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    All-Ranged Juice--3solid-723

    AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY,
    nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
     
    ...(頁、行)
    E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
      
    ...(頁、行)
      cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
      
    ...(7=「読者への序言」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)

    The 3rd Solid of 《ABCDE2G1-E1F2-F1G2》 (§723:限りあってこその拒絶)
    for ALL-RANGED JUICE
    [7.A101-A102-A201-A301-B102-B203-B205] [7.C101-C103-C201-C204-C301-C303]
    [7.D101-D102-D200-D301-D303-D306-D401-D403]
    [7.E301-E304-E401-E403][7.G102-G103-G106-G107] [7.E101-E201-E205-E210][7.F401-F403-F405-F501-F502] [7.F101-F103-F301-F304-F305-F306][7.G201-G202-G301-G303-G305-G403]

        「神と人間的精神とについての問題」には「すでに前に」「私は手短に触れたことがあって」、それは『理性を正しく導きつつ、諸学問において真理を探究するための方法についての叙説』においてである(7.A101:AT.VII,07.01-03/E.P01.04-09)。「1637年に」その書を「フランス語で出版」した(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.09)のは、それらの問題がひじょうに「重要なもの」だと「私には思 われた」(7.A201:AT.VII,07.07/E.P01.13-14)からであるが、「それら」の問題を「説明するために私が辿る道は、あまり 整って」なく、「なじんで」ない(7.A301:AT.VII,07.08-09/E.P01.16-17)。

      ただ、もし何か非難されそうなものがあれば、それについては、読者こそが「私に」対して「厭わずに忠告していたはず」だ(7.B102:AT.VII,07.15-16/E.P02.07-08)。そこでまず、 「これら」二つの点に対しては、
    「ここで手短に」(7.B203:AT.VII,07.18/E.P02.10)「私は答えておこう」(7.B205: AT.VII,07.19/E.P02.12-13)。
      「第一点」として(7.C101:AT.VII, 07.20/E.P02.13)、人間としての精神にとっての「本性、あるいは」いわゆる「本質」なんぞが「存立している」のはただ思惟する事物であることにおいてのみである、という 「帰結」は生じない(7.C103:AT.VII,08.02-03/E.P02.16-17)、と「反論」されているので、「私は答える」 (7.C201:AT.VII,08.05-07/E.P02.21-24)。じつは「私もまた、そこでは」ほかのものすべてを「排除したいのではなかっ た」(ibid.)。というのは、「事物」として「真たることそのものに」関しては、それらも「秩序」づけられている(ibid.)からである。「勿論その場合、私が」議論を「おこなっていた」のは、そうした事物の真理についてではなくて(ibid.)、「私が思惟する事物であるということ」だけである(7.C204:AT.VII,08.10 -11/E.P03.04-05)。「以下に」続く本論において「私が示す」のは、「どんな仕方で」(7.C301:AT.VII, 08.12/E.P03.06-07)「帰結」されれば、思惟することの「ほかには何も実際に」真なる事物として(revera)「私」の本質には「属さない」と云えるのか、ということで ある(7.C303:AT.VII,08.14-15/E.P03.09-11)。

      つぎに「もう一つの点」として(7.D101:AT.VII,08.16/E.P03.11)、「私より完全な事物の観念を私のうちに私がもっているということ」(7.D102:AT.VII,08.16-17/E.P03.11-12)について、「私は答える」 (7.D200:AT.VII,08.19-20/E.P03.16-17)。
      「ここで等しく呼ばれる」二つのことが 「潜んでいる」のは、「観念という語において」であり(ibid.)、その語は「質料的に」「受け取られることもできる」となると(7.D301: AT.VII,08.20-21/E.P03.17-18)、「その意味では、私より完全だ、と云うことなんてできない dici nequit」し(7.D303:AT.VII, 08.21-22/E.P03.19-20)、「そうした事物」が「知性の外に実在することは想定されないはず」だ(7.D306:AT.VII,08.23- 24/E.P03.21-23)。そうなると、「私より完全な事物の観念が私のうちに在るということだけから」「いかにして」帰結が生じるのか (7.D401:AT.VII,08.25-26/E.P04.01-02)、ということが問題となるが、それは「以下」に続く本論にて「詳しく開陳される」ことにな る(7.D403:AT.VII,08.27-28/E.P04.03-04)から、「私はただ一般的に云うだけにする」(7.E301:AT.VII, 09.08-09/E.P04.20-21)。なんと‘無神論者たち’によれば、「神には人間みたいな感情が添付されている」そうだが(7.E304: AT.VII,09.11-12/E.P04.23-24)、「有限なものとして考察されるべき」なのはあくまで「我々の精神だ」ということを、「我々は単に思い出しているだけのはず」であり(7.E401:AT.VII,09.14-16/E.P05.04-06)、それだけでもう、「我々にとって」‘無神論者たち’の言い分は決して困難の源には ならないだろう(7.E403:AT.VII,09.17-18/E.P05.08-09)。しかし、「或る人にとっては困難に思われそうなものすべてを 私が予見できる」かどうかについては、「私」は「さほど自負していない」ので、「確信」しえないだろう(7.G102:AT.VII,10.07- 09/E.P06.11-14)。

      さて、「‘省察’において私の開陳する」のが、「その思索そのもの」(7.G103:AT.VII,10.09- 10/E.P06.14-16)になる「だろう」が、ではその思索をとおして「この私が納得した」根拠によって(7.G106:AT.VII,10.13/E.P06.19-20)、はたして「他の人たちをもまた納得させることができる」のか(7.G107:AT.VII,10.13-14/E.P06.20-21)。

      残念なことに、ほかに「私が見た」「或る二つの文章」は、「なるほど」「相当に長い」ものだったが(7.E101: AT.VII,08.29-30/E.P04.04-06)、そこにみられる「類いの議論は何の力をももつことができない」(7.E201: AT.VII,09.01-03/E.P04.10-12)。というのも、そうした議論は「偽」であり、「理とか根拠とかに縁がない」(7.E205:AT.VII, 09.05-06/E.P04.15-16)からである。それゆえ「私はここではそれらに対して答えたくないのだ」(7.E210:AT.VII, 09.07-08/E.P04.18-19)。

      さらに、人々に「関して」(7.F401:AT.VII,09.28/E.P05.23-24)云わせてもらえば、「ただ一字一句だけ」を(7.F403:AT.VII,09.30/E.P06.02)「論うことに」かまけているうちに(7.F405:AT.VII, 10.01/E.P06.03-04)「おそらく多くの点で機会を見つけだして」は「あざける」だろう(7.F501:AT.VII,10.02- 04/E.P06.05-07)が、そのようにして「何か」を「反論」したつもりになったところで、それが「緊要であるか、もしくは答弁に値する」ようなことは「容易に は」起こら「ないだろう」(7.F502:AT.VII,10.04-05/E.P06.07-09)。

      「今」のところ、「私は人様の判断を一度はなんとか見聞きすることで経験して」おくが、「その後では」(7.F101:AT.VII, 09.19-20/E.P05.09-11)、「第一‘哲学’全体」を「頭」から「取り扱う」ことにする(7.F103:AT.VII,09.21- 22/E.P05.13-14)。よって、「私」が「促す」のは、誰かが「これを読む」ことではなくて(7.F301:AT.VII, 09.24/E.P05.17-18)、精神を「すべての予断や先入見から」(7.F304:AT.VII,09.26/E.P05.20-21)「引き離すことができるようになり、そしてまた」引き離そうという「意志をもつようになる」ことである(7.F305:AT.VII,09.26- 27/E.P05.21)。が、そのような人々には「ごく僅か」しか「遭遇」しないことを、「充分に私は知っている」(7.F306:AT.VII, 09.27-28/E.P05.22-23)から、後で「私が答える」のは「幾人かの人たちの反論に」対してだけにする(7.G201:AT.VII, 10.14-16/E.P06.21-23)。

      幸い、「気持ち」においても「教養」においても「卓越して」いる(ibid.)彼らは、「これら‘省察’」 (7.G202:AT.VII,10.16/E.P06.23-24)に対して「充分に多くのこと、そして様々なこと」を、反論してくれた (7.G301:AT.VII,10.17-18/E.P07.02-03)。しかし「少なくとも何らかの重要なもの」(7.G303:AT.VII, 10.19/E.P07.05)には、彼らは「まだ触れていない」(7.G305:AT.VII,10.20/E.P07.06-07)ので、まずは厭わ ずに「それらの反論と、そうした」反論に対する「解答のすべてとを読み通し」てほしい(7.G403:AT.VII,10.22-23/E.P07.09 -11)。

    arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
    初出:"What a cool believes"(blog),Mar.30,2007.

    * 語句を一部、訂正致しました(2009/9/09-9/13)。

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