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All-Ranged Juice--ABF1G2(711)Marvin GAYE 1971/2001:
Marvin GAYE(His Original Album Notes), Marvin Gaye 《What's Going On:Deluxe Edition(+25)》[UICY-7028~9]所収、 Motown/Universal Music,1971/2001.
I mean the fact
that people just won't let us think ourselves
really bugs me!
--Marvin Gaye (cited from Marvin GAYE 1971/2001)
* I mean the fact ... *****
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY,
nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996. ...(頁、行) E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994. ...(頁、行) cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991) ...(7=「読者への序言」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節) §711 The VIEWs of 《ABF1G2》
for ALL-RANGED JUICE (1) The 1st VIEW of 《ABF1G2》(本気でない者、通るべからず)[7.A101-A102-A104-A302-A304-B201-B203-B205] 「神と人間的精神とについての問題」には「すでに前に」「私は手短に触れたことがあって」、それは『理性を正しく導きつつ、諸々の学問において真理を探 究するための方法についての叙説』においてである(7.A101:AT.VII,07.01-03/E.P01.04-09)。「1637年に」その書を 「フランス語で出版」するという(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.09)打診でもって「私」は「ただ」、読者といわば「協議」のようなことをしたにすぎないが(7.A104:AT.VII,07.05-06/E.P01.11-12)、とはいえ、「その後でそれら」の問題を「どんな理由で取り扱うのか」、ということを 「私」は「読者の判断から学び足す」ことができた(ibid.)。というのも、それらの問題を説明するために「私」が辿る道は「一般に使用されているとこ ろからはあまりにも隔たっている」(7.A302:AT.VII,07.09-10/E.P01.17-18)ので、「気持ち」が「虚弱」なうちはいくら 「信じ」たところで、その道に「みずから進み行くこと」は「できない」(7.A304:AT.VII,07.12-13/E.P02.02-04)からで ある。[7.F101-F201-F302-F305-F306] [7.G201-G202-G203-G302-G401-G403] そこで、それら二つの「問題について、私が触れていたものにおいて」なされた「反論」は、「留意」には値しなかった (7.B201:AT.VII,07.16-17/E.P02.08-10)が、「これら」二つの点に対しては、「ここで手短に」(7.B203: AT.VII,07.18/E.P02.10)、「私は答えておく」(7.B205:AT.VII,07.19/E.P02.12-13)。 「今」のところ、「私は人様の判断を一度はなんとか見聞きすることでもって経験して」おくが、「その後で」(7.F101:AT.VII, 09.19-20/E.P05.09-11)「私」が期待するのは、べつに「公の拍手喝采」ではなくて(7.F201:AT.VII,09.22- 23/E.P05.15)、ただ人々が「本気で私とともに省察」(7.F302:AT.VII,09.25/E.P05.18-19)「できるようになり、そしてまた」省察しようという「意志をもつようになる」、ということである(7.F305:AT.VII,09.26-27/E.P05.21)。と はいえ、そのような人々には「ごく僅か」しか「遭遇」しないことを、「充分に私は知っている」(7.F306:AT.VII,09.27- 28/E.P05.22-23)から、後で「私が答える」のは「幾人かの人たちの反論に」対してだけにする(7.G201:AT.VII,10.14- 16/E.P06.21-23)。 幸い、「気持ちと教養とに」おいては「卓越して」いる(ibid.)彼らのもとにある「これら'省察'は」 (7.G202:AT.VII,10.16/E.P06.23-24)「印刷に委ねられる以前」のものであって(7.G203:AT.VII,10.16 -17/E.P06.24-P07.01)、そうした‘省察'が彼ら以外の「いかなる人」にとっても「容易ではない」ことは、「私が敢えて望むところで あった」(7.G302:AT.VII,10.18-19/E.P07.03-04)。「それゆえ、私は重ね重ね‘読者'に願う」(7.G401: AT.VII,10.20-21/E.P07.07-08)。「それらの反論と、そうした」反論に対する「解答のすべてとを読み通すこと」については、どうか厭わないでほしい(7.G403:AT.VII,10.22-23/E.P07.09-11)。 (2) The 2nd VIEW of 《ABF1G2》(読者からの名案を乞う) [7.A101-A102-A201-A301-B102-B203-B205] 「神と人間的精神とについての問題」には「すでに前に」「私は手短に触れたことがあって」、それは『理性を正しく導きつつ、諸学問において真理を探究するための方法についての叙説』においてである(7.A101:AT.VII,07.01-03/E.P01.04-09)。「1637年に」その書を「フ ランス語で出版」した(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.09)のは、それらの問題がひじょうに「重要なもの」だと「私には思われた」(7.A201:AT.VII,07.07/E.P01.13-14)からであるが、「それら」の問題を「説明するために私が辿る道は、あまり 整って」なく、「なじんで」ない(7.A301:AT.VII,07.08-09/E.P01.16-17)。[7.F101-F102-F202-F303-F305-F306] [7.G201-G202-G204-G301-G303-G304-G402-G403] ただ、もし何か非難されそうなものがあれば、それについては、読者こそが「私に」対して「厭わずに忠告していたはず」だ(7.B102:AT.VII,07.15-16/E.P02.07-08)。そこでまず、「これら」二つの点に対しては、「ここで手短に」(7.B203:AT.VII,07.18/E.P02.10)「私は答えておく」(7.B205:AT.VII, 07.19/E.P02.12-13)。 「今」のところ「私」は、「人様の判断を一度はなんとか見聞きすることで経験して」いるが、「その後で」(7.F101: AT.VII,09.19-20/E.P05.09-11)、「再び着手する」のは、「神と人間的精神とについての同じその問題」である(7.F102: AT.VII,09.20-21/E.P05.11-13)。よって、「私が期待する」のは、決して「読者」が群がることではなくて(7.F202: AT.VII,09.23-24/E.P05.15-17)、「精神を感覚から」(7.F303:AT.VII,09.25-26/E.P05.19- 20)「引き離すことができるようになり、そしてまた」引き離そうという「意志をもつようになる」ことだ(7.F305:AT.VII,09.26- 27/E.P05.21)。が、そのような人々には「ごく僅か」しか「遭遇」しないことを、「私は充分に知っている」(7.F306:AT.VII, 09.27-28/E.P05.22-23)ので、後に「私が答える」のは「幾人かの人たちの反論に」対してだけにする(7.G201:AT.VII, 10.14-16/E.P06.21-23)。 幸い、「気持ちと教養とに」おいて「卓越して」いる(ibid.)彼らのもとには、「これら‘省察’が」 (7.G202:AT.VII,10.16/E.P06.23-24)、予め「吟味されるべく送り付けられてある」(7.G204:AT.VII, 10.17/E.P07.01-02)。そんな彼らから寄せられてきた反論はひじょうに「多く」て「様々」だった、ということで「充分で」あり(7.G301:AT.VII, 10.17-18/E.P07.02-03)、「少なくとも何らかの重要な」(7.G303:AT.VII,10.19/E.P07.05)着想もありうる(7.G304:AT.VII,10.19-20/E.P07.05-06)はずだ。それゆえ、まだ「‘省察'について判断を下さない」うちに、「先に」 (7.G402:AT.VII,10.21-22/E.P07.08-09)、「それらの反論と、そうした」反論に対する「解答のすべてとを」厭わずに 「読み通し」てほしい(7.G403:AT.VII,10.22-23/E.P07.09-11)。 (3) The 3rd VIEW of 《ABF1G2》(読者からの非難について) [7.A101-A102-A103-A202-A303-B101-B202-B204-B205] 「神と人間的精神とについての問題」には「すでに前に」「私は手短に触れたことがあって」、それは『理性を正しく導きつつ、諸々の学問において真理を探究するための方法についての叙説』においてである(7.A101:AT.VII,07.01-03/E.P01.04-09)。「1637年に」その書を 「フランス語で出版」した(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.09)のだが、「それらの問題をそこで精確に取り扱う」つもりは 全然なかった(7.A103:AT.VII,07.04-05/E.P01.10-11)。というのも「それら」の問題については、もう一度議論が「為されるべきだ、と私は判断していた」(7.A202:AT.VII,07.07-08/E.P01.14-16)ので、それをやたらに「詳しく説くこと」は「無用だ」 と「私は思い込んでいた」(7.A303:AT.VII,07.10-12/E.P01.19-P02.02)からである。[7.F101-F103-F301-F304-F305-F306] [7.G201-G202-G301-G303-G305-G403] そこで、「フランス語でもってあまねくあらゆる人々に読まれるべく書かれたものにおいて」(ibid.)「私が願ってお いた」ところ、「私の書いたもののなかで皆と出くわした」ものが「何か非難に値する」としても(7.B101:AT.VII,07.14-15/E.P02.04-07)、それは「二つ」(7.B202:AT.VII,07.18/E.P02.10)だけだったので、「それら」の問題を「いっそう精確」に「説明」する前に (7.B204:AT.VII,07.18-19/E.P02.11-12)、「私は答えておく」(7.B205:AT.VII, 07.19/E.P02.12-13)。 「今」のところ、「私は人様の判断を一度はなんとか見聞きすることで経験して」おくが、「その後では」(7.F101:AT.VII, 09.19-20/E.P05.09-11)、「第一‘哲学'全体」を「頭」から「取り扱う」ことにする(7.F103:AT.VII,09.21- 22/E.P05.13-14)。よって、「私」が「促す」のは、誰かが「これを読む」ことではなくて(7.F301:AT.VII, 09.24/E.P05.17-18)、精神を「すべての予断や先入見から」(7.F304:AT.VII,09.26/E.P05.20-21)「引き離すことができるようになり、そしてまた」引き離そうという「意志をもつようになる」ことである(7.F305:AT.VII,09.26- 27/E.P05.21)。が、そのような人々には「ごく僅か」しか「遭遇」しないことを、「充分に私は知っている」(7.F306:AT.VII, 09.27-28/E.P05.22-23)から、後で「私が答える」のは「幾人かの人たちの反論に」対してだけにする(7.G201:AT.VII, 10.14-16/E.P06.21-23)。 幸い、「気持ちと教養とに」おいては「卓越して」いる(ibid.)彼らは、「これら‘省察'」(7.G202: AT.VII,10.16/E.P06.23-24)に対して「充分に多くのこと、そして様々なこと」を、反論してくれた(7.G301:AT.VII, 10.17-18/E.P07.02-03)。しかし「少なくとも何らかの重要なもの」(7.G303:AT.VII,10.19/E.P07.05)に は、彼らは「まだ触れていない」(7.G305:AT.VII,10.20/E.P07.06-07)ので、まずは厭わずに「それらの反論と、そうした」 反論に対する「解答のすべてとを読み通し」てほしい(7.G403:AT.VII,10.22-23/E.P07.09-11)。 arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),Mar.29,2007. * 語句を一部、訂正致しました(2009/8/30-9/13)。
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