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    All-Ranged Juice--ABCDE2G1G2(712)

    AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY,
    nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
     
    ...(頁、行)
    E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
      
    ...(頁、行)
      cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
      
    ...(7=「読者への序言」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)

    §712 The VIEWs of 《ABCDE2G1G2》
     for ALL-RANGED JUICE
    (1) The 1st VIEW of 《ABCDE2G1G2》(事物の本質から実験開始)
    [7.A101-A102-A104-A302-A304-B201-B203-B205] [7.C101-C102-C105-C203-C302-C303][7.D101-D104-D200-D304-D307-D402-D403] [7.E301-E303-E306-E403]
    [7.G103-G105-G107] [7.G201-G202-G203-G302-G401-G403]
        「神と人間的精神とについての問題」には「すでに前に」「私は手短に触れたことがあって」、それは『理性を正しく導きつつ、諸々の学問において真理を探究するための方法についての叙説』においてである(7.A101:AT.VII,07.01-03/E.P01.04-09)。「1637年に」その書を 「フランス語で出版」するという(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.09)打診でもって「私」は「ただ」、読者といわば「協議」のようなことをしたにすぎないが(7.A104:AT.VII,07.05-06/E.P01.11-12)、とはいえ、「その後でそれら」の問題を「どんな理由で取り扱うのか」、ということを 「私」は「読者の判断から学び足す」ことができた(ibid.)。というのも、それらの問題を説明するために「私」が辿る道は「一般に使用されているとこ ろからはあまりにも隔たっている」(7.A302:AT.VII,07.09-10/E.P01.17-18)ので、「気持ち」が「虚弱」なうちはいくら 「信じ」たところで、その道に「みずから進み行くこと」は「できない」(7.A304:AT.VII,07.12-13/E.P02.02-04)からで ある。

      そこで、それら二つの「問題について、私が触れていたものにおいて」なされた「反論」は、「留意」には値しなかった (7.B201:AT.VII,07.16-17/E.P02.08-10)が、「これら」二つの点に対しては、「ここで手短に」(7.B203: AT.VII,07.18/E.P02.10)、「私は答えておこう」(7.B205:AT.VII,07.19/E.P02.12-13)。

      まず「第一点」として(7.C101:AT.VII,07.20/E.P02.13)、「人間」としての「精神」がみずからのほうへと振り向いて「知得だか知覚だかをする」のは、「みずから」が「思惟する事物であるということ」にほかならない(7.C102:AT.VII,07.20- 08.01/E.P02.13-15)。そしてその「ほかのものすべて」は、「‘ただ~のみ’(tantum)という語」によって「排除」されて、 それらは「おそらくまた、霊魂の本性に属する」とか、魂にとって自然だとか、「云われうる」のだろうが(7.C105:AT.VII,08.03-05/E.P02.18-20)、 それらのものを、「私の本質に」「私の知る」かぎりで「属する」ものとして「私」が「認識すること」は「まったくない」、という「意味なのである」 (7.C203:AT.VII,08.08-10/E.P03.01-04)。要するに、「私が認識する」ところによれば、思惟する事物であることの「ほ かには何も私の本質に属さない」のである(7.C302:AT.VII,08.13-14/E.P03.07-09)。

      つぎに「もう一つの点」として(7.D101:AT.VII,08.16/E.P03.11)、「私」より完全な事物の 「観念によって表象され再現されたものが実在すること」は帰結しない(7.D104:AT.VII,08.18-19/E.P03.14-15)、という 反論に対して「私は答える」(7.D200:AT.VII,08.19-20/E.P03.16-17)。

      「ここで等しく呼ばれる」二つのことが「潜んでいる」のは、「観念という語において」であり(ibid.)、その語が質 料性とは「反対に」受け取られる場合には(7.D304:AT.VII,08.22/E.P03.20)、「私より完全であること」は、事物「みずからの 本質」で「理由」づけられれば、「可能」となる(7.D307:AT.VII,08.24-25/E.P03.23-24)。したがって、「そうした事物が実際に」真なる事物として(revera)「実在すること」は「帰結する」(7.D402:AT.VII,08.26-27/E.P04.02-03)のだが、このことについては「以下」に続く本論にて、「詳しく開陳される」ことになる(7.D403:AT.VII,08.27-28/E.P04.03-04)から、ここでは「私はただ一般的に 云うだけにする」(7.E301:AT.VII,09.08-09/E.P04.20-21)。‘無神論者たち’の言い分の「すべて」(ibid.)が 「常に依存している」(7.E303:AT.VII,09.11/E.P04.23)のは、あくまで「いったい何を神は為すことができるのか、そしてまた為さねば ならないか」(7.E306:AT.VII,09.13/E.P05.02-03)、ということに対してであるから、そうした言い分は「いかなる困難をも我々に産み出そうとはしないはずだ」(7.E403:AT.VII,09.17-18/E.P05.08-09)。

      それでは「まず、‘省察’において私が開陳することになる」「その思索そのもの」(7.G103:AT.VII, 10.09-10/E.P06.14-16)をとおして、「私」は「実験」に臨むことにしよう(7.G105:AT.VII,10.12- 13/E.P06.18-19)。はたして「私」が納得したその「同じ根拠によって」(ibid.)、「他の人たちをもまた納得させることができる」のか (7.G107:AT.VII,10.13-14/E.P06.20-21)。「私」は後で「幾人かの人たちの反論に答えることにする」が、「気持ちと教 養とに」おいては「卓越して」いる(7.G201:AT.VII,10.14-16/E.P06.21-23)彼らのもとにある「これら‘省察’は」 (7.G202:AT.VII,10.16/E.P06.23-24)「印刷に委ねられる以前」のものであって(7.G203:AT.VII,10.16 -17/E.P06.24-P07.01)、そうした‘省察’が彼ら以外の「いかなる人」にとっても「容易ではない」ことは、「私が敢えて望むところであった」(7.G302:AT.VII,10.18-19/E.P07.03-04)。「それゆえ、私は重ね重ね‘読者'に願う」(7.G401: AT.VII,10.20-21/E.P07.07-08)。「それらの反論と、そうした」反論に対する「解答のすべてとを読み通すこと」については、どうか厭わないでほしい(7.G403:AT.VII,10.22-23/E.P07.09-11)。

    (2) The 2nd VIEW of 《ABCDE2G1G2》(有限なる私だが、それなりに...)
    [7.A101-A102-A201-A301-B102-B203-B205] [7.C101-C103-C201-C204-C301-C303][7.D101-D102-D200-D301-D303-D306-D401-D403] [7.E301-E304-E401-E403][7.G102-G103-G106-G107] [7.G201-G202-G204-G301-G303-G304-G402-G403]
       「神と人間的精神とについての問題」には「すでに前に」「私は手短に触れたことがあって」、それは『理性を正しく導きつつ、諸学問において真理を探究するための方法についての叙説』においてである(7.A101:AT.VII,07.01-03/E.P01.04-09)。「1637年に」その書を「フランス語で出版」した(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.09)のは、それらの問題がひじょうに「重要なもの」だと「私には思われた」(7.A201:AT.VII,07.07/E.P01.13-14)からであるが、「それら」の問題を「説明するために私が辿る道は、あまり整って」なく、「なじんで」ない(7.A301:AT.VII,07.08-09/E.P01.16-17)。

      ただ、もし何か非難されそうなものがあれば、それについては、読者こそが「私に」対して「厭わずに忠告していたはず」だ(7.B102:AT.VII,07.15-16/E.P02.07-08)。そこでまず、「これら」二つの点に対しては、「ここで手短に」(7.B203:AT.VII,07.18/E.P02.10)「私は答えておこう」(7.B205: AT.VII,07.19/E.P02.12-13)。

      「第一点」として(7.C101:AT.VII,07.20/E.P02.13)、人間としての精神にとっての「本性、あるいは」いわゆる「本質」なんぞが「存立している」のはただ思惟する事物であることにおいてのみである、という「帰結」は生じ「ない」(7.C103:AT.VII,08.02- 03/E.P02.16-17)、と「反論」されているので、「私は答える」(7.C201:AT.VII,08.05-07/E.P02.21- 24)。「私もまた、そこでは」ほかのものすべてを「排除したいのではなかった」(ibid.)。というのは、「事物」として「真たることそのものに」関しては、それらも「秩序」づけられている(ibid.)からである。「勿論その場合、私が」議論を「おこなっていた」のは、そうした事物の真理についてではなくて(ibid.)、「私が思惟する事物であるということ」だけである(7.C204:AT.VII,08.10-11/E.P03.04-05)。「以下に」続く本論において「私が示す」 のは、「どんな仕方で」(7.C301:AT.VII,08.12/E.P03.06-07)「帰結」されれば、思惟することの「ほかには何も実際に」真なる事物として(revera)「私」の本質には「属さない」と云えるのか、ということである(7.C303:AT.VII,08.14-15/E.P03.09-11)。

      つぎに「もう一つの点」として(7.D101:AT.VII,08.16/E.P03.11)、「私より完全な事物の観 念を私のうちに私がもっているということ」(7.D102:AT.VII,08.16-17/E.P03.11-12)について、「私は答える」 (7.D200:AT.VII,08.19-20/E.P03.16-17)。

      「ここで等しく呼ばれる」二つのことが「潜んでいる」のは、「観念という語において」であり(ibid.)、その語は 「質料的に」「受け取られることもできる」となると(7.D301:AT.VII,08.20-21/E.P03.17-18)、「その意味では、私より完全 だ、と云うことなんてできない dici nequit」し(7.D303:AT.VII,08.21-22/E.P03.19-20)、「そうした事物」が「知性の外に実在すること は想定されないはず」だ(7.D306:AT.VII,08.23-24/E.P03.21-23)。そうなると、「私より完全な事物の観念が私のうちに在ると いうことだけから」「いかにして」帰結が生じるのか(7.D401:AT.VII,08.25-26/E.P04.01-02)、ということが問題となるが、それは 「以下」に続く本論にて「詳しく開陳される」ことになる(7.D403:AT.VII,08.27-28/E.P04.03-04)から、「私はただ一般 的に云うだけにする」(7.E301:AT.VII,09.08-09/E.P04.20-21)。‘無神論者たち’によれば、「神には人間的な感情が添 付されている」そうだが(7.E304:AT.VII,09.11-12/E.P04.23-24)、「有限なものとして考察されるべき」なのはあくまで「我々の 精神だ」ということを「我々は単に思い出しているだけのはず」であり(7.E401:AT.VII,09.14-16/E.P05.04-06)、それだけでもう、「我々にとって」‘無神論者たち’の言い分は決して困難の源にはならないだろう(7.E403:AT.VII,09.17-18/E.P05.08-09)。しかし、「或る人に とっては困難に思われそうなものすべてを私が予見できる」かどうかについては、「私」は「さほど自負していない」ので、「確信」しえないだろう (7.G102:AT.VII,10.07-09/E.P06.11-14)。

      さて、「‘省察’において私の開陳する」のが、「その思索そのもの」(7.G103:AT.VII,10.09- 10/E.P06.14-16)になる「だろう」が、では、その思索をとおして「この私が納得した」根拠によって(7.G106:AT.VII,10.13/E.P06.19-20)、はたして「他の人たちをもまた納得させることができる」のか(7.G107:AT.VII,10.13-14/E.P06.20-21)。「私は」後で「幾人かの人たちの反論に答えることにする」が、「気持ちと教養とに」おいては「卓越して」いる(7.G201:AT.VII,10.14- 16/E.P06.21-23)彼らのもとには、「これら‘省察’が」(7.G202:AT.VII,10.16/E.P06.23-24)、予め「吟味されるべく送り付けられてある」(7.G204:AT.VII,10.17/E.P07.01-02)。そんな彼らから寄せられてきた反論はひじょうに 「多く」て「様々」だった、ということで「充分で」あり(7.G301:AT.VII,10.17-18/E.P07.02-03)、「少なくとも何らかの重要な」 (7.G303:AT.VII,10.19/E.P07.05)着想もありうる(7.G304:AT.VII,10.19-20/E.P07.05- 06)はずだ。そこで、まだ「‘省察’について判断を下さない」うちに、「先に」(7.G402:AT.VII,10.21-22/E.P07.08-09)、「そ れらの反論と、そうした」反論に対する「解答のすべてとを」厭わずに「読み通し」てほしい(7.G403:AT.VII,10.22- 23/E.P07.09-11)。

    (3) The 3rd VIEW of 《ABCDE2G1G2》(どこまで知りつくせるか...)
    [7.A101-A102-A103-A202-A303-B101-B202-B204-B205] [7.C101-C104-C202-C205-C303][7.D101-D103-D200-D302-D305-D403] [7.E301-E302-E305-E307-E402-E403][7.G101-G103-G104-G107] [7.G201-G202-G301-G303-G305-G403]
       「神と人間的精神とについての問題」には「すでに前に」「私は手短に触れたことがあって」、それは『理性を正しく導きつつ、諸々の学問において真理を探 究するための方法についての叙説』においてである(7.A101:AT.VII,07.01-03/E.P01.04-09)。「1637年に」その書を 「フランス語で出版」した(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.09)のだが、「それらの問題をそこで精確に取り扱う」つもりは 全然なかった(7.A103:AT.VII,07.04-05/E.P01.10-11)。というのも「それら」の問題については、もう一度議論が「為されるべきだと私は判断していた」(7.A202:AT.VII,07.07-08/E.P01.14-16)ので、それをやたらに「詳しく説くこと」は「無用だ」と「私は思い込んでいた」(7.A303:AT.VII,07.10-12/E.P01.19-P02.02)からである。

      そこで、「フランス語でもってあまねくあらゆる人々に読まれるべく書かれたものにおいて」(ibid.)「私が願ってお いた」ところ、「私の書いたもののなかで皆と出くわした」ものが「何か非難に値する」としても(7.B101:AT.VII,07.14-15/E.P02.04-07)、それは「二つ」(7.B202:AT.VII,07.18/E.P02.10)だけだったので、「それら」の問題を「いっそう精確」に「説明」する前に (7.B204:AT.VII,07.18-19/E.P02.11-12)、「私は答えておこう」(7.B205:AT.VII, 07.19/E.P02.12-13)。

      まず「第一点」として(7.C101:AT.VII,07.20/E.P02.13)、みずからを「思惟する事物であるということ」(7.C104:AT.VII,08.03/E.P02.17-18)は、せいぜい「私」によって「知得」だか知覚だか(perceptionem)されるかぎりで、「秩序」づけられているにすぎない(7.C202:AT.VII,08.08/E.P02.24-P03.01)。とはいえ、「みずからのうちに思惟する機能をもつ事物」 (7.C205:AT.VII,08.11-12/E.P03.05-06)だけが「実際に」真なる事物として(revera)私の本質「に属する」ものだ、ということは「ほかならぬ」「帰結となる」 (7.C303:AT.VII,08.14-15/E.P03.09-11)。

      つぎに「もう一つの点」として(7.D101:AT.VII,08.16/E.P03.11)、「私」より完全な事物の 「観念そのものが、私より完全であることは帰結しない」(7.D103:AT.VII,08.17-18/E.P03.12-14)、という反論に対して 「私は答える」(7.D200:AT.VII,08.19-20/E.P03.16-17)。

      「ここに潜んでいる」のは、「観念という語において等しく呼ばれる」二つのことである(ibid.)。すなわち、「知性 の作用」として(7.D302:AT.VII,08.21/E.P03.18-19)の意味と、「そうした作用によって表象され再現された事物」として (7.D305:AT.VII,08.22-23/E.P03.20-21)の意味とである。それを「詳しく開陳」するのが、「以下」に続く本論である (7.D403:AT.VII,08.27-28/E.P04.03-04)から、ここでは「私はただ一般的に云うだけにする」(7.E301: AT.VII,09.08-09/E.P04.20-21)。‘無神論者たち’のせいで「公然とはびこっている」もののすべては、「神の実在を攻撃するた め」のものである(7.E302:AT.VII,09.09-10/E.P04.21-23)。それによると、「我々の精神にはひじょうに大きな力と知恵 とが授けられている」(7.E305:AT.VII,09.12-13/E.P04.24-P05.02)という。しかし「我々が」いくら「決定し把握しようと試みたり努めたり」しても(7.E307:AT.VII,09.14/E.P05.03-04)「把握しきれない無限なもの」こそが「神」なのである(7.E402:AT.VII,09.16-17/E.P05.07-08)から、‘無神論者たち’の主張から産み出されるものは「我々にとっては」困難とはならないはずだ(7.E403:AT.VII,09.17-18/E.P05.08-09)が、だからといって「他の人々が私に対してすべてにおいて最初に外見で満足しうる」かどうかについては、「私は」そうした他の人々に「全然約束していない」(7.G101:AT.VII,10.06- 07/E.P06.09-11)。

      「なるほど、‘省察’において私の開陳する」のが「その思索そのもの」になる「だろう」(7.G103:AT.VII,10.09- 10/E.P06.14-16)。そしてこの思索を「術 ope」として、「私」は「確実」に「そして明証的」に「真理」を「認識」するに「至った」、と「私には思われる」 (7.G104:AT.VII,10.10-12/E.P06.16-18)が、はたしてそのようにして「他の人たちをもまた納得させることができる」のか(7.G107:AT.VII,10.13-14/E.P06.20-21)。そこで、「私は」後で「幾人かの人たちの反論に答えることにする」が、 「気持ちと教養とに」おいては「卓越して」いる(7.G201:AT.VII,10.14-16/E.P06.21-23)彼らは、「これら‘省察’」 (7.G202:AT.VII,10.16/E.P06.23-24)に対して「充分に多くのこと、そして様々なこと」を、反論してくれた (7.G301:AT.VII,10.17-18/E.P07.02-03)。にも拘わらず「少なくとも何らかの重要なもの」(7.G303: AT.VII,10.19/E.P07.05)には、彼らは「まだ触れていない」(7.G305:AT.VII,10.20/E.P07.06-07)の で、まずは厭わずに「それらの反論と、そうした」反論に対する「解答のすべてとを読み通し」てほしい(7.G403:AT.VII,10.22- 23/E.P07.09-11)。

    arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
    初出:"What a cool believes"(blog),Mar.29,2007.

     

    * 語句を一部、訂正致しました(2009/8/30-9/13)。

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