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All-Ranged Juice--1solid-721David RITZ 1998:
David RITZ(解説), Marvin Gaye 《Midnight Love & the Sexual Healing Sessions》[CS-8817~8]所収、 Sony Music Entertainment,1982/1998.
I'm worried that I'm getting so introspective,
no one will listen.
I can't afford to miss this time.
--Marvin Gaye (cited from David RITZ 1998,p.9)
* I'm worried ... *****
AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY,
nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996. ...(頁、行) E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994. ...(頁、行) cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991) ...(7=「読者への序言」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節) The 1st Solid of 《ABCDE2G1-E1F2-F1G2》 (§721:然るべきことを踏まえ給え)
for ALL-RANGED JUICE
[7.A101-A102-A104-A302-A304-B201-B203-B205] [7.C101-C102-C105-C203-C302-C303][7.D101-D104-D200-D304-D307-D402-D403] [7.E301-E303-E306-E403][7.G103-G105-G107][7.E202-E207-E209] 「神と人間的精神とについての問題」には「すでに前に」「私は手短に触れたことがあって」、それは『理性を正しく導きつつ、諸々の学問において真理を探究するための方法についての叙説』においてである(7.A101:AT.VII,07.01-03/E.P01.04-06)。「1637年に」その書を「フランス語で出版」するという(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.09)打診でもって「私」は「ただ」、読者といわば「協議」のようなことをしたにすぎないが(7.A104:AT.VII,07.05-06/E.P01.11-12)、とはいえ「その後でそれら」の問題を「どんな理由で取り扱うのか」、ということを「私」は「読者の判断から学び足す」ことができた(ibid.)。というのも、それらの問題を説明するために「私」が辿る道は「一般に使用されているところからはあまりにも隔たっている」(7.A302:AT.VII,07.09-10/E.P01.17-18)ので、「気持ち」が「虚弱」なうちはいくら「信じ」たところで、その道に「みずから進み行くこと」は「できない」(7.A304:AT.VII,07.12-13/E.P02.02-04)からである。[7.F401-F402-F406-F502] [7.F101-F201-F302-F305-F306] [7.G201-G202-G203-G302-G401-G403] 案の定、それら二つの「問題について、私が触れていたものにおいて」なされた「反論」は、「留意」には値しなかった (7.B201:AT.VII,07.16-17/E.P02.08-10)が、「これら」二つの点に対しては、「ここで手短に」(7.B203: AT.VII,07.18/E.P02.10)、「私は答えておこう」(7.B205:AT.VII,07.19/E.P02.12-13)。 まず「第一点」として(7.C101:AT.VII,07.20/E.P02.13)、「人間」としての「精神」がみずからのほうへと振り向いて「知得だか知覚だかをする」のは、「みずから」が「思惟する事物であるということ」にほかならない(7.C102:AT.VII,07.20- 08.01/E.P02.13-15)。そしてその「ほかのものすべて」は、「‘ただ~のみ’(tantum)という語」によって「排除」されて、それらは「おそらくまた、霊魂の本性に属する」とか、魂にとって自然だとか、「云われうる」のだろうが(7.C105:AT.VII,08.03-05/E.P02.18-20)、それらのものを、「私の本質に」「私の知る」かぎりで「属する」ものとして「私」が「認識すること」は「まったくない」、という「意味なのである」 (7.C203:AT.VII,08.08-10/E.P03.01-04)。要するに、「私が認識する」ところによれば、思惟する事物であることの「ほかには何も私の本質に属さない」のである(7.C302:AT.VII,08.13-14/E.P03.07-09)。 つぎに「もう一つの点」として(7.D101:AT.VII,08.16/E.P03.11)、「私」より完全な事物の「観念によって表象され再現されたものが実在すること」は帰結しない(7.D104:AT.VII,08.18-19/E.P03.14-15)、という反論に対して「私は答える」(7.D200:AT.VII,08.19-20/E.P03.16-17)。 「ここで等しく呼ばれる」二つのことが「潜んでいる」のは、「観念という語において」であり(ibid.)、その語が質料性とは「反対に」受け取られる場合には(7.D304:AT.VII,08.22/E.P03.20)、「私より完全であること」は、事物「みずからの本質」で「理由」づけられれば、「可能」となる(7.D307:AT.VII,08.24-25/E.P03.23-24)。したがって、「そうした事物が実際に」真なる事物として(revera)「実在すること」は「帰結する」(7.D402:AT.VII,08.26-27/E.P04.02-03)のだが、このことについては「以下」に続く本論にて、「詳しく開陳される」ことになる(7.D403:AT.VII,08.27-28/E.P04.03-04)から、ここでは「私はただ一般的に云うだけにする」(7.E301:AT.VII,09.08-09/E.P04.20-21)。‘無神論者たち’の言い分の「すべて」(ibid.)が「常に依存している」(7.E303:AT.VII,09.11/E.P04.23)のは、あくまで、「神が為すことのできる」のは、「そしてまた」神が「為さねばならない」のは、「いったい何」なの「か」(7.E306:AT.VII,09.13/E.P05.02-03)、ということに対してであるから、そうした言い分は「いかなる困難をも我々に産み出そうとはしないはずだ」(7.E403:AT.VII,09.17-18/E.P05.08-09)。 それでは「まず、‘省察’において私が開陳することになる」「その思索そのもの」(7.G103:AT.VII, 10.09-10/E.P06.14-16)をとおして「私」は「実験」に臨むことにしよう(7.G105:AT.VII,10.12- 13/E.P06.18-19)。はたして「私」が納得したその「同じ根拠によって」(ibid.)、「他の人たちをもまた納得させることができる」のか (7.G107:AT.VII,10.13-14/E.P06.20-21)。 勿論、「私の根拠」を「知解」すれば(7.E202:AT.VII,09.03/E.P04.12)、「真で堅固な」 (7.E207:AT.VII,09.06/E.P04.17)「反駁」を、諸々の意見に対して(7.E209:AT.VII, 09.07/E.P04.18)おこなうことができる。但し残念なことに、人々に「関して」(7.F401:AT.VII,09.28/E.P05.23 -24)云わせてもらえば、「私の根拠の連鎖と脈絡とを把握することに気を配らない」うちは(7.F402:AT.VII,09.29- 30/E.P05.24-P06.02)、「この著作を」読んでも「大きな成果」を「収める」ようにはなら「ない」だろうし(7.F406:AT.VII, 10.01-02/E.P06.04-05)、「何か」を「反論」したところで、それが「緊要であるか、もしくは答弁に値する」ようなことは「容易には」起こら「ないだろう」(7.F502:AT.VII,10.04-05/E.P06.07-09)。 「今」のところ、「私は人様の判断を一度はなんとか見聞きすることでもって経験して」おくが、「その後で」(7.F101:AT.VII, 09.19-20/E.P05.09-11)「私」が期待するのは、べつに「公の拍手喝采」ではなくて(7.F201:AT.VII,09.22- 23/E.P05.15)、ただ人々が「本気で私とともに省察」(7.F302:AT.VII,09.25/E.P05.18-19)「できるようになり、そしてまた」省察しようという「意志をもつようになる」、ということである(7.F305:AT.VII,09.26-27/E.P05.21)。とはいえ、そのような人々には「ごく僅か」しか「遭遇」しないことを、「充分に私は知っている」(7.F306:AT.VII,09.27- 28/E.P05.22-23)から、後で「私が答える」のは「幾人かの人たちの反論に」対してだけにする(7.G201:AT.VII,10.14- 16/E.P06.21-23)。 幸い、「気持ち」においても「教養」においても「卓越して」いる(ibid.)彼らのもとにあるのが「‘省察’」だが、「これら」は(7.G202:AT.VII,10.16/E.P06.23-24)「印刷に委ねられる以前」のものであって(7.G203: AT.VII,10.16-17/E.P06.24-P07.01)、そうした‘省察’が彼ら以外の「いかなる人」にとっても「容易ではない」ことは、「私が敢えて望むところであった」(7.G302:AT.VII,10.18-19/E.P07.03-04)。「それゆえ、私は重ね重ね‘読者’に願う」(7.G401:AT.VII,10.20-21/E.P07.07-08)。「それらの反論と、そうした」反論に対する「解答のすべてとを読み通すこと」については、どうか厭わないでほしい(7.G403:AT.VII,10.22-23/E.P07.09-11)。 arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),Mar.30,2007. * 語句を一部、訂正致しました(2009/9/09-9/13)。 TrackbacksWeblogs that reference this entry
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