08)、「そうした苦痛や
飢えや渇きなど」を「感覚」している(6.L102:AT.VII,81.01-02/E.84.08-09)のは「私」である(6.L202:
AT.VII,81.05/E.84.14)。
ところで、「思惟する事物にほかならない」「私」(ibid.:
AT.VII,81.05-06/E.84.14-15)が、身体に被った「傷」とでも云うべき「その」感覚を「純粋な知性によって知得」しても
(6.L204:AT.VII,81.07-08/E.84.16-17)、こうした感覚は「思惟する様態」としては「何か不分明」であるが、それは「精
神が身体と、あたかも混合しているかの如くに合一している、ということから起きて(exoriri)」いるのだ(6.L302:AT.VII,81.12
-14/E.84.22-25)。
(2) The moderate line of 《L》(痛くなければ私は傷を判然と知解するのに...)
[6.L101-L103-L201-L203-L205-L207-L301]
「また」、「教えて」くれるのが「自然」だが、それによれば(6.L101:AT.VII,81.01/E.84.08)、「私」が「私の身
体に居合わせている」様子は「あたかも水夫が舟に乗り合わせているかの如く」である(6.L103:AT.VII,81.02-03/E.84.09-
10)。もし「身体が傷つけられ」ても(6.L201:AT.VII,81.05/E.84.13-14)、「私が苦痛を感覚していない」
(6.L203:AT.VII,81.06-07/E.84.15)という場合には、「あたかも舟のなかで何か壊されたもの」を「水夫が視て知得するかの
ように」(6.L205:AT.VII,81.08-09/E.84.17-18)、「このこと自体を私は判然と知解するだろう」(6.L207:
AT.VII,81.09-10/E.84.19)。
しかし「確か」に「私」は、「そうした飢えや渇きや苦痛など」を「感覚」している(6.L301:AT.VII,81.11/E.84.21)。
(3) The other extreme line of 《L》(飲食物を要するのは身体だが、飢えや渇きを感ずるのは私だ)
[6.L101-L104-L206-L208]
「また」、「教えて」くれるのが「自然」だが、それによれば(6.L101:AT.VII,81.01/E.84.08)、「あたかも混合し
ているかの如く」みずからの「身体にひじょうに緊密に結合している」「私」は、「このようにして」身体と「複合」して「一なるもの」となっている
(6.L104:AT.VII,81.03-05/E.84.11-13)。
但し、「食物あるいは飲料を要する」ところ
の「身体」(6.L206:AT.VII,81.09/E.84.18-19)は、「飢えと渇きと」を「不分明」に「感覚」するところの「私」では「な
い」(6.L208:AT.VII,81.10-11/E.84.20)。
arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),May 27,2007.
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
...(頁、行)
E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
...(頁、行)
cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
...(6=「第六省察」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)
§121 Line of 《K》
for That's Fusion, Not Confusion.
(1) One extreme line of 《K》(身体をもっているのは私だ)
[6.K101-K102-K201-K202]
「しかし」、「私に、これ以上ないくらいに判然と教える」のが「そうした自然」なり本性なりだが、それによれば(6.K101:
AT.VII,80.27-28/E.84.01-02)、「身体をもっている」のは「私」である(6.K102:AT.VII,
80.28/E.84.02-03)。「私が疑ってはならない」のは(6.K201:AT.VII,80.30-31/E.84.05-06)、「このこ
とのなかに何らかの真理がある、ということ」だ(6.K202:AT.VII,80.31/E.84.06-07)。
(2) The moderate line of 《K》(痛いときや飢えているときや渇いているときは身体が悪い)
[6.K101-K103-K105-K202]
「しかし」、「私に、これ以上ないくらいに判然と教える」のが「そうした自然」なり本性なりだが、それによれば(6.K101:
AT.VII,80.27-28/E.84.01-02)、「私」のもっている身体が悪いのは「私が苦痛を感覚する場合」(6.K103:AT.VII,
80.28-29/E.84.03)や、「私が飢えもしくは渇きを被る場合など」(6.K105:AT.VII,80.29-30/E.84.04-
05)である。「このことのなかには何らかの真理がある」(6.K202:AT.VII,80.31/E.84.06-07)。
(3) The other extreme line of 《K》(私が飲食物を要することについて)
[6.K101-K104-K202]
「しかし、そうした自然」に、あるいは本性上、「これ以上ないくらいに判然と教え」てもらっている「私」が(6.K101:AT.VII,
80.27-28/E.84.01-02)「食物あるいは飲料を要するということ」(6.K104:AT.VII,80.29/E.84.04)のなかに
は、「何らかの真理がある」(6.K202:AT.VII,80.31/E.84.06-07)。
arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),May 27,2007.
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