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All-Ranged Juice--EAT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996. ...(頁、行) E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994. ...(頁、行) cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991) ...(7=「読者への序言」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節) Line of 《E(Part 1)》(§704:議論・反駁について)
for ALL-RANGED JUICE (1) One extreme line of 《E(Part 1)》(偽であり、理に縁なき議論) [7.E101-E201-E205-E210] 「それに加えて」「私が見た」「或る二つの文章」は、「なるほど」「相当に長い」ものだったが(7.E101:AT.VII,08.29- 30/E.P04.04-06)、そこにみられる「類いの議論は何の力をももつことができない」(7.E201:AT.VII,09.01- 03/E.P04.10-12)。というのも、そうした議論は「偽」であり、「理とか根拠とかに縁がない」(7.E205:AT.VII,09.05- 06/E.P04.15-16)からである。それゆえ「私はここではそれらに対して答えたくないのだ」(7.E210:AT.VII,09.07- 08/E.P04.18-19)。(2) The other extreme line of 《E(Part 1)》(洗脳されたままでの判断) [7.E102-E203-E204-E206-E208-E209-E211] 「私」の見た或る二つの文章で「攻撃されていた」のが、すなわち「私」よりも完全な「事物について」の「私」の「根拠」であるが、これはべつに「結論」の如きものでは「ない」し、そのように攻撃したほうの「議論」は、「‘無神論者たち’」に「共通な」議論の「場から借りてきた」ものであった(7.E102:AT.VII, 08.30-09.01/E.P04.06-10)。このように「本末顛倒で薄弱な」「判断」をする人々は多いが(7.E203:AT.VII, 09.03-04/E.P04.12-14)、それは、そうした人々が「最初に受け取った諸々の意見によって」(7.E204:AT.VII,09.04 -05/E.P04.14-15)「説得されて」信じ込んだまま(7.E206:AT.VII,09.06/E.P04.16-17)、「後で」その人々の「聞いた」 (7.E208:AT.VII,09.07/E.P04.17-18)のが、「かの意見の反駁」(7.E209:AT.VII, 09.07/E.P04.18)だったからである。したがって、「私によって先に言及されるべき」なのは、それらの意見では「ない」(7.E211: AT.VII,09.08/E.P04.19-20)。(3) The moderate line of 《E(Part 1)》(真で堅固な反駁) [7.E202-E207-E209] 「私の根拠」を「知解」すれば(7.E202:AT.VII,09.03/E.P04.12)、「真で堅固な」(7.E207: AT.VII,09.06/E.P04.17)「反駁」を、諸々の意見に対して(7.E209:AT.VII,09.07/E.P04.18)おこなうこ とができる。Line of 《E(Part 2)》(§705:無神論について)
for ALL-RANGED JUICE (4) The moderate line of 《E(Part 2)》(無神論者たちの拠り所) [7.E301-E303-E306-E403] 「そこでただ一般的に私は云うだけにする」(7.E301:AT.VII,09.08-09/E.P04.20-21)。‘無神論者たち’の言い分の「すべて」(ibid.)が「常に依存している」(7.E303:AT.VII,09.11/E.P04.23)のは、あくまで「いったい何を神は為すこ とができるのか、そしてまた為さねばならないか」(7.E306:AT.VII,09.13/E.P05.02-03)、ということに対してであるから、そうした言い分は「いかなる困難をも我々に産み出そうとはしないはずだ」(7.E403:AT.VII,09.17-18/E.P05.08-09)。(5) One extreme line of 《E(Part 2)》(把握しきれない無限なものこそ神である) [7.E301-E302-E305-E307-E402-E403] 「ただ一般的に私は云うだけにする」(7.E301:AT.VII,09.08-09/E.P04.20-21)。‘無神論者たち'のせいで 「公然とはびこっている」もののすべては、「神の実在を攻撃するため」のものである(7.E302:AT.VII,09.09-10/E.P04.21- 23)。それによると、「我々の精神にはひじょうに大きな力と知恵とが授けられている」(7.E305:AT.VII,09.12- 13/E.P04.24-P05.02)という。しかし「我々が」いくら「決定し把握しようと試みたり努めたり」しても(7.E307:AT.VII, 09.14/E.P05.03-04)「把握しきれない無限なもの」こそが「神」なのである(7.E402:AT.VII,09.16- 17/E.P05.07-08)から、‘無神論者たち’の主張から産み出されるものは「我々にとっては」困難とはならないだろう(7.E403: AT.VII,09.17-18/E.P05.08-09)。(6) The other extreme line of 《E(Part 2)》(我々の精神を有限なものとして扱え) [7.E301-E304-E401-E403] 「ただ一般的に私は云うだけにする」(7.E301:AT.VII,09.08-09/E.P04.20-21)。‘無神論者たち’によれ ば、「神には人間的な感情が添付されている」そうだが(7.E304:AT.VII,09.11-12/E.P04.23-24)、「有限なものとして考察されるべき」なのはあくまで「我々の精神だ」、ということを「我々は単に思い出しているだけのはず」であり(7.E401:AT.VII,09.14-16/E.P05.04- 06)、それだけでもう、「我々にとって」‘無神論者たち'の言い分は決して困難の源にはならないだろう(7.E403:AT.VII,09.17- 18/E.P05.08-09)。arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),Mar.27,2007. * 語句を一部、訂正致しました(2009/8/28-9/13)。 TrackbacksWeblogs that reference this entry
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