| the SHYNAMITES's profilethe_shynamic_memorial_wo...PhotosBlogLists | Help |
|
|
All-Ranged Juice--CAT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996. ...(頁、行) E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994. ...(頁、行) cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991) ...(7=「読者への序言」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節) Line of 《C》(§702:質疑その一: 思惟する事物について)
for ALL-RANGED JUICE (1) The moderate line of 《C》(思惟する事物に秩序があるのは、私の知得においてのみだ) [7.C101-C104-C202-C205-C303] 「第一点」として(7.C101:AT.VII,07.20/E.P02.13)、みずからを「思惟する事物であるということ」 (7.C104:AT.VII,08.03/E.P02.17-18)は、せいぜい「私」によって「知得」だか知覚だか(perceptionem)されるかぎりで、「秩序」づけられているにすぎない(7.C202:AT.VII,08.08/E.P02.24-P03.01)。とはいえ、「みずからのうちに思惟する機能をもつ事物」 (7.C205:AT.VII,08.11-12/E.P03.05-06)だけが「実際に」真なる事物として(revera)私の本質「に属する」ものだ、ということは「ほかならぬ」「帰結となる」 (7.C303:AT.VII,08.14-15/E.P03.09-11)。(2) One extreme line of 《C》(私の本質に属するのは、思惟する事物だけだ) [7.C101-C102-C105-C203-C302-C303] 「第一点」として(7.C101:AT.VII,07.20/E.P02.13)、「人間」としての「精神」がみずからのほうへと振り向いて「知得だか知覚だかをする」のは、「みずから」が「思惟する事物であるということ」にほかならない(7.C102:AT.VII,07.20-08.01/E.P02.13- 15)。そしてその「ほかのものすべて」は、「‘ただ~のみ’(tantum)という語」によって「排除」されて、それらは「おそらくまた、霊魂の本性に属する」とか、魂にとって自然であるとか、「云われうる」のだろうが(7.C105:AT.VII,08.03-05/E.P02.18-20)、それらのものを、「私の本質に」 「私の知る」かぎりで「属する」ものとして「私」が「認識すること」は「まったくない」、という「意味である」(7.C203:AT.VII,08.08- 10/E.P03.01-04)。要するに、「私が認識する」ところによれば、思惟する事物であることの「ほかには何も私の本質に属さない」のである (7.C302:AT.VII,08.13-14/E.P03.07-09)。(3) The other extreme line of 《C》(事物の真理に関しては、私以外のものにも秩序がある) [7.C101-C103-C201-C204-C301-C303] 「第一点」として(7.C101:AT.VII,07.20/E.P02.13)、人間としての精神にとっての「本性、あるいは」いわゆる「本質」なんぞが「存立している consistere」のはただ思惟する事物であることにおいてのみである、という「帰結」は生じ「ない」(7.C103:AT.VII,08.02-03/E.P02.16- 17)、と「反論」されているので、「私は答える」(7.C201:AT.VII,08.05-07/E.P02.21-24)。「私もまた、そこでは」 ほかのものすべてを「排除したいのではなかった」(ibid.)。というのは、「事物として真たることそのものに」関しては、それらも「秩序」づけられている (ibid.)からである。「勿論その場合、私が」議論を「おこなっていた agebam」のは、そうした事物の真理についてではなくて(ibid.)、「私が思惟する事物であるということ」 だけである(7.C204:AT.VII,08.10-11/E.P03.04-05)。「以下に」続く本論において「私が示す」のは、「どんな仕方で」 (7.C301:AT.VII,08.12/E.P03.06-07)「帰結」されれば、思惟することの「ほかには何も実際に」真なる事物として(revera)「私」の本質には「属さない」と云えるのか、ということである(7.C303:AT.VII,08.14-15/E.P03.09-11)。arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),Mar.26,2007. * 語句を一部、訂正致しました(2009/8/28-9/13)。 TrackbacksWeblogs that reference this entry
|
|
|