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the SHYNAMITESは、2009年9月下旬に、WEB参入3周年を迎えちまいました(<--それがどうした?)。/その他:何となく、All-Ranged Juiceの改訂を終了(2009/9/13)。
Photo 1 of 5

the SHYNAMITES

[略歴]
Born in 某年。
男女両方の性別に違和感を持ちつつ育つ。
のち、出生時の性別に似つかぬ生来の容貌を、自覚したり、他人から指摘されたりする。
1996 A.D. 審美上と防犯上の都合で、服装や容姿を再検討しはじめたたところ、いわゆる異性装に落ち着く。
2000 A.D. 正式に改名し、性別不問の実名を獲得。
2003 A.D. "男とも女とも異なる独自の性別"として、みずから説明しながら暮らしだす。
そして、しぶとく現在に到る。

まぁ、今にして思えば、
てっきり"怠け者"として信じ込まれていた頃の私が、
実は今迄で一番働いていたのかもしれない.
.....なんてね。

the SHYNAMITES界隈のおみやげ・記念品について

せっかく雇用労働で惨敗したことだし...、思い切って逸品なる物品の数々(?)を御用意致しました。
 
利用例
* おみやげで刷り込みたい: 宜しければ、当店へお越しくださいませ。
* もみあげを剃り込みたい: 恐れ入りますが、理髪店等を御利用ください。
* mobileでお越しの方: まず、
http://m.upsold.com/へ赴き、デザイナー検索として「SHYNAMITES」を入力して下さい。
 


 

PNSH-R06PNSH-R04UPSOLD.com

 

Ain't Nothing Like This REAL THING--ABC

David RITZ 1982/98:
David RITZ(解説), Marvin Gaye 《Midnight Love & the Sexual Healing Sessions》[CS-8817~8]所収、
Sony Music Entertainment,1982/1998.

  I am a man
with the power to face my fears.
--Marvin Gaye
(cited from David RITZ 1982/98,p.11) 

 
Notes.

* I'm a man with ...
  1960年代に、マーヴィン・ゲイは、プロのアメフト選手やボクサーになることを目指して、トレーニングを受けていた。その動機として、本人曰く、「自分が男らしいってことを証明したかったからかな」...「目の前の恐怖に立ち向かうパワーを身につけたかったんだよ」(藤林 初枝 訳、p.32: Marvin Gaye 《Midnight Love & the Sexual Healing Sessions》[CS-8817~8]所収、Sony Music Entertainment,1982/1998)。
* Marvin GAYE(1939-1984):
  1939年4月2日、ワシントンDC出身(本名 Marvin Pentz Gay Jr.)。牧師である実父からの布教活動と暴力とに影響される。デトロイトに移り、モータウン・レコード社と契約し、リズム&ブルーズおよびソウル・ミュージックの歌手となる。音楽で成功を収める一方で、家庭や税金や麻薬にまつわる問題に悩まされ続け、放浪生活を送る。のちにCBS社と契約して、1982年10月に発表した〈Sexual Healing〉という曲で「ベストR&Bヴォーカル・パフォーマンス男性部門」においてグラミー賞を獲得する(1983年3月)。1984年4月1日、ロサンゼルスにて、実父により射殺される。

*****

AT.:OEVRES DE DESCARTES,publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition,J.VRIN,Paris,1996.
    ...(頁、行)
E.:TOKORO,Takefumi《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
    ...(頁、行)
  cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
  and 山田 弘明 訳『省察』(ちくま学芸文庫、2006)
    ...(2=「第二省察」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)

    たとえ「物体やら身体やら」が「どのようにして」いようとも(2.Z202:AT.VII,23.21/E.14.*3)、
    「人間」としての「精神」にとって「自然」で本性的なこと「について」(2.Z100:AT.VII,23.20/E.14.*2)、
    「比較的周知と」なって「いる」のは、あくまで、その精神「そのもの」のはずだ(2.Z201:AT.VII,23.20-21/E.14.*2-*3)。

§101 Line of 《ABC》

 for Ain't Nothing Like This REAL THING

(1) One extreme line of 《ABC》(大掛かりなことが気掛かりだ/儚き風体と飽くなき野望)

[2.A101-A102-A106-A202-A206-A209-A304] [2.B101-B102-B106-B110-B302]

[2.C101-C103-C213-C222-C323-C422-C434-C502-C601-C603-C703-(C801)-C803-C807-C808] 

 「昨日の省察から」「壮大な疑い」の数々の「なかへ」「ぶち込まれ」つつ推測のようなことまでさせられた(conjectus)のが、「私である」(2.A101:AT.VII,23.22-23/E.14.21)。しかも、そうした諸々の疑いを「忘れること」も「ずっと」「できずにいた」「私」「として」は(2.A102:AT.VII,23.23/E.14.22)、「最も奥まった」ところ「に」片「足を据えること」さえも「できないかも」(2.A106:AT.VII,24.02/E.15.03-04)しれない。
  そこで、「昨日に」「私が立ち入ってしまった」途(2.A202:AT.VII,24.04/E.15.06)の「ほか」に「もし」「何もない」ならば(2.A206:AT.VII,24.08/E.15.10-11)、そのとおりに「私は認識するつもりだ」(2.A209:AT.VII,24.09/E.15.12)が、じつはここで「希望されるべき」こと「もまた」「偉大な」ので「ある」(2.A304:AT.VII,24.11/E.15.15)。
  「それゆえ」「すべてのもの」について「私が想定している」のは(2.B101:AT.VII,24.14/E.15.17)、すなわち、「それらが偽であるということ」であり、そのように「私が見る」かぎり(2.B102:AT.VII,24.14/E.15.17-18)、「身体やら物体やら」(2.B106:AT.VII,24.16/E.15.20)は、いわば「キマイラじみたもの」、つまりは幻「であり」、「そして」そんな幻の蠢く「場所」では(2.B110:AT.VII,24.17/E.15.21)、「何も」「確実で」は「ない」の「である」(2.B302:AT.VII,24.18/E.15.23)。

  さて、今、挙げられた「それらのすべてとは異なった」ものなどは「何もない」の「である」が、そのことを「どこから」ともなく「知る」のが、「私」だ(2.C101:AT.VII,24.19/E.15.23-25)。「じつに」、それらについて「疑う」ような「機会」は、たとえ「きわめて僅か」とはいえ、「有る」のでは「ない」のか(2.C103:AT.VII,24.20-21/E.15.25-26)。いかにも、神とか何とかが「私に」「送り込んでいる」のは、「これらの思惟そのもの」だ(2.C213:AT.VII,24.22-23/E.15.27-28)。しかし、それにしても「あれらの」思惟を作者として「促す者」「自身もおのずと」「居る」ということであれば、それくらいなら「おそらく」「私にもできるはず」だし、その「際」には(2.C222:AT.VII,24.23-24/E.15.29-30)、「いかなる身体も物体も」(2.C323:AT.VII,24.26/E.16.02)「なしに居る」「ような」ことも、「私にはできるはず」では「ない」のか(2.C422:AT.VII,25.01-02/E.16.04-05)。また、「精神も何もない」(2.C434:AT.VII,25.03-04/E.16.07)「私に」対し、「何かを説得したり納得させたりした」のも、そのせいで信じ込んだのも、「もし」「私」自身だとしたら(2.C502:AT.VII,25.05/E.16.09)、そのように「引っ掛けて誑かす者が」きっと「居る」はずだ(2.C601:AT.VII,25.05-06/E.16.09-10)。それが「誰なのか」「私は知らない」(ibid.:AT.VII,25.06/E.16.10)が、せっかく「狡くて巧妙たる」点では「最高」なのだから(2.C603:AT.VII,25.06-07/E.16.10-11)、そいつが「欺いて」誤らせてしまえば、「いかに偉大な」ことでも、そいつなら「できる」はずだ(2.C703:AT.VII,25.08-09/E.16.13)。

  「そうすると」(2.C801:AT.VII,25.10/E.16.15)、「最後に定められるべき」なのは、「この」ように「宣言なり予報なりされたこと」「であるはず」だ(2.C803:AT.VII,25.11-12/E.16.16-17)。すなわち、「精神でもって把握されて」(2.C807:AT.VII,25.13/E.16.18-19)しかも「真なる」ものは、「必然的に」「存在する」(2.C808:AT.VII,25.13/E.16.19)、ということになるはずだ。

(2) The moderate line of 《ABC》(沫[バブル]、ハジケマシタ、私、イジケマシタ/物色して、持ち出し)

[2.A101-A103-A105-A201-A203-A205-A208-A301-A303-A305]

[2.B101-B103-B105-B107-B109-B200]

[2.C101-C211-C311-C322-C411-C421-C431-C433-C435-C501-C601-C604-C702-C704-C801-C802-C804-C806-C808]

  「昨日の省察から」「壮大な疑い」の数々の「なかへ」「ぶち込まれ」つつ推測のようなことまでさせられた(conjectus)のは、「私である」(2.A101:AT.VII,23.22-23/E.14.21)。「にも拘わらず」、それらの疑いが「いかなる根拠でもって解かれるべきであるのか」、それ「を見る」のは、もしや「私」では「ないのかも」(2.A103:AT.VII,23.23-24/E.14.23-15.01)しれない。だからこそ、「こうして」「不穏になった」のが、「私である」(2.A105:AT.VII,24.01-02/E.15.03)。
  「それでもやはり」「この途を」「力ずくで」「立ち向かうべく試みよう Enitar ... & tentabo」とする「私」が、その「後ろへ」(2.A201:AT.VII,24.03-04/E.15.05-06)「すっかり除去して」いることがあって、それらの「すべて」が「許している」のは、たとえ「最も小さいもの」で「さえ」も、「疑い」なのだ(2.A203:AT.VII,24.04-06/E.24.04-06)。 
  「さらに」「私が前進しよう」とするのも、あくまで「何ものか」が「確実」になる「まで」(2.A205:AT.VII,24.07/E.15.10)のことなのであって、やはり「何もない」というのが、むしろ「確実な」こと「である」(2.A208:AT.VII,24.08-09/E.15.11-12)。一つの地「点を捜し求めていた」のが「アルキメデス」という人で「ないかどうか」はともかく、「何もない」(2.A301:AT.VII,24.09-10/E.15.12-13)ような「場所から」「大地」といわずとも土地やら地域やらを「全体」「として」「退かしていたはず」だし(2.A303:AT.VII,24.10-11/E.15.14)、おそらく「私」で「さえ」もきっとそういう地点のようなものを「見いだしただろう」が、「もし」そうなら、その「最も小さなもの」とは、いったい「何」なの「か」(2.A305:AT.VII,24.12/E.15.15-16)。
  「それゆえ」「すべてのもの」について「私が想定している」(2.B101:AT.VII,24.14/E.15.17)ところによれば、「それら」は、記憶で再現されるにせよ「いつであれ」「何であれ」「実在したことがなかった」のであり、そのように「私が信じる」かぎり(2.B103:AT.VII,24.14-15/E.15.18-19)は、なるほど「平易に」なるが、「私のもつ」「感覚」は「何もない」(2.B105:AT.VII,24.16/E.15.20)、つまり「私」は何も感じない。
  そこで、「形」が(2.B107:AT.VII,/E.15.20)「動き」をもった(2.B109:AT.VII,24.17/E.15.21)ところで、形状が運動したところで、いったい「何が」「真なるもの」なの「であろう」か(2.B200:AT.VII,24.17-18/E.15.22)。

  さて、今、挙げられた「それらのすべてとは異なった」ものなどは「何もない」の「である」が、そのことを「どこから」ともなく「知る」のは、「私」だ(2.C101:AT.VII,24.19/E.15.23-25)。いかにも、そこには、「神」だか「何だか」はともかく、「何かしら存在する」(2.C211:AT.VII,24.21/E.15.26)。その一方で、「私 ego」自身だか「誰だか aliquid」はともかく、「少なくとも」「誰かしらが」「私として存在している」(2.C311:AT.VII,24.24-25/E.15.30-16.01)。「私のもっている」のが「いかなる感覚」であれ(2.C322:AT.VII,24.25-26/E.16.02)、「それでもやはり」「固執する」のが、「私」だ(2.C411:AT.VII,24.26/E.16.03)。「こうして」「身体やら物体やら」「諸々の感覚」やらに「縛られた」のが「私である」、...ということですよ「ね -ne」(2.C421:AT.VII,25.01/E.16.03-04)。
  いっそのこと、「世界には何もない」ほうが「平易に」なることも「ある」し、それを「私に」対して「説得したり納得させたりした」のも、そのせいで信じ込んだのも、「私」自身なのであって(2.C431:AT.VII,25.02-03/E.16.05-06)、「大地も土地も何もない」(2.C433:AT.VII,25.03/E.16.06-07)うえに「物体も身体も何もない」(2.C435:AT.VII,25.04/E.16.07)のが「私であった」からには、「むしろ」「私」自身のほうを「確実に」(2.C501:AT.VII,25.05/E.16.08-09)「引っ掛けて誑かす者が」きっと「居る」はずだ(2.C601:AT.VII,25.05-06/E.16.09-10)。それが「誰なのか」「私は知らない」(ibid.:AT.VII,25.06/E.16.10)し、そいつが「私を欺いて」誤らせるときは「常に」「虎視眈々と de industriâ」している(2.C604:AT.VII,25.07/E.16.11-12)。しかしそれにしても、そいつが「欺いてくる」のは、はたして「私」のことなの「かどうか」(2.C702:AT.VII,25.08/E.16.12-13)。それはともかく、そいつが「結果として生じよう」とすることは、「やはり」「どこにもない」だろう(2.C704:AT.VII,25.09/E.16.13-14)。

  「そうすると」、次の「ように」なる(2.C801:AT.VII,25.10/E.16.15)。すなわち、「あなたがたの重んじているはず」の「すべてのこと」を「充分に超えて」(2.C802:AT.VII,25.10-11/E.16.15-16)いるのが「私」自身「である」(2.C804:AT.VII,25.12/E.16.17)。このことが「私によって」「いかに頻繁に」「運用される」にせよ、「真である」かぎり、このことは「必然的に」なるのだ(2.C808:AT.VII,25.13/E.16.19)。

(3) The other extreme line of 《ABC》(偽りのなかに居座りながら/だから何?)

 [2.A101-A104-A107-A204-A207-A302-A306] [2.B101-B104-B108-B301]

[2.C101-C102-C212-C221-C321-C412-C432-C436-C601-C602-C701-C705-C801-C805-C808]

  「昨日の省察から」「壮大な疑い」の数々の「なかへ」「ぶち込まれ」つつ推測のようなことまでさせられて(conjectus)「いる」「私」(2.A101:AT.VII,23.22-23/E.14.21)にしてみれば、これは「渦」のような「深みのなかへ」「予期せぬ」こと「から」「あたかも」「滑り落ちて」しまったかのようだ(2.A104:AT.VII,23.24-24.01/E.15.01-03)。何せ、「最も高いところへ」「泳いで逃げること」もでき「ない」(2.A107:AT.VII,24.02-03/E.15.04)。
  そこで、すでに「私が確認してしまった」ところによれば、「もし」かすると「すべて偽である」かもしれない、ということになるのだが、これ「に比較して別途に何もない」となると(2.A204:AT.VII,24.06-07/E.15.09)、「この」、すべて偽なのかもしれぬということ「そのもの」は、たとえ「確実な」ものの「目前に」すぎないとはいえ、「少なくとも」(2.A207:AT.VII,24.08/E.15.11)「堅固で不動であるはず」だ(2.A302:AT.VII,24.10/E.15.13-14)、すなわちこれは、「確実で揺るぎなき」こと「である」のかもしれない(2.A306:AT.VII,24.12-13/E.15.16-17)。
  「それゆえ」「すべてのもの」について「私が想定している」のは(2.B101:AT.VII,24.14/E.15.17)、すなわち、「それらを」「表象して再現している」「如何わしい記憶」が(2.B104:AT.VII,24.15-16/E.15.18-19)「延長」している(2.B108:AT.VII,24.17/E.15.21)ということ、「おそらく」「このこと」「一つ」だ(2.B301:AT.VII,24.18/E.15.22)。

  さて、「それらのすべてとは異なった」ものなどは「何もない」の「である」が、そのことを「どこから」ともなく「知る」のが、「私」だ(2.C101:AT.VII,24.19/E.15.23-25)。ちなみに、たった「今」、それらを「再び挙げた」のも「私」だが、その「今」となっては(2.C102:AT.VII,24.20/E.15.25-26)、たとえ「どんな名称でもって」「あの」神とやらのことを「私が呼ぶ」にせよ(2.C212:AT.VII,24.21-22/E.15.27)、「どうして」も「こういうことを考え」つつ、てっきりそう思い込んでしまう(puto)、というのが、「私」なのかもしれない(2.C221:AT.VII,24.23/E.15.28-29)。
  その「私が」「今」さら「否定した」(2.C321:AT.VII,24.25/E.16.01-02)ところで、「それだから」「何」なのか(2.C412:AT.VII,24.26-25.01/E.16.03)。要するに、「天空も何もない」(2.C432:AT.VII,25.03/E.16.06)のに「存在する」の「だったら igitur」、それはもはや「私」で「さえも」「ない」、...ということでは「ない」のですか「ね -ne」(2.C436:AT.VII,25.04-05/E.16.08)。どうやら「引っ掛けて誑かす者が居る」らしく、それが「誰なのか」「私は知らない」(2.C601:AT.VII,25.05-06/E.16.09-10)が、そいつがせっかく「有能たる」点では「最高」なのだから(2.C602:AT.VII,25.06/E.16.10)、「それだったら igitur」「私」自身が「存在する」こと「も」、「疑わしくなりようがない Haud dubie」(2.C701:AT.VII,25.07-08/E.16.12)。たとえ、あたかも「何もない」かの「ように」「私が居る」にしても、「何者か」が「私」「である」からには、「いかに長い間で」あれ、「思惟する」のが「私だろう」(2.C705:AT.VII,25.09-10/E.16.14-15)。

  「そうすると」(2.C801:AT.VII,25.10/E.16.15)、「実在する」のは「私」であり(2.C805:AT.VII,25.12/E.16.17)、このことが「真である」のは、「必然的に」なる(2.C808:AT.VII,25.13/E.16.19)。

arranged by K.-m. as the SHYNAMITES,2009.

*語句を一部、訂正致しました(2009/4/20-21)。



Let's take this All-Ranged Juice--Contents

Arrangement and performance about Rene DESCARTES'〈Praefatio ad Lectorem〉
treated with his own analytical geometry.
(in March 08-April 29,2001 & AFTER THIS,2007)

  Contents of ALL-RANGED JUICE 
(Not "Orange Juice.")
『省察』「読者への序言」解析幾何学的処理・目次
  
§700:The Harvest and Digests--結論と要点(序を兼ねる)

第1章:分析(§§701-709)
(1) One extreme line of 《AB》(当時の説明は、一般にはあまり用いられていなかった)
(2) The other extreme line of 《AB》(当時の説明は、あまり詳しくなかった)
(3) The moderate line of 《AB》(当時の説明は、まだ整備されていなかった)

§702 Line of 《C》(質疑その一:思惟する事物について)
(1) The moderate line of 《C》(思惟する事物に秩序があるのは、私の知得においてのみだ)
(2) One extreme line of 《C》(私の本質に属するのは、思惟する事物だけだ)
(3) The other extreme line of 《C》(事物の真理に関しては、私以外のものにも秩序がある)

§703 Line of 《D》(質疑その二:私より完全な事物の観念について)
(1) The moderate line of 《D》(観念という語の二つの意味)
(2) One extreme line of 《D》(観念という語が質料的にとられた場合)
(3) The other extreme line of 《D》(観念という語が質料性と反対の意味にとられた場合)

§704 Line of 《E(Part 1)》(議論・反駁について)
(1) One extreme line of 《E(Part 1)》(偽であり、理に縁なき議論)
(2) The other extreme line of 《E(Part 1)》(洗脳されたままでの判断)
(3) The moderate line of 《E(Part 1)》(真で堅固な反駁)

§705 Line of 《E(Part 2)》(無神論について)
(4) The moderate line of 《E(Part 2)》(無神論者たちの拠り所)
(5) One extreme line of 《E(Part 2)》(把握しきれない無限なものこそ神である)
(6) The other extreme line of 《E(Part 2)》(我々の精神を有限なものとして扱え)


§706 Line of 《F(Part 1)》(『省察』のねらい)
(1) One extreme line of 《F(Part 1)》(精神を感覚から引き離せ)
(2) The other extreme line of 《F(Part 1)》(精神をすべての予断から引き離せ)
(3) The moderate line of 《F(Part 1)》(私とともに本気で省察せよ)

§707 Line of 《F(Part 2)》(『省察』の読み方について)
(4) One extreme line of 《F(Part 2)》(連鎖と脈絡とを把握せよ)
(5) The other extreme line of 《F(Part 2)》(論ってあざけったところで...)
(6) The moderate line of 《F(Part 2)》(しきたりの中にいるうちは難しかろう)

§708 Line of 《G(Part 1)》(他人を納得させることについて)
(1) One extreme line of 《G(Part 1)》(真理の認識に至る術で他人を納得させうるか)
(2) The other extreme line of 《G(Part 1)》(私が納得した根拠で他人は納得するか)
(3) The moderate line of 《G(Part 1)》(他人を納得させうるかどうか、思索で実験する)

§709 Line of 《G(Part 2)》(「反論と答弁」について)
(4) One extreme line of 《G(Part 2)》(『省察』そのものだけでは難しかろう)
(5) The other extreme line of 《G(Part 2)》(反論の中には重要な着想があるかもしれない)
(6) The moderate line of 《G(Part 2)》(重要なものには、まだ誰も触れていない)


第2章:表現(§§711-713)
§711 Views of 《ABF1G2》
(1) The 1st View of 《ABF1G2》(本気でない者、通るべからず)
(2) The 2nd View of 《ABF1G2》(読者からの名案を乞う)
(3) The 3rd View of 《ABF1G2》(読者からの非難について)

§712 Views of 《ABCDE2G1G2》
(1) The 1st View of 《ABCDE2G1G2》(事物の本質から実験開始)
(2) The 2nd View of 《ABCDE2G1G2》(有限なる私だが、それなりに...)
(3) The 3rd View of 《ABCDE2G1G2》(どこまで知りつくせるか...)

§713 Views of 《ABE1F2G2》
(1) The 1st View of 《ABE1F2G2》(鼻であしらわれるべき議論)
(2) The 2nd View of 《ABE1F2G2》(私の根拠を踏まえよ)
(3) The 3rd View of 《ABE1F2G2》(しきたり住まいの井戸端会議)

第3章:演出(§§721-723)

凡例
   引用するにあたって、出典は文中に括弧で示した。その左項は、『省察』の序数(「読者への序言」については便宜上7とした)と、 ADAM&TANNERY版(AT.)の各段落およびそのなかの句・節とに準じて、本論文の筆者(K.-m. as the SHYNAMITES)が任意に区分したものである。
  また右項は、同AT版第VII巻の頁数と行数、ならびに第二版(E.)の頁数と行数である。

AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY, nouvelle édition, J.VRIN, Paris, 1996.
E.:
TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
  cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)

produced and arranged by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),Apr.22,2007.


The HARVEST and DIGESTS on All-Ranged Juice--part 3

AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY,
nouvelle édition, J.VRIN, Paris,1996.
 
...(頁、行)
E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
  
...(頁、行)
  cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
  
...(7=「読者への序言」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)

The HARVEST and DIGESTS(part 3) on ALL-RANGED JUICE
要点と結論(序を兼ねて)--其の参
 

  第三の要点は、次のとおりである。
  すなわち、「‘省察’において私の開陳する」のが「その思索そのもの」(7.G103:AT.VII,10.09-10/E.P06.14-16)だろうが、その思索をとおして「この私が納得した」根拠によって(7.G106: AT.VII,10.13/E.P06.19-20)、はたして「他の人たちをもまた納得させることができる」のか(7.G107:AT.VII, 10.13-14/E.P06.20-21)、ということである。
というのも、「神と人間的精神と」(7.A101:AT.VII, 07.01/E.P01.04-06)いう「それら」の問題を「説明するために私が辿る道は、あまり整って」なく、「なじんで」ない(7.A301: AT.VII,07.08-09/E.P01.13-14)からである。

  とはいえ「第一点」として(7.C101:AT.VII,07.20/E.P02.13)、「私が」議論を「おこなっていた」のは (7.C201:AT.VII,08.07/E.P02.24)、「私が思惟する事物であるということ」だけである(7.C204:AT.VII, 08.10-11/E.P03.04-05)。「どんな仕方で」「私が示す」(7.C301:AT.VII,08.12/E.P03.06-07)のかはともかく、「帰結」されるのは、すなわち、思惟することの「ほかには何も実際に」真なる事物として「私」の本質には「属さない」、ということである(7.C303: AT.VII,08.14-15/E.P03.09-11)。いかにして示されようとも、思惟するしかないのが「私」なのである。
しかし他方、「そこでは」ほかのものすべてを「排除したいのではなかった」の「もまた」、じつは「私」(7.C201:AT.VII,08.06/E.P02.21- 22)である。何せ、それらも「事物として真たることそのものに」関しては「秩序」づけられている(7.C201:AT.VII,08.06- 07/E.P02.22-23)のである。だからこそ、ただ思惟する事物であることにおいてのみ「存立している」のは、人間的精神の「本性、あるいは」いわゆる「本質」であり、こういう「帰結」が(7.C103:AT.VII,08.02-03/E.P02.16-17)生じる、と「答える」のは「私」 (7.C201:AT.VII,08.05/E.P02.21)である。

  つぎに「もう一つの点」として(7.D101:AT.VII,08.16/E.P03.11)、「私より完全な事物の観念を私のうちに私がもっているということ」(7.D102:AT.VII,08.16-17/E.P03.11-12)について云えば、この帰結は、「私より完全な事物の観念が私のうちに在るということだけから」「いかにして」かはともかく、というよりむしろ、どうしても、生じて(7.D401: AT.VII,08.25-26/E.P04.01-02)しまうのであって、そのように「答える」のも「私」(7.D200:AT.VII,08.19 -20/E.P03.16-17)である。「私」のなかに在る観念のほうが、「私」よりも完全なのである。なるほど「観念という語」 (ibid.7.D200:AT.VII,08.20/E.P03.17)は、「質料的に」「受け取られることができる」が(7.D301: AT.VII,08.20-21/E.P03.17-18)、「その意味では、私より完全だ、と云うことなんてできない dici nequit」し(7.D303:AT.VII, 08.21-22/E.P03.19-20)、「そうした事物」が「知性の外に実在することは想定されない」(7.D306:AT.VII,08.23- 24/E.P03.21-23)。

  精神を「すべての予断や先入見から」(7.F304:AT.VII,09.26/E.P05.20-21)「引き離すことができるようになる」人々には、「そしてまた」引き離そうという「意志をもつようになる」(7.F305:AT.VII,09.26- 27/E.P05.21)人々には、「ごく僅か」しか「遭遇」しないが、そのような人々のことを「充分に」「知っている」のが「私」(7.F306: AT.VII,09.27-28/E.P05.22-23)である。
  だから、「私」は、誰かが「これを読む」のを「促す」こともない(7.F301:AT.VII,09.24/E.P05.17-18)。ましてや、「或る人にとっては困難に思われそうなものすべてを私が予見できる」かどうかについては、「私」は「さほど自負していない」ので、「確信」しえないだろう(7.G102:AT.VII,10.07- 09/E.P06.11-14)。

  幸い、「気持ち ingenio と教養 doctrinâとに」おいては「卓越して」いる(7.G201:AT.VII,10.15-16/E.P06.22-23)彼らが、「充分に多くのこと、そして様々なこと」を、反論してくれた(7.G301:AT.VII,10.17-18/E.P07.02-03)のは、「これら‘省察’」 (7.G202:AT.VII,10.16/E.P06.23-24)に対してである。ただ、「少なくとも何らかの重要なもの」(7.G303: AT.VII,10.19/E.P07.05)には、彼らは「まだ触れていない」(7.G305:AT.VII,10.20/E.P07.06-07)。その、ひじょうに「重要なもの」だと「私には思われた」(7.A201:AT.VII,07.07/E.P01.10-11)問題が、すなわち「神と人間的精神とについての問題」(7.A101:AT.VII,07.01/E.P01.04-06)である。

  これらには「すでに前に」「私は手短に触れたことがあって」、それは『理性を正しく導きつつ、諸学問において真理を探究するための方法についての叙説』においてである(7.A101:AT.VII,07.01-03/E.P01.04-09)。「1637年に」その書を「フランス語で出版」した(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.06)ので、まず、もし何か非難されそうなものがあれば、それについては、読者こそが「私に」対して「厭わずに忠告していたはず」(7.B102: AT.VII,07.15-16/E.P02.07-08)なのだが、残念ながら、それが「緊要であるか、もしくは答弁に値する」ようなことは、どうやら「容易には」起こら「ないだろう」(7.F502:AT.VII,10.04-05/E.P06.07-09)、ということらしく、せいぜい、「ただ一字一句だけ」を (7.F403:AT.VII,09.30/E.P06.02)「論うことに」かまけているうちに(7.F405:AT.VII, 10.01/E.P06.03-04)「おそらく多くの点で機会を見つけだして」は「あざける」(7.F501:AT.VII,10.02- 04/E.P06.05-07)だけだろうし、また、そのようにして「何か」を「反論」した(7.F502:AT.VII,10.04- 05/E.P06.08-09)つもりになっているのだろう。

  それでも「今」のところは、「人様の判断を一度はなんとか見聞きすることでもって経験して」おくのも「私」だし(7.F101:AT.VII, 09.19-20/E.P05.09-11)、また、せめて神、および、人間としての精神という、「これら」二つの点に対しては、「ここで手短に」(7.B203: AT.VII,07.18/E.P02.10)「答えておこう」としたのも「私」だ(7.B205:AT.VII,07.19/E.P02.12- 13)。

  ただ残念なことに、ほかに「私が見た」「或る二つの文章」は、「なるほど」「相当に長い」ものだったが(7.E101: AT.VII,08.29-30/E.P04.04-06)、そこにみられる「類いの議論は何の力をももつことができない」のだ(7.E201: AT.VII,09.01-03/E.P04.10-12)。何しろ、そうした議論は「偽」であり、「理とか根拠とかに縁がない」(7.E205:AT.VII, 09.05-06/E.P04.15-16)ので、「ここではそれらに対して答えたくない」のが「私」なのだ(7.E210:AT.VII,09.07- 08/E.P04.18-19)。

  さらに、人々に「関して」(7.F401:AT.VII,09.28/E.P05.23-24)は、「ただ一般的に」だけとはいえ、「私は云う」ことにする(7.E301:AT.VII,09.08-09/E.P04.20-21)。
すなわち、なんと‘無神論者たち’によれば、「神には人間みたいな感情が添付されている」そうだが(7.E304:AT.VII,09.11- 12/E.P04.23-24)、「有限なものとして考察されるべき」なのはあくまで「我々の精神だ」(7.E401:AT.VII,09.14- 16/E.P05.04-06)。そして、このことを「単に思い出しているだけ」なのが「我々」のはずで(7.E401:AT.VII,09.14- 16/E.P05.04-06)ある。よって、「我々にとって」‘無神論者たち’の言い分は決して困難の源にはならないだろう(7.E403: AT.VII,09.17-18/E.P05.08-09)。

*****

  以上、要点が三つ揃った。
  結論は以下のとおりである。すなわち、諸々の意見に対して何かを反論するということが、もし容易に起こるならば、それはきわめて重要であり、また、根拠のある答えに匹敵するのである。

  ところで、何かを為すことだけで、はたして神たりうるのか。また、何かを為すことだけで、はたして神たるべきなのか。
   なるほど、一般から隔たっている道を辿ってしまっている「私」だからこそ、神についてとか、人間としての精神についてとか、再度議論をするべきだと自分で判断していた。しかし、あまり整ってない道を「私」がわざわざ辿るのは、あくまで説明するためにすぎないので、その説明をやたらに詳しくし過ぎるのは無駄である。
  よって、ここでは、二点だけ述べておく。すなわち、第一点は、どうしても我々によって捉えられないのが神であり、そもそも無限なのが神である、ということだ。もう一点は、有限なのはあくまで、我々の精神だ、ということである。
  以上を結論として、論じ終えることにする。

presented by K.-m. as the SHYNAMITES.

初出:"Whatr a cool believes"(blog),Apr.21,2007.

* 語句を一部、訂正致しました(2009/9/11-9/13)。

The HARVEST and DIGESTS on All-Ranged Juice--part 2

AT.:OEVRES DE DESCARTES, publiées par Charles ADAM & Paul TANNERY,
nouvelle édition, J.VRIN, Paris,1996.
 
...(頁、行)
E.:TOKORO,Takefumi 《LES TEXTES DES 〈MEDITATIONES〉》,Chuo University Press,1994.
  
...(頁、行)
  cf.所 雄章 訳「省察」(『方法序説/省察』所収、白水社、1991)
  
...(7=「読者への序言」、A,B,C...=段落、1,2,3...=文、01,02,03...=節)

The HARVEST and DIGESTS(part 2) on ALL-RANGED JUICE
要点と結論(序を兼ねて)--其の弐
  第二の要点は、次のとおりである。
  すなわち、「私」は「確実」に「そして明証的」に 「真理」を「認識」するに「至った」、と「私には思われる」(7.G104:AT.VII,10.10-12/E.P06.16-18)が、はたしてそのようにして「他の人たちをもまた納得させることができる」のか(7.G107:AT.VII,10.13-14/E.P06.20-21)、ということで ある。
というのも、「神と人間的精神と」いう(7.A101:AT.VII,07.01/E.P01.04-05)、「それら」の問題について は、もう一度議論が「為されるべきだ、と私は判断していた」(7.A202:AT.VII,07.07-08/E.P01.15-16)ので、それをやたらに「詳しく説くこと」は「無用だ」と「私は思い込んでいた」(7.A303:AT.VII,07.10/E.P01.19)からである。

  何せ、まず「第一点」として(7.C101:AT.VII,07.20/E.P02.13)、「みずからのうちに思惟する機能 facultatem をもつ事物」(7.C205:AT.VII,08.11-12/E.P03.05-06)だけが「実際に」真なる事物として「私の本質に属する」ものだ、ということは「帰結する」(7.C303:AT.VII,08.14-15/E.P03.08-11)。その一方で、みずからを「思惟する事物であるということ」 (7.C104:AT.VII,08.03/E.P02.17-18)は、「私」によって「知得だか知覚だか」をされるかぎりで、「秩序」づけられているにすぎない (7.C202:AT.VII,08.08/E.P02.24-P03.01)。つまり、あくまでも思惟するのは「私」であり、他方、せいぜい思惟するのが「私」であるにすぎない。

  つぎに「もう一つの点」として(7.D101:AT.VII,08.16/E.P03.11)、「私」より完全な事物の 「観念そのものが、私より完全であること」について(7.D103:AT.VII,08.17-18/E.P03.12-14)、この「観念という語において等しく呼ばれる」二つのことがある(7.D200:AT.VII,08.20/E.P03.16-17)。すなわち、「知性の作用」として (7.D302:AT.VII,08.21/E.P03.18-19)の意味と、「そうした作用によって表象され再現された事物」として(7.D305: AT.VII,08.22-23/E.P03.20-21)の意味とである。

  「精神を感覚から」(7.F303:AT.VII,09.25-26/E.P05.19-20)「引き離すことができるようになり、そしてまた」引き離そうという「意志をもつようになる」(7.F305:AT.VII,09.26-27/E.P05.21)人々には、「ごく僅か」しか「遭遇」しないとはいえ、そのような人々のことを、「充分に知っている」のが「私」だ(7.F306:AT.VII,09.27- 28/E.P05.22-23)から、なにも「読者」が群がることを、「私は期待する」こともない(7.F202:AT.VII,09.23- 24/E.P05.15-17)。ましてや、「他の人々が私に対してすべてにおいて最初に外見で満足しうる」かどうかについては、「私は」そうした他の人々に「全然約束していない」(7.G101:AT.VII,10.06-07/E.P06.09-11)。

  さて一方で、「私が願っておいた」とおり、幸いにも、「気持ち ingenio」においても「教養 doctrinâ」においても「卓越して」いる(7.G201:AT.VII,10.14-16/E.P06.21-23)彼らのもとには、「これら‘省 察'が」(7.G202:AT.VII,10.16/E.P06.23-24)、予め「吟味されるべく送り付けられてある」(7.G204: AT.VII,10.17/E.P07.01-02)。そんな彼らから寄せられてきた反論はひじょうに「多く」て「様々」だった、ということで「充分で」あり(7.G301: AT.VII,10.17-18/E.P07.02-03)、「少なくとも何らかの重要な」(7.G303:AT.VII, 10.19/E.P07.05)着想もありうる(7.G304:AT.VII,10.19-20/E.P07.05-06)はずだ。

  しかし他方で、いわゆる『方法序説』(cf.7.A101:AT.VII,07.02-03/E.P01.06-09) を「1637年に」「フランス語で出版」した(7.A102:AT.VII,07.03-04/E.P01.09)のだが、神と人間的精神とについての 「それらの問題をそこで精確に取り扱う」つもりは全然なかった(7.A103:AT.VII,07.04-05/E.P01.10-11)。
というのも、「緊要であるか、もしくは答弁に値するようなものを何か反論する」こと(7.F502:AT.VII,10.04-05/E.P06.07- 09)については、「しきたりのなかに居る」「多くの人たちにとって」(7.F404:AT.VII,09.30-10.01/E.P06.02-03)、 「容易ではない」こと(7.F502:AT.VII,10.04/E.P06.07)だからである。

  しかも、‘無神論者たち’のせいで「公然とはびこっている」もののすべては、よりにもよって「神の実在を攻撃するため」 のものである(7.E302:AT.VII,09.09-10/E.P04.21-23)。それによると、「我々の精神にはひじょうに大きな力と知恵とが授けられている」(7.E305:AT.VII,09.12-13/E.P05.01-02)という。しかし「我々が」いくら「決定し把握しようと試みたり努めたり」しても(7.E307:AT.VII,09.14/E.P05.03-04)「把握しきれない無限なもの」こそが、むしろ「神」なのである (7.E402:AT.VII,09.16-17/E.P05.07-08)。

  「今」のところ「私」は、「人様の判断を一度はなんとか見聞きすることでもって経験して」おくが、「その後で」(7.F101: AT.VII,09.19-20/E.P05.09-11)、「私の書いたもののなかで皆と出くわした」ものが「何か非難に値する」としても(7.B101: AT.VII,07.14-15/E.P02.05-07)、それは「二つ」(7.B202:AT.VII,07.18/E.P02.10)だけだ。しか も、ほかに「私」の見た或る二つの文章で「攻撃されていた」のは、「私」よりも完全な「事物について」の「私」の「根拠」であるが、これはべつに「結論」の如きものでは「ない」し、そのように攻撃したほうの「議論」は、「‘無神論者たち’」に「共通な」議論の「場から借りてきた」ものであった(7.E102:AT.VII, 08.30-09.01/E.P04.06-10)。したがって、「私」が「先に言及」すべきなのは、それらの意見に関してではなくて(7.E211: AT.VII,09.08/E.P04.19-20)、むしろそうした人々に「関して」(7.F401:AT.VII,09.28/E.P05.23- 24)なのである。

  相変わらず、「本末顛倒で薄弱な」「判断」をする人々は多いが(7.E203:AT.VII,09.03- 04/E.P04.12-14)、それもそのはず、そうした人々が、「最初に受け取った諸々の意見によって」(7.E204:AT.VII,09.04- 05/E.P04.14-15)「説得されて」信じ込んだまま(7.E206:AT.VII,09.06/E.P04.16-17)、「後で聞いた」 (7.E208:AT.VII,09.07/E.P04.17-18)のは、「かの意見の反駁」(7.E209:AT.VII, 09.07/E.P04.18)だったのである。

presented by K.-m. as the SHYNAMITES.
初出:"What a cool believes"(blog),Apr.15,2007.

* 語句を一部、訂正致しました(2009/9/11-13)。
 

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