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    All-Ranged Juice--ABE1F2G2(713)

    AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY,
    nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
     
    ...(頁、行)
    E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
      
    ...(頁、行)
      cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
      
    ...(7=「読者への序言」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)

    §713 The VIEWs of 《ABE1F2G2》
    for ALL-RANGED JUICE
    (1) The 1st VIEW of 《ABE1F2G2》(鼻であしらわれるべき議論)
    [7.A101-A102-A104-A302-A304-B201-B203-B205]
    [7.E101-E201-E205-E210][7.F401-F403-F405-F501-F502] [7.G201-G202-G301-G303-G305-G403]

       「神と人間的精神とについての問題」には「すでに前に」「私は手短に触れたことがあって」、それは『理性を正しく導きつつ、諸々の学問において真理を探究するための方法についての叙説』においてである(7.A101:AT.VII,07.01-03/E.P01.04-09)。「1637年に」その書を「フランス語で出版」するという(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.09)打診でもって「私」は「ただ」、読者といわば「協議」のようなことをしたにすぎないが(7.A104:AT.VII,07.05-06/E.P01.11-12)、とはいえ、「その後でそれら」の問題を「どんな理由で取り扱うのか」、ということを「私」は「読者の判断から学び足す」ことができた(ibid.)。というのも、それらの問題を説明するために「私」が辿る道は「一般に使用されているところからはあまりにも隔たっている」(7.A302:AT.VII,07.09-10/E.P01.17-18)ので、「気持ち」が「虚弱」なうちはいくら「信じ」たところで、その道に「みずから進み行くこと」は「できない」(7.A304:AT.VII,07.12-13/E.P02.02-04)からである。

      そこで、それら二つの「問題について、私が触れていたものにおいて」なされた「反論」は、「留意」には値しなかった (7.B201:AT.VII,07.16-17/E.P02.08-10)が、「これら」二つの点に対しては、「ここで手短に」(7.B203: AT.VII,07.18/E.P02.10)、「私は答えておく」(7.B205:AT.VII,07.19/E.P02.12-13)。しかしそれにしても、ほかに「私が見た」「或る二つの文章」は、「なるほど」「相当に長い」ものだったが(7.E101:AT.VII,08.29- 30/E.P04.04-06)、そこにみられる「類いの議論は何の力をももつことができない」(7.E201:AT.VII,09.01- 03/E.P04.10-12)。というのも、そうした議論は「偽」であり、「理とか根拠とかに縁がない」(7.E205:AT.VII,09.05- 06/E.P04.15-16)からである。それゆえ「私はここではそれらに対して答えたくないのだ」(7.E210:AT.VII,09.07- 08/E.P04.18-19)。さらに、人々に「関して」(7.F401:AT.VII,09.28/E.P05.23-24)云わせてもらえば、「ただ一字一句だけ」を(7.F403:AT.VII,09.30/E.P06.02)「論うことに」かまけているうちに(7.F405:AT.VII, 10.01/E.P06.03-04)「おそらく多くの点で機会を見つけだして」は「あざける」だろう(7.F501:AT.VII,10.02- 04/E.P06.05-07)が、そのようにして「何か」を「反論」したつもりになったところで、それが「緊要であるか、もしくは答弁に値する」ようなことは「容易には」起こら「ないだろう」(7.F502:AT.VII,10.04-05/E.P06.07-09)。

      そういうわけで、後に「私が答える」のは「幾人かの人たちの反論に」対してだけにするが、「気持ちと教養とに」おいては「卓越して」いる(7.G201:AT.VII,10.14-16/E.P06.21-23)彼らは、「これら‘省察’」(7.G202:AT.VII, 10.16/E.P06.23-24)に対して「充分に多くのこと、そして様々なこと」を、反論してくれた(7.G301:AT.VII,10.17- 18/E.P07.02-03)。しかし「少なくとも何らかの重要なもの」(7.G303:AT.VII,10.19/E.P07.05)には、彼らは「まだ触れていない」(7.G305:AT.VII,10.20/E.P07.06-07)ので、まずは厭わずに「それらの反論と、そうした」反論に対する「解答のすべてとを読み通し」てほしい(7.G403:AT.VII,10.22-23/E.P07.09-11)。

    (2) The 2nd VIEW of 《ABE1F2G2》(私の根拠を踏まえよ)
    [7.A101-A102-A201-A301-B102-B203-B205]
    [7.E202-E207-E209][7.F401-F402-F406-F502]

    [7.G201-G202-G204-G301-G303-G304-G402-G403]

        「神と人間的精神とについての問題」には「すでに前に」「私は手短に触れたことがあって」、それは『理性を正しく導きつつ、諸学問において真理を探究するための方法についての叙説』においてである(7.A101:AT.VII,07.01-03/E.P01.04-09)。「1637年に」その書を「フランス語で出版」した(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.09)のは、それらの問題がひじょうに「重要なもの」だと「私には思われた」(7.A201:AT.VII,07.07/E.P01.13-14)からであるが、「それら」の問題を「説明するために私が辿る道は、あまり整って」なく、「なじんで」ない(7.A301:AT.VII,07.08-09/E.P01.16-17)。

      ただ、もし何か非難されそうなものがあれば、それについては、読者こそが「私に」対して「厭わずに忠告していたはず」だ(7.B102:AT.VII,07.15-16/E.P02.07-08)。そこでまず、「これら」二つの点に対しては、「ここで手短に」(7.B203:AT.VII,07.18/E.P02.10)「私は答えておく」(7.B205: AT.VII,07.19/E.P02.12-13)が、「私の根拠」を「知解」すれば(7.E202:AT.VII,09.03/E.P04.12)、「真で堅固な」(7.E207:AT.VII,09.06/E.P04.17)「反駁」を、諸々の意見に対して(7.E209:AT.VII, 09.07/E.P04.18)おこなうことができる。しかし他方、人々に「関して」(7.F401:AT.VII,09.28/E.P05.23- 24)云わせてもらえば、「私の根拠の連鎖と脈絡とを把握することに気を配らない」うちは(7.F402:AT.VII,09.29- 30/E.P05.24-P06.02)、「この著作を」読んでも「大きな成果」を「収める」ようにはなら「ない」だろうし(7.F406:AT.VII, 10.01-02/E.P06.04-05)、「何か」を「反論」したところで、それが「緊要であるか、もしくは答弁に値する」ようなことは「容易には」起こら「ないだろう」(7.F502:AT.VII,10.04-05/E.P06.07-09)。

      そういうわけで、後に「私が答える」のは「幾人かの人たちの反論に」対してだけにするが、「気持ちと教養とに」おいては「卓越して」いる(7.G201:AT.VII,10.14-16/E.P06.21-23)彼らのもとには、「これら‘省察’が」(7.G202: AT.VII,10.16/E.P06.23-24)、予め「吟味されるべく送り付けられてある」(7.G204:AT.VII, 10.17/E.P07.01-02)。そんな彼らから寄せられてきた反論はひじょうに「多く」て「様々」だった、ということで「充分で」あり(7.G301:AT.VII, 10.17-18/E.P07.02-03)、「少なくとも何らかの重要な」(7.G303:AT.VII,10.19/E.P07.05)着想もありうる(7.G304:AT.VII,10.19-20/E.P07.05-06)はずだ。それゆえ、まだ「‘省察’について判断を下さない」うちに、「先に」 (7.G402:AT.VII,10.21-22/E.P07.08-09)、「それらの反論と、そうした」反論に対する「解答のすべてとを」厭わずに「読み通し」てほしい(7.G403:AT.VII,10.22-23/E.P07.09-11)。

    (3) The 3rd VIEW of 《ABE1F2G2》(しきたり住まいの井戸端会議)
    [7.A101-A102-A103-A202-A303-B101-B202-B204-B205] [7.E102-E203-E204-E206-E208-E209-E211][7.F401-F404-F502]
    [7.G201-G202-G203-G302-G401-G403]

        「神と人間的精神とについての問題」には「すでに前に」「私は手短に触れたことがあって」、それは『理性を正しく導きつつ、諸々の学問において真理を探究するための方法についての叙説』においてである(7.A101:AT.VII,07.01-03/E.P01.04-09)。「1637年に」その書を「フランス語で出版」した(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.09)のだが、「それらの問題をそこで精確に取り扱う」つもりは全然なかった(7.A103:AT.VII,07.04-05/E.P01.10-11)。というのも「それら」の問題については、もう一度議論が「為されるべきだと私は判断していた」(7.A202:AT.VII,07.07-08/E.P01.14-16)ので、それをやたらに「詳しく説くこと」は「無用だ」と「私は思い込んでいた」(7.A303:AT.VII,07.10-12/E.P01.19-P02.02)からである。

      そこで、「フランス語でもってあまねくあらゆる人々に読まれるべく書かれたものにおいて」(ibid.)「私が願っておいた」ところ、「私の書いたもののなかで皆と出くわした」ものが「何か非難に値する」としても(7.B101:AT.VII,07.14-15/E.P02.04-07)、それは「二つ」(7.B202:AT.VII,07.18/E.P02.10)だけだったので、「それら」の問題を「いっそう精確」に「説明」する前に (7.B204:AT.VII,07.18-19/E.P02.11-12)、「私は答えておこう」(7.B205:AT.VII, 07.19/E.P02.12-13)。

      それにしても、しかし、ほかに「私」の見た或る二つの文章で「攻撃されていた」のが、すなわち「私」よりも完全な「事物について」の「私」の「根拠」であるが、これはべつに「結論」の如きものでは「ない」し、そのように攻撃したほうの「議論」は、「‘無神論者たち’」に「共通な」議論の「場から借りてきた」ものであった(7.E102:AT.VII,08.30-09.01/E.P04.06-10)。このように「本末顛倒で薄弱な」「判断」をする人々は多いが(7.E203:AT.VII,09.03-04/E.P04.12-14)、それは、そうした人々が「最初に受け取った諸々の意見によって」 (7.E204:AT.VII,09.04-05/E.P04.14-15)「説得されて」信じ込んだまま(7.E206:AT.VII, 09.06/E.P04.16-17)、「後で」その人々の「聞いた」(7.E208:AT.VII,09.07/E.P04.17-18)のが、「かの意見の反駁」 (7.E209:AT.VII,09.07/E.P04.18)だったからである。したがって、「私」が「先に言及」すべきなのは、それらの意見に関してでは「なく」て(7.E211:AT.VII,09.08/E.P04.19-20)、むしろそうした人々に「関して」(7.F401:AT.VII, 09.28/E.P05.23-24)なのである。「しきたりのなかに居る in more est」「多くの人たちにとって」(7.F404:AT.VII,09.30- 10.01/E.P06.02-03)「容易ではない」ことがある(7.F502:AT.VII,10.04-05/E.P06.07-09)。すなわちそれは、「緊要であるか、もしくは答弁に値するようなものを何か反論する」ことであろう(ibid.)。

      そういうわけで、後に「私が答える」のは「幾人かの人たちの反論に」対してだけにするが、「気持ちと教養とに」おいては「卓越して」いる(7.G201:AT.VII,10.14-16/E.P06.21-23)彼らのもとにある「これら‘省察’は」(7.G202: AT.VII,10.16/E.P06.23-24)「印刷に委ねられる以前」のものであって(7.G203:AT.VII,10.16- 17/E.P06.24-P07.01)、そうした‘省察’が彼ら以外の「いかなる人」にとっても「容易ではない」ことは、「私が敢えて望むところであった」(7.G302:AT.VII,10.18-19/E.P07.03-04)。「それゆえ、私は重ね重ね‘読者’に願う」(7.G401: AT.VII,10.20-21/E.P07.07-08)。「それらの反論と、そうした」反論に対する「解答のすべてとを読み通すこと」については、どうか厭わないでほしい(7.G403:AT.VII,10.22-23/E.P07.09-11)。

    arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
    初出:"What a cool believes"(blog),Mar.29,2007.

    * 語句を一部、訂正致しました(2009/8/30-9/13)。

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